2003年 5月 (1)。

必要べからざる失望。

Last Modified: Sun May 11 01:12:19 EDT 2003 (05/11, 14:12 JST)

May 10 [Sat]


(10:33)
真実 (=ミカン狩りとか) のために人は死ぬであろう。 そして、死ぬ時にはかれの右手 (左手でもいい) にミカンが握られていることを祈る。 いかばかりかの。

きょう、ふと鏡をみたら前より自分のオデコが大きくなっているような気がした。 オレってこんなにデコ広かったっけ?? これは生え際が後退してきたということなのだろうか。 でもつむじまで一緒になって後退することってある? それとも本当にオデコが拡大してきた (顔が伸びた、あるいはマユゲから下がさがった) ということなのだろうか。 それとも、単に自分がいままで自分のデコの広さに気づいていなかった、ということだろうか。 わからん。そういえばオレは生まれてからずっと前髪をおろしていたので、 こういうことはほとんど意識しなかった。しかし…中学のときに同級の なにヒロ だかいう人物を 「デコヒロ、デコヒロ!」と呼んでいた記憶があるのだが、もしかしてそのときは 前髪おろしてて気づかれなかっただけで、真のデコヒロはオレだったのかもしれない。

「ツムジが逃げていくわ!」 (想像)

トルネードでたつまきな被害 (同じこと) にあった方には心よりおわびもうし上げます。

(12:27)
いまいちやる気のない土曜の朝… (もう昼か)。やだニャー  (←馬鹿。こういう語尾を使うんじゃねえ。こういう語尾を使うと誰でも 薄気味悪く感じる。男であっても女であってもだ。かわりに「だケモ」を使え。 「だケモ」を語尾に流行らせよう運動 完了中 !!!!!!!以下略)

クシャミがでた。人はそれを「地獄からの支社」と呼ぶ。

(14:21)
むかし、「すべての事にはなにもかも理由がある」と信じていた (いまもそう信じている)。しかし、たとえそれが自分に関することでも、 自分自身でそれをすべて説明できるほど 賢くはないということを知らなかった。だから「どうして?」と尋かれると、 絶対に答えなくてはいけないという脅迫が突き立てられたように感じる。 なぜ現在形?

説明より「なぜ?」の数のほうが圧倒的に多いので、 もう自分はただひたすら溺れるばかり、であるわけ、です。ヤスミ。

(15:40)
なにか落ちこんでいるわけでもないのだけど、とくにやる気なし。 ものをこわしまくりたい気分。外へ出て運動でもしてこいよ自分、 とおまえは思うのだが、そんなことをしたら健全になってしまうではないか! オレは絶対にそんな不健全なことはしないぞ。むしろ部屋の中にこもって、 カーテンをしめて、ひざをかかえていつでも泣ける用意がある。 そうすると夜が落ちてきていつしか部屋の中は暗い空気で充満するであろう。 そのあと窓を開けると、そのつよい殺菌作用のために何も見えなくなる。
(16:29)
あんまりやる気が出ないので、 かけブトンに顔をおしつけて「まぜごはんが食いたい」と 念じていると、ふいに窓の外にマジエル様が現れてこうのたまわれた。
「おいワレ、そんなことばっかしてるとそのうち死にたくなるぞ。」
「もうなってら。」
そう答えるとおれは窓の外にいるマジエル様を無視して、 またフトンに顔をおしつけて目をとじた。するとなにか自分の頭だけが 首からはずれてずトーーーんー=と地面の底に沈んでいくように見える。 「地底」ってヘンな言葉。底などないよ。
(20:30)
「タルコフスキー」って名前だけ知ってます。
(21:55)
ちきしょう、いつも bracket と brace を間違えるんだよ。 これ によると、 とのことだ。つまりカクカクしてるやつはカ行に力点をおいた 「ぶらケッッっと」で、丸みがあるほうは "r" 音を思いっきり巻いて発音して「ぶrrrぅえーす」と覚えることにしようう。

ところで、キーボード使用歴が長くなってくると 英単語の音や意味からくる印象のほかに、 QWERTY配列からくる「タイプ印象」が生まれると思う。 たとえば "asada" とかいう文字列はおもに左手小指と薬指しか使えないため、 非常に打ちづらく、なにか邪悪な意志が働いているように感じる。 速く打とうとすると確実に指がからまってしまう。 "yusuke" よりも "euske" が好きなのは「えう」という語感のよさのほかにも 1文字ごとに右手文字と左手文字が現れるためにたいへん「打ちやすい」こともある。。。

(22:53)
きょうの夕食は豆腐とワカメのみそ汁 (基本!) に しらすに醤油をかけて大根おろしを大量にまぜたもの (これも東京にいたころよくやっていた)、 あと納豆。あいかわらず肉をぜんぜんとってないな。おまけに油もない。 なので洗い物は洗剤を使う必要がなくじつに経済的。 といっても食材にカネがかかっている (日本より高い) ので、実際はそんなに安くもないんだけど。

オレは納豆に長ネギをたくさん入れるのが好きだ。1パックにネギ1本は使いたいところ。 つーか、これやると納豆よりネギのほうが多いようなかんじ。

長ネギは 3〜4本で $2.99 とそんなに高くないのだが、長持ちしないため あまり一度に沢山は買ってこれない。おまけにこっちのネギは時々ものすごくコワい (「(野菜などの繊維が) 濃い・固い」の意だが、これって方言か?) ことがある。 包丁で切ると「ボりっっ」て感じになるときがあるもんね。 やはりアメリカで栽培すると日が当たりすぎてしまうのだろうか…? もっと安価で手に入るものとしては普通のスーパーでも売っている scallion (エシャロットみたいなやつ) があるが、 これはちょっとニオイが独特で日本食とあまりあわないんだな。

結論: 「ワカメ」はひらがなで書くほうがよいということ。 漢字で書くと「若布」となり、なんだかわからない。 布かよ! そういえばまえカザフ出身の友人に海苔せんべいをすすめたら、 「この黒いシートは何? はがさなくていいの?」と聞かれて笑ったな。

(01:10)
時計をさかさまに置くというのをやってみる。 するとまだ 7時か 8時だかのよくわからん時間 (= 30分のときに長針が真上にくるので短針はつねにズレている) になる!! これはおすすめだよ!! こうすればいつまでも時間を気にすることなくです!!

May 09 [Fri]


(11:51)
ぼじがぢで、げぶわミー゛ティングでわぬかつたつけ?゛゛”゛
(13:34)
来たら「もう終わったよ〜ん」と言はれた。つらい。

ところでディスペンサー漏れ対策は何もなされていなくわっとわ。 つまりそれは言いだしっぺの法則ってこと??

そういえば、オレはいまだに学生であるので、“健康診断”というものをやたことがない。 人の健康なんて死んでから判断すりゃいいんよ。 しかしバリウムは一度飲んでみたいなあ。で、ゲップしたらもう一度飲まされるのね。

(18:45)
きょうの新山。

「…」

「…とりあえず Perl でやっか。…」

C-x C-f context.prl RET

#!/usr/bin/env jperl
@words=();
while(<>) {
 next if (/^[\#\!\*\;]/);
 if (/^EOS/) {
  doit(@words);
  @words=();
 } else {
  chomp; split;
  push(@words, \@_);
 }
}
sub doit($) {
 my @w1=$$_[0];

(ここまで打って手を止める)

「。。。。」

「。。(つまり1行をさらにsplitして渡すわけだから、 リファレンスにしなきゃいけないわけだな、でもPerlで配列渡しをすると$じゃまずいから…)。。」

「。。。。。うが〜〜〜 !

3病沈黙。

C-x C-f context.py RET

#!/usr/bin/env python
import fileinput
words=[]
while 1:
 for s in fileinput.input():
  if (not s) or (s[0] in "#!*;"): continue
  if s.beginswith("EOS"):
   doit(words)
   words=[]
  else:
   words.append(Word(s.strip()))

class Word:
 def __init__(self,s0):
  self.s0=s0
  f=s0.split(" ")
  self.s=f[0]
(..以下略)

「。。。(ニヤニヤ)。。。」

「。。。(ニヤニヤニニヤヤニヤ)。。。」

オタクとはこのようなものです。

(注: 上のプログラムには明らかなミスがあります。どこでしょう?)

(20:37)
言語処理を C でやるのは犯罪だ。 しかし、文句をいってる暇がないときは文句をいわない。
(21:57)
そういえば新山は Perl でオブジェクト嗜好を「やる」方法をまったく知りません。 タスクに応じて sh(+expr+cat+grep+head), awk, perl, python を使い分けています。
(00:01)
ふがーーーーー。やればやるとほどドツボにはまる TeX の parsing。 とくにやっかいなのが \verb コマンドと \verbatim 環境だ。 たとえばこんなの:
\begin{verbatim}
foo
%bar
\end {ve
\end{begin}
\end{verbatim e}
\end{verbatim}
は青文字の部分がすべて正当なリテラルとして出力される。この変態 !! Knuth きらい。
(01:20)
やっと \verb 問題を (なんとか) 解決したと思ったら、 説明書をみて \makebox(width,height)[position]{...} なんていうのがあるのを見て、 やはり世の中はすべて SGML に統一されるべきだと凶暴に感じた。フム。
(02:30)
今日じゅうに完成しなかった…敗北。

オレの欠点はライブラリを作るときに あまりに一般化しようとしすぎて使いものになんなくなることだ。よくある。

今寝ると朝になったら何もかも忘れてそう。夢の中でもプログラミングするか。

(03:48)
なんとか完成した… (気になりだしたので結局やってしまいました、オタクとはそういうものです)。

でもまだなんかすこしバグってるなあ。 おまけにすごい遅い・汚い・最悪。

しかもこれはまだほんの 1モジュールにすぎないのだった。

May 08 [Thu]


(10:09)
なんだか毎日同じようなことしてる気がする。
(12:31)
墓について。墓というのは、ほんらいならこの世からあとかたもなく 消えうるべきはずであった人が、なんらかの理由で未練を発揮したために…

終結。

(15:04)
どういうわけか、記憶は遺伝しないようになっているのだ。 もしそれが遺伝していたら世のなかは大変なことになっていただろう。
(19:07)
NLP (nullpodehanai) のしけんおわった。「そういえばオレって学生だったんだな」って今日いきなり思った。 モチコマー (持ち込み可のこと) なので何も対策せず。しかしいっくらなんでも 自分の専門ができなかったら死んだほうがいいっすね。 ま、それはいいとして、Ralph は試験なのにプロジェクターとか 起動しだして、いったい何ヤルの?? と思って見ていたら (新山は試験監督を観察するという癖がある)、 time.gov のデカい時計を 表示させてニコニコしていた。いかにも彼のやりそうなことだ。

さてこれで今年度の学生としての (公式な) 本分はすべて終了…かと思ったら まだあとひとつあるんだよ。つぎのノドモトな締め切りは 5/15 です。 というか、つーか、お前はいったい何やってたんだ、この1学期は、と。 伊東へいくならハトヤ。そういえばうちのシャワールームの窓によく ハトがとまっていて、

「くるっぽー、
くるっぽー、
くるっ
ぽー、くこここ
ここ…
(バサバサバサ…)」

おまえきらい。おまえだよ、畜生。

追伸: ディスペンサーがリークしました。か?? (これは暗号でぁ(=だ)る)

(21:47)
ditto. (でぃっと)
(00:09)
Owen がラーメン (「中華三昧」だ) を食していたので、 ラーメンの茹で方うんぬんについてケンケンガクガクの議論をする。 そのうちに話が脱線したきたのだが、とにかく何事もいちど正統なやり方を 知っておくことは重要だという話。新山が気にいってることわざ 「型を身につけたから“型破り”ができるのだ、型がないのは“かたなし”という」 というのを説明しようと試みたが、他言語のごろ合わせを説明するのは たいへんにむずかしいことがわかった。

そう、自分がいまやっていることは、まさに型を身につけることだ。 そのためにわざわざ rigid なことをやろうとしているといえる。 そういう意味ではオレってひどく堅実派だなあ、自分で言うなってかんじだけぞ…。 しかし型を身につけなくてはたとえ優れたアイデアがあっても一発屋で終わってしまう。 そしてそのあとは自分の過去を後生大事に守って暮らすようになる。 やだやだ、そんなの。自分はつねに現場にいたいし、「まっとうなこと」をして 暮らしたい。しかし型を大事にしすぎるのもアレなので、結局は つぎつぎに「習っては捨てていく」ことになりそうだ。 つまりいつまでも食いつづけ、そして出しつづけるという人生。 健康そー

May 07 [Wed]


(09:59)
んー。
(13:06)
そしてきょうは激暑い。ったくなんだよこれは。 寒いならずっと寒いままでいてほしい。

ところで「コンピュータセキュリティの専門家」ってのは いまやいろんな種類がいすぎて一言で「セキュリティ」っていっても ワケがわかんないのですが、具体的にはどういう階層に分かれているんでしょうか?

こんなかんじだろうか…。

(13:24)
「さびしい」と「さみしい」の違いについて。 どちらも漢字で「寂し/淋し」の両方の字が使えるが、 「さみしい」は近代後世以降に使われだしたものだという。 つまり「さびしい」のほうが古いのである。 たしかに古文には「さびし」は出てくるけど、「さみし」って出てこないな。おさびし山。 しかし接頭辞「お」がついた場合は、なぜか「おさびしいでしょう」とは 言うけれど「おさみしいでしょう」とは言わない気がする。 大辞林によれば、二葉亭四迷 (字あってる?) は「おさみしい」を使ってるそうだけど。 ちなみにオレは「さみしい」のほうが語感がソフトで好きだな。

ところでこれは完全に個人的主観なのですが、新山は 「寂しい」は「さびしい」と読み、「淋しい」は「さみしい」と読むようです。 ついでにいうと「寂しい」は「景色がさびしい」というときに使い、 「淋しい」は「人がさみしい」というときに使いたい気がするが、 なぜか考えてみた。思うに、たぶん「寂」という字は 「閑寂」や「寂寥」といった単語を連想するので「風景」の印象がつよいのだと思う。 いっぽうこれに対して「淋」が使われてる熟語って新山は 1つしか知らない。 それに「淋」はなんかいかにも人が泣いてるっぽいじゃないですか。 見てるだけで悲しくなる。ところで瀬戸内寂聴ってときどきラジオとかに出るとすげーよく喋ってて ぜんぜん「寂聴」ってかんじじゃないよな…と思っていたのですが、いま辞書をひいてみたら 「寂」という字には「煩悩をはなれ、涅槃に達する」という意味があるようです。

(14:22)
そういえばまたいきなり思い出したが「ニチベエ首脳の謎」について。 むかし、ガキのころ、ニュースで「ニチベエ首脳が話し合う…」という表現を聞いて 「ニチベエ首脳」というヒトについてずっと疑問を抱いていた。

「ニチベエ首脳」にはかずかずの謎があった。 当時の新山は「首脳」が「大統領あるいは総理大臣」を意味することはわかっていたし、 「ハチ兵衛」「どん兵衛」など、「-兵衛」というサフィックスが人名を あらわすこともわかっていた。しかしこの 2つの事実を組み合わせると奇妙な 疑問が浮上する。いったい「日兵衛首脳」とは何物か?

まず、こいつは「-兵衛」なんてついてるんだから日本人にちがいない。 でも総理大臣はふつう「鈴木首相」とかいう名前で呼ばれていたから、 こいつは総理大臣とは別人であることになる。しかも、 ニュースを聞いているとこいつの扱いは総理大臣以上に重要らしく、 さらにこいつだけなぜか苗字でなくてファーストネームで呼ばれているのだ! いったいこいつは何物なんだ? どっかの国の日系人首相なのか!? …と疑問に思っていたが、あるときふと「ニチベエ」はじつは 「日米」のことだ、と気づいてがっかりした…。 それがいつのことであるかは覚えていないけど。

でも「台風一家」とかはよく間違えてる人が多いが、 「ニチベエ首脳」は人に話してもほとんどわかってもらえない。

(19:06)
なんかネットワークすげい遅いんですけど…。これはワナですか?? (何が?)

AI の試験終了。時間ぎりぎりでなんとか全問完答した。 まあ A- はくるだろう (博士学生は最低でも A- をとることが要求されている)。 となりでまだしぶとくネバっていたへれんを残してさっさと教室から出てくる。 だってお茶ののみすぎですげーションベンしたかったんだもの。

ただ「成績だけいい優等生」にはなりたくない。 たとい成績は悪くてもぶっとんでる奴のほうがえらいのだ。

(22:29)
チョムス機ー。 バカウケ。
(00:35)
雨でございます。ここで一句。

人ゆえに
人から出でて
人さらい

まあ、世ん中てきにゃあね。

そしてみんなはすこし安心する。「すこし」というのがいいと思う。
すこし。

(01:49)
正直なところ、       はまったく評価していません。
あれは「     」のためのものだと思います。
たぶん彼らとしては「        しました、
あれも   、これも   、ね…」と言いたいところなんでしょうが、
それは              が違うだけで
     と同じことです。おそらく          
    すには、「まったく、そんな        ?」とでも
言うべきもの      する必要があると思う。
つまり必然的に            というものは、
     なものになっていくでしょう。というかね、    
   として      いる限りは同じことのくり返しで、
 の昔から        して      うってのは
みんなやってることなんですから。たぶん本質的に    
    は、    をまったく     ない   から
  ると思う。

結論。そんなに簡単じゃないよね。
ひとつにはそういう理由が (自分のまわりで) あったのだ。
そしてそれがそれを忌み嫌っている理由でもある。
いま思うことは、そんなムカついてもしょうがないので
ひたすら自分のすべきことをするしかないということ。
そうすればおのずと時間が喋りだすだろうという、それが信仰。

ただしそのためには電波に (すくなくともあと10年くらいは) 自分の中から出つづけてもらう必要がある。
まあしかしそれが変わるころにはもうだれもそんなことは覚えていないだろう。
そのときに自分は、さみしいと思ったりするのだろうか? いや、しないな。
というかそんなことはむしろ忘れている (他の人と同じように)。
最近「忘れるってことは、とてもすてきだ」と思えるようになってきたけれど、
誰もかれもそうなるのな。(なぜならそれは、誰も罪というものを感じなくてすむようになるから)
だいたいそんなところ。

自分には (自分を含む) あらゆるものを否定する傾向があるが、 たいていの場合その直感は…。

May 06 [Tue]


(11:01)
きょうは寒いな。…と思っていたら、きゅうにショッキングなメールが! そ、そういうことになったんすか? もしかしてオレのせいなんだろうか? もうちょっと事前に何らかの警告というか、「ハッパかけ」を期待していたのだが、 何もこないうちにそうなってたというのは大人の事情ってやつだろうか。 わからん。でもそういうこともあるのかもしれない。いや勉強になりやした。 しかしここまでアレしたということはアレしてるわけで… (意味不明)。

とにかく今日は朝から寒いよ。この寒暖の差はなんだ。

(19:12)
自分にとって      .   は重要ではない。
(19:55)
久しぶりにずぶずぶと落ちこんだ。 最近やや文章を書きすぎていたような気のするので、 ちょうどいいこの機会にすこし口を削ろうと思う。

罪悪感というのは自己愛の裏返しでしかないと。

(22:15)
契約不履行。文字にするととてもコワイ。同じ失敗は2度くりかえさないこと。
(00:07)
で、落ちこんだのできのうとはうって変わった選曲になっている。 いわゆる「黒人音楽」を聴くようになったのはこっちへ来てからだが、 こんないー (一般受けしそうな) 曲がなぜメインストリームにならぬのか不思議。 音楽に見られる黒人と白人のこの「大人っぽさ」の違いはどっからくるんだろ。

そして East Village あたりにいる日本人のヒップホップ好き (らしき人) は なぜあんな目を覆うばかりの貧相な格好 (装飾は黒人のマネだが身体はヒョロヒョロ) ばかりするのかも謎である。

May 05 [Mon]


(11:06)
ガーソ。colloquia あるの忘れてた。。。
(13:15)
クールなコンソールベースのウインドウシステム Twin。 X Window なんか誰が使うん?。 こういう「揺りもどし現象」というのはいつの世でも起こるんだな。
AA support? (Score:5, Funny)
by Libor Vanek (248963) on Monday May 05, @06:46AM (#5879981)
Does it support AA and alpha chanell? .-)
[ Reply to This ]

      Re:AA support? (Score:5, Funny)
      by listen (20464) on Monday May 05, @06:58AM (#5880028)
      Yep, full ascii art support.

グランドピアノは食べられません。

(20:45)
きょうは CD のせいで意味もなくノリノリな一日だった。

しかしやっぱりさ、矢野顕子ってオリジナルの曲より他人のやつを アレンジしてるほうがうまいの多いな、と思う。大貫妙子とか細野晴臣のドンくさい曲 (彼らの曲がつねにドンくさいといってるわけではありません、 アレンジされる原曲がたまたま個人的にパッとしなかったのです) をとってきて、 蘇生させてることが多い。なんか「細野→矢野」という流れに 当たりが多いような気がする。「相合傘」とか、 「ここーはどこなーのかーどーでもいいことーさー」ってやつ (名前失念) とか結構いいし… このアルバムでは「終りの季節」とか泣ける状態になってるし (でも人によってはこういうアレンジはおセンチにすぎるかもしれず、 原曲のアノ野太い歌い声のほうが泣けるという人もいるかもれない)。 でもハリー細野は「はらいそ」が一番好きだな。なぜならインドだから! インド!

(また[今度は逆方向に]年齢錯誤な話を書いてしまった)

(22:24)
頭の中がメルヘンな人 (新山とか) がつねに妄想するのが 「人間以外の話し相手」というやつである。自分とはまったく別の種族で 人間世界のしがらみから超越してて自由なんだけど、 なぜか人間語をしゃべってくれて自分のグチを聞いてくれるという存在。 そういうやつがいればいいなあという話。 子供向けの話ではよく出てくる。黒猫とかカッコウとか、カエルとか。 シグナルとシグナレスとか。しかし前にも書いたように 彼らはたとえ日本語をしゃべっても理解できない意味体系を使うので、 残念ながらコミュニケイトはできそうにない:

人間「きょう、上司に怒られちゃってさあ…」
猫「なんだそりゃ? 大動脈ねらってかみつけよ馬鹿。犬歯あんだろが? 去勢されてんのか?」
かっこう「そいつの家にあんたの子を忍びこませて一家惨殺させなさいよ、基本でしょ」
カエル「…あのーおーー…、おるこるるれれらる(舌を巻きすぎてしまう)ッテ、何…?」

かといって、人間界のしがらみを完全に理解している動物ってのも、またこわい。 「あーわかるわかる、だけどな、やつも最近息子さん浪人したんで機嫌悪いらしいからよ、 ま、そんなこた忘れてさ、パァーっと風俗でもいってこいや、な」とか カエルに言われたらどう反応する?

そういや新山は実物を見たことないのだが、 「シーマン」とかのソフトウエアが売れたのはそういう要求からだろうという気がする。 しかし彼らは「計算機」にそれをさせて満足なんだろうか。まあいいけど。

(追記) あ、そうか。つまりオレはそういう話し相手がいないからこうして 「海」に向かってつぶやいてるんだ。あはは (自嘲的な、)

(02:18)
感傷的になってきたのでもう寝る。

いま翻訳しててなんとなく思ったんだけど、日本語では「すべて」は 連体修飾よりも連用修飾 (つまり副詞) として使われるほうが多いような気がする。 つまり「すべての〜は…」という言い方よりも、「〜はすべて…」と訳すほうが自然な気がした。それだけ。

May 04 [Sun]


(12:11)
そういえば自分が手帳とかスケジューラを使わないのは 「シンプルな生活が好き」という別の理由もあって、こっちのほうがでかいのかもしれない。 機械 (システム手帳なども機械の一種だ) を使わなきゃ自分のスケジュールを 管理できないような生活は (やむをえないとしても) はっきりいって敗北だ。

考えてみれば自分はものごころついたときからつねに 「単純さ」を追いもとめていたよーな気がする。これは親の影響もあるのだが、 とにかく「自分が面倒みきれないようなもの/量を持つ」のが嫌なんだな。 コンピュータにしてもそうだし、家にしてもそうdasi, 自分の身体にしてもそうだ。 いつも何か余計なものを「そぎ落とす」のがうれしいらしい。 そのうちこいつは「目も一個ありゃあいいや」とか言いだすのでは? それは冗談としても、つねに身のまわりの生活を単純にしておくというのは 無意識のうちにクセがついているようだ。人間関係でさえそうかもしれない。 まあ人間関係でいえば日本よりもアメリカのほうが単純でいいやな。 しかしこいつらはモノをもちすぎるという欠点がある。 まえに Owen と何かのテレビを見ていて、でかい家が出てきたのだが、 彼が「いつかこういう家に住みたいよな」と言ったのに対して、 オレの意見はまったく逆であった。 「オレはぜんぜんいやだがなあ、だいたい広すぎる、あんなの自分で掃除もできないよ?」 「でもおまえ、金モチになれば掃除するヘルパーぐらい簡単に雇えるんだから、 そいつにやらせりゃいいじゃん…」 しかし「自分の家を他人に掃除させる」というのがそもそも 恥ずべき行為と新山には見える。そこまでして部屋を増やすというのは本末店頭だ。

だいたい、そんなに場所が必要な理由ってのはよくわからない。 新山の場合、本置き場程度はたしかに欲しいけど、それももし近くに すげー便利な図書館があったら本当にてもとに置いておきたい本なんて そんなにないよな。「所有」をふやすことにあまり興味がないというのは これは性質的なものなのか? そういえば人からもらったメールもばんばん消すし (が、気に入った人のだけは何年も保存してあったりする)。 これとは対照的に、つねに「所有」を拡大したいという人も 世の中にはいて (たとえば某T氏とか) …でもさー、どーせいまから 100年後には あんたの持ち物なんて何ひとつ残ってないんだよきっと。 彼にとって生きるプロセスはかき集めることなのかもしれないが、 新山にとって生きるプロセスとは流れて消えることである。 でもじつは自分で一番気にいっている比喩は 「人生は UNIX のパイプ (|) のようなもの」というやつだ。 なにかのプロセスで一瞬だけ作られ、なにがしかのデータを過去から未来へ流し、あとかたもなく消えるという…。 ちなみに data processing inequality の則によれば X → Y → Z という独立した過程があるときに mutual information I(X; Y) >= I(X; Z) とゆうことですので、 我々は祖先からのエントロピーを増すことはできないわけです。

つまりそれは最初から右さがりの人生ってことかい?

(13:30)
「三男アリョーシャの歌」というのを考えた。

♪おーれはアリョーシャだぜ〜
兄貴はどちらもバカばかり
ゾシマ長老信じるぜ〜

ひとり爆笑。ドミートリィやイワンではなく、 アリョーシャの歌、というところが気に入っている。このギャップ。

ワれながら病気ダ。

(13:37)
しかし自分が「欲のない人間」か、といえば、実際はその正反対である。 物欲はないとしても、その他あらゆる欲にみちみちているような気がする。 なんてヨクバリなんだ。ヨクブカ。ヨクブカっていいよね、なんか。ひびきが。 「良くブカブカする」ので、なにやら「いいズボン/いい帽子」のような イメージを連想させる。というかもう寝ろよオレは。いやまだ昼間か。
(15:45)
しじみですかい。
(18:53)
まだ 5時ごろのようなあかるさ。そろそろ腐り始めてきた (つまり腐敗…しかし「腐敗」って字は…負けてるんですね腐敗って… つまり腐敗は敗北ということです) ので、 Manhatto (都_会) に来て、 なぜかだいぶ上のほうでおりて 22st. あたりの B&N でうろうろ。 ここは CD 屋がけっこう充実してるので、CD 数枚と ヨーロッパ列車旅行ガイドナルモノヲ購入。 ほんとーは「裏口からのヨーロッパ (Europe Through the Back Doors)」 っていうのがなんか地球の歩き方っぽいあやしさで気に入ったんだけど、 あんなに Travel Tips とかわんさか書かれても読みきんないので。 それにしても BN の試聴システムはすごいよねー。売られてる CD のほとんどが 試聴できるんだけど (商品についてるバーコードを通すだけ)、しかしいかんせん 好みが「アメリカン向け」で、ほとんどの棚が Rock&Pop, Jazz ばっかりで Gospel とかはすげー少ない (でも Country や Blueglass はあるので、 中年向けってとこか)。このスノッビーめ! しかしなぜか矢野顕子とか買っちまった。 ラベルは英語だが、入ってる歌はとうぜん日本語である ("International" のコーナーにあったんだから!) しかもごていねいに歌詞の英訳がついているのがすごい。 ちなみに「♪チャーシューいらない、ナルトもいらない」の部分は 「No pork, nothing fancy」となっている。そんなもんかい…。 でもこの人ってそんなに有名なんかしらね? 旦那が有名なのは知ってるけど、旦那の曲はべつに面白くもない。 その後店をでて、南下して、ほんとーはどっかのコーヒー屋さんで 試験勉強をしようと思ってたんだけどもう荷物が重いしだいぶ遅くなったので そのまま大学に来てこうして日記を書いている。 きょうはヒゲをそってなかったのでかなり見る陰もなかった。
(22:52)
そういやー、あるところの dns サーバが落ちててそのドメインにメールがおくれない (メールサーバは動いている) という文句がきた。こういう場合には qmail は独自の resolver を使っているので、/etc/hosts に 追加してもだめなのだ。しょうがないので、smtproutes をいじってなおす。
(01:11)
「♪あおぞらーにたなびく、せんたくものよ、しろい雲よりセイケツよ」と歌っていた。 影響されやすいなあおれ。しかしあいかわらずこういう曲が好きってのは、 オレの精神年齢がちっとも昔から変化してないことを示している。

でも作詞は糸井重里だtta…。

May 03 [Sat]


(11:10)
いま気づいたけど、「寒さが本格化してきた」とは言うのに、 「SARS の感染が本格化してきた」などとは言わぬのな。 つまり「本格」があるものに対してしか「本格化」という言葉を使ってはいけないのだ。 じゃあ、「アホが本格化してきた」とかは? まあいいです。もういいです。まあ。

"It's a mutual, joint-stock world, in all meridians. We cannibals must help these Christians."

(15:08)
つねに自我なんてものは存在しないと自分に言いきかせている。 プログラミングをしている新山と、ラーメンを食べている新山と、 手紙を書いている新山が同一の人格であるなんて誰が言えようか。 それらはただ同一の入出力装置と記憶の一部を共有しているだけだ。 「記憶」によってあたかも 2つの機能が連続的に推移しているかのような 錯覚をうけるのであって、実際にはそれらはまったく別の種類なのかもしれない。 「自分」というのはただの記号にすぎないことを忘れるな。

まったくオレってやっぁーあたり前のことを何度も何度も。

もしかすると自分の意識はキーボードの右シフトキーにあるのではないか?

はてさて。
「意識が…にある」というのは、その上にあるのか、あるいはその中にか。
その上でもその中でもない、そこ「」だ!!   「」あるといってruのだ!!!!!!!

(!! 以下 10-36 個ほど感嘆符が続く !!! ...)

じゃあなにか??

  (ハミガキ粉を食べすぎたために口腔がヒリヒリしました。)

そしてオレは電車のなかで目玉のおやじをみた。ものすごいのだ。 そいつは通常の人間の 1.5倍ぐらいの目玉の大きさがあった。 いまにもその眼球がポロっとはずれて足が出てきてテコテコ歩いて、 「オイ、キタロウ!」とか言いそうなくらいに、でかいのである。

あなたの左手は凍りついたようにその場から動かない。

ファラオののろいだ!! と人々はいった。

うでもいいけ

<、幼稚園時代のミルクはなんであんなにマズかったんだろう。まさか脱脂粉乳じゃあるまいし。;

かっんだろうって??? いま久しぶりにそのことを生まれて始めて考えた。

(19:11)
あまりにも自分ができそこないなので腹がたって、 おもわず思いっきりふりかぶって、フトンに頭をうちつける。 ばふっっ、というような音。 …。 …。 気がつくとオレのまわりは夜だった。 ここは夜の世界にということか…? 日本語が変だけど気にしない。

さて、本当のところは何がそんなに落ちこんだのかというと、 Solarwolf に燃えすぎて疲れた。。。

これ、曲が中毒調なのよねー。なんとなくやってしまう。TuxRacer もそうだけど、 なんかオレはゲームにはまっているというより、音楽にはまっているのかもしれない。 そーいえば Tetris もあの初代 Mac 版のオロシヤ民謡じゃないとだめだな。 それでいきなり 13段とかから始めて「うひゃー死ぬ、死ぬ、死ぬ〜!!!」とかいってるのね。 まあ「デンデデデン」とかいうのもあったけど (これは、なぜか、かたかな)。 歴史は歴史です。

(01:04)
風呂に入っていたらまたきゅうに思考が冴えだし、じぶんの中のもやもやしたものを 言葉にできるようになったんで忘れないいまのうちに書いておく。

オレは最近そんじょそこらに増えてきた web 上のサービスをあまり利用しない。 はてなアンテナとか Yahoo! Calenderとか 関心空間とか はいぱー日記しすてむ (これはちょと違うか) とか ぜんぜん使いたいと思わないのだが、今日その理由がなんとなくわかったような気がした。 どうも技術的に不満があるとか、思想的にダメだとかはあまり関係がないらしい。 というか、それらは副次的な理由で、実際そういうのって使えばきっと便利なんだろうと思うのである。 しかしオレにはどうやらもっと別のこだわりがあって、 とにかく新山は人のつくった既製品をそのままでは使わないのだ。 これは単なるマーキングか、あるいはあまのじゃくの行きすぎともいえるのだが、ちょっと違うと思う。 既存のシステムに自分をあわせるというのが、なにかを失う行為(?)のように感じる。

たとえば、こういうこと。Yahoo! のスケジューラとかを頼りにしだすと、 自分の思考スタイルがそのスケジューラの制約によってある程度 影響されるようになってくる (でしょう、たぶん)。実際には新山は web ベースどころか、 システム手帳も PDA も使わないんだけど、つまりスケジューラやなにかの手帳やソフトウエアを使うと、 きっと日々の計画そのものが「そのシステムのルールを意識する」ようになってしまうと思うんだな。

同じようにアンテナ類その他ポータルサービスも、それを使うと自分の興味のひろげ方や web サイトの巡回方法にある一定の「体系」が入ってくるようになる。そのシステムに 頼るようになればなるほど、自分の行動様式は影響を受けていくだろう。 そして「これが絶対に優れている方法論だ」と確信をもって言える人なら それは別にいいのだが、実際には人間のスケジュール管理や興味のもち方というのは もっとずっと乱雑で体系立ってないのだ、と思う。少なくとも、新山の場合は。 そこにあえて体系を導入しようとするので、無理が生じるのは自然である。 これは新山の勝手な想像だが、たぶん My Yahoo! や関心空間を使っている人も 実際にはシステムの「おしつけ」を感じているのだが、 きっとやや“無理して”使ってるのだと思う。ちまたにはその手の サービス売りがあふれているので、「これを使えばあなたの生活はもっと合理的になり、 有効に時間を使えるようになりますよ」という宣伝文句がそこらじゅうにあふれている。 しかしそれはほんとうか? そもそも、ほんとうにそんなに時間を合理的に使い、 合理的に楽しみを発見する必要があるのか。だれも本心ではそんなものほとんど望んでないのは明らかなのに。 そして、実際には自分の行動がシステムの枠組みとは微妙にズレてることなんていくらでもある。 たとえばアンテナを使っていれば、興味があるものに対してはとにかく早く更新を チェックできるだろう…が、やがてそれは「チェックしなければならない」という惰性に変わる。 たぶん。でも、興味がなくなったらどうすんの? わざわざ手で登録をはずすのだろうか。それとも放っておくのだろうか。 どっちもめんどくさい。それに、「自分はこれに完全に興味がなくなった」ということを 確信的に判定できるもんだろうか。オレにはできない。結局は、 ブックマークを適当に気分で選んでたどっていくのと変わらん、 ということになる。言いたいのはつまり、「多くのヒトの行動様式は システムの枠組みではとらえられない」ということだ。 にもかかわらず、なぜ人はわざわざ自由度の低い形式システムに自分を「はめこみたがる」のか?

もちろんここにはトレードオフがあると思う。いくら「便利な機能」を使わないとはいっても、 たとえば新山はブラウザの ブックマーク程度の機能は使う (実際には lynx のブックマークが html を生成するので、 それを一箇所においといてあちこちに持ち回って Mozilla や IE からも参照するということをやる)。 ポータルとして利用しているのは「Google でインスピレーション検索」というところか。 このくらいの機能なら「思考方法が制約をうけない」程度に自由度がある、と思うのだが (実際にはそんな大げさなこと考えてないけど)、 それでも、多少なりとも影響はうけるかもしれない (が、まあそんなことを言いだしたら http を使ってるとこからしてすでに影響されてるんだから同じことだ)。 しかし、いずれにせよシステムの機能が単純明快ほど使う側の自由度は高く、一般にシステムが賢く 複雑になればなるほど (調整可能なパラメータが多くなればなるほど) ユーザの自由度は少なくなる。 なんか逆説的だけどそう思う。

そして、さっき考えたのだが、こういうのって人が「一戸建てをほしがる感覚」に似ていると思ったのだ。 都心のマンションに住んだほうが便利かもしれないのに、その四角いフレームに はめこまれるのが嫌、という人は多い。なのにネット上では画一的なサービスを求める人が多いというのは、 おかしい。たぶんこれはまだネットの使い方を「自分のライフスタイルの一部」とまでは とらえてない人が多いせいだと思うが、実際にはこれはもうライフスタイルの一部になっている人が多いだろう。 新山の場合も気づいたらそうなってたし。そもそも自分がこんな低容量の回線で サーバたてて、(dyndns で我慢しときゃいいのに) ご丁寧にドメイン名まで取って、 ログもろくに残らん不便な httpd を走らせているのは一体なぜなのかといえば、 ひとえに (ネット上だけでも) 「一戸建て気分」にひたりたいからだと思う。 庭の手入れをするようにサーバを手入れしてなにが悪いのか? おかしなサイト構成もヘンな httpd も味である。 「自分で家を建てる (これはうちの親の夢でもある)」ってのはそれなりに 重視されるのに、コンピュータの DIY はいまひとつ認知されないな。 日記書くにしても、なにかそれ用のソフト使ったほうが便利なんじゃないかとは思っても、 スキンで見た目をちょい変えられる程度ではしょせん「団地住まい」でサンゲツのカーテン変えてるのと 大差ない (いや、それでいい人はそれでいいのです、バカにしてるわけじゃありません)。 つまり新山にとって web サイトとは、そのサーバや回線速度までもが 総体的な個性であるらしい…。田舎で不便でも一戸建てがほしい! ということなんだろう。 現実の世界でも一戸建ては欲しいしな (これは生まれ育った環境も大きく影響していると思われる)。 …しかし、またも思うのだが、将来的に「平均的な部品」をめざすべき人間が こんなことをいっててほんとに大丈夫んだろうか?

そういやー話は変わるけど、この部品うんぬんの話って銀河鉄道999と同じじゃん、 ということにさっき思いあたった。 たしかあのアニメでは、鉄郎は最後にネジにされる予定だったんだよね (ちなみにこのアニメ、新山自身はリアルで映画を見にいったけどほとんど覚えてないのだが、 なぜかうちのオヤジが大好きだったのです、ヘンな親だよまったく)。 すばらしい、松本零士! しかしあれもまた中央集権的なところが気にいらぬ…。 どうしてあの惑星メーテルをもっと“桃源郷風”に描かなかったのであるか? あれこそまさにわが心中民族がいま実際にめざしつつある姿であるというに…。 まったく、中途半端に欧米的個人主義なんか崇拝しやがって。 だいたい性格によって適性な部品が決められるなんて、よくないよ。 部品は一種類だけ、それも「細胞」とかいう単一のブロックだけにすべきだ。 そうすれば誰もかれも区別がなくなり、「みんなしあわせ (かどうかも実はよくわからない)」な 状態が実現するとゆうのに。…つうか疲れてきました。寝ましょう。

May 02 [Fri]


(08:38)
どっかの黒人とふたりで建物の中にひそんでいるナニカを追いだしたり 逆にやられたりしてる夢。でもよくおぼえていない。これはまた別の世界だ。 今までに見たことのない。

現実は夢と夢とをつなぐハブのような世界だ。 別の世界へ抜けるには一度現実世界を通らなければならない。 夢は夢で、また独立しつつあやしい存在と非存在の間を漂っている。

でもそれはほんとうかっ。
統合環境への道、というわけ。

(09:17)
ドラクマとダイクマの違いって何? あとダライラマ。
(13:48)
自分でうろうろすることが大切。
(15:50)
ふとオレンジをむき、無意識のうちにむきおわり、無意識のうちに食べている。 そして無意識のうちにいつのまにか食べおわっており、 手が何もないオレンジの皮をまさぐる。

「え、もう食ったっけ、オレ…?」

いずれ何もかも忘れさられ、放り出され、波打ち際に打ちあげられる運命にあるのだ、なにかは…。 それならば今のうちに忘れておいたほふが身のためであると思わ内科医?

おれはウンシューミカニスト (オレハ温州みかんist)。

(18:15)
きょうは Python で 2つほどライブラリを書こうとしたが、 いずれもデザイン上の欠陥のため失敗した。たぶん、ほぼ失敗。 ひとつは「出所を覚えている文字列オブジェクト」とでもいうべきもので、 UserString を拡張して自分がどのファイルの何行目何文字目から 読みだされたものであるかを覚えているというものだが、 一応スライスではちゃんと自分が切りとられたことを認識するんだけど splitre.search を 使うとただの str に戻ってしまう。これじゃおいしくねーよな。 もうひとつは「LaTeX 文書のパーザ」で、これは sgmllib を ちょっといじれば簡単かと思っていたら、じつは LaTeX は SGML よりも ずっとヘンテコな構文なのだった。最初のアイデアでは、 \begin\end のような環境を SGML の開始・終了タグと同じ方法で処理し、 \section とかは <hr/> と同様の 「引数つき 1度きりタグ (何ていうんだっけこういうの)」として処理すればいいと思っていた。 ところが TeX の場合はたとえば \section{...} の引数 {...} の中にも さらにコマンドが書けるのね。だから \section{hoge$exp_1^2$} なんてのもできる。 そうすると \section そのものもじつは木構造を持っていて、 開始・終了処理が必要になってしまう。でもこうすると作るほうも使うほうも すんげーめんどくさい。たしか Perl には LaTeX 用のパーザがあったはずだけど、 あれはどうなっていたっけ? しかもじつは \section\section hoge などと { } をつけずに書くこともできるのだ。 こうすると TeX では「hoge」の最初の 1文字だけが引数とみなされ、 "h" というセクションの中に「oge」という文字が入るという 変態的な仕様になっている。まったく、なんだよ。 それほど完璧に仕様に従うことはないにしても、 やはり使いやすいライブラリをデザインするのはかなりむずかしいのだ。 sgmllib はかなり使いやすいからあのデザインは気にいっているんだがなあ…。
(19:54)
運の悪いときに帰ってきたらしく、かなりドシャぶってた。 いざとゆうときのために大学と家に両方置き傘をしてあるのだが、それでも背中をやられた。 電車のなかではずっと上の 2つのライブラリの設計について考えていた。 やっぱ、tokenizer と parser というオーソドックスな構成にしたほうがいいかなあ。 しかしそれだとなんかつまんない。使いにくそうだし。 おいしいライブラリを作る能力ってのはやっぱ「実際にそれを使用する状況」というものを 想像する能力にかかっているのだろうかね。

ようやくノドモトな生活が終わったので、またプログラミングのことで頭を 70% ぐらい 浸しておけるのはうれしいことである。いや、うれしいことかもしれない。いやまて、 ほんとにオレはうれしいんだろうか?

お前のような欠陥的人間、およびその派生型に類するものは、すべて キカイのことのみを考えていればよい。なんたって部品だから。 そしていつか頭をコンピュータのカドにうちつけだして出血多量で逝ぬのだ。それが運命づけだ。

新山はマッチ某のようなウデをしているが、それをさして弱 (ジャク!) などとは呼ばせない。 それはみせつけか!?

Perl 用の LaTeX パーザを見てみた。ものすごくヘボかった。 まあ、パーザといえばいえるようなものかもね。

(22:49)
そういやーきのうの GCC の話。スピーカの Richard Kenner は その昔 gcc をいち早く DEC Alpha 対応にした驚異のヒトとして知られている (GCC/gcc/config/alpha/*.c 参照、つーか、 Alpha ってまだ作ってんの?)。 といっても見た目は 50こえてるハゲたおやじなんだけど、 あの歳でそんだけ精力的にコード書いてるってのがカッコいい。 しかし、すごいよあれは。まず最初に (collection としての) GCC の 規模の話があったが、いまよりだいぶ前の時点ですでにパッケージ全体のコードが 計 100万行あり、そのうち約半分が共通の backend で、のこりの約半分が アーキテクチャ依存のコードだあ?? キチガイ的。 言語依存のコードはどこに入ってんのか聞き逃がしたが、 そのあとの説明がまたもおそろしい。

もともと新山はコンパイラなんてあまり詳しくないので、 きっと適当に字句解析して構文主導定義でなんかやって、あとはできたコードを ルールベースで最適化すんだろなー、程度に考えていたのだが、 実際にはとてもとてもそんなレベルではないことがわかった。 構文解析はほんの「最初の段階」にすぎない。そのあとのコード生成までに 長い長いプロセスが存在する。まず CSE (Common Subexpression Eimination) があり、 Lisp に似た中間コードの生成があり、 中間コードの各アーキテクチャごとへのチューニング、 ジャンプ命令最適化、そのあとデータフロー解析 (Richard いわく、こんな時期にこれをやるのはあきらかに遅すぎるので、 最近のバージョンではデータフロー解析はもっと早いステージでやるように改造しているそうな)、 グローバル CSE、レジスタ割り付け、実際のコード生成、さらになんかの最適化…。 なんという沢山のステージだろう。オレは聞いていて頭がクラクラしていた。 全部は理解できず。

そもそも GCC はその昔まだ gcc (GNU C Compiler) の時代から、 いろんなアーキテクチャに対応させることができる先進的なコンパイラだった。 で、GCC の特徴のひとつは、アーキテクチャの specification に 「どうやってターゲットマシンのコードを生成するか」ではなく、 「ターゲットマシンの命令体系の記述」を書くところらしい。 で、実際のコードとそれがアセンブラレベルでどのように対応づけされ、 最適化されるかの詳しい説明があったのだが、めんどくさいのでここには書かない。 とにかく GCC では中間的な S式のコードをまず出力して、 それをあれこれいじってターゲットのアーキテクチャの命令セットを もっとも効率的に利用できるように変形していくらしい。が、ここには 多くの自明でない問題があることが想像できる…。基本的にはこれは 規則を死ぬほど用意しておいて、それの適用でもってやっていくのだが、 とにかく最適化のケースの多いこと多いこと。 ちなみにこのターゲット用の S式とルールの集合は gcc/config/なんとか/*.md という ファイルで見ることができる (ちなみに、いま見てみたら i386.md が 2万行あった…これ、コードじゃないですよ、ルールだけですよ)。

たとえば、if (x==0) return 0; とかいうのを最適化する場合には、 x がレジスタ割り当てなら immediate 0 指定よりも x の 0 値をそのまま 使うほうが速いとか、ただしこれはターゲットが CISC のときのみで RISC チップのときにはこの法則はあてはまらんとか、x*10 という定数のかけ算を 加算命令を利用して mov t,x; add x,x; add x,x; add x,t; add x,x; などとやるのは アセンブラの常套手段だが (i.e. 10x = (x*2*2+x)*2、これ新山もむかしよくやりました)、 定数がある一定以上の場合 CPU 組み込みの乗算命令を使ったほうが速くなるとか (これもステート数を数えないといけないから単純ではない)、 一部の除算命令を乗算命令で代用したりとか、そんな話が山ほど出てくる。 頭ふやける〜〜〜。オレにはコンパイラの研究はむりだと思った。

それでも gcc はまだまだ (最適化という面から見ると) 低機能なところもあり、 たとえば IBM などのコンパイラではデータフロー解析が異様に強力で、 gcc が吐くコードよりも通常 2割ぐらい速いのだが (IBM はたったこれだけの スピードアップのために何10人年も! かけているらし)、マシンコードレベルの アーキテクチャごとの最適化では規則ベースという原始的な方法にもかかわらず、いまんとこ gcc に勝るものはないとか。つまりこれは各開発者の重点が違っているためらしい。 「しかし何人年もかけてたった 2割の速度向上がうれしいものか? マシン性能はその何倍も進化しているのに」と Dewar (教授) はいってた。

あと GCC をいかに C 以外の言語に対応させるかという話。 Richard はいまは gnat.com で働いており、おもな仕事は Ada がらみとのことだが、 GCC は基本的には C のコードのために設計されたため Ada やら Java やら やや C とは違った構造をもつ言語はマシンコードに落とす部分でいろいろと 小細工が必要なのだそうな。そういやーいまは GCC は COBOL もサポートしていたっけか? あれはどうやってるのだろう ("IDENTIFICATION DIVISION")。 …で、そういったかなり爆発的な話のあとに (ここまでの時点ですでに新山は教室が暑くて狭くて酸欠っぽいのと頭痛でかなり参ってた) こんどはセケン話になり、Eli が「GCC っていまは RedHat の連中とかも 開発してんじゃないの? 彼らがプロジェクトの方向をゆがめちゃうってことはないの?」とか ききだし (Richard によると「彼らはおもにドキュメンテーションとかデバッグとかの つまんない仕事を金もらってやってて、新機能の追加はつねにボランティアなので心配ない」)、 そのあとは果てしなく国防と航空機関係の話 (Boeing も Airbus も制御システムは Ada を使っている) になっていった。 オレはいーかげん意識がモーローとしてきたので思ったのでホウホウのていで部屋から逃げだし終了。

しかし、話を聞きおわってから思った感想は、 とにかく GCC はひどいソフトウエアだということである。 これ一体これからどうすんの? 最後のほうで、だれかが「今後 5年間にソフトウエアの研究で 成果が上がるとしたらどの分野か? formalism か、verification か、あるいは compiler か」 というようなことを尋きだしたが、Dewar も Richard もどちらも「むずかしいねー」といって まともに答えられなかった。2人ともそれが重大な問題であることは認識しているようだったが…。 Dewar によると英国ではこの手の研究に formalism がはるかに重視されているという。 つまりソフトウエアを形式システムの枠組みでとらえようという試み。 これに対して、「アメリカ式」なほうはずっと大ざっぱで、工学と確率的リスク計算 (たとえば「MS Office は 0.4回/h の割合で落ちるから、損害は大きく見つもってこの程度…」云々) でソフトウエアの効用を判断しているようなところがあるらしい。どうよこれ? 新山は formalism のほうが本質的な解決っぽいと思うが、はたしてそんなものが ほんとうに発展するのかどうか、じつに暗い見通しだ。いつもこの手のことを考えると落ちこむ。

ところで「ステート数」って単語は現代ではもはや使われていない様子。 8080時代の遺物なんだろうか?

あ、それからこの授業ではみんな「やっぱコンピュータサイエンスを出てるくせに アセンブラも知らねえやつはダメだろ」的な意見で一致してて笑えた。 そうだそうだ。…が、それはひどく深刻な問題かもしれない。 上から下まで理解するのに必要な知識が肥大しているのを一体どうするのだ。

May 01 [Thu]


(23:16)
(00:09)
それがなければ、なにもできない。それさえも。
Yusuke Shinyama