「リンクを張る」という行為は、人を共犯者のような気分にさせる。
カネもちケンカせず。
1. Unix - 世界初のコンピュータウィルス
バークレイで生まれたもっとも有名な発明品は LSD と Unix だ。
これは偶然の一致ではないと思うね。-- 匿名希望ウィルスは自己をなるべく小さくし、なるべく適用性を増すことで生存競争に勝つ。 これらはそんなに複雑ではない。ウィルスは呼吸や消化や移動といった 大仰な仕事をするのに必要なものを持ち回るのではなく、 自己を複製するのに十分な DNA や RNA だけを持つ。 たとえば、どの種類のインフルエンザウィルスも宿主の細胞より小さい身体を 持っているにもかかわらず、毎年インフルエンザの時期には新しい種類が生まれてくる。 ときおりウィルスはかなり健闘し、何百万人もの人々の免疫システムが それらを殺すよりも先に、彼らを死に至らしめる。しかしほとんどの場合、 ウィルスはささいな迷惑者にすぎない -- 避けられないが、遍在するものとして。
よいウィルスの機能とは次のようなものである:
- サイズが小さい
ウィルスはたいしたことはしないので、べつに大きくなる必要はない。 人々はウィルスが生物なのか、それとも単なる核酸とタンパク質のかたまりなのか議論しているほどだ。- 可搬性がある
単一のウィルスはわずかな変更で沢山の種類の細胞に寄生できる。 動物あるいは霊長類に寄生するウィルスはしばしば 人間を攻撃するようなものに変異する。たとえばエイズウィルスはサルのウィルスから進化した。- ホスト (宿主) の資源を利用する
もしホストがそのウィルスに、安全に寄生し繁殖するためのエネルギーを提供しなかったら、 そのウィルスは死ぬことになる。- 突然変異する
ウィルスは多くの異なった形態に頻繁に変化する。 これらはどれも共通の構造をもっているが、 ホスト (宿主) の防御機構を混乱させるには十分だ。Unix はすばらしく成功したウィルスの特徴をすべて備えている。 初期段階では、これは非常に小さく、ほんの少しの機能しかもたなかった。 設計のコンパクトさにかけてはピカイチで、これは現実のオペレーティングシステムにあるような機能 (メモリマップド・ファイル、高速なI/O処理、堅牢なファイルシステム、レコード、 ファイル、デバイスロック、合理的なプロセス間通信、などなど) を持っておらず、 そのため非常に可搬性が高かった。使いでのあるオペレーティングシステムはだいたい もうすこし可搬性がないものである。Unix はホストのエネルギーを奪い去った。 システム管理者のお守りなしには、Unix は頻繁にパニックし、core を吐き、そして停止した。 そして Unix は頻繁に突然変異した。あるバージョンでは動いていた kludge やフィックスは 別のバージョンでは簡単に動かなくなった。 もしアンドロメダ病原体が ソフトウェアだったとしたら、きっとそれは Unix だったろう。
Unix はユーザインターフェイスをそなえたコンピュータ・ウィルスである。
(UNIX-HATERS Handbook, P. 3)
$ grep -h -o 'href="http://[^/"]*' /www/memo/200{4,5,6}/[0-9]*.html | pyone 'EL{print s[13:]}' | stripdom.py | sort | uniq -c | sort -rn | awk '3<=$1' 378 google.com 56 wikipedia.org 47 tabesugi.net:8080 24 unixuser.org 13 sourceforge.net 13 nyu.edu 13 nytimes.com 9 shinmai.co.jp 8 slashdot.org 6 tabesugi.net 6 lwn.net 5 nikkei.co.jp 5 guggenheim.org 4 urbandictionary.com 4 python.org 4 python.jp 4 c2.com 3 whitney.org 3 uic.edu 3 openbsd.org 3 nasa.gov 3 mit.edu 3 google.co.jp 3 common-lisp.net 3 columbia.edu 3 acm.org 3 2ch.net
最後の 2ch.net が脱力。もう何年も見てないのだが、しぶといな。
ちなみに、新山は個人サイトになるべくリンクしないというポリシーがある。 リンクしないどころかある種の個人のサイトをいっさい読まない (ただし、調べものをしていて参考にしたサイトはときどきリンクするけどね…)。 その理由は、その昔、まだ「ブログロ」がこれほど流行してないころ、ある種の人々が 今で言うところの「トクッラクッバ」で個人を批判しているのを見て、ひどく醜悪だと思ったからだった。 で、その批判されたほうも同じことをやり返していたりして、醜悪の自乗ともいえる状態になっていた。 なので新山は個人サイトは批判もリンクもしない。 (普段の会話で「こいつはどうしようもない奴だ」と言うことはあるけど)
なんでこんなこと思い出したかっつうと、こうした醜悪ぶりというのはいわゆる 現代的な「いじめ」とかなり似てるんじゃないかと思ったからである。 新山が予想するに、おそらく現代的な「いじめっ子」というものは、 ギャラリーを非常に意識すると思う (テレビでの芸人いびりなどから 影響を受けているのだとすれば、あきらかにそうなる)。 いじめる側にとって「いじめ」とはギャラリーに対するパフォーマンスであり、 ある意味それはそいつにとっての「自己表現」なんではないか? なんかオレかなり恐しいこと言ってるような気がするけど、まあいいや。 ようするに「現代的ないじめ」というのは、「(人を道具として使う) ギャラリーを意識したパフォーマンス」とみなせる。 とすれば、逆に彼らはギャラリーがいなければやらない (やれない) だろう。 ブログロもほとんど同じ動機だとしたら、両者がときに似かよってもおかしくない。 …新山が見たこの web 上での議論の応酬でもこれに似た雰囲気があった。 なにより醜悪だと思ったのは、やっている人間がもろに 「ギャラリーを意識した文章」を書いていることだ。 「みなさんちょっと聞いてくださいよー、世の中にはこういうバカがいましてねー、…まったく困ったもんですねー」 というノリである。いうまでもなく、これはギャラリーがいるからできる書き方だ。でも、すんげ〜カッコ悪い。 ただしこの場合は一方が一方的に攻撃されているのではなく、 お互いにそれをやってるのだから「いじめ」とは違うが、本質的にはこういう人々は 「いじめ-いじめられ人間」と同じ精神構造をもっていると思う。 ギャラリーがいなきゃダメっていう。 新山もよくいろんな会社や団体や芸能人をバカにするけれど、公の組織を相手にするのと 個人に対してやるのじゃ話が違うし、とりわけ相手が日本人の場合、個人の意見を批判するのと 個人そのものを批判するのがひどく混同されやすい (というか、多くの人にとって web 上でその区別をつけるのはほとんどムリだと新山は思っている。この意味でオレは人を信じてない)。 にもかかわらずやりたがる人がいるってことは…やりたいんでしょうよ。まったく好きよねえ。 yuck!
ちなみに、新山は個人のサイトをリンクして批判的に書いたことが 1度だけある。もう5年以上前だ。 そのときは自分がただ思ったことを書いただけでギャラリーを意識したつもりはなかったのだが、 その後 1年ぐらいたってあらためて見てみたら自分の文章にそういう「同意を求めるような、なんともイヤーな雰囲気」を 感じたため、もう 2度とこういうことはしないようにしようと思った。 それからも愚痴はしじゅう書いているが、 オレはひたすら壁に向かって独り言を喋るように書くべきであって、集団を構築してはいけないし、 誰も賛同してくんなくてもキライなもんはキライだ。 誰かが自分を理解してくれるなどとも決して期待すべきじゃないのだ。 (いや、たぶん理解してくれる人がどこかにはいると思うけれど、 そういう人は絶対にこのページを読んでないというオチ)
でもこういうケースは当時からけっこうあったが、今でもまだ沢山あるんだと思う (オレが見てないだけで)。 やるほうも醜悪なら見るほうも醜悪、ということで、そういう輪の中に入らないようにするには、 結局のところ「この種のページ」を積極的に見ないようにするしかない。とはいえ、 具体的にどういうページが「この種」なのかは今のところ直感で判断するしかないんだけど… 「慣れ合い度」はひとつの目安になると思う。新山が慣れ合いっぽいサイトを嫌うのは、 そうした雰囲気が潜在的に自立してなさそうな人々を呼び集め、 「いじめギャラリー」を形成する徒党へと発展する可能性があるからである。 というか両者はじつはまったく同じものかもしれない。 SNS サイトに新山がまったく興味がなく、むしろ積極的に避けたがっているのも、 ああいう場所には「そういう人間」ばかりが喜んで集まりそうな気がするからだ。 (いったいどんな人間なんだっ、今日のオレは代名詞が多すぎるっ!) それに対してツウちゃんねるの安全なことよ。
とにかく、新山は個人で活動しているぶんには、しょせん大したことはできないが、 そのぶん大して悪いこともできなかろう…。こういうことを言って、 むなしくならないといえばウソである。でも、お山の大将になろうとして必死な人を見るたびに、 いつもこの原則を思い出すよ。やっぱりオレはこぢんまりしているのがいいんだとね。
(追記) そういえば、この時代にみんな公私のサイトの区別はどうやってつけてるんだろう? 「インターネットで発信すれば何もかも公とみなす」とか主張する人はいまや絶滅しただろうけど、 みんなどっかで区別してるんだろうなあ。でもはっきりいって、ドメイン名とかはアテにならないんじゃあ…。 そうか!! 「ドメイン名で公私を区別する」のが wed 1.0 的で、「ぱげらんくの大きさで公私を区別する」のが meb 2.0 的ということなのか??? そんならアレには絶対にランクされないにかぎる。
劇場国家といえば北朝鮮。では「やらせ国家」といえば? はっきりいって、かの国では国民が政府のやらせを批判できる立場にないと思う。 かの国とは米国のことである。他にあるっけ?
今日やること一覧:
いま目的 1. を達成。(中)
話を戻すと、伝統的に欧米では「教師とやり合う」ことが教育の目標とされてきた (と新山は理解してる)。 博士論文の審査を "defense" (防衛) と呼ぶところからもそれがいえると思う。 これはむかし神学をやっていた時代に、神学の論文を書いてそれを守りとおした人間に与えられる 称号を「博士」といったのが出はじめらしい。まあ、もともとやってたのが神学かと思えば 現在のアホらしい研究でも defense する気になるかもしれない。 いや実際ほとんど神学のようなもんだが。
ここに 2人がいると仮定しよう。 この人間は、あるひとつのことを除けばほとんど同じ境遇にいる。
あるものを持っている人のほうが、持っていない人に比べて幸福であるという理論は いまだに根強い人気がある。この法則には推移律が使えるし (「都会に住んでいる人 > 田舎に住んでいる人」 および「英語が話せる人 > 英語が話せない人」ならば、 「都会に住んでいて英語が話せる人 > 田舎に住んでいて英語が話せない人」が成り立つ)、 それに“客観的”な判定がとても簡単だ。なにより、この理論はこれまで 人間が何千年にもわたって信仰してきたモノなのである。 そう簡単に否定できるわけがない。 最近、この法則を必死で否定しようとしている人々がいるが、 そんな連中はとんでもない莫迦者であるので、言うことを聞く必要はない。 持つ者は持たない者よりもつねに幸福であるのだ。 うんうん。
ぼかあとてもマトモなことを言ってますよね今日は (こんにちは)。
反省: ped. を男に限定してしまうのはこの国では男女差別だった。
そういえば、絵本「ひとまねこざる」の原作は Curious George というんだった。 おさるといえばジョージですよね。
今日達成した目標: 1., 4.。 (2., 3. は明日郵便局に行ったときに達成される)
インラインで |
おお、できるやんけ!!
それにしれも (それにしても) 今年の長野は熊ブームだなことよ。(今年の長野は熊ブームだなあ。)
考えてみれば、いじめへの対処というのは本質的にテロへの対処と似ていると思う。 どっちも今のところ対処療法しかできてない。「いじめ」そのものを防ごうとして、 罰則を強化したり被害者を転校させたりしても、これはテロを防ごうとして テロリストの住居付近に戦車やミサイルを突入させたり、空港の検査を厳しくしたり、 あるいはジェット機がぶつかっても倒れないビルを設計したりすんのと同じで、 本質的にはぜんぜん解決になってない。そもそも 「テロしたくなるほど抑圧されててかつヒマな人々」をどうにかしようという発想は出てこないか、 あるいは出てきても手間がかかりすぎる (あるいは経済的においしくない) ために無視されてる。 この考え方でいくと、経済的な打撃をこうむるよりは、いじめやテロのほうがまだ「望ましい」ということになる。 そして今のところほとんどの人 (含む新山) は無意識のうちにこの結論を出しているのだ。 そしてみんな、すでに結論は出ているのに悩んでみせるというスタイルが好きでね。
それにしても、今朝来たメールの 9割以上が spam だった。どうにかして。
ぼくの家は地上から 3.5m ほど宇宙に行ったところにあります。
…必修漏れが発覚した高校の校長が自殺するという悲しい出来事まで起きましたが、 わざわざ人々に非難されるようなことをするメリットはどこにもありません。 彼は単に父母達、先生達、そして生徒達の心の中の望みに応えようとしたのではないでしょうか。 その望みとは進学であり、「良い大学に入る」ことです。 …では、その望みの大学では教育はどうなっているでしょうか。 実は日本の大学の多くは世界的に見て最も勉強しない部類に属します。 私が留学生として日本に来て一番びっくりしたのはこのことです。 たまにしか大学に来なくてもちゃんと卒業できるのです。
わーはははは。パチパチパチパち (手をたたく音)。
(中略) ビジネスマンと会話していると 「大学では勉強せず、スポーツやアルバイトばかりやりました」と自慢する人の多さにびっくりです。 企業は終身雇用と称して社員を資本と財産のように囲い込んだうえ、 自社にしか通用しない人材に一から育て上げるのです。 これでは大学で勉強しないのも分かります。
わーははははは。パチパチパチばチ (手をたたく音)。
…ということで、やっぱり中国人の感覚からしても 日本人は大学で勉強してないんだよなあ。べつに中国の教育にも問題は絶対あるだろうけど、 とりあえずこの点だけは万人が認める真実であるだよ。なに、日本の大学でも 理工系の学部だらば勉強するって? 研究室に入れば、大学院に入れば勉強する? …ご冗談を。たしかに研究室に入ってから最初の間はタイヘンなのは認めるが、 それって今までナマけてたのを埋め合わせてるダケじゃん。実験系の肉体労働が大変というのはあるかもしんないけど。 それに、実際には研究室で身につけた知識って、偏りすぎててぜんぜん あとで役に立たないことが多い (もちろん「ボスへのゴマのすり方」などは多いに役立つが)。 そもそも基礎もろくにできてないやつが 4年生になったからといって 形だけの研究発表をやって何が楽しいのか、オレはいまだにわからん。 「そういう形式だけでも経験させることが大事だ」とかいうんだったら、 せめてプレゼンの作法ぐらい教えりゃいいのに、 日本の大学はそもそも先生の側にそれがないから教えられない。 でもまあ、よろしいことよ。 新山が留学してるのは基本的に趣味みたいなものだし、 日本であのような大学教育(?)ができるのも国が裕福な証拠である。 このあとどうなんだか知らないけど。
自分が目標をコロコロ変える奴だとは思わないけど、 若いころにまったく予想してなかったことがひとつある。 それは「自分の価値観は変わる」ってことだ。変わる、というよりも、 「いままで自分の知らなかった世界が見えてくると、 そっちのほうが実はずっと巨大だったことに気づく」のである。 ずっと、ずっとね。だから、価値観は変わるというよりも、 そのたびごとにまったく新しく再構築されるといったほうがいい。
まあ、新山はいまだに高校生の時点で決めた「やりたいこと」にわりと近い位置にいると思うのだけれど、 幼稚園のころの目標からはすでに遠ざかってしまったな。オレが幼稚園のころに描いたらしい 意味不明な画用紙がまだ実家にあるが、そこには将来なりたいものとして 「学しゃ」と書かれていたのである。しかも紫色のクレヨンで。
いったいオレはいつ「学者」なんて言葉を覚えたんだろう? ナゾだ。 オレはそんなにませたガキだったんだろうか? ともあれ、新山がなりたいものはもう「学者」じゃないんだ。 それはまちがいない。でもホントウかな? 一部の人にいわせると、新山は研究者に向いているという。 しかしそりゃあ「お前みたいなどーしようもないヤツは研究者にでもなるより仕方あるめえ」って ニュアンスに聞こえるのでムカ。まあそうかもしんないけど、 しかし新山には「研究しておカネをもらう」ってことは、 ものすごく (自分を納得させるのが) 大変って感覚がある。 ようするに研究者ってのは「1) カネをもらって、2) アイデアを出し、3) それを実装する」 という請け負い仕事なわけで、もしいいアイデアが出なかったら…首つりそう。 そんなプレッシャーに耐えられるほどおれは精神的に強いのか、といったら、 自信がない。
もちろん世の中には
「1) カネをもらって、2) アイデアを出し、3) それを実装する」研究者…や、
「1) カネをもらって、2) アイデアを出し、
3) それを実装する」 研究…者もいるわけだけど。
お大事に。
今朝はうっかり氷点まで下がりそうな勢いだった。もう 11月だからしょうがねえよな。 そのくせ今は部屋の中で半袖の Tシャツを着てたりするのだが。 新山は暑いよりも寒いほうが圧倒的に好きであるが、さいきん、手や唇が前と比べて とくに荒れるようになってきたのよね。なんか栄養が不足してんのかしら? そしてなぜおネエ言葉? まあいい。
洗濯をしている間にまた Wikipediaっちまった。 (つまり、時間つぶしに記事を編集するということ。) 注目度の高いエントリは頻繁にキチガイ的な人々が湧いて来たりするので、 そういうのは疲れるから、さいきんは目立たないところを拡充するようにしている。 たとえば大福中毒 (でかつ Wikipediaオタク) な Javier のために英語版の Daifuku で大福の歴史のところを書いてみたり、日本語版では SAP R/3 のセクションを 英語から翻訳したりなど。あと一時は「あくび」とか「しゃっくり」をやっていた。 どうも日本語版はあいかわらずオタクっぽいエントリばかり詳しくって、 「百科」辞典としては偏っているよなあ。 たぶんユーザ層がまだ低年齢 (と、高年齢のキチガイ的な人々) に限定されてるからなんだろうけど。
ちなみに自然言語処理その他の目的で Wikipedia をデータとして利用する人は
最近アホみたいにたくさんいるが (どれくらい多いかというと、Wikipedia 自身が
Python の urllib
によるアクセスを拒否してるくらいに多いのである!
一度やってみるとわかるよ。しかし Wikipedia はちゃんと研究用に xml のダンプを提供しているんだから、
それを使わないほうが悪いのだが)、みんなデータのノイズ性にかなり悩まされているらしい。
というのは、各エントリの品質や文法が一様ではないため、あるページはえらく詳しく書いてあるかと思ったら、
別のページは stub 以下で、カテゴリ分けもしっちゃかめっちゃか…という具合。
これは機械的にリンク分析などしている人がしょっちゅう愚痴っている。
新山自身は、wikipedia のデータをあまり真面目に受けとらないほうがいいと思っているので、
まあせいぜいやってくれって感じ。Wikipedia を研究に使うというのは、話題性のためなら
3年ぐらい前にすでに終わってるので、あとは長い停滞期が続くと思われる。
http://www.youtube.com/watch?v=XxLLhwCx4cM
ちなみに新山は dreamcast も ps2 も持っていない (それどころか現物を生で見たことすらほとんどない) ので、内容の真偽については知らない。 しかし、このバカさ加減があればそんなのはどうでもいい。
ここに youtube のリンクを貼るようになったらおしまいだと思った。
どうでもいいけど (どうでもよろ) sorted(a)
より a.sort()
のほうが
ほんの少しだけ速いようです…。まあ、配列をコピーする時間だけだろうけど。
$ python >>> import os >>> os.remove == os.unlink True
それにひきかえ Stewart が出たときの Crossfire を見よ (YouTube から消された場合には BitTorrent トラッカーを立ててる奴がいるから、 Google へどうぞ)。 これはすごい。何がすごいかっつうと、Jon Stewart はこの番組に対して ホントに怒ってるからである。これはいつもは 2人の政治家を呼んできて論戦させる番組なのだが、 いつも政治家を「右」と「左」にむりやり分けて議論させるため、ちゃんとした議論になっていないという批判がある。 今回は彼をあくまで「コメディアン」という扱いにして、 慣れ合い的な空気にもっていきたい 2人の司会者に対して、 彼は真っ向勝負するつもりで来たらしく、最初からこの番組に対する敵意をまったく隠していない。 だってずっと真顔なんだもん、この人。 「ぼくは周りの人にはこの番組はひどいと言ってるんだけど、 それはフェアじゃないと思ったんだよね…ひどいんじゃない。アメリカに傷を負わせてるんだ (hurting America)。 だからぼくがここに来たのは…やめてくれ、と言いたい。 これ以上アメリカを傷つけるのはやめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。 (Stop. Stop. Stop hurting America)」
さらに 6分10秒ごろからの展開はもう (司会者が) ズタボロである。 しかもこれは生放送だから、ぜんぶ放映されちゃうのだ:
司会1 : そういう批判はよく出るんですよ、なぜなら我々のこれはディベート番組ですから。Jon : いやいやいや、ちがうよ。ディベート番組なら大歓迎だよ。 しかしこの番組 (Crossfire) をディベートと呼ぶのはプロレスをスポーツ競技だというようなもんだ。
司会2 : あなたはいいコメディアンだと思いますが、講釈はつまらないですよ。ひとつ尋かせてください。
Jon : いやいや、この番組はただのお芝居なんですよ。あなた今いくつですか。
司会2 : 35 です。
Jon : それで蝶ネクタイをしている、ね? (場内爆笑) だからこれはお芝居にすぎないと…
司会2 : ええ、ええ、わかってますよ、つまりこれは…
Jon : いや、いや、別にぼくはあなたが頭悪いと言ってるわけじゃないんです。 なぜなら蝶ネクタイを結ぶのはそう簡単じゃないですからね。
司会2 : そうですよ (また笑い)。
Jon : もしこれがディベートだったら、そりゃすばらしいですよ。 ところがそうじゃない。実際やってることは芝居でしょ。 これは誠実とはいえないよね。あなたがたがやってるのは、なんだ、その、 partisan hackery (不明、分裂工作とでもいう意味か) ですよ。
司会2 : あなたは自分の番組でジョン・ケリーにもみ手してたってのに、 我々のことは partisan hackery 扱いですか。 (完全にブチキレ状態) 冗談じゃない…!
Jon : そうですよ。あなたがたは CNN なんですよ。 ぼくがやってる番組なんかサルがイタズラ電話してるようなもんだ。
司会2 : あなたはここへきて、自分が彼 (ケリー) のペットじゃないってことを言う機会だってのに、 あなたは彼のペットだというんですか。そりゃ恥さらしだ。
Jon : ぼかあ、間違いなく彼のペットだね。きみは彼が 2週間前に何を食ったか知らんだろう。 …あなたがたには公の議論をするという責任があるんですよ。でもおそろしいほど無惨に失敗してるよね。
司会2 : あなた、学校に行ったほうがいいですよ。
Jon : あなたは行ったほうがいいね、ぼくが言いたいのは…
司会2 : あのですね、ぼくはあなたがウケを狙うのかと思ってましたよ。ウケ狙ってくださいよ。
Jon : いーーや、すまんね、ぼくはあんたのサルにはならんよ。 (場内爆笑) ぼくはこの番組をいつも見てるんだ。ホントに堪えきれないんだよ、痛々しすぎて。
司会2 : これはほんとにジョン・スチュワートなんですか? 何なんですかこれは?
Jon : この番組の視聴者で、もう堪えられないと思ってる人間だよ。
この容赦のなさを見よ。 しかし実際、ゲストに呼ばれておいてこの攻撃はルール違反だという批判もある。 ちなみに、この番組はその後打ち切られた。 新山は彼の出てくる The Daily Show はけっこう好きなのだが、 なんでかと考えると、彼は圧倒的に「フツー」なのである。 常識的だけどべつに保守的じゃないし、気負ったところがまったくない。 年齢のせいもあるのだろうけど、いつも落ち着いているし、この番組に出てくる 他のコメディアンがみんなかなり芝居っぽいのに対して (Corbert なんかは、役柄のせいもあるが、かなり芝居くささが鼻につく)、 司会役の Jon の演技は 50% ぐらいは「地」でやっている (番組中にときどき苦笑いをしているところからもそう思う)。 日本ではこういう芸人をほとんど見たことがないのだが…。
で、この Crossfire 騒動の翌週に自分の番組に戻った、 いつもの愛想いい Jon Stewart は こちら (これはすぐ消されるかもしれない)。 以下はその要約。
Jon : Hello everybody, welcome to The Daily Show, I'm Jon Stewart! あのー、みんな、しゅ、週末はどうだった…? あのー、えーとぼくはいい週末だったよ? 金曜なにしたんだっけ…まず髪を刈った。 それから全国放送でヤツを dick と呼んでやった (歓声)、んー、それから…。 金曜日にはこの番組プロデューサーの Ben とワシントン DC まで車で行って、 本のサイン会をしてきたんだ…みんな来てくれた人はいい人だったよ、 それでぼくは自尊心をすこしばかり構築して…幸いにもそのあと崩壊するんだけどね…。 で、ぼくらは Crossfire ってとこに行ってきたんだ…これはそのー、ニュアンスつきの 公共の政策分析番組とでもいうやつでね… (中略) …ぼくはいつも出会った人々に この番組はクズだと言ってきたんだけど…で、唯一正しいと思えたことが彼らに面と向かってね、 番組中にそう言ってやることだと思ったワケなんだけど…で、ああいう番組に出た人間に 向かったときにすることはね…「よしよし」ってことなんだ。 で、彼らは非常に怒ったらしいんだけど、それはなぜかっていうと、 どうやら Crossfire に招かれたときにはだね、意見を言わねばならない。でも彼らはそんなもん気にしないと。 で、ぼくは番組を見てたわけ。だから、あの番組ではみんなお互い叫んでたから、 ところがその意見が標準的な右でも左でもないときは、彼らの反応というのは「ほげ!?」になるわけでね。 ぼくは彼らに言ったんだけど、彼らの番組というのは…その…アメリカを傷つけていると…ね…。 で、彼らがやり返してきて言うには…ぼくがウケを狙ってなかったんだとさ…。 で、ぼくは「う、うん、わかってるよ」と言ったわけで… けど次の日にはぼくはまた戻ってウケを狙えるけれど、 やつらの番組はまだクズなままだ (歓声)。
ちなみに、新山自身は The Daily Show を見るのは月に 2、3回である。 めんどくさいので。
ほうほう、こんなのに人は 300ドルも払うのかい。 OSX Tiger は大学のコンピュータストアで 70ドルで売ってたよ。 それでも高いがね…。
ちなみに誰もがビックリした MS と Novell の提携。 MS の目的は Mono と OpenOffce と Samba から特許料をふんだくること。 SCO の怨霊はまだ形を変えて生きている。
それにしても MS はあいかわらずハロウィーンの付近に何かやるのが好きなようだなあ。
へれんから何かメールが来た。が、こいつは完全にアサッテなことを言ってる。 この人はできあいのコーパスとできあいの評価基準しか使ってないから、 いままでにこういう定義問題で悩んだことがないのだろう。お気楽なこってある。
自然言語処理 (のみならず、ほとんどの研究分野) には 2つの変数がある。 ひとつは「手段 (手法)」で、もうひとつは「目的」だ。自然言語処理における ほとんどの批判は、手段についてではなく、目的についてのものである。 ようするに何が目標なのかをめぐって、これまでエンエンと議論が続いてきたわけだ。 で、90年代ぐらいからもうみんなこれに疲れてきたので、すでにじゅうぶん批判が出つくした (でも賛成の声もそれなりにある) なんか当たりさわりのなさそうな目的をみつけだして、 そいつを固定し、ひたすら「手法」の変数だけをいじる、 という方法に切り換えた。そしたらこれが大当たりでして…。ここ 10年で、 形態素解析や構文解析に関する論文が数百本以上も出たりしているのはそのためである。 これらはみんな同じ実験データと同じ評価基準を使っている。 そうすれば目的で批判されることはまずないからだ。 しかし、こういうのは、やってる本人たちからすれば楽しいのかもしれないが、 外部から見るとまったく分野として進展していない。議論がちっとも深まっていないのだから 当然のことだが、新山からみるとこういうのは「ツマンねー」と思う。 これじゃー、見切りをつけたくもなるわいな。
目標: グチをもう書かないか、あるいはグチだけを書くこと! よし、そうする。
strings
を最強のドキュメンテーションツールだというのは、
オレにはよくわかるのである。さいきんの strings はエンコーディングまで指定できるって
知ってた?
もう死にたい
こぶ茶にレモンをしぼって飲む。なかなかうまい。
Computer Science Colloquium Some thoughts on the Fondations of Scientific Computation Steve Smale UC Berkeley and Toyota Institute Chicago Friday, November 3, 2006, 2006 11:30 A.M. Room 1302 Warren Weaver Hall 251 Mercer Street New York, NY 10012-1185
久しくころきあに出ていなかったので、明日こそは出る。
マンガをよんでも小説を読んでも映画を観ても、想像力はつかない
想像力をつけるには?
新山はいつも「余裕のない人々」というのを非常にカッコ悪く思うらしい。 ここでいう「余裕がない」というのは「必死」とはちょっと違う。 むしろ「視野が狭い」というのに言いかえられるかもしれない。 遊びがないというか、寄り道できるのにしないというか。 まるで人生の目的がすでにわかっているかのような行動をとる人々。 しかしこういう人々の「目的」は、決っっして自分で考えだしたものではなく、 たいてい親か教師から与えられたものだ。そして、まあだいたい想像がつくと思うけど、 こうした連中は優等生的で傲慢に見える。そんで、たいていの場合、こいつらは 究極的にはアホである。 (「優等生的」な優秀さと、アホさは完全に独立した概念です。) まあべつにどの教科を履修してようがトバしてようが どうでもいいけど (どのみち必修だってつまんない授業は内職してるんだから同じじゃん? オレだったら寝るね)、この余裕のなさはカッコ悪いよ。高校生のときから余裕がなかったら、 成人したらどうなってしまうのだ!
そもそも新山はショミン (庶民) なので昔から私立の中学やら何やらに行かせる親というのが まったく理解できなかった (そもそも、長野には私立の中学や高校などほとんどないが)。 だって最終的にはそういう奴も結局そこらへんの大学へ行くんでしょ? どう考えても割にあわないよね…。公立いって一年間浪人したほうがぜったい安いよ。 それに、浪人は人生のためになる (断 言)。 将来的にケンブリッジとか芸大あたりに行かせたいんならそういう英才教育は必要かもしれないが、 最終目的がせいぜい医者か弁護士か大蔵省の役人ていどなのに、 中学からそんなシステムに組み入れられたら、 オレならグレるわな。親といえどもそんな権限はない、と思う。
他の人々がだらしのない研究をしているからといって、 自分たちまでだらしのない研究をしていいということにはならない。 そんなことしてるから機械学習屋 (表面的には「科学的」に見える) にデカイ面されるんだよ。 連中はどうせまともなアイデアなんて出せやしないんだから (一生タグづけやってろ、と思う)、 こっちがやるっきゃないでしょ。同様に、他の人が流されているからといって、 自分まで流されていいということにはならない。これは孤高がカッコいいとかいう意味じゃなくて、 オマエそれでほんとに納得してんの? という話である。どうでもよろ。
Document ID: 89c92c79099891afef735d097ff50858
Yusuke Shinyama