2008/10 b

Last Modified: Sat Nov 1 08:35:41 JST 2008

s-e-l-f n-a-rr-a-t-i-v-e.

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(08:35)
oya、ゆうべはパソコニの電源を切らずに眠ってしまったらしい。 よくないこった。

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(08:02)
ああ、シメキリが…。(本来は締切ではなくて、納期というべきであ)

けさも寒いね!

(23:17)
わざと? わざと。

さて、きのうはまた自分が書いたコードで、 やたらと原始的なバグを発見してしまった。だいたい、以下のようなコードである:

typedef struct _buffer {
    char* ptr;
    int size;
    int len;
} buffer;

/* バッファbufの末尾に nバイトの文字列を追加する。 */
void append(buffer* buf, char* s, int n)
{
    if (buf->size < buf->len+n) {
        /* バッファが足りない場合は伸ばす */
        char* p;
        buf->size += BUFSIZ;
        p = (char*) malloc(buf->size);
        if (!p) exit(111);
        if (buf->ptr) {
            memcpy(p, buf->ptr, buf->len);
            free(buf->ptr);
        }
        buf->ptr = p;
    }
    memcpy(buf->ptr+buf->len, s, n);
    buf->len += n;
}

これのどこが悪いのか? っていうと、バッファを伸張させるとき、 バッファ長を BUFSIZ 分だけ増やしているが、もし BUFSIZ 以上のデータがいっぺんに追加されたら、これでは足りないのである。 その結果、ヘンなところのデータを上書きしてしまい、ときどき 0xc0000005 (Unix でいうところの SIGSEGV) で落ちるのだった。

結論: 新山は、C を組ませると、ぜんぜんダメだ!

実際にはこれは C++ でもよかった。STL を使えって? やなこった。 そもそも Windows ではオレは malloc を使うのさえ躊躇する。 (HeapAlloc や GlobalAlloc を使わないとなにかヤバいことが起こるのではないか? という 恐怖にかられるのである。MS疑心暗記。)

てくろで (とこるで)、C で簡単なコードを書くとき、 みんなはどんなヘッダを使ってる? 新山は、どんなに短いコードを書くときでも、 つぎの 3行はエディタを立ち上げたらほぼ必ず反射的に書いてしまう:

#include <stdio.h>
#include <stdlib.h>
#include <string.h>
こういうコードはだいたい 20行ぐらいで、cc a.c && ./a.out で コンパイル・実行されたあげく、すぐ消される運命にある。 こういうときに vi って便利だね。うんんぬん。

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(08:31)
いきなり寒い朝だね。しめきり
(18:35)
たったいま、新山はセッショウ (殺生) をした。 画面のうえにクモ様が這っていたので。 ああオレはもうダメだ、これでは地獄にはとても生けまい。
(18:37)
きのうの追記。 いうまでもなく、freetards という語は free + retard の合成語で、 おそらく「ふた〜っず」と発音する (アクセントは『り』)。 日本語に訳せば「フリー厨房」ってな感じの単語になろうけど、 retard というのは「厨房」なんかよりも、もっとショッキング + 差別的な表現だ。 さしずめ日本語にむりやり対応させると「精薄」「白痴」が近いか。 ネイティブがこれをどのように発音するかの例については、The Amazing Atheistによる 「サラ・ペイリンだと!?!?」を見てほしい。

``Folks... I sit before you today thoroughly convinced that John McCain is mentally retarded, or at least senile beyond any sort of reasonable doubt. Because today he chose a woman named Sarah Palin to be his running mate in the 2008 Presidential Election. Now I imagine my reaction with this news was much the same as the most of yours. I said "Who?? Who the fuck is Sarah Palin??" And then someone said to me "Oh she is a governor from Alaska," and I'm like "Oh yeah, I saw her on Glenn Beck. She's a retard."

(みんな、今日おれは確信したが、ジョン・マケインってのは 知恵遅れか、あるいは少なくとも理性的な疑念というものを まったく失った老いぼれだね。なぜって、今日やつはセイラ・ペイリンとかいう 女を副大統領候補に選んだからだ。さて、これに対する自分のリアクションはだいたい他の人々と同じだと思んだが… 俺はこう思ったんだ、「誰だ? いったいどこの馬の骨だ、そのセイラ・ペイリンってのは?」 すると誰かが言うんだよ、「ああ彼女はアラスカの知事だよ」って。それでオレは 「おおそうか! そういやグレン・ベック (の番組) で見たよ。ありゃ精薄だな」)

... Her voice sounds like someone gave a screeching chalk board ability to speak. She's gotta a face that looks like she's perpetually sucking on a dog turd. I mean, she kinda resembles Nancy Pelosi, and we all know how popular Nancy Pelosi is... Furthermore, this bitch undercuts John McCain's whole "experience" argument against Obama, because he went in someone with even less experiences than Obama. And the sad thing is that this is a clear attempt to garner supports from the disenfranchise from Hillary voters and it's not gonna work, because those Hillary voters don't want some other woman to be President, which is what she's gonna be when John McCain dies out of a heart attack three weeks after being sworn in. They want Hillary to be first female president. They want the god is Hillary. ...''

(…彼女の声は、まるでキーキーいう黒板に喋る能力を与えたかのごとくだし、 顔は犬のクソをいつもかぶっているような顔だ。つうか、この女はちょっと ナンシー・ペローシに 似てると思うんだな。ナンシー・ペローシの人気がどんなもんだかは、 俺達みんな知ってる。さらにいえばだな、このババアはジョン・マケインお得意の 「ワシのほうが経験が…」理論をぶちこわしてるよ。なぜって、こいつはオバマよりもさらに 経験が少ないからだ。で、悲しいのは、これが明らかにヒラリー信者からの 票をかき集めようとする作戦だってこと。そしてうまくいきっこない、 なぜならヒラリー信者はほかの女性が大統領になるのは嫌なんだよ。 それはつまりマケインが就任後 3週間で心臓発作で死んだあとに、ってことだが。 連中はヒラリーが最初の女性大統領じゃなきゃダメ、 つまり「ヒラリー = 神」じゃなきゃダメなんだ。…)

ろうれもいいけろ (ろうえrもよど)、 いまふと思いついたが、英語の "er" という発音をカナで書き表すとき 「〜」という記号をつかうといいかもしれない。 たとえば「retard」は「りたぁ〜ど」と書くのである。 なんとなく舌が巻いてるような感じじゃない?

(21:16)
epicurean disease?

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(20:53)
どうでもいいこと3態。

きょう、ひさしぶりに昼に外食へいったらTVで「徹子の部屋」をやっていて、 クロヤナギ徹子が出ていたが、すんげーヨボヨボな、死にそうな 婆さんになっててびっくりした。 まだやってるのはすごいが、この番組を見たのは何十年ぶりだろう。 ホント、少なくとも10年は見てないよね。

きのうは涼しかったので、会社へ冬ジャケットを来ていって、 そのまま忘れて帰ってきた。「なんかさむいな〜」と思ったら! きょうは無事にとりかえす。

あと、こないだシャンプーを買った。新山はめったにシャンプーを買わない。 髪は毎日かならず洗っているのだが、シャンプーを 1〜2滴しかつけないので、 200ml入りのビンでも 1年以上もつ。つまり、1回の洗髪に 0.5ml ぐらいしか使ってないことになる。 べつにハゲるのが怖いわけでなく、自分はシャンプーの臭いがキライなのだと思う。 ときどき1キロ先からでもシャンプーの臭いをプンプンさせてる物体をみるとケトばしたくなる。 「己の欲せざる所他人に施スベカラズ」ってわけで、 まずは自分からシャンプーの臭いは積極的に落としている。 ちなみに、オレはリンス入りのシャンプーが嫌いだ。 ところで (れくるで)、最近の「メリット」はミクロ=ヂンクピリチヨン配合=じゃなくなったのね。

(22:18)
そういえば最近あった (ネット上での) 悲しいこと。 Linux Haters Blog が終わってしまった。 まあ、ネタが尽きたんかもしれないが…。この手の話は、小さいネタなら無限にありそうだが、 大物で、かつ笑いが取れそうなネタはやはり少ない。それにしても、いかにも OSS っぽい終わり方だ。 コメント欄では「これぞ Linux の勝利!」といきまく freetards (あるいは lusers) が溢れかえっている。…

これは新山の意見だが、フリーソフトウェアとゆうのはあくまでも自分が消費するためにやるべきであって、 自分で使うための労力よりも、なんだかしらない他人のために費やす労力のほうが 上回った時点で、そのプロジェクトは必ず失敗する。逆にいえば、つねに実利を追ってさえいれば、 プロジェクトは永久に続く。問題は、ほとんどのプロジェクトに実利なんかほとんどないことだ。

さて、この点でいうと新山も「自身ではもう必要ないのに、いまだに (義理で) 続けている仕事」がひとつある。 openssh の翻訳だ。2000年ごろから始めたので、もう 8年か。 どれくらい利用されてるのかも知らないが、なぜかこれだけは惰性で続けている。 しかしそろそろアッサリ殺してもらったほうが助かるね。

(22:34)
assume = ass + ume.

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(08:19)
日経産業新聞と産経新聞を間違えるのってオレだけだろうか?
(00:05)
盲人と聾者がコミュニケーションしようとする場合はどうなるか? まあ、いまの時代、もしかすると一番効率がいいかもしれないのは、 (たとえ面と向かっているときでも) 「電子メールを使う」ことだが、 そういうものがないとき、聾者は盲人に「手話をさわらせようとする」のだという。 これは、こないだある盲人に聞いた話だ。

もし「言語」というものがなければ、この 2人の相互理解はまったく不可能だろう。 言語という媒体によって、物理的な経路がほとんどまったくない両者の間でも コミニュケーションできるのは、人間のトンでもなくスゴい能力であると思う。

/26 [0]


(11:12)
オブジェクト指向の利点だって?

「オブジェクト指向」という言葉が発明されてから、もう20年ぐらいたってると思うけど、 いまだにオブジェクト指向の長所と短所をはっきり説明できている文章に出会ったことがないし、 どうもそんなものは (統一見解としては) 存在してないみたいだ、ということが、最近わかった。 おかしな世界だ。

アホな考察はいくつかみかける。いわく「オブジェクト指向の利点は継承にある」「いや多態だ」 「いやデータ隠蔽だ」…で、そのどれもが、最後には「これによって保守性の高いコードが生まれる!」 という結論に強制的にもっていかれてる。どーしてそーなんの? アホな新山にはさっぱりわかりません。 とゆうか論理が飛躍しすぎている。なぜ「継承」が「保守性の高いコード」につながるんだろうか? その間にあるものがまったく説明されていない。ようするに、書いているほうもわかってないんだろうけど。

他には「オブジェクト指向は思想である」というのもあった。 …はっきりいって、そんなこという奴とは (怖くて) 口もききたくない。 新山にとって、オブジェクト指向は、ただの道具である。 それはちょうど「日本語」や「ビタミン剤」や「複素数」や「キリスト教」が道具にすぎないのと同じことである。 え、キリスト教は思想じゃないかって? 一部の人にとってはそうだろうが、そもそも「思想」って何だ? 思想とは、それが人生の目的と化すようなもの、あるいは「それのために死ねる (何かを犠牲にできる) ような何か」だと思う。新山はビタミン剤のために死んだり危険を負ったりする 気はさらさらないし、ましてやオブジェクト指向のために なにかを犠牲にするなんてまっぴらだ。これらは、ただ利用するだけのものにすぎない。 最終的な目標ではなくて、都合のよい踏み台にすぎないのだ。そういう意味で、 キリスト教も新山にとっては「道具」である (オレはキリスト教徒ではないのだから)。 日本語だってそうだ (ただしこれは道具でもかなり愛着のあるほうだ)。 …オブジェクト指向などという曖昧な方法論ごときに「思想」を見てしまうような人間は、 まちがいなく底が浅いに違いない、と新山は思う。そいつはオブジェクト指向の考え方を ふだんの社会生活に応用してるんですかね? うげっ…。とにかく、新山はそんな奴とは口もききたくない。

そんなわけで、新山は「オブジェクト指向」は道具だと思っているわけだが、 道具というものは、それ自体ではべつによくも悪くもない。すべての道具には「用途」と「効能」がある。 ある状況で有効な道具を使えばその結果は自分にとってよいものになり、 間違った状況で使えばアホなものになる。したがって「オブジェクト指向」というものを 真面目に扱いたければ、(それがちゃんと定義されていると仮定して、) それがどのような条件下でうまく働き、どのような条件下ではうまくいかないのかをしっかりと記述する必要がある。 しかし実際にはこれがちゃんと定義されてない。それをやらずに「オブジェクト指向はいい!」「わるい!」というのは、 いったいどんな論理が背後にあるのだろうか? 新山の予想: 論理なんかない。ただ語りたいだけ。 そういうものに知的な刺激をおぼえる人であれば、どうぞご勝手にって感じだが、 新山はもうちょっと生産的な行為 (壁を見つめるとか、よだれをたらすとか) のほうを望むね。

さて、アホな人々はおいといて、「オブジェクト指向とは、どういう道具なのか?」を真面目に考えてみる。

新山が多くの解説で欠けていると思ったのは、「オブジェクト指向的な考え方を使うと、 具体的に (今までできなかった) 何ができるようになるのか?」という説明である。 …「継承が使えるようになります」というのは答えになってない。 なぜなら、それがどのようにプログラミングの保守性に貢献するのか、まったく説明してないからだ。 まず目標が何かをはっきりさせる必要がある。ソフトウェア設計における「保守性」というのは、 「仕様の拡張や変更があったときに、なるべく少ない変更で対応できること」というふうに 言いかえてもいいだろう。ここまでは、だいたい合意できるよね。 さて、どうしたら変更部分を少なくできるのか? という問題である。 キーとなるアイデアは「分離 (separation)」である。 設計の分離とは、ある部分の変更が、ほかの部分になるべく波及しない (局所化できる) ようなことをいう。 設計を分離すると、プログラマーが一度に考えなくてはいけない範囲が狭まるので、バグの入りにくいコードが期待できるし、 変更も簡単になる。さらに複数のプログラマーが安全に作業を分担できるようになり、効率も増す。…

新山は、一般にソフトウェア設計技術 (およびプログラミング言語) というものは、 いつの時代も必ず「分離をより推し進める (つまり、プログラマーの負担をより軽くする)」ような方向に発展すると信じている。 古くは構造化プログラミングがそうだし、オブジェクト指向もアスペクト指向も基本的にはよりラディカルな 「分離」を実現しようとして導入されたものだ。こう考えると、べつにオブジェクト指向は特別な「思想」なんかじゃなく、 構造化プログラミングなどから続くソフトウェア設計史の直線上に乗っている、ひとつの通過点にすぎない (あ、ソフトウェア設計史は直線じゃなくて分岐してるから、LTLじゃ不満だって? どうでもyr)。 まあ、そういう意味ではひとつの「哲学」といってもいいけど、この哲学のターゲットはつねに動いている。

さて、それじゃオブジェクト指向はどのような「分離」を推し進めるのか? まず構造化プログラミングについて考えてみよう。 大ざっぱにいえば、構造化プログラミングとゆうのは、もっぱらプログラムの 「手続き的な制御構造の分離」を促進するものであった。これは 「サブルーチン」とか「条件式ループ」という概念を言語の中に導入することによって行われた。 これとの対比で考えると、オブジェクト指向とゆうのは、もっぱらソフトウェアが使う 「データの分離」を促進するものである。…いや、これは正しくないな。 もっと適切な言い方は「そのプログラムが扱う“概念”の分離」を促進するものである、 といえばいいか。すでにこの時点で相当わかりにくいけど、たとえば イテレータ (iterator) を考えてみよう。イテレータというのは、いまではたいていの プログラミング言語が扱える抽象データ型のひとつであるが、 もともとこんな概念は実世界にも数学の中にも存在しなかった。 「繰り返せるもの」という意味で、実世界の例として挙げられるものはいくつかあるが、 「イテレータ」という概念そのものに対応する物体は世の中には存在しない。にもかかわらず、 プログラム中ではイテレータは確固たる「モノ」として扱う。でも実世界には対応する名前がないので、 これはもう「オブジェクト」としか呼びようがない…。 これこそがオブジェクト指向の中心的なアイデアだと思う。つまり実世界には 確固とした対応物のない「フワフワした」概念を、モノとして扱うことを許しているのである。 このフワフワした概念とは、抽象データ型のことだ。形式的にいえば、 オブジェクト指向がやっていることは「型システムの (自由な) 拡張の許可」と、 「それにともなう演算の定義の許可」であるといっていいと思う。 関数呼び出しをメッセージパッシングととらえるか否か、というのは、 あまり重要な区別じゃない。なぜならそれは分離にはたいして影響しないからだ。 ときどき「オブジェクト指向は実世界のモノとプログラム中のデータを対応させて考えられるからいいのだ」という人がいるが、 そんなことはオブジェクト指向以前からみんな (構造体やポインタを使って) やっていた。 オブジェクト指向の真のメリットは、抽象的な層の導入にある。 そして、これは (うまく使えば) 設計の分離に役立つ。

抽象的なデータ型という考えは、昔から数学ではよく使われている。 たとえば「群」とか「体」とかいうのはそうだ。それまで「実数」や「行列」という 比較的 具体的なモノを扱っていた体系が、群や体といった中間的な概念の導入で ひっくるめて議論できるようになった。…それでより数学が「わかりやすく」なったかどうかは 不明だが、数学にとって「わかりやすさ」はたいして重要じゃないのだろう。 数学以外の例として「伝染病」がある。伝染病というのは、コッホが病原菌を発見するまでは 現実世界に具体的な対応物がない (しかし状況証拠からすると「ある」としか言いようのない) 概念だった。それは幽霊のようなもので、どういうわけか人から人へと「伝染る」のである! 事実「伝染病」という名前は、英語ではきわめてオブジェクト指向っぽい考えで つけられている。これは英語では "infectious" で、文字どおり「伝染するもの」という意味だ。 つまりこれは infect() というメソッドをもつ抽象データ型と考えられる。 (コッホは、病原菌というものはすべてこの抽象型を継承していると考え、 これを「コッホの原則」として 定式化した。これはまさに病原菌の public インターフェイスの記述なわけだ。)

オブジェクト指向というのは、ここにあげた例だけでなく、こうした中間的な概念はなんでも 「オブジェクト」として、設計者がいくつでも自由に定義できるようにしようよ、というアイデアである。 (そしてこの時たまたま GUI が台頭してきたことにより、 ウィンドウやボタンといった概念を大量に扱う必要がでてきた。) そしてそれを支援するような機能を搭載したプログラミング言語が 現在「オブジェクト指向言語」と呼ばれているわけだ。 しかしどの機能が「必須」といえるのかはわからない。 人によっては、継承やクラスの導入はオブジェクト指向にとって欠かせない概念だと 思っているようだが、新山の意見では「オブジェクト」という概念そのものの導入に比べれば、 これらはそんなに重要ではない。「階層的な型システム」を前提とすれば継承は重要な機能になるが、 べつに階層的な定義が必要なければ継承はいらないし、もしすべてのオブジェクトが singleton でもよいのなら、クラスとインスタンスの区別だって必要ない。(ただし、あればより便利ではある。) だから「C だってオブジェクト指向は可能」とかいう話になる。

…さて、ここでようやく最初の話に戻れるのだけど、 オブジェクト指向的な考え方がホントにいつも分離を推し進めるのか? といったら、実はそんなことは全然ない。新しい道具を手にしたからといって、 それで仕事の効率が向上するとは限らないのだ。たしかにオブジェクト指向は 設計の自由度を格段に増やした。だが、その自由がほんとに「いいもの」であるかどうかは、 すべて使う側にかかっている。ある意味では、自由度が増えた分だけ設計者の 責任は重くなったともいえる。すべては「分離」をどのように実現するかにかかっているが、 物事の分離の方法なんてものは、いくらでも (可算無限個ほども) あるのだ。 さて、世の中にはデザインパターンということを提唱してる人々がいて、 ようするにこれは「過去によく使われた分離のパターン」を示したものだ。 これはオブジェクト指向によってはじめて可能になった (「パターン」と呼べるだけの 柔軟性を提供できるようになった) のだが、これだっていつも役立つとは限らない。 こういうことは誰かがすでに指摘しているのかもしれないけど、 「デザインパターンが有用だ」という考え方の裏には 「人が設計するソフトウェアなんて基本的にどれも似たようなもんだ」という前提がある。 実際、多くの企業アプリケーションとか GUI インターフェイスなどというものは、 そうなのかもしれない…。しかし新山はデザインパターンが「解の公式」っぽい 使われ方をされるのは嫌いである。それは個々の状況について、人々が深く考えないようにしてしまい、 結果として長期的にソフトウェアの品質を落とすと思っているからだ。 ソフトウェア設計者はまず「どのような分離が適切なのか?」について、 じっくり考えてみる必要がある。それはたいていの場合、おそろしく不安で苦痛をともなう プロセスなのだが、われわれの給料というのは「そこ」に支払われているのであって、 苦痛を避けるような人に設計をやる資格なんかない。 あなたは、頭をかきむしらない芸術家を尊敬できるか? オレは、できないね!

いや、まあ、毎回おんなじようなソフトウェアを作って儲けていられる人には必要ないんだろうけど… オレは世の中がそんなに単純なもんだとは思わないがね。知らん。

考えるのは人間の義務か、あるいは権利か?

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(09:49)
キミはこの本を知っているかっ。

Dow 36,000: The New Strategy for Profiting From the Coming Rise in the Stock Market

米国のITバブルのただ中に書かれ「ダウは今後 $36,000 まで上がる」という堂々たる予測をした本、らしい。 オレも読んだことないけど。で、その後どうなったか? とゆうと、今の現状を見よ。 ばーか、ばーか。で、この著者はいまごろ恥ずかしくて生きてらんないに違いない… と思ったら、どっこい彼はいまマケインの経済政策担当アドバイザーらしい。

やっぱアメリカって怖い国でしょ?

(13:01)
洗濯をしてから病院へ行った。「再発のケがあるが、まだ処置のしようがない」と言われる。 つまり、もっと悪化してからでないと治療してくんないらしい。 「これだけ再発するってことは、いちど入院して徹底的にやってみたほうがいいかもしれませんね」 と言われる。しかし、どちらにせよ、いまはこのどっちつかずの状態のまま、 放っておくしかないらしい。ああ、そう…。がっくり

こういうときになぜ落ちこむかというと、 それは自分の健康が失われているというショックもあるが、 それ以上に「通院したり治療したりする」という余分の仕事が日常生活の中に入りこんできて、 メンドくせえなあー、というのがあると思う。治療がめんどくさければ放っておけばいいのだが、 この病気は放置すると癌化する可能性があるって書いてある (といっても、確率的にいってそんなことはめったにないだろう、 というのも頭ではわかっているのだが)。むずかしいもんね。

(20:05)
検索エンジンはウィキペディアにどの程度依存しているのか?

これを書いたら、あらためて検索エンジンというものの「どうってことなさ」を思い知った。 はっきり言って、情報検索や自然言語によるデータマイニングには、 学術的に見るべきところがもはやほとんど残っていない。

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(20:37)
このところ、またぞろ落ち込んでいる。 2週間ぐらい前から舌先がなにやらピリピリする謎の病気に悩まされており、 まあそれは別にいいのだが、もうひとつ、例のアノ病気 (もう「持病」といってもよい) が、 また再発しつつあるような気がするのだ。 …まだ自覚症状はほとんどないが、かすかな違和感があった。できれば杞憂であることを望む。 しかし、だいたいこういうときの直感は正しいんだよなあ。ちくしょう。

(追記) こういうとき、新山は「なんでオレは落ちこんでいるんだろう? べつに落ちこむ理由なんかないのにな?」と考えこむクセがあって、 これが事態をなおさら悪化させてるのかもしれない。 実際、死ぬほどの病気じゃないし、理屈で考えれば落ちこむ理由はなにもないのだけど… しかし、たまには本能のおもむくままに (?) たっぷり落ちこんでみる、 というのもまた必要なんではないか。どうでもいいけど。(ddyro.)

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(07:51)
怖い話その2

賄賂もまた、人類が存在するかぎり存在しつづける。 まあ、考えてみれば当たり前か。怖い話でもなんでもないな。

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(22:31)
「ごちそうさま」とさえ言えば、腹はふくれるんだ。

…たしかそんなことを言った人。

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(08:23)
アメリカがいかに怖い国であるかの証明

もっとも、日本人がこれと比べて多少なりとも informed であるか? といえば、まったく自信ないけど。 なにしろ、この国にはマスコミが 1個しかない。 しかし日本はこれほどまでに divisive じゃない。たぶん。

(19:12)
きょう会社の近くのスーパァへ行ったら、なんか新聞の切り抜きが貼ってあった。 どうやら週末に asshole麻生首相がここへ視察に来たらしく、 「麻生首相もお買い上げのカステラです!!」などという張り紙が出ている。 ああ… コレだな

(追記) しかしこのあたりはちっとも「庶民的」な街じゃない。なのになんで? 中央線沿いか下町の商店街へ行けっての。

どうでもよろ (ddy.)

(19:44)
性格とゆうものがそんなに簡単に変わるわけがない。

“第一ふっきれ係数”

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(22:44)
&nbsp;

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(13:46)
さて…悲しいニュースがあります。
ティッシュ

洗濯!

…とゆうわけである。 しかも今回ヤッチャッタのはトイレに流せるというタイプの、 比較的ソフトなポケットティッシュだった。なので見事に中でフル拡散。 ああ悲しい。
(16:28)
PETAのウェブページを見ていたら なぜか無性にフライドチキンが食いたくなったので、中野駅前のKFCへ行き 3piecesとポテトを買ってきてむさぼり食う。Good Job, PETA! ちなみにこれは英語では pita と発音する、 つまりどっちも似たようなもんだ。

それにしても日本のKFCはなんであんなに米国と比べて値段が高いんだろう、 マックは安いのに…。

(23:42)
ネットと匿名について。日本におけるこのテの議論には、ずっと違和感を感じている。 新山はなぜか昔からずっと実名を出してwebページを書いてきたし、 2ちゃんねるにも実名で書き込んでいた。 しかし、べつにそれが偉いとか、ましてや利益になるとか思ったことはない (ただ、ウケは狙えるかもしれないけど)。 日本における「匿名か実名か」の議論で醜悪だと思っているのは、これがいつも …という 2極の比較論としてしか扱われないことである。しかし、この議論はハズしてると思う。 はっきりいえば、一般人にとっては、こんなのどっちも大したことない。 新山が実名を出している一番の理由は、ひとえに
誰もオレのことなんて気にしないから!
につきる。売り込みだと? そんなもんはクソくらえだ! ほとんどの人にとって、この日記を読むのは、さしずめ電車に乗って、 隣の席で話しているおっさんのヨタ話を聞くのと一緒だろう。 たとえ現実に自分の目の前にいる人間の名前が「新山祐介」だろうと何だろうと、知ったこっちゃない。 逆にいえば、なぜ、この程度の記号をそこまでして隠したがる人々が これほど多いのか。べつに本当の名前を知られたからって藁人形で呪われるわけでもあるまいし…。 しかし、実は匿名性のファクターはもうひとつある。 日本でのほとんどの議論は、この観点が抜け落ちている。

新山が「日本人の匿名ユーザー」を見ていて本当にイヤだと思うのは、 むしろ彼らの (屈折した) 自意識過剰ぶりである。匿名には大きくわけて 2種類あると思う。 ひとつは純粋に「臆病さ」だけからくる匿名で、これはいわゆる slashdot の Anonymous Coward のイメージだ。 こういうユーザはたしかに沢山いる。 しかし、アメリカ人には理解できないだろうが、日本には「第2の」匿名を好むグループがいる。 これらの人々は、たいてい「自分はただの通りすがりです」「名のるほどの者ではありません」 「目立ちたがりだと思われるのはご免です」といった態度をとりたがる。 逆説的に聞こえるが、こういった連中のほうが、じつは実名を出してる人々よりも 自意識過剰であると新山は思う。なぜなら、当人たちは「名前を出さないこと」で 格好をつけているつもりなのだから。そして、そういうのを美学とする価値観がたしかに 日本にはあるのだから。しかし、実に後向きな格好のつけ方だ! というか、本当は目立ちたいのだが、自分自身のエゴを憎むがゆえに生まれた感情なんではないか? とさえ思える。だいたいこれってそんなに格好いいか? そもそもアンタのことなんか、だーれも気にしてないよ。 「名のるほどの者じゃない」というのは、実際に“名のるほどの者”が使ってこそ サマになるんであって、本当に無名な人間は名前があろうがなかろうがドーでもいいのだ。 だったら、ヘタに自分のアイデンティティを隠そうと気をつかうより、 あっさり名前を出しちゃったほうが楽だよね。 それに、たとえ新山のような人間が名前を出したところで、 しょせん「無名の人間」にすぎない。つまり「名前をもちながらも一介の個人」という 存在になることができる。そのうえ、屈折した感情からは解放される。 新山にとっては、世の中の人々がなにツマランことを心配してるのかまったくわからない (たぶん「実名はこんなに怖い」という恐怖報道を信じきっているのだろうけど)。 よく「匿名は気楽だ」と言うけれど、新山にとっては実名のほうが気楽だと思える場面も多い。 なぜなら、恐れるものがより少ないから。

いっぽうで、多くの人々が批判している「匿名による無責任さ」には、新山はまったく腹はたたない。 というか、話のポイントがわからんよ。人は実名でもすでにじゅうぶん無責任だ − 知ってるでしょ? 政治家や評論家や研究者を見てみるがいい。 実名を出すだけで責任感ある人間にできるのなら苦労しない。

/16 [4]


(08:22)
いまから予言しておくけど、オバマがもし米大統領に当選したら、 かれは青島幸男都知事のようになるだろうね。 つまり、選挙のときは大人気だが、当選したとたんに あっさり既存勢力に取り込まれちゃうっていう…。

そもそもなぜアメリカ白人 (と、マスコミ) が彼をそんなに好きなのかというと、 それは彼らの中にある「黒人」というものへの微妙な罪悪感のためである。 日本にいるとぜんぜん理解できないが、じつはアメリカ人は 「どんな人種でも (とりわけ黒人でも!) 社会でうまくやっていけますよ」という幻想を 演出するのが好きだ。実際にはこれは現実とかけ離れているが、とりわけ白人は そういうふうに考えたがるのである。たとえば米国の会社案内のパンフレットとか見てみるといい。 統計的にはたかだか全人口の 20% ぐらいしかいないはずの黒人が、会社のパンフレットなどでは 登場回数が異常に多いのである。なぜかっていうと、もしこれが白人だらけだったら、 その会社は「この人種差別野郎が!」というバッシングを受けるに決まっているから。 なので、みんな必要以上に「この社会は黒人がこんなに活躍しているんですよ!」ということを誇張したがる。 そのおもな心理的要因は罪悪感だ。それはちょうど、日本人と日本のマスコミが 「日本人は海外でもこんなに活躍しているんですよ!」という幻想を信じたがっているのと同じだ。 (この場合、根っこにある要因はコンプレックスである。) だからオバマはもてるだろう。オレは、そういう罪悪感やコンプレックスの 穴埋めをしようとする人々がキライだ。 しかも、自分ではそれと気づいていないのは、なおさら悪い。 以上。


Document ID: f2270a2768b990dda9a8de71054d81ef

Yusuke Shinyama