2009/1 (a)

Last Modified: Thu Jan 15 22:52:50 JST 2009

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(21:54)
原文: http://lwn.net/Articles/249460/
From: xxx
To: xxx
Subject: Re: [RFC] builin-mailinfo.c をマシな文字列ライブラリを使うようにすること
Date: Thu, 6 Sep 2007 18:50:28 +0100 (BST)
Message-ID: <alpine.LFD.0.999.0709061839510.5626@evo.linux-foundation.org>

On Wed, 5 Sep 2007, Dmitry Kakurin wrote:
> 
> Git のソースコードを最初に見たとき、ヘンだと思ったこと:
> 1. C++ じゃなくてただの C を使ってる。理由は謎。移植性がどうとか言わないで、
>  そんなのウソに決まってるから。

*あんた* のほうこそ大ウソつきだ。

C++ はひどい言語だ。これは、多くの平均以下のプログラマーが使ってるために
さらに輪をかけてゲロゲロになっていて、どうしようもないゴミが
簡単に生産されるようになってる。正直いって、C を選ぶ理由が C++ プログラマーを
追っぱらうため *だけ* だったとしても、それ自体、C を使う強力な理由になりうる。

つまりこういうことだ: C を選ぶのは、唯一のまともな選択だ。以前 Miles Bader が
冗談で「人をムカつかせるため」といっていたが、実はこれは本当だ。
ぼくは C よりも C++ をプロジェクトに使いたがるようなプログラマーは、みな
*本当に* ムカつかせておきたいようなプログラマーだという結論に達した。
そうすれば連中がやってきてぼくの関わっているプロジェクトを
めちゃくちゃにすることがないからね。

C++ はトンでもなく悪い設計の元になりうる。どうせこの言語ではいつも STL やら 
Boost やら、その他ゲロゲロベロベロの「素敵な」ライブラリの機能を使って、
それがあんたのプログラムに「役立つ」んだろうが、以下のことが起きる:

 - うまく動かないときにもたらされる際限のない苦痛 (あと STL とか、特に Boost が
   安定してるとか移植性があるとかいう奴は、どいつもこいつも大ウソつきで、
   もはや笑えるレベルを超えている)

 - 非効率な抽象プログラミングモデルで、2年たった後にこれらが実はそんなに
   効率的じゃなかったことに気づくケース。でもそのときにはすでに全部の
   コードがその素晴らしいオブジェクトモデルに依存していて、直すためには
   アプリ全体を書き直さなきゃなんない。

言いかえれば、唯一まともで、効率がよくて、システムレベルで使えて、移植性がある
C++ ってのは、基本的に C で使える機能だけに限ったときなんだ。そして C だけに
限定するってことは、他の人がそれをめちゃくちゃにしないってことで、
ついでに沢山のプログラマが実際に低水準の問題を理解することができて、アホらしい
「オブジェクト・モデル」のたわごとを持ちこまないってことだ。

というわけなので、申し訳ないね。git のような、効率が一番の目的のような場合は
C++ の「利点」とやらは単に大間違いなんだよ。ついでにこの事実を理解できない
連中をケトばすことができるってのも、大きなメリットだな。

もし C++ で書かれた VCS が欲しいのなら、Monotone を見てみるといい。
ほんとに。連中は「本物のデータベース」を使っているよ。
「素敵なオブジェクト指向ライブラリ」も使ってる。「ナイスな C++ の抽象化」も
使ってる。そして率直なことろ、一部の情報系の人間が喜びそうな
これらすべての設計上の決定のために、できてきた結果はゲロゲロで
保守不可能なカオスだ。

でもあんたはきっと git よりも気に入るだろう。保証するよ。

Linus

“多くの平均以下のプログラマー”か。..

たしかに。C++ を好んで使ってるプログラマーで、まともな考え方をするやつを 今までに見たことがない。こう思ってるのは新山だけじゃないと思う。 かれらは設計がまともにできないのはもちろんだが、それ以上に 「自分が C++ を使うこと」の正当化をするために、世界の認識そのものが ゆがんでしまっているようなのが多い。ちょうどインテリジェント・デザイン信奉者のようなもんだ。 理屈だけはゴテゴテと豪華に構築しているが、あんたらは一生それを背負って 歩くつもりかい? せいぜい倒れないように気をつけてね。

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(22:30)
たいていのインチキにとらわれている人々は、死ぬまでには気がつくのだと思う。 問題は、いつ気づくのかということだけど。でも他人がそれを気づかせることはほとんど不可能だ。 他人の言うことに耳を貸さない、というのは、信じている人々の典型的な特徴である。 結局のところ (ケッキョキ)、人は自分自身でそのことを思い知らなければ変われない。 それは苦痛に満ちたプロセスかもしれないが、根本的な治療はそれしかないのだ。 そして、周囲の人間はそのあいだ、(基本的には) 待っていることしかできない。

...
「結局は、彼は、桟橋をつくるよ」
「どうしてそれがわかる?」
おばあさんは、がまんがならなくなってこう言った。
「ねえ、おまえ、人間は誰でも自分の手で過ちを犯さなければならないものなのさ」
-- ソフィアの夏 (p.162)

...
「どうしてそれを、冬のあいだにいってくれなかったの」
と、ムーミントロールはいいました。
「そうしたらぼくは、きっと元気になれたろうになあ。ここにりんごの木がはえてたね、とぼくがいったら、 きみは、いまは雪がつもってる、と返事をしただけだった。ぼくの淋しがっていたのが、わからなかったの?」
おしゃまさんは、そう言われると、肩をすくめていいました。
「どんなことでも、自分で見つけださなきゃいけないものよ。 そうして、自分ひとりで、それをのりこえるんだわ」
-- ムーミン谷の冬 (p.176)

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(11:13)
セキュリティと同じように、ある人間の「いい人度」というものは、もっとも悪い部分で評価される。 つまり、そいつが人生最悪のふるまいをしたときに、いかにそれが「最悪でなかったか」でもって、 いい人度というのは決まる。すくなくとも、新山はそう考えている。 そいつが機嫌のいいときに「どれほどいいヤツだったか」は関係ない。 ようするに、オレは「悪い部分」で物事を評価するのだ。
(21:46)
きょうーは、電車に、乗ろうと、1時ごろに、駅へ、行ったら、すでに、電車が、ホームに、止まっていた。

そしたらいつまでも発車しない。どっかの駅で電車がアホったらしく、 西武新宿線はただいま上下線とも運転を見合わせておりますとかいってる。 みんなゾロゾロと車内から出ていくが、しかしここでそんなに忙しい人のフリをしたら負けだと思い、 意地をはって列車に乗ったまま待つことにした。なぜかそのとき (ディケンズの) "Christmas Carol" を持っていたので、 それを読んだり、考えごとをしたり、昼寝をしたりした。2時間ちかくたって、ようやく列車が動きだしたが、 このときなぜか、「勝った!」と思った。 新宿に着いたのは 3時すぎだった。みなさん、これが贅沢な生活というものですよ。

(22:46)
おや、前の項目からかっきり1時間たって、同じ46分だ。

きょうはサムいが、暖房を入れて、プログラムを書いている。 じつは自分がいちばん好きなプログラミングのスタイルというのは、 「夜に、コーヒーを飲みながらやること」なのだ。 でも夜にコーヒー飲むってあまりよくないんだよね。。。

そういえば、今日は USB につなぐ外付けスピーカーを買ってきたんだよ。 そしたら ALSA でちゃんと音が出るようにするまでにえらく苦労した。 最終的には、以下のものを /etc/asound.conf に書くことで解決したが、 いまだに納得いかない:

pcm.usb-audio {
 type hw
 card Audio
}
pcm.!default {
 type plug
 slave.pcm usb-audio
}

これは、内蔵のサウンドカードで PCM をデコードして、音声出力だけを USB にリダイレクトするらしいが… なぜ USB に直接出力できないのかわからん。USB サウンドデバイスって、それ自体が DAC を持ってるんじゃないの? 実際、

$ cat /bin/bash > /dev/dsp1
などとやると、スピーカは奇妙な音をたてる (注: マネしてはいけません!)。 いちおう PCMは動いているようだが、しかし aplay で dsp1 に出力しようとすると文句をいう。 なんか特定のサンプリング周波数でしか使えないとか、制約があるのだろうか。 /proc/asound まわりを見てもよくわからず。 しかも、Webを見ても、サウンドカードが違うとみんな言ってることが違うので、 そのまま使える設定というのはまず見当らない。けっきょく、ALSA のドキュメント (整備されてない wiki など) をあさるハメになった。夕食前の時間がこれでつぶれた。

Linux のサウンド関連の設定でハマった人ならみんな知ってると思うが、 ALSA の設定というのはトンでもなく複雑である。これは、とりもなおさず PC のオーディオ出力というものが複雑怪奇なものだかららしいが、しかし、 jwzも言ってるように、 こりゃあヒドイだろう! …Windows や Mac が「USBをつなげばすぐに動く」ようになっているのを見ると、 いかに商用OSというものがありがたいかよくわかる。同じことは無線LANにもいえる。 プリンターもそうだし、そもそも X11 だってそうだし…   なんだ、全部じゃないか。

しかし、これだけひどい目にあっても、音質がひどくても、USBスピーカーはいい。 前からこういうのが欲しかった。なぜならケーブルが 1本ですむし、PC の電源を切るとスピーカーも勝手に 切れてくれるので「スピーカーの電源だけ切り忘れた」ってことがないからである。 しかしそこまでしてもオレは Linux を使う必要があるのであるか? よくわからん。

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(12:38)
昨日はサムくておまけに強風でブルブルだったが、今日はかなりまし。

手術後2週間たった。もうほとんど出血は止まった (くりかえすが、この手の手術は縫合しないので、手術後も傷がふさがるまで出血と体液の流出がある) ので、 ナプキンを使う日々もそろそろ終わりだ。

ps. 生理用ナプキンは、間違って洗濯しちゃっても、ティッシュのように悲惨なことにはならないことが判明した。 さすがのハイテク製品!

(14:07)
善悪の基準についてのつづき。

この地上においては生も死も等しく重要なのだが、たいていの人は、 人を殺すよりも生かすほうを「善」だと考えがちである。それはなぜだろう? おそらくこれには科学的な根拠があって、それは熱力学の第二法則だと思う。 こういってしまうと非常に冷たい感じがするが、 人間を生産するのは人間を殺すよりもつねに大変であるし、同様に、 モノを生産するのはモノを破壊するよりもつねに大変だから。 ここには非対称性があるのだ…。

これからも地球ではたぶん多くの宗教じみたものが生まれるだろうが、 もし誰かが本当に普遍的な真理 (つまり、すべての人が同意できるようなこと) だけに もとづいて“科学的な”宗教をつくろうとすれば、その基盤となる根拠というのは、 おそらく以下のものだろう: (他にもあるかな)

  1. 世の中の資源は限られている。
  2. ひとりの人間に与えられた時間も限られている。
  3. 物事はつねに悪い方へ向かう (エントロピーの増大則)。

こんだけ。これ以外のことは、ほとんど仮定できない。 「人間はすべて平等である」とかいうのも、ここには入れられない。 それは人々の「信念」にすぎず、科学的に証明されたことではないからだ (もしかすると反証されかねない…)。 これだけの仮定から何か倫理的な結論が導けるのだろうか? それがいわゆる「世俗的ヒューマニズム (secular humanism)」ってやつなのかもしれないが、知らん。 たいていの既存の宗教は、これでは不十分とみえて、 独自の (証明できない) 仮定を追加している。たとえば 2. の規則は 死んだ後 (あるいは生まれる前) のことについては何もいっていない (なぜなら観測事実からだけでは何とも言えない) が、 ほとんどの宗教では「死んだ後」「生まれる前」についてなにかしらのことを言っている。 で、その仮定を信じるか信じないかはほとんど各個人の「好み」とも言えるものなので、 これがほとんどの宗教を“宗教っぽく”見せているとも言える。 いっぽう、エコ信者の場合は 1. を非常に強調するのかもしれない。 ま、それはいいとして…

いまのところ、新山の人生観は上記の仮定に加えて 以下のような独自の (証明不可能な) 信念が追加されたものになっております:

  1. 人間はみな互いに別々の存在である (つまり、みんな一人ぼっちである)。
  2. 世の中、(自分自身も含めて) わからないことだらけ。
  3. でも、それがどうした。

重要なのは 6. である。このためにすべてがブチこわしになり、 1.〜5. の仮定はドーでもよくなってしまっている。でも、新山にとってはこれがいちばん大事だ。 「それがどうした」と言えなくなったら、自分はおかしくなってしまうだろう。

でも、それがどうした。

(追記) 「合理性」や「科学性」を追求しすぎると、絶対に優生学をやりだすやつが出てくる。 たとえば江崎玲於奈だ。それから、「自分は顔が悪いからモテない」 「収入が少ない人間は社会的価値がない」という例の思想も考え方としては きわめて優生学的である (ただ方向が逆なだけで、判断基準は同じ直線を使っている)。 もしかすると優生学は本当に科学的に正しいのかもしれない…。しかし、オレはキライだぞ。 この点において、新山は明確に「アンチ科学的」である。そしてある時点で科学を否定することは、 人間にとって必要だと考えている。しかし「どの時点なのか?」がわかれば苦労はしない。 世の中、そんなにマニュアル化されてないってこった。

(17:49)
満月か? きょうはやけに月が明るい。そして白っぽく見える。 いまちょっと外に出てみたら風ビューヴューで寒かった。ヒキコモ理
(20:26)
またもや今日は pdfminer の作業。 バグはつぶれたが、1日もつぶれた。オレは一体なにやってんの?

今日は Type3 font を使ったときに一部の文書でフォントサイズが間違って報告されるというバグを直していた。 じつは Type3 font のときは FontMatrix というパラメータを見なければいけないのだった。 仕様をよく読まないうちにコーディングするからこうなる…トーゼンだ、あんな 1200ページもある仕様をぜんぶ覚えられっか! ぷんすか。ほかにも Type3 では ascent, descent という概念が定義されておらず、文字の大きさを知るためには FontBBox を見る必要がある。あとこれ、縦書きってできないんだっけ? PDFで縦書き表示をサポートしてるのは どうやら CID font だけのようだ。どうでもよろ。 ほかにもサポートしきれていない仕様が残っている。たとえば、いまはとりあえずベースラインが水平じゃない 文字列については考えないことにしているが、もしヘンテコな描画行列が設定されていて、 文字が菱形に歪められてたような場合、その文字の bbox はどう定義するのが正しいんだろう? どのみち、画像表示を前提とした PDF で、すべてを構造的データとして解釈するのは無理なのだけど、 まだ自分でもその「あきらめ所」がわかってないな。 いまだに自分はナニを意地になっているのか、わからんが…。

はっきりいって、PDF というのは、個人が趣味で実装するには巨大すぎる相手だと思う (これまでのところ、PDFMiner を仕事でやったことは一切ない)。 それでも新山がこういうことをやるのは、結局のところ (ケッキョキ) オレは 「PDF == 人類の敵」だと考えているからだと思う。いまでは新山も PDF をいやいや使っているが、 しかしそれは Windows をいやいや使っているのと同じような感覚である。誰か、もっとマトモなものを 普及させられなかったのか、という「歴史のif」はつねに思う。しかし、同時に、 こういうものは Adobe でないとできなかっただろうなあ、とも思う。 それでももうちょっとマシなやり方はあっただろう…。And they blew it.

/09 [5]


(22:00)
さいきん C# を使いだした。しかも動かしているプラットフォームは PC や Web じゃなく、ARMデバイスである。はっきりいって、C++ よりはるかにマシだ。 Java と比べるとずいぶんいろんな面で妥協している言語だと思うが、 べつに新山は Java はそんなに好きじゃないからどうでもいい。 delegate とかの MS用語にもそのうち慣れるだろう。 問題は、なんしろ環境が環境なもんだから、nmake でビルドして「はい実行」ってわけにはいかず、 VisualStudio でエミュレータを使わないとデバッグできないってことだ。 (全部コマンドラインからやる方法もあるのかもしれないが、まだよく知らない。)

それで、今日は ここにあるビデオ をいろいろ見ていた。結構わかりやすくていいのだが、じつは問題があって、ある種のブラウザでこのページを開くと、 人によっては設定が日本語のために、MSDN 日本語サイトに飛ばされてしまう。 その場合、このページにはたどりつけない。これは心の底から言えることだが、 あなたがもしソフトウェア開発者であるのなら、絶対に日本語のページを優先表示にしてはならないし、 検索エンジンで日本語ページを表示させてもいけない。これはもう厳然たる事実だ。 できれば VisualStudio なども英語版のほうがいい (日本語ではメニューの名前などが違うのでわからない時がある)。 日本語のページがすべてダメだと言うつもりはないが、ものすごいノイズである。 日本語の情報だけでソフトウェア開発をするのは、 ツウちゃんねるの情報だけをたよりに株価予測をするようなもんだ (?)。 はっきりいって、日本語は中途半端に情報があるために、かえって不幸になってると思う。 日本以外のほとんどの国では翻訳などなく、英語の資料に頼るしかないからだ。

/07 [3]


(20:02)
kusooo- もう自転車で新宿(駅)には絶対行かね。

きょうは、いろいろと備品 (USBハブとか) の買い出しをする必要があったので、 午後にヨドバシカメラまで行ってきた。 うちの会社は、住所は新宿区なのに、新宿駅前に出るためには どんな方法を使っても 30分以上かかるという絶海の孤島である (ああ、タクシーならOKだけど)。 だから今日はチャリで行ってみたのだが、すげー時間がかかって後悔した。 というか、アプローチはいいんだが…問題は駅から 300メートルぐらいの範囲内である。 とにかく人が多いので、上のほうばっか見てると (地理に不慣れだといきおいそうなる) アブなくってしょうがない。それから、どうでもいいが、西口付近にはコンビニが 異様に少ないという事実を発見した。吉野家とかはあるのに、あのコンビニの少なさはおかしい。 もっとあってもいいのだが、ナゼか? 思いついたのは「コンビニの前のゴミ箱が 好き放題荒らされ、収拾がつかなくなるので出店を控えている」というもんだが、 そんなのがまともな理由になるとは思えない。なにかの陰謀だ。

…そして、帰ってきて領収書をみると、自分が行ったのはじつは ヨドバシではなくビックカメラだったということが判明した (新山は店を出るまで自分はヨドバシに行ったと思い込んでいた…このアホさ加減を見よ)。 っていうか、ヨドバシは一体どこにあるんだよ!!

/06 [2]


(07:21)
きょうから仕事はじめなので早起きする。

てくるで、CEO の健康までもが話題になる会社。 どちらも独裁者によって統治されてるという点で、ナントナく、北朝鮮っぽいと思わないか? 秘密主義なのも似てるし…。でもこちらの独裁者はおそらくキムちゃんよりもはるかに優秀 (というかキチガイ的) なので、 たとえキムちゃんが会社の経営を任せられたとしてもたぶんダメだろうと思うのである。

しかし、こういう完璧主義で粘着質のボスの下で働きたいと思うかどうかは、ナゾだよなあ。 会社は成長するかもしれんけど、新山にとっては「会社は乗り物だ」って感覚があるんで、 べつにたいして成長しなくてもいいや (走ってさえいれば)。

いわゆる大企業につとめている連中と話をすると、収入はたぶん新山の倍ぐらいあるし、 福利厚生も圧倒的にイイので、へええ、とは思うんだけど、会議ばっか多くて 物事がサッサと決まらなそうだし、自分の仕事の全体像をきちんと把握できなそうだし、 総合的に考えればどっちもどっちって感じがする。不況の時代では金銭的に 「安定した企業」のほうがよさそうだというのはあるけど…。

そもそも、世間でよく言われている「いい大学を卒業した優秀な人間が、 有名な企業に入るのがイイ」っていうのが、おそろしく論理的じゃない考えだ。 新山は人間の能力差というものを信じてないが、たとえあったとしても、 「仕事ができない人」こそ大企業に入るべきだろ。なぜなら、多少テキトーな人材がいても余裕あるから。 (企業の障害者採用枠というのはまさにこうした論拠で決められているように見え、 それは障害をもつ当人にとってはまったく失礼な話なのだが。) …実際には、もうすこしまともな議論は、「専門性の高い (== 1つのことダケしかできない、 あるいはそれを一生やってても飽きない) 人」こそ大企業に行くべきだ、というものである。 大きな会社ならそういう人間でもそれなりのポジションを与えられるだろうよ。 オレには無理だけど。そういう意味では、新山の“専門性”は極端に低い。

(21:16)
きょうは会社で新山の怪奇快気祝いを買った (自分で)。 けっこう値のはる洋菓子だったが、オレはこういうときは結構フンパツするのだ…。 まあ、単に自分がスキなものをおおっぴらに食い、かつ、人にもそのウマさを思い知らせるというのが目的だが。 情報とウマいものは共有してこそ価値がある。
(00:21)
ウソ発見器にみられる疑似科学性について。 新山も高校生ぐらいのころは「ウソ発見器」というものが本当に存在するのだと信じていた。 もちろん、機械はいまでもホントに存在して警察署などで使われてるらしいが、 その技術自体は、ほとんどデタラメらしい。いま考えると、 なんでそんなことが可能であると信じていたのか自分でも謎だけど、 結局のところこれは、だまされやすい人に「これはウソを発見する機械だぞ〜」 という心理的プレッシャーを与えることが目的のようである。 そしてもうひとつ、こうした機械による出力結果の微妙な違いは、 ちょうど占い師のように、それを解釈する人間しだいでいくらでも結論が変わりうる。 だから、これを操作する技師 (あるいは研究者) に隠れた権力が集中する。 そういう意味で、これはほとんど客観性がない装置なのかもしれない。

言語処理を研究していたときに思ったのだが、ケッキョキ、 人間はこの手のいかなる主観性からも逃れることはできないようだ。 もちろん、結果が簡単に数値測定できるような分野ならいいのかもしれないが、 測定するものが高水準になるにつれて主観の入る余地は大きくなり (「被験者がウソをついているか否か」なんてのは、ものすごく高水準の話である)、 ついにはまったく信頼できない研究になってしまう。かといって、 高水準のメカニズムを否定すると行きつくはてはハトの反射弧である。 ある意味これが「科学の限界」ってものなんかもしれない。

/05 [1]


(19:36)
きょうは (まだ) 休み。午前中は病院へ行き、入院費用を清算してきた。 5日間入院して、3割負担で 7万円弱だった。米国で日帰り手術をするよりも安い (医師の手術料だけならこれより安いが、病院利用費や投薬費用をぜんぶ加算されると 米国ではけっきょく 10万円近くかかるのである)。

そのあとサイフが壊れたので新しいのを買い、本屋→喫茶店とまわった。 きのうは図書館へ。ようやく平和な生活がもどってきた、ようの気のする。 これでそのまま治癒すればね。

/02 [5]


(12:37)
退院後はじめての診察。とくに異常なし。

そういえば、 まえにバレンボイムが若造ピアニストたちを指導するという番組をみた、 と書いたが、きょうそれを誰かが youtube にアップロードしているのを発見した。 これ。

/01 [4]


(08:17)
会社が倒産した方にも、
いま病気で入院中の方にも、
家にミサイルが着弾された方にも、

今年最後の今年です。

(10:08)
``I think if you are a true Christian, you don't consider Christianity just a part of your life, it IS your life. And if you follow the teachings of the Bible, specifically Mark 16:15, which says ``go out into the world and preach the good news to all creations,'' then you have an obligation to share that faith with others. ...
「私の考えるところ、もしあなたが真のクリスチャンなら、 あなたはキリスト教を自分の人生の一部だとは考えません。 あなたにとって、それは人生そのものです。そしてもし聖書の教えに従うならば、とくにマルコ 16章15節が そうですが、「全世界に行って、すべての創造物にこの福音を伝えなさい」、つまりあなたは 自分の信仰を他人に伝える義務があることになります。 ...

``If you saw a building on fire and you knew there were people in it, and you knew you were capable of running in there and saving someone who wouldn't be able to help themselves, if you knew you could help, you just stand there and do nothing? Unfortunately, by not clearly seeing the issue, I think that's what a lot of Christians do, they just stand there. ...
「もしどこかの建物で火事があって、まだ人々がその中にいて、もしあなたが乗り込んで 助け出せば、自力では助からない人々を救い出せるとわかっているとしましょう。 その場合、あなたはただ何もせずそこに立ったままでしょうか? 残念ながら、これが 多くのクリスチャンがしていることなのです。物事をよく理解していないために、 彼らはただそこに立っているだけなのです。 ...

``I think, by and large, the most of it is that most Christians are not really well educated as to their own religion's position on various issues. They consider the worship of Jesus is to be the part of their lives, but not their primary purpose. And I believe the true Christianity considers it to be a primary purpose. ...
「私が思うところ、おおむね、ほとんどのクリスチャンは世の中のさまざまな問題について、 自分たちの宗教の立場を理解していません。かれらはイエス・キリストへの信仰を 人生の一部分ではあるが、第一の目的ではないと考えています。しかし私のみるところ、 真のキリスト教は、これを人生の第一の目的であると考えています。...

``If you are a true Christian, you believe that those who are not Christians, those who have not followed the teachings of the Bible, that have not accepted that Jesus Christ is their personal savior, those people are not going to Heaven, they are going to Hell. Hell is not a fun place. ...
「もしあなたが真のクリスチャンなら、あなたはこう信じているはずです。 つまりクリスチャンでない人々、聖書の教えに従わず、イエス・キリストを 彼らの救世主であると認めていない人々、そういういう人々は天国へ行かないことになっています。 彼らは地獄へ行くのです。地獄は楽しいところではありませんよ。...

``I've had Christians definitely that have a view that everyone is entitled to have their own belief and that's not necessarily a bad position to have, but you believe that what they believe is going to earn them a place in ethernal suffering, then there is a problem with that. In that, you are allowing them to be tourchered for ethernity, while at the same time believing that you shouldn't save them from that... it's very awkward. ...
「もちろん私はクリスチャンが、個人は誰でも自分自身の信念をもつことができる、 と考えているのを知っています。そしてそれは必ずしも悪い立場ではありません。 しかし、もし自分たちの信じているものが、彼らを永遠の苦しみに陥れるということになると、 これには問題があります。そこでは、あなたは彼らが永遠に拷問されると認めておきながら、 同時に彼らをそこから救い出してはいけないと信じているのです。 これは、とても奇妙ですよね。...

``If you really believe that people who are not Christians are going to hell, then that is a very serious consequence. And if you don't take that seriously, I think that you might be compromising your own belief system. ...
「もし、あなたがクリスチャンでないものは地獄へ行くと本当に信じているのなら、 それは非常に重大な帰結を生みます。そしてもしあなたがこれをそれほど真剣には 信じていないならば、あなたは自分の信仰をごまかしているように私には思えます。...

``Those who do take their faith seriously, they need to encourage or teach those who might not how important that is. ...
「自らの信仰を真剣に受けとめている人ならば、 他人にもそれがいかに重要であるかを教える必要があります。...

``Sometimes I think that Christians are afraid of being labeled as a Bible thumper or to have negative connotations associated with it. But that's not necessarily negative if you are a Christian I think it's something you are proud of. There is nothing to be shamed of if you are Christian about the Bible or being a Bible thumper. It's something to be proud of. It's something you take seriously. And it's something that you should encourage others to take seriously as well. ...
「ときにクリスチャンは、自分が“聖書の虫”か、あるいはそれに関連したネガティブな 印象でレッテルを貼られるのを恐れていると思うことがあります。しかし、もしあなたが クリスチャンであるのなら、それは必ずしも“ネガティブ”ではありません。 むしろそれは誇りに思っていいことです。クリスチャンならば、 聖書や聖書の虫であることについて恥ずかしく思うことは何もありません。 むしろ誇るべきものです。それは自分が真剣に受けとめているものなわけですから。 そして他人にも真剣に受けとめるように言うべきものなわけですから。...

``And it might require you to challange yourself to stand up in front of crowds and talk to people that you don't know. Missionaries working in places where the predominant religion is not Christianity, and that's a completely different scenario than most parts of the United States. They take it strive and they accept and they move on. ...
「そしてあなたは、己に課す必要があるかもしれません。 つまり群衆の前に立ち、知らない人々に話しかけるという義務があります。 伝導者はみな、その国の主要な宗教がキリスト教ではない地域で働いています。 これは米国のほとんどの部分とは完全に異なる状況です。 かれらは努力してそれを受け入れ、進んでいくのです。...

``You shouldn't take rejection personally, but consider it that you gave them a fighting chance. Give them a fighting chance for Heaven. Even you do have to risk offending someone or risk your friendship, it's a simple matter of weighing priorities. ...
「たとえ拒否されたとしても、それを個人的に受けとめるべきではありません。 それは、人々に奮闘するチャンスを与えているのだと思うべきです。 天国に入るチャンスをね。自分が誰かを怒らせる危険があったとしても、 友人を失う危険があったとしても、それが物事の優先順位というものなのです。...

``If I were a Christian of course I will take the Bible seriously. I respect people who take their belief seriously. And I will take the Bible's teachings seriously and among those teachings there is an idea that there is Heaven and there is Hell, and those who accept Jesus Christ as their personal savior go to Heaven and those who don't go to Hell, and the implication of that are very far-reaching. ...
「もし私がクリスチャンなら、もちろん私は聖書の真剣に受けとるでしょう。 私は自分の信仰を真剣に受けとめている人々を尊重するでしょうし、 聖書の教えを真剣に受けて、それらの教えの中には天国と地獄があり、 イエス・キリストを自分の救世主と認める人は天国へ行き、そうでない人は地獄へ行くということを 真剣に受けとめるでしょう。そしてこれがもたらす帰結は、 途方もなく遠大なものになります。...

-- (Interviewer) And you are an atheist?
(インタビュアー) そしてあなたは無神論者なのですね?

``Yes, I sure am.''
「ええそうです。」

-- Interview with an Atheist (ある無神論者との対話)
(11:17)
新年のっけから哲学的・宗教的な話題でもうしわけありませんが… (なに、実際にはゼンゼン申し訳なくなぞ思っていない。)

悪についてのつづき、あるいは人を殺したらなぜダメかという話のつづき。 (あるいは、なぜロボット三原則はウソっぽいかについて。)

結論からいってしまうと、人が人を殺すことを“悪”とは言えない。
またこれの裏返しとして、人が生きることも同様に“善”とは言えない。
しかし、それがどうした。

そもそも「原則」ってのはウソっぽい

そもそも、人がふつう他人を殺さないのは、「人を殺してはいけない」と信じているからだろうか? 人が自殺をしないのは「人生には意味がある」と信じているからだろうか? …少なくとも新山は、そんなことを意識的に信じてはいない。 日頃からそんなふうに意識的に考えて行動している人間をオレはみたことがない。 人間というものは、そんなトップダウンなやり方では思考しないのである。 たとえば人は朝、目がさめたときに、 「よし今日も一日生きる意味があるぞ、だから起きよう」などとは考えないと思うのだ。 人はただなんとなく、テキトーに、まるで生きる意味があるかのように、起きる。 そして顔を洗ったり歯をみがいたりする…。

殺人についても同じだと思う。正常な人間は人をナイフで刺したりするようなことはしないが、 べつにそれは「人を殺してはいけない」と意識的に信じているからではない。なーンにも考えなくても、 ただなんとなく、そうしないのである。それを指して「『人を殺してはいけない』と信じている」と いってもいいが、どっこい本人はそんなこと気にもかけちゃいないのだ。 それを「人を殺してはいけない」というふうに定立化すると、なんだか物事の見方がおかしくなってしまう。 アシモフのロボット三原則みたいなものは、人間世界に適用するとどう考えても不自然だ。

子供に尋かれたらどうする?

で、例の疑問に戻ってみると、子供から「人を殺してはなぜダメなの?」と尋かれたとする。 その答えの文章は、実はたいして重要じゃないと思う。親 (あるいは大人) は子供に対して、 真面目に答えようとしてもよいが、べつに「わからん!」といってもいいんじゃないか。 ただしひとつ重要なことがある。それは、子供がそのような疑問をもてるほど成長するまでのあいだに、 「生きるってのはイイもんだな」と思えるような経験をさせる、 あるいはそのような環境に育てる、ということだ。それさえできていれば、 たとえどんな理屈を吹きこまれようと、その子供は (なんらかの病気をおこさないかぎり) 人を殺さないし、自殺もしない。しかしそのいっぽうで、もしそれができないとすると、 残念ながらその人間の殺人あるいは自殺を止める有効な方法はないと思う。

なんにせよ、子供のこういった疑問に対して、大人がなんらかの 理論武装をしなければならない、という主張はアホらしく聞こえる。 そもそもオトナだって本当に (倫理的に) 説得力のある理由をもっているわけではないでしょ? ただ、知人の誰かが本当に死んだり、殺されたことがある人は、 自分の個人的な感情を話してきかせることはできるかもしれないが、それはどこまでいっても 「個人的な理由」である。普遍的な観点からみて「人を殺してはいけない」という理由を正当化することは、 不可能のように新山には思えるのだ。なぜか?

殺人は暗黙のうちに肯定されている

…それは、結局のところ人は「殺人を必然的なものとして認めている」からだ。 いや、認めているだけではない。いまも実際に殺人をおこなっている。 ここでいっているのは、ナイフで人を刺したりミサイルを撃ちこむような、 直接的・積極的な殺人だけではない。間接的・消極的な殺人 (あるいは見殺し) も含まれる。

たとえばここで、簡単な思考実験として、世界中の食糧が不足していて、 すべての食べ物を均等に行きわたらせようとすると、けっきょく全員が餓死してしまうような状況を考えよう (これはたんなる思考実験ではなく、将来の現実か、あるいはいま現在の世界の現実であるかもしれない)。 このようなとき、人類全員が滅亡するほうがいいだろうか、あるいはたとえ少数でも生きながらえたほうがいいだろうか? おそらく、ほとんどの人は「少数でも誰かが生きのびたほうがいい」と答えると思われる。 この時点で、すでに殺人は肯定されているのだ。(たとえ直接的には殺さないとしても、 人が餓死していくのを何もせずに見ていればそれは殺人である。) すると当然ながら、この「誰か」とは誰なのか? という疑問がうまれる。 こうなれば争いが起こることは目に見えている。つまり、有限の資源しか与えられていない生物が 「生きる」という選択をした時点で、われわれは同時に「殺す」という選択もしているのだ。 しかも、かなり積極的にそう選択している。 そして、必然的に争いのある世界に身をおくことを覚悟していることになる。 (もし地上に無限の資源があれば話は別だが、そんなことは永久に起こらない。)

だから、生物にとって「生きる」ってことは、「殺す」ってことをどうしたって含んでいる。 つまり「善人というものは、人を殺す」のであって、 「生きることが善で、殺すことが悪です」などというのは、ちゃんちゃらおかしいのである。 これじゃ議論は無限ループにはまり込んじまう。 (この意味でも、ロボット三原則はチューリング的に破綻している。) たとえ戦争や犯罪が完全になくなったとしても、資源の奪い合い (と、その結果としての見殺し) は これからも確実に起こるだろう。これは生物の宿命であって、人がヒトであるかぎり終わることがない。 これはあらゆる生物システムのいちばん深いところに埋めこまれた、根源的な問題のように見える。 構造上のバグといってもいい。生き物として、このジレンマから逃れることは絶対にムリなのだ。 われわれにできるのは、ただひたすら「問題を見ない/考えないようにする」ことだけである。

ケッキョキのところ、

しかし待てよ、本当にこれは“バグ”なのか?

仏教などでは、こういったジレンマを「業」とみなしており、 このチューリング的無限ループから解脱する方法を説いているが、新山はべつにここから脱出したいとは思わない。 だいたい現実的な解決方法があるとも思えないし、そもそも仏教でいうところの 解決というのは、問題を解決 (resolve) するのではなく雲散霧消 (dissolve) するというものだから。

なんにせよ、人間はこうした「どっちつかずの状態」、 あるいは罪悪感にさいなまれた状態から早く抜け出したいと思うもののようで、 個人的な折り合いは必要らしい。ほとんどの人は単に「気にしない」という方法によって、 この問題に対処する。いっぽう「気になってしまう人」は、宗教にハマったり、慈善活動にハマったり、 あるいは (ここにいる誰かさんのように) いろいろ理屈つけてみたりするわけだ。 けっきょく、「生かす←→殺す」という基準でものごとの善悪を考えてもムダなので (新山の考える「悪」の定義はこれと関係ないところにあることはすでに書いた)、 新山がやっている方法は、善悪ではなく、ひたすら生理的な「好き」「キライ」という感覚だけを 頼りに判断することである。

たとえば秋葉原の事件のようなものを見聞きすると、新山はなにがしかの感想をもつのだが、 ほんとうのところ、あの犯人の「善悪」はどうでもいい。 確実に言えるのは、自分はああいった考え方・行動をするヤツが個人的に“大嫌いだ”ということだ。 なぜ嫌いなのかは知らない。偽善かもしれないが、とにかくキライである。 新山の好き嫌いはそんなにいつも法律と一致しているとは限らない。 たとえばオレは死刑もキライである。日本では、いちおう「死刑 == 正義」ということになっているらしいが、 これまた善悪は関係なく、オレはただ「死をもってつぐなわせる」という考え方が大嫌いだ。ひたすら嫌いだ。

同じように戦争も嫌いだが、もし本当に食料不足で戦争が起きるのなら仕方ないと思う (もっとも現在のほとんどの戦争はそういう理由では起きてないけど…)。 だから、食い物をめぐって人を殺すのは、鬱憤晴らしのために人を殺すよりも、 相対的に好きだということになる。そして、この程度の判断が、 おそらく個人としての新山がもてる精いっぱいの「倫理感」なのだろう。 そして、これが倫理と呼べるかどうかは何ともいえない。好きに呼んでくれ。

(23:18)
キホン的に、新山は中央線沿いに住んでまだ日が浅いので、中央線の各駅 (中野、高円寺、荻窪、吉祥寺など) の そこはかとないサブカル的雰囲気の違い (ふいんき) を理解できていない。 しかし今日、友人の関口からじつに的確なたとえを聞いた: ようするに、新宿そのものが近い人間にとっては行く必要がないらしい。

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Yusuke Shinyama