2009/3 (a)

Last Modified: Wed Apr 1 08:01:11 JST 2009

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(08:21)
小さな大人と大きな小人、あるいはボサボサの髪。

今月はけっこうここに書いたのに、途中でsplitするんを忘れていた (そう、新山は手でやっているのだ)。毎度自分の書いた日記をみて 思うのだが、よくこんなに書くことあるなあ、オレって暇人じゃなかろうか? と。

うんうん、たぶんね。。。

(18:57)
いきなり Joseph からなにやらメールがきた。 pdfminer の話をどこかで聞いたらしい。しかしこいつは今どこにいるんだ? umontreal.ca だと。モントリオールはよさそうな所だが、フランス語が喋れないと 楽しくないんじゃないかと思うのは偏見だらうか。 (ヤツは喋れるらしい)
(00:07)
あいどんぎう゛あしっ (idontgiveashit)

てくるで、新山は「大学のランクづけ」というものは ほとんど意味がないと思っているけれど、ひとつ (一部の人にとっては) 重要らしい、 と思えることがある。それは「世間の期待度」というものである。

まえにスズキさん (あっちのスズキではない) から、 こんな話を聞いた。彼は東工大を出てから東大へ行った人なのだが、 東大の学生を教えていて、あるひとつの特徴に気づいたそうな。 …たいていの大学生とゆうのはみんなバカなので、教養部で線形代数とかやるとわからなくて面喰らう。 それは東大生とて例外ではない。しかし、彼らが違っているのは、 彼らはこのような場合、「東大生であるこのオレ様にできないはずがない!!」 と思うらしい (それは傍目で観察しててもわかるんだそうな)。 でも、これはいい方向へ向かう。なぜなら彼らはふつうの人よりも意地になって努力してしまい、 結果的に多少難しい問題でもできてしまうから、というのである! これには笑った。いくつか思い当たるケースがあるが、かなり真実を言いあてているような気がする。 つまり、彼らの優秀さ (if any) の本当の理由とは、本人たちが感じてるプレッシャーだったのである。 ここから得られる結論はこうだ:
「人は他人から期待されれば、いくらでも努力する」   (別名: 「ブタもおだてりゃ木に登る」)

すると、「難関大学」に入ることの真の効果とは、 本人に「自分はデキル」という暗示を与えることであって、実はそれ以外はどーでもいいんではないだろうか? もちろん、これがいいかどうかは人によって違うだろう (あまのじゃくの新山ではたぶん逆効果)。 しかしもともと人間の「アタマのよさ」に、たいした差なんてあるわけないと思ってる新山にとって、 これは非常に納得できる説明である。

それから、いわゆる“旧帝大”ではほかにも心理的にかなり重要だろうと思われるサポートがある。 それは、キャンパス全体にただよっている「余裕の雰囲気」である。いわく言いがたいが、 たとえば本郷とかに行ってみろ。いったいなんなんだ、あのムダな土地の使い方は?? …都心の一等地に草ぼうぼうのスペース、意味もなく頑丈そうな古ぼけた建物、 もう何年放置されてるんだかわからない怪しいガラクタの山…などなど、 普通だったら絶対「有効活用しろ!」って言われるよ。しかし、 ああいう場所には国家権力のバックがないと絶対実現できなさそうな、 圧倒的な無駄余裕が感じられる。 こういうところでは「よっしゃ、一丁やったるか」という気分になりやすい、と思う。 これとは対照的に、 たとえばもしどっかの都心にある大学が、せまくっるしいビルのキャンパスで、 授業が終わるごとに学生でゴッタがえしてて、おまけに教員もいかにもセコセコしてたら、 けっこう精神的にすさむと思うんだな (ま、実際には国立大でも、 ほとんど学生なぞ人と思っちゃいないようなところは結構多いのだが)。 しかし、古くからある大学はもっと余裕があるところが多いようである (これは、既得権が多いってことなんだろうか?)。 これはさしずめ、良家のご子息がオットリしているのと同じようなもんかもしれない。 なんにせよ、これらは大学受験の成績などとは関連がない。 ようするに教育に必要なのは“適度な余裕”と“周囲の期待”であって、 それさえあれば人は勝手に学習するものだ、 施設や教師の質よりも、こういった心理的な要因のほうがはるかにでかいと 新山は考えるわけです。 といっても、世の中には教科書自体がほとんど入手できない国とかもあるけれど…。

結論: それでも大学に行きたきゃ行け。おわり。

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(08:01)
あれ、誰だこんなの書いたのは!
(22:24)
きょうは味噌汁をつくろうとして具をゆでてから味噌を切らしていたことに気がついた。 しょうがないので、インスタントみそ汁の味噌で代用する。 どうでもいいけど、新山はインスタントみそ汁って 1年に数回ぐらいしか使わないのだが、 こいつの味噌をパックからひり出す時に、 いつもかならず自分に言い聞かせることにしている独り言がある。その言葉とは 「うわ、これウンコみたい!」というものである。 下品ですみませんね。しかし、これはあるひとつの教訓 -- つまり、 いつも何かに見えるからといって、何かそのものとは限らない、 つまり常に偏見をもたないよう努力しなければならない -- という教訓なのだ。 そう思うことにしている。オレってとっても上品。
(00:13)
そういえば、前に win-win の議論はおかしい、と書いたが、 あとで読み返してみたら自分の議論もなんだかおかしいことに気がついた。 新山はここで「資源」や「価値」というものを、まるで経済学者がやるみたいに、 あたかも数量化できる抽象物であるかのように扱っている。でもこんなのはインチキだ。 こういう過度な一般化や、物事の上っつらだけに頼った抽象的な思考は、 自分自身もっとも嫌っているものだったのに、やってしまった。 実際には、世の中のものの値段など決して公正にならないし、 ほとんどのリスクだって正しく測定できないのに、それがあたかも測定可能なように、 しかも単一の量で表現可能なように扱っている。いんちき。こういうのはよくない。

しかし、たとえ理屈で説明できなくても、新山は依然として 「win-winの議論はアヤシイ」と思っている。でも一体なぜあやしいと思うのだろう? 何かが確実に臭っているのだが、でもどこが腐っているのか一向に発見できん。 新山はいつも自分の直感を説明しようとして苦労してることが多い。 まあ、とくに説明する必要は今のところないのだけど…。

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(23:28)
どうでもいいけど、普段なにげなく口ずさんでいた "What's going on?" という曲が、 じつはベトナム戦争の反戦歌だったということを、きょう知った。 そう言われてみればそんな気もする。"picket lines" という部分をずっと 新山は "pick up lines" だと思っていたが、 これはつまりデモに行けという意味だったのだ…。
母さん、母さん、
どれほど多くのあなたたちが泣いているのか
兄弟、兄弟よ、
こんなにも多くきみたちは死んでいくのか
方法を見つけなきゃいけない
いま世界にいくばくかの慈愛を

ピケを張れ、カードを上げよう
無慈悲な仕打ちはしないでくれよ
話してくれ、それでわかる
今、なにが起こっているのか
なにが起こっているのか

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(12:04)
教育に関するインチキな科学性について。 新山は英会話教材にしろ、専門学校にしろ、俳優養成スクールにしろ、 教育の「効果」に関する言明というものをまったく信じていない。 そんなものは、わからないのだ。 まえに「物事の質」に関する自分の考えを書いたけど、「質を測定する」という行為が アルゴリズム的に不可能であることを考えれば、同様に「質を向上させる」という行為も やはり決まったやり方では不可能ということになる。もちろん人によっては、特定の教育方法が 偶然うまくいく場合もあるだろうよ。しかし自由放任でも うまくいく人もいるだろうし、そんなの考えるだけ無駄なので、 結局どんな方法でもやってみるしかない (anything goes)、と思っている。 でも、どのみち効果が不明なら、安上がりなほうがいい。そういうわけでオレは やたらと学費の高い塾とか学校は信用していない。 このへんは新山は明らかに科学的じゃない。でもどうでもいいや。

こうした考え方は、自分自身の経験がかなり影響してると思う。 新山は高校を出たあと 1年間浪人して、長野市にある某予備校に通っていた。 そこは地元ではそこそこ名が知られていたが、大手ではなくローカル予備校で、 建物は古かったし、講師はもっぱら地元の公立高校を退職したジイちゃん達だった (高校のときの数学の先生とは、予備校でバッタリ再会した)。ようするに、 全然パッとしない予備校だったのである。でも新山にとっては高校よりも楽しかった。 好きな先生以外の授業はたいていサボって自習室にいたが、 勉強だけしていればよかったので、なんて楽しいんだろうと思ったことを覚えている。 ほかにも別の高校からきた友達の家に遊びに行ったり、担任の先生 (その予備校はクラスごとに 担任がいた) の事務室におしかけてお菓子をねだったりしていた。 だから高校の友達とはほとんど音信不通だが、予備校の連中とはいまでも連絡がある。 そして、そんな状態でもなぜか成績は上がった。高校にいたとき 新山の模試の偏差値は45ぐらいだったが、予備校にいったら偏差値 65ぐらいになっていた。 なぜ上がったのかは自分でも謎である。新山が賢かったからだ…と思いたいところだが、 そんなのは自分でも無理があるとわかっている。いっぽうで、大学に入ってから周りの人間に聞いてみると、 べつに「名の知られた」講師や予備校に通っても大した差はないようだった。 ようするに、オレは運がよかっただけなのだ。 個人の成績を上げる決まりきった方法なんて 存在しないし、そんなものは考えるだけ無駄だってことになる。

さらに、これは大学に入ってわかったことだが「偏差値とアタマの良さは相関してない」 ということ。つまり結局のところ大学受験というのは、よくわからん (運によって決まる) 数値を測定していたダケということになる。 まあ、もしかすると偏差値は知能指数とか、国家I種合格率とか、生涯賃金とかと ゆるい相関はあるのかもしれないが、これらの値自体もやはり「質」ではない。 アタマが良くても人生豊かになるわけでもないし… というか、そんなこと考えるのがアホらしくなった。理性的なフリをするのはもう飽きたよ。 こういうことがあったので、新山は「教育の効果」を宣伝する人には つねにうさんくさいものを感じている。つうか、今では教育に限らず、 「質」に関する世の中のありとあらゆる記述がうさんくさいと思うようになった…。 これが果たして本当にいいことなのかどうかは知らない。でも心配しても無駄だ。 とにかく「世の中、なんでも起こりうる。」と考えたほうが、 新山にとってははるかに気分がいいということがわかった。だから今はそうしている。

しかし、教育そのものの話からははずれるが、新山はいまでも頑固に信じている ひとつの古典的な信念がある。それは「型があっての型破り」である。 言いかえれば、基礎 (それがたとえアホみたいに簡単に見えても) をちゃんと 身につけてない人間は、最終的にはダメだろうということ。はっきりいって、 基礎を身につけるためダケに 6年間も米国にいる気になったんで、この信念がなかったら アホらしくて途中で帰って来たに違いない。でも、今それが役に立っているか? と問はれれば、なんとも言えないケドね…。

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(22:14)
てくるで (ところで)、UNIXのシステム管理者が覚えるべきコマンドを 3つ挙げよ、といわれたら、新山は: をあげる。名前が全部2文字なのは偶然ではない。UNIXにおいては、 コマンド名の短さは、その古さを物語っているのだ。 fsck や ifconfig なんて誰でも使うじゃん。 しかし ed や dd を使うのはシステム管理者っぽい人々だけだ。 重要なのは、これほど古いコマンドでありながら、今でも必要であるということだ。 ed は今はさすがにあんまり使わないけど (/var が死ぬような事態はそうそうないので)、 EDLIN ならいまでも時々 (Windows 上で) .ini ファイルを編集するのに使っている。 そして dd はほとんど日常的に使っている。新山はいまは管理者じゃないのだが、 プログラマーにとっても dd は重要だ。こいつの変態文法は冗長だし UNIX っぽくないのだが (Jargon File によると IBM のコマンドからきているそうな)、 バイナリファイルの切り出しをするのに使えて、しかもどんなUNIXでも必ずインストールされてるってことが重要である。 古いコマンドの強みはそれだね。tar とか sed もそうだけど、 こういったコマンドは UNIX界におけるシェイクスピアのような存在だ。 新山は基本的に見慣れない形式のファイルを見るとまずダンプしてみるという 「ファイル形式おたく」であるので (といっても、仕事上必要でやることが多いのだが)、 こうしたツールは押さえておいて損はない。 あとは od と xxd と strings。ついでに less, lv, iconv か。これさえあれば安心だね (なにが?)。 というか、これらのツールを使いたいがために Linux を使っているとも言える。 人間の目とは恐しいもので、慣れてくると16進ダンプだけで「ああ、Word97形式だな」などと わかったりする。ところで strings を「究極のドキュメンテーションツール」と最初に 呼びだしたやつは一体誰なんだ、ものすごく同意するぞ。

ついでにいうと、多少なりともシステム管理っぽい仕事をするのであれば、 パーティションや各種ファイルシステムついても知っておいて損はない。 あと、MBRの構造とかね。 別に直接これを書き換えろというのではないが、こういうのを知っておくと安心でしょ? ファイルシステムをのぞき見るのに dd は (原始的であるがゆえに) 適している。 新山が思うのは、ときどきこうしたことを知らないでデュアルブートにしたり、 内蔵ディスクを増設したりする人は不必要な恐怖を感じてるんじゃないか、 ということだ。まえに、ある人が「バックアップしてないディスクが(一部)読めなくなった!」と 言ってきたことがあったが (その人物とは実はムラカミさんである)、 「トンじゃった箇所だけとばして別のディスクに丸ごとコピーしたら?」といっても、 何だかわかっていないようだった。こういう人々はファイルシステムが HDD 上に線形に配置されていて、 それが dd でベタ読みできるということを知らないのである。おそらく試したこともないだろう。 セクタ異常でディスクが読めなくなることは今でもしょっちゅう (まあ、数年に1度くらいは) 起こるんだから、こういうのは覚えておいてもいいと思う。

つうか、もし新山が CS の学生かなんかに計算機の基礎を教えるんであれば、 「まず一度、システムを徹底的に壊してみる」ことをすすめる。 ファイルシステムを破壊してみるのは当然のこと (ここでも dd が便利)、 プロセスを片っぱしから kill してみたり、/dev/null を消してみたり、 もし余ったハードディスクを持ってるんならバンバン叩いてどれくらいの確率で セクタエラーが出てくるのか見てみるのもいい。昔はこんなことが許されるのは 大学の研究室ぐらいだった (新山は Digital UNIX を 10回ぐらい同じマシンにインストールしては いろいろ壊して遊んでいたことがある)。このように、「ハッキング (どんな意味であれ)」的なことは コンピュータの学習に欠かせないことのように思う。安全な環境で存分に暴れておくことが、 あとの落ち着きにつながるのだ。だからって、もちろん他人のマシンを壊しちゃいけませんぜ。

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(09:33)
そういえば、こんなのもみつけた: クラウドコンピューティングの罠 by リチャーど・すとーるマン

彼が言っていることの中で、新山が激しくウケたのは以下の部分である:
(まあ、ほかにも「Gmailは馬鹿の極み」とか言っているが、それは置いとくとして)

"The computer industry is the only industry that is more fashion-driven than women's fashion."
(コンピュータ業界は、唯一、女性のファッションよりも流行に流されてる業界だ)

で、これにはまったく同意なのだが、なぜそうなのか? と新山は考える。 それは、基本的にソフトウェアというものの「見えなさ」に起因する、 業界全体の「でっちあげしやすさ」からではないかと思う。 この業界では、古くからあるシステムをパッケージしなおして、 それに専門用語のスパイスをふりかけて目新しいものにするのは、とっても簡単だ。 たとえば、ちょっとした統計の公式を「ビジネス戦略分析ツール」といってみたり、 if-then の山に「人工知能によるエキスパート診断システム」という名前をつけてみたり、 といったことである。

これがたとえば自動車業界だとそうはいかない。 「これは新しいサスペンションシステムを使った安全な自動車です」とかいっても、 見た目がただの自動車ならば、「なんだ、ふつうの自動車じゃん」となってしまう。 実際には違いがあるとしても、人間が日常的な感覚で「ふつう」だと思えば、 ほとんどの人はそれよりも価格やデザインのほうを重視するのだ。 つまり消費者を技術的なことのみで引きつけるのは難しい。しかし同時に、これはいいことでもある。 なぜなら、ふつうの人が buzzwords にふりまわされないからだ。 (まあ、プリウスなんかのおかげで、最近はふりまわされてる人も多そうだけど。)

逆にいえば、こうなる。もし、技術用語をふりまわすだけで商品が売れるのならば、 どの業界もそれを始めるだろう。そんなオイシイ方法をみんな放っておくはずがない。 しかしほとんどの業界では、それはできない。 なぜなら商品は現実のモノと結びついており、消費者を騙すのは非常に難しいからだ。 コンピュータ業界はそれが可能になっている稀有な業界のひとつである。 (ほかにも健康食品とか教育とかがそうだよね。) この業界では、とにかく客に「スゴそう」と思わせることが大事である。 しかし具体的に何がどうスゴいのかは明かさず、曖昧にしておく。 ソースは公開しないし、リバースエンジニアリングも禁止する (でも、どのみちソースを公開したところで、みんなソースなんか読まないから一緒だけど)。 このこと自体、すでにコケ脅しのニオイがする。基本的には新興宗教とか手品師とかの手口と一緒だ。 でも新興宗教は世間からは明らかにアヤしいと思われているし、手品師は「トリックです」と明言しているので、 どっちも (ある意味では) 安全だが、ソフトウェアの人々はそうは言わない。 CMM とか TOC とかの用語を持ち出して抽象的議論に逃げ込むだけだ。 そして本当にガッカリなのは、そうしたヨタ話に本当に騙される人々がいるということである。

(追伸) はっきりいって、上の記事でのストールマンの議論はたいした議論じゃない。 彼は「クラウドコンピューティングのどこが悪いのか」をはっきり言ってない (あるいは言ったけどカットされたのかな)。新山が個人的に思うのは、 これが企業への依存度を上げるという点である。 これは新山の考えだからべつに同意してもらわなくってもかまわないが、 個人的に、知識や技術というのは人間を自立させ、より自由にするためにあると思う。 どっかの会社に自分のメールを全部保存させたら奴隷時代に逆戻りだ。 それにしても、あいかわらず google を信仰したがる人は多いのかねえ。

「おまえね、あんまり他人を崇拝したら、自由になれないよ」
-- スナフキン

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(23:18)
今日は気の早い桜が、中野通りをすでに3分咲きだった。(意味不明的)

どうでもいいが、きょうはまたドライマンゴーを買ってしまった。 オレは一体、セブ島にいくら貢いでいるんだ?

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(19:34)
うわーお。NTTから「お客様へ重要なお知らせ」がきた。 なんでも、うちで使っているフレッツのDSLモデムを、「6年と何百日のあいだ」電源を入れっぱなしにしておくと、 IP電話が使えなくなるという不具合が発見されたんだそうな。そしてその対策としては、ときどきモデムの 電源を切るか、ファームウェアをバージョンアップするかするらしい。まだ2年も経ってねえよ…。 そもそもうちはIP電話なんか使ってない。 それに新山はどのみち掃除するときにちょくちょくケーブルを抜くので、 6年間も家電機器の電源が入れっぱなしになるということは、新山の感覚では考えられない。 それにしても、こんな末端ユーザ向けのどうでもいいバグの対処に NTTがいくら使ってんのかを 考えると気が遠くなる。うちら原子炉じゃあるめえし。しかし、お客の中には本当にメルトダウンする人もいるのかもしれない。 たとえ今対策したところで、これだけのパンフレットを印刷して、配送して、 そのあと客からの山のような苦情電話「アップデートしたらおかしくなった!」「電源スイッチはどこにあるの?」 「で、モデムって何?」などなどに答えるサポート係を置かねばならない。 いやあ、大企業ってのは、おそろしいもんだ。しかしこれほどのキ真面目さは comcast にも 見習ってほしいもんではある (もう関係ないがね)。
(22:09)
人やモノのというものについて。 どうやら、物事の「質」をどのように定量的に測定しようとしても、 必ずその条件を満たすような悪い質のものが現れる。つまり「質」とは何であれ、 機械的・客観的に決定できないもののことをいうようである。 英語の "quantitative", "qualitative" という言葉を考えれば、 「量」と「質」が対立する概念なのは明らかなのだが、 たいていの人はこのことを単に忘れていて、「量」を測定すれば「質」を測定したことになると 安易にも考えてしまう。こういった例はいくらでもある。たとえば:

そして人々は騙される。コンスタントに。 それはひとえにこうした法則が間違っているからだが、それにしても多い。 とくに多い分野は教育と健康だ。 いったいなぜ人々はこうも主観的な結論に、少々の客観的な数字だけをみて とびついてしまうのか? それは「科学への誤解」とでもいうものかもしれない。 数字は、複雑な物事を単純化してくれるわけではないのだが、 ときにはそういう魔法に見えてしまう人もいるのだろう。 実際には、数字というものはそれを見る人が割り切る覚悟を決めたときだけ意味がある。 複雑な世界は、どうこねまわしてみても複雑な世界のままだ。

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(19:53)
ときどき新山の公開している Pythonパッケージを easy_install できるようにしてくれ、 とか言われるのだが、新山はサポートしない。同じように setup.py や configure もサポートしない。

その理由: パッケージマネージャはひとつでじゅうぶんだ。 それは、OS にすでに搭載されている rpm やら deb やらである。 もし、そのソフトウェアがどうしてもパッケージで欲しければ、 rpm とか deb を自分で作ってインストールしてくれ。 言語独自のパッケージシステムは必要ない。

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(08:03)
新山はよく怒っているが、ほとんどの場合、オレの怒りはヤリ場のある怒りである。 これはきっと、いいことだ。

てくるで、あやうく忘れかけていたが、LWN でこんなのを発見した: 「フリー」なブラウザ上でフリーでないJavaScriptを走らせるな! by リチャード・ストールマン

彼はブラウザ上で JavaScript がフリーなものかどうか判別できるような仕組みを導入するべきだ と言っている。さすがだ。しかしこれまで全然気にしなかったが、JavaScript を埋めこんだ場合の ウェブページのライセンスってどうなってんだろ。FSFからすれば JavaScriptを埋め込んだらそのページは「派生物」ってことになるはずだが、 LGPL的な定義では直接埋め込んだコードが問題になるのに対して、 もしその JavaScript が GPL だったら、<script src="..."> でリンクしただけで「派生物」とみなされるんではないか?? (C の動的リンクとの対比でいえばそうなる)。まあ、JavaScriptがどうなろーと オレの知ったこっちゃないけどね。

(追伸) いまこの日記を書いてたら外でゴミ収集車の音がして、今日は火曜日なのを忘れていた。 あわてて外に出て収集車を追いかける。そして勝った。 以上で今日のノルマ達成。?

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(01:32)
i am ultra pissed-off. some of the fonts do not provide their own /ToUnicode mapping, so in order to convert from a cid (not ACID) to unicode, you sometimes need to look up a table called Adobe Glyph List. in other words, you have to keep this zillabyte piece of crap inside your code, embedded. but just as if this was not enough, some of character names are not listed in the list, therefore do not have a corresponding unicode value. how was this good? those character names are often like "C101" or "C40._" and it turned out, they actually meant chr(101) "e" or chr(40) "@" but how am i supposed to know that? there's nothing there in the guideline. okay, okey, so this may not be necessarily adobe's fault. but anyway, fuck adobe. fuck monopoly. you do know other software companies such as foxit reader that is 100 times better pdf viewer but cannot keep up because you keep changing the spec, and mass-distributing this piece of shit so always it's a real pain to just remove this software and no one never bothers. you obese corporate bastard.

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(09:53)
なんでこう風が強いのよ?

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(12:07)
きのうは、ずっとこれを読んでいた:

オレはいったい、この貴重な連休中に、薄暗い部屋 (実際には、この部屋はとってもまぶしい、窓が南向きなので) の中で、 何をやっているのか? アホじゃなかろうか? しかし乗りかけた舟というのは怖いものである。 いったいいつ目的地につくのか、いまの時点では皆目わからんね。。。。

そういえば、Zagat の長野版が出たらしい。なぜいまさら長野??なのか謎だけど、まあ どっかのフランス人 (on crack) が書いた素晴らしい本 よりはマシかも。

(23:08)
日本ではまだほとんど紹介されてないと思われる人物、アダム・シェパード。

2006年、彼は大学を卒業して見知らぬ土地へ行き、そこである実験を始めた。 その実験とは以下のようなものである:

実験のルールは以下のとおり:

10ヶ月後、彼は成功し、アパートに住み、ピックアップトラックを所有し、$5000の貯蓄を持っていた。

彼は「アメリカン・ドリームはまだ生きている」と結論し、この経験を "Scratch Beginnings" という本にまとめた。

以下、彼の発言:

Something I'm particulary proud of with this book is that when I started this journey, I was a young, cocky kid who really didn't have much of appreciation for anything, really. And in the end I was humbled and mature to the point that I really have appreciation for every day, and for every dollar. And the challenges that every day and every dollar bring.

(ぼくが本当に誇りに思っているのは、この旅を始めたとき、 ぼくは世の中に対して本当に何の恩義も感じてない生意気な若造だった。 でも最後には謙虚になったし、成長したよ。1日、1日の生活や、自分が稼ぐ 1ドル、1ドルに本当に感謝するようになったし、1日や1ドルがもたらす挑戦も ありがたいと思うようになった。)

さて、こんなわけで、米国の保守系メディアはこぞって彼を称賛している (彼らは「ほらみたことか、貧乏人は努力が足りないだけだ」と言いたい人達なので)。 しかし彼は若いし、かなり体力もあって健康だった。 もし彼が子供を養わなきゃいけなかったり、心臓病をわずらっていたりしたら、 おそらくこの実験は成功しなかっただろう (とくに米国では、病気なんかにかかったら一瞬にしてパーだ)。 だからこれはお年寄りや母子家庭が生活に困窮するのとはまったく別の話である。しかし、 いま「ワーキングプア」と呼ばれてる、貧乏な若い連中はどうなんだ? 新山は貧乏な人に向かって「おまえは努力が足りない」とか言うつもりはないが、 これは日本でも追試してみる意義のある実験のように思われる。 オレはやらないけど。電波少年とかでやったら? (どうでもいいけど、この番組まだあるの?)

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(09:36)
I'm just sick of the whole "English is important" argument. I mean, how long have you been talking the same shit again and again? I've been hearing it for like 20 years for now. Say "you've gotta be able to speak English otherwise you're going out of business!" ... y'know, it's a Total Bullshit! How the heck all the barbers, farmers, McDonald clerks, police officers, accountants, doctors and lawyers need to talk in English? What kinda situation they're bumping into? They are mostly dealing with Japanese. If you live here, you're supposed to speak in Japanese. It's their responsibility to be able to communicate with Japanese people, not us. It's like Americans saying "we have to learn Spanish otherwise we're going out of business" ... quite opposite to the reality. Anyway, I'm just sick of people repeating this absurdity. The reason why some people want you to believe this shit is because they want to terrify people so that they can sell their solutions or gracious advice to the ignorant public. A preacher of fear is everywhere. Maybe that's the truly global, worldwide issue, methinks.

(追記) てくるで、おそらく英語版 wikipedia にある日本企業に関する記事のなかでも、 もっとも包括的かつ中立的に書かれているであろう企業、 Nova (eikaiwa)。 理由はおして知るべし。

(10:50)
さいきん読んで面白かった本。 今井忠平・南羽悦悟・栗原健志著 「改訂補強 タマゴの知識」 (幸書房、1991年)。 雑誌『油脂』(そんな雑誌があったとは!) に連載された「卵の科学」という記事をまとめたもの。 著者は 3人ともキューピー(株) の研究員である。卵に関する、ありとあらゆる学術的研究が まとまっている。図表および参照文献もちゃんとある。 教科書的な本なのでかならずしも読みやすくはないが、いくつか「へー」と思うことがあった:

いままで新山は想像だにしなかったのだが、うちらがふだん食っている 大量生産された加工食品というのは、農場から工場から家庭にいたるまで、ズーっと菌による汚染のリスクを ひきずっているわけだ。で、7章と8章ぐらいに解説があるけど、こうした研究をもとに 工場での洗浄や保存のガイドラインを定めて、安全にしかも効率よく食品を生産できるようにするってのは、 考えてみればすごい犠牲の上に積み重ねられてきた技術である。いやあ、感心した。

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(18:40)
開発者としての闘争… 新山は、営業の人々とはいい関係を築いていると思っているが、 ときに仕様について彼らとケンカ腰でやりあう必要がある。 なぜなら、しばしば彼らは原理的にムリなアイデアや、あきらかに矛盾した要求をいうからだ。 そういうときに技術者は彼らに「現実を教える」よう努力しなければならない。 特定の問題について、ふだんから考えてない人は、たいてい自分の現状認識が どれほどいいかげんか気づいていない。「これならうまくいくだろう」と思っていても、 しっかり吟味してみるとおかしな矛盾や曖昧な点が山ほど出てくる。 それらの穴を丁寧に説明して納得してもらうのは、技術者の重要な仕事だ。

ただし、衝突するのはかまわないが、あくまでそれは 着地点の模索であるべきだと思う。最初から拒絶するような、 「あんたは専門家じゃないんだから黙ってろ」的な態度は、言ってるそいつ自身が インチキ技術者であると明言しているようなものだ (死ぬほど忙しい時ならともかく、それ以外の場合でそんな態度をとってはならぬ)。 自分の専門について相手を納得させられない (あるいは、説明に失敗することを恐れる) 技術者は、結局、 自分でもちゃんと理解できていないのだ。そんなやつは、 きわめてアヤしい知識の上に仕事をしているに決まっている。 それに、たとえ最初は「そんなのゼッタイ無理だ」と思っていたとしても、相手に説明しているうちに 思いもよらない抜け道が見つかる可能性だってあるじゃない? もし、技術者が本気で誠実であろうとすれば、自分が間違っているかもしれないという 可能性を最後まで捨てることはできないはずだ。 それをさっさと捨てるヤツは、どう考えてもインチキである。

それから「ハードウェアの性能が足りないから悪い」とか、 「この商用ライブラリの実装が悪い」とかいいだすやつ。 こういう文句は開発者のあいだでさえ時々出るのだが、ほとんどの場合はこんな文句を言っても何の意味もない。 それは基本的に麻雀で配牌が終わってから「ハクがあと1個ありゃ勝てた」とか、 「アメリカに生まれてりゃ成功できた」「もっと顔がよければモテた」とか 言いだすのと同じである。おまえは子供か! …あんたが泣こうが笑おうが、もう手札は配られたんだよ。 我々にできることは、いま持っている手札で何とか生きのびる方法を考えることだけだ。 むしろ制約の多さはパズルの楽しさを増す。 「手札が配られた」状態は、まだ「賽は投げられた」状態ではない。 だからまだ我々は選択をすることができる。その中で、(いかにも少なそうな) 選択肢をいかに選ぶか、 あるいは一見選択できないような部分からいかに新しい選択肢を“発見”していくかという、 それがプロってものじゃないのかい? オレはそう思うね。

プロといえば、一般にプロであればあるほど物事に対する疑心暗鬼度は高まるものだと思う。 「相手を疑う以上に、自分を疑ってかかる」ような態度を身につけてはじめて、 プロと名乗ることが許される、ように新山には思われる。 そういう意味ではまだまだ新山もプロにはほど遠い。 真のプロは、おそらく自分を含めて人間というものが いかに過信しやすいかを知っているのだろう。そういう意味では、かれらは人間も 十分に探求しつくしているといえる。「技術のことしか知らない技術バカの技術者」などというものは、 マンガの中にしか出てこないニセモノだ。はっきりいって、ある学問を5年間ばかしやって、 Ph.D をとった程度で「哲学」が持てたなどと言うつもりはない。 要するに、オレはまだまだ甘い。

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(19:24)
おいおい、きみら、ボーナス以外の話題はないのかい?

…そういえば、小学生ぐらいの頃 "bouns" という綴りを「ばうんす」と読んでいたことを思い出す。 しかし、べつにたいした問題はなかった。

(00:11)
そういやー ここに書くのを忘れていたが LHB がまた復活してた。 といっても以前ほどのパンチ力はないが。yay!

そういやー かなり前の話になるが LWN からリンクされてた非常にためになる記事があったんだな。 それはこれだ。 オープンソース・ソフトウェアとうまく勝負するにはどうするか。 つまり、インターフェイスとサポートを懇切丁寧にやれば、OSSと直接競合するような ソフトウェアでもきちんと売れるという、きわめてまっとうな論理である。 それから技術について語るのではなく、問題を解くことを語れと。非常にごもっともで。 ひとつ笑ったのが、素人は誰も SourceForge からダウンロードなんかできないというとこだ。 あはは、まったく、そのとおりさね。なぜあのサイトがいまだにやっていけるのか、謎でしょうがない。

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(08:05)
くそ、nycのMLで議論しようとしても、いつも12時間遅れてしまう。
(00:21)
あんた型(がた) はオレを一体何だと思っているのか。

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(13:23)
さいきん忙しくて追っていなかったが、LispNYC ML でまた興味深い議論が起きている。 それは過去50年来繰り返されてきた「静的型検査 (あるいは型推論) は本当にイイのか?」 という議論である。これを見ているとおもしろい、というのは、これまで新山は 「静的型検査の必要性は、扱う問題の種類や規模によって違ってくるだろう」と考えていた。 しかし、この議論を見ていると、人によって本当に好みが分かれていて、どっちの議論も それなりに説得力がある。するとどうやら本当のファクターは、問題のほうにあるのではなくて、 それを扱う人間のほうにあるんじゃないか、つまり世の中には 「静的型のほうが合う思考パターン」をする人と、 「動的型のほうが合う思考パターン」をする人がいるんじゃないか? と思えてきた。 だとすると、これは科学的に (問題だけを見て) どっちがどういう場合に優れているとは 言えなくて、それこそプログラマの世界へのアプローチの方法によって違ってくる、といえる。

プログラミングがある程度は心理的なものであることを考えると (これまでソフトウェアを「科学的に」扱おうとする 多くの試みが失敗しているのは、おそらくそのせいであろうと新山は考えている)、 あんがいこれは馬鹿にできない要素かもしれない。 新山はつねに言語やプログラミングの認知的側面に興味があるので、 こういった考え方はとてもおもしろい。

(19:05)
トショカニ。 (へ行った)。

きょう笑えたニュースはこれ: 1700億ドルの政府援助を受けたAIG、重役にボーナス大量支給

ボーナスの総額は $165M なんだと。わずか援助額の1/1000じゃない。 たいしたことないよね? …ここでちょっと計算をしてみよう。

記事によれば、AIGの重役は全部で約400人。つまり $165,000,000 ÷ 400 = $412,500 = ひとり約4000万円。
(実際の金額にはもっとバラつきがあり、3億円以上もらっている重役が 7人いるという)

ところで (てくるで)、彼らは罪ほろぼしに年収を 1ドルにしているらしい。

おまえら、もっと笑えよ!

(23:35)
To Engineer is Human

カン高い声で話すオタクっぽい教授が出てきて、工学における安全性について語る。 機械工学や建築工学をやった人なら当たり前なのかもしれないが、 新山にとってはすごくためになる番組である。 形式はダサいけど内容は秀逸で、感動した。これは合法なアップロードなのか? よくわからんが、こういう番組なら金払ってでも見たいと思う。

新山はよくノンフィクションで感動するのだが、これは「プロジェクトX」なんかの番組 (実際に見たことはない) で演出される太文字の「感動」とは、まったく違う。 よいノンフィクションというのは、人間的な感情の入る余地がまったくなく (人間自体が登場しないノンフィクションだってある)、 淡々とした事実の羅列だけで感動できるのである。 人は世界の存在そのものによって感動することもあるのだ。 もちろん、わかりやすさの工夫は必要だけど。 新山は“新しい世界の発見”によって泣きたいのであって、 自己陶酔や感情移入で泣きたいわけじゃないのだ (そういうことも時たまあるけど、でもほとんどの場合は必要ない)。 だからオレはドラマも小説もほとんど見ないで、ノンフィクションばっかりあさる人間なんだな。 ムーミンは別として...

しかし、話は戻って、なぜこういう番組は人気がないのか新山には理解しがたい。 自分自身もエンジニアのはしくれである新山にとって、ふだんの日常生活がいかに 重要な (しかし気づきにくい) 工学の問題に囲まれているか、そして現代の生活がいかに 過去のエンジニアの失敗と不安と眠れない夜の上に積みあげられてきたかを認識するというのは、 感動以外の何物でもないのだが。 そしてこれは自分もまた襟を正さなきゃいかんと思わされる瞬間でもある。 こんないい番組が、どうして埋もれているんだろう? オレにはわからん。

日本でもNHK教育あたりならこういう番組はありそうだが、 それにしても、こういう教育番組をつくることにかけてはとりわけ日本は弱いような気がする。 新山がぜひあったらいいと思っているのは、たとえば、 正規分布だけに的をしぼった特集番組だ。冗談ではなく本気で、かなり感動的な番組が作れると思う。 これほど重要かつ日常的に利用されていて、しかも深遠なテーマに心を動かされない人間がいたら、 そいつはただのアホだ。あるいは二重盲検法でもいいよ。 新山は実際に "Statistics" を読んだときに、これの解説を読んで 「倫理的であるとはどういうことか」「科学的な方法とは何か」ということについて 考えさせられた経験がある。そして二重盲検の話は、いかに人間がだまされやすいかを 示す格好の素材でもあるし、懐疑的な見方を広める機会でもある。これで面白い番組ができないはずがない。
(追記: ふと思いだした逸話… Penn & Teller によれば、 かれらはエセ科学をあばく番組 "Bullshit!" の企画を売り込むのに相当苦労したらしい。しかし Penn があるときこう言ったんだと。 「おそらくこれから John Edward (自称 霊能力者) が、 9.11テロで死んだ人間をネタに人の墓石の上で視聴率を稼ぐような番組をやるだろうが、 それをただ黙ってしたい放題にさせておくのがあんたらテレビ局なのか?」と。 この台詞はかなり効いたらしい)

ひとつ思うことがある。ファインマンは「ノーベル賞なんか嫌いだ」といっていたけれど、 いま考えてみると、ノーベル賞受賞者という肩書きをもった、あれほど教育熱心かつ好奇心旺盛な、 そしてお茶目な科学者がいたというのは、なんて頼もしい世界だったのかと。 昨今の日本人のノーベル受賞者にああいった魅力があるとは思えない (彼らはただの疲れた老人に見える)。そういう意味でも、いまの世の中はちょっとばかし不幸だ。

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(03:27)
ひとつ大問題が発覚。 寝坊しすぎて眠れません。

…しかたがないので、日記でも書く。

(追記3/31、以下の議論はオカシイ)

ビジネスな人々が好きな「win-winの関係」というものについて。 最近、前にもましてこの考え方に疑いをいだくようになってきている。 基本的に、ビジネスにおける win-win な関係とは、顧客も自分も満足するような状態のことだ。 しかし、もしすべてのビジネスが (原理的には) 物々交換だとしたら、 両方が満足することはありえない。両方ともまったく損得がないか、 あるいはどちらか一方が得をして、もう片方が損をするはずである。 せいぜい、「何かをなしとげた」という達成感が残るぐらいだろう。 でも世の中には多くの「win-win の関係」が成立している、ように見える。 これは一体なぜなのか?

win-win の関係が成立するためには、双方とも「自分が払った以上のもの」を 受けとっていなければならない。すると、足りない部分は一体どこからくるのだろう? という疑問がうまれる。たぶん“外部”からくるのだ。外部とは、 ここで想定されているプレイヤーの外にある資源のことである。 たとえば、誰かが安く石油を掘って、それを高値で売ったとして、 それで両方ともハッピーになったとしよう。この場合、本当に消費されているのは 石油という (いずれ枯渇する) 資源である。 あるいは、誰かが海外で安く生産された製品を輸入して、国内でそれなりの値段で 売ったとしよう。この場合、「足りない部分」は海外の安い労働力によって 供給される (ある人はこれを搾取というかもしれない)。 いずれのケースでも、大きな系でみれば、win-win の関係は崩壊している。 結局、何物かが余計なコストを払っているか、あるいは貯蓄を減らしているのだ。 ただ系が非常に大きいので、それに気づきにくいだけの話である。 (唯一の例外は太陽エネルギーだね、これなら地球人は誰も損をしない。 しかしそれを言ったら石油だってもともとは太陽エネルギーが変化したものなのだが)

さて、以上のような「(見かけ上) win-win な関係」というのは、 “外部”に余分な (搾取できる) 資源があるとき限られる。言いかえれば、 世界が経済的に成長できるときだけ、win-win な関係が成り立ちうるのだ。 (なぜなら、経済的な成長ってのは、結局のところ「まだ未使用の資源を開拓し、利用する」 ってことだから)。もしいずれ世界の賃金水準はすべて同じになり、 余剰な資源もなくなって平衡状態になったら、どうなる? ゼロサムのゲームのときは、 win-win な関係は基本的に起こりえない。新山は、世の中が すでにそういう状態になってきていると予想している。 だとすると「win-winな関係」とかいってる連中は、基本的には、 ごまかしをしているにすぎない。それは彼らの罪悪感を薄めるための うまい言い訳を与えているのだろう。きっと。

…いやはや、いつの時代にも「免罪産業」ってのは、儲かるもんですね。

(追記) もし、本当のインチキでない「win-winな関係」があるとすれば、 それは物質的なものではなくて、もっぱら心理的なものだ。 それは「我々はお互いにいいことをしている」といった 感覚である。でもそういった感覚はべつに金銭のやりとりをしなくても得られる。 もし真の「win-winな関係」を求めているのなら、ボランティアでもやったほうがいい。 しかし、経営者のような人は決してこれを理解しようとしないだろうね。

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(12:11)
けさは大々的に寝坊するはずだったのが、朝からものすごい風ビューう゛ューで 目がさめてしまった。こんんにゃろ。その後、風がおさまってきたので二度寝する。 そしたら見事に偏頭痛。

先週も暇をみつけてはプログラミングをしていたが、最近、やばいと思い始めてることがある。 それは、いい加減そろそろ、こいつを公開しないとやばい、ってことである。新山の持論として 「開発期間があんまり長くかかっているソフトウェアは、作業してるうちにそれ自体が 腐ってくる」というのがある。もう 1年ぐらいやってるからな。 pdfminer の場合は3年以上かかっているが、そのあいだずっと作業していたわけではなかった。 今回は、1年近くもずっと作業している。そろそろ潮時だろう。

しかし、ほかにも (趣味で) ヤルコトがたくさんある。だけどそれをやる時間や体力が追いつかない。 (新山がこういう作業をできるのは、たとえ趣味であっても 1日にせいぜい 2〜3時間までである。)

(01:10)
どういうわけか、ある所で見かけた問題:

「3π と、 π3 では、どちらが大きいか?」

というのを証明しようとして、ハマっていた。 1時間ぐらいかかってようやく解けたが、腕がなまったもんよ。 それにしても久しぶりに高校の数学と格闘したが、 もはや微分とかほとんど忘れていたので、いろんな式をわざわざ導出しながら 解かなければならなかった。(実は新山は昔から公式とか覚えるのが嫌いで、 二次方程式とかも毎回 因数分解していたのだが、 こんなんでも大学は卒業できるのである)

それにしてもまたつまらぬことに時間を使ってしまったようの気のする。もう寝よ。

/14 [6]


(00:55)
「ぼくは栄誉が嫌いだ (I don't like honors)」 by Richard Feynman :

インタビュアー 「…それは、本当にノーベル賞に値するものだったのですか?」

ファインマン 「いや。ぼくは知らんよ。ぼくはノーベル賞の意義を知らんし、 なにがどういいのかも知らない。スウェーデン科学アカデミーの連中が、 X氏、Y氏、Z氏にノーベル賞を与えるという。お好きにどうぞ。 ぼくはノーベル賞などとは関係ない。あれは厄災みたいなもんだ。

ぼくは栄誉が嫌いだ。ぼくは自分の仕事の価値を理解しているし、 他の物理学者がこの結果を使っていることも知ってる。 それ以上のことは何も要らんよ。それ以上の意味というものをぼくは知らない。 それ以外は無駄なことだ。スウェーデン科学アカデミーの誰かが 『この仕事は高尚なのでノーベル賞に値する』とか決定しても、 ぼくはもう報奨をもらっているんだよ。ぼくがもらった報奨というのは、 何かを探求するという喜び、ゾクゾクするような発見、 そして他の人も使っているという事実だ。これらは現実のものだ。 栄誉は現実じゃない。ぼくは栄誉なんてものは信じない。 うんざりなんだ。栄誉はもうエエヨ! って感じなんだ。 栄誉なんか勲章とか、制服みたいなもんだ。 ちょうど父にそう育てられたように、ぼくはそんなのには耐えられないんだ。

高校にいたころ、ぼくが最初にもらった栄誉というのは、 “アラスタ”のメンバーになるということだった。 これはよい成績をとった生徒のグループでね、みんな“アラスタ”のメンバーになりたがった。 それで入ってみてわかったのは、ミーティングでみんなが座って話していたのは 「我々のこの素晴らしいグループに参加させるのは誰であるべきか?」 ということなんだ。オーケイ、つまりぼくらはここに座って、 次に誰を仲間に入れてもいいかとかいうことばっかり話し合ってるわけか。 そんなのごめんだよ。心理的に、あるいは他の理由があるのか知らないが、 とにかくこの日からぼくにとって栄誉というものは忌むべきものとなった。 全米科学アカデミーの会員になったときも、けっきょく辞めざるを得なかったよ。 なぜなら、この団体というのが、これまた 「次に会員になることを許されるべき輝かしい人物は誰であるか?」とかゆうことばっかり 議論してる団体だったからだ。で、さらに「われわれ物理学者は 団結しなければならない、なぜならあっちにいい化学者がいて、 あれが入ったら物理学者の入る空きがなくなる」とかいってる。 化学者の何が悪いっていうんだ! こんなのは全部、腐ってる、んだよ。 なぜならその目的がほとんど「誰に栄誉を与えるか」とかいうことばっかりだからだ。 だから栄誉は嫌いだ。」

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(08:03)
そういえば最近気づいたのだけど、某TB駅前の 巨大ディスプレイって意味あんの? ほとんど売れてなさそうな広告ばかり流れている。 こないだは、なんと myspace の広告が流れていた。いまさら myspace? そもそも、myspace ユーザのうち 97% は自動応答スクリプトによって生成されたアカウントであることが知られている。 また、そうでないユーザのうち 35% はプロフィールの出生年前にすでに死亡した人物であり、 さらに残りの 56% は長野県の出身じゃない。あまつさえ、全ユーザのうち 86% が 「自宅で違法にどぶろくを精製したことがあるか」の質問に yes と答えている。 つまり、 [要出店] ってことだ。
(19:57)
さいきんガーソと思ったこと。:

「痩身」て、「やせみ」って読むんじゃなかったんだ? …またひとつ賢くなってしまった。このペースでいったら、 来年あたりには大天災になってしまうでわないか。あるいわ大転載。   フム

(20:40)
A社:
ウ○○○○に一致するウェブページは見つかりませんでした。

再検索のヒント:

B社:

ウ○○○○ に一致する情報は見つかりませんでした。

検索のヒント:

C社:

ウ○○○○ に対する検索結果が見つかりませんでした。

検索のヒント:

D社:

申し訳ございません、“ウ○○○○ ” に該当するウェブページは見つかりませんでした。

Baiduからのアドバイス:

どいつもこいつも! ○○○カ○を知らんとは。 オレだったら絶対恥ずかしくて生きてらんないね。

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(09:51)
きのうはものすごい花粉症のクシャミ発作で、死ぬかと思った。 たてつづけに5、6回クシャミをすると汗だくになるし、腹はへるし、 腰痛になるし、もうヤバいよ。やっぱりクスリは必要だと思ったね。
(15:01)
意味について…人間があることに「意味がある」と感じる能力というのは、 人間のだまされやすさと関連しているのではないか?

このビデオを見たらそう思った。 手品師は心理的なトリックをよく使うが、ここで紹介されているのは 観客に現象を「解釈させる」手法である。Teller が最初の 1、2回、自分の手からコインを取り出して 缶にジャランと入れてみせると、観客は「ああ、こいつは手からコインを出しているんだな」という幻想を学習する。 やがて観客は彼が実際に手からコインを取り出していなくても (もちろん、あたかも実際に 取り出しているように見せるのが手品なのだが)、缶をふってジャラジャランと音をさせるだけで 「新しいコインが入ったな」と思い込むようになる。これらがあまりにも手早く、しかも 自然な感じで行われるので、こうして最初の10秒かそこらのうちに、 手品師は観客の幻想を強化するように誘導していく。つまり観客は無意識のうちに トリックが成功するように積極的に加担していくのである。

手品においては、人間が当たり前だと思っている仮定を利用するが、 かといって騙されないためにすべての仮定を捨てることはできない。 人間は「当たり前の仮定」が沢山なければ生活できない。 James Randiも言っているように、 道を歩いていて、信号機の色の意味がいつもと同じかどうか心配する人はいない。 それを心配しだしたら、まさに精神疾患である。 Randi はここで期せずして、いわゆる「フレーム問題」について語っている。 人間はこのように大胆な仮定をいつも利用することによって、 探索空間の爆発を防いでいるわけだ。手品はそれを活用している。 そして、あやしい宗教や、マスコミや、広告などもひっそりとこれを活用 (というか悪用) している。

さて、「意味」と「学習」のあいだには大きな関連がある。 ヒトが異なる 2つの事象のあいだに自明でない関連があると学習したとき、 そこに「意味」というものを感じるわけだが、実際にはその関連づけは しっかりした基盤をもたない場合もある。するとこの場合は、いわゆる 「過学習」になるわけだ。だとすると「だまされている人」とは過学習している人のことで、 人間の「だまされやすさ」とは、実は「意味を見つける能力」そのものなのではないか? 何事にも騙されない人は何事をも決して学習できず、学習能力の高い人は同時に だまされるリスクも大きい。さらにいえば、 人生に意味を見いだすためには騙されやすくなっている必要がある。 それはまさに、宗教の必要性を証明しているじゃないか。

人をダマすために必要なのは、前提となっている「当たり前の仮定」が存在することを なるべくカモが思い出さないようにすることである。なぜなら、そうすると 人は仮定を疑いだすからだ。質問癖のある新山からみると、 どうすればそんなことが可能なのか、わからないが。…

もうひとつ、人は「だまされたがっている」という事実も重要だ。 しかし、それは本質的に「新しいことを学習したがっている」ことと同じ欲求なのではないか?

(18:24)
きょうはまたぞろ図書館から借りてきた「基礎アラビヤ語」(内記良一著、大学書林刊 1983年) を 読もうと努力したが、挫折した。アラビア文字って全然読めねえや。

そのあと昼寝し、プログラミング。

/07 [6]


(09:33)
米国の報道で知ったのだが、jobless rate と unemployment rate は違うらしい。 じつは米労働省の unemployment の定義は「失業中」という意味で、これには (退職したり、あきらめたりして) 職探しをしてない人はカウントされてないらしい。 だから米国の実際の非雇用率はもっと多いことになる。ちなみに、カリフォルニアでは この数値はさらに高く、10% 近くが失業中であるという。 さて、世界の経済は、成長しているのであるか? まあ、コインでも投げて決めるさ。
(19:10)
きょうは例のアレに遅刻した。。。すんません。

最近読んでいる統合失調症の本 (S. アリエティ「統合失調症入門」 近藤喬一訳、星和書店) によると、 統合失調症における幻覚というのは、心理的な防御反応の一種なんだそうな (という説があるそうな)。 へえそう。新山はむしろ幻聴というものをいちど聴いてみたいと思っているのだが、 こんなこといったら怒られるだろうな。とりわけ興味あるのは、幻聴がいったいどういうふうに聞こえてくるんだろう? ということである。それは誰かが自分の近くに座って始終話しかけてくるような聞こえ方なんだろうか、 あるいはラジオのイヤホンから漏れてくるような音なのか。あるいは、宇宙から大音響で放送される ような聞こえ方なのか? ろう者の場合は幻聴ではなくて「幻手話」になるのか?? …など、疑問はつきない。 新山は自分ではやや分裂気質っぽいと思っているけど、今のところそういった症状はまったくない。 まあ、もともと日常生活でストレスがない人間には精神病はまず起こらんだろう。 というか、自分はむしろ人格障害の一種「他人には迷惑かけておいて自分はぜんぜん平気」症候群なんではないかと ひそかに心配にしている。どうなんかね。

/06 [5]


(23:37)
高田渡「生活の柄」を聞くと、なぜか "Amazing Grace" が 思い出される (vice versa.) オレは、頭がおかしいのだろうか。

ちなみに山之口貘は、いまや国語の教科書にも載っているんだから、 ぜんぜんマイナーではない (でも「生活の柄」は載ってなさそうだけど)。

/05 [4]


(07:56)
ひさびさに鮮明な (そして変態的な) 夢をみた。 みんなそろってどこかに旅行に行くのだが、新山はいつものとおり、突然はぐれたり、 ゼンゼン関係ない人々と遭遇したりする。 電車はあいかわらずものすごい場所を走るし、この手の夢にはつきものの 「すんごくオカシイ状況なのにぜんぜん不思議に思わない」という状況がひんぱんに現れる…。

いやしかし、再帰んあまり夢を見てなかったので (疲れているからか?)、 たまに見ると喜んでここに書いてしまうのだが、かといってこれの内容は 新山以外の誰にもわからない。まあそれがこの日記のもともとも目的でもあるのだが!

by no means...

(00:00)
JamesNintendoNerd によるゴジラ映画 全29作品の紹介。 これほどゴジラが好きなアメリカンも珍しいだろう…と思ったら、そうでもないみたい。
Oh, yeah. It's back. It's Cinemassacre's Monster Madness!

Last October we explored the history of horror films. But now we're going “ダイカイジュウ”style, “ダイカイジュウ” is a Japanese term for giant monsters usually referring to the entire genre of giant monsters like Gamera, War of the Gargantuas, and a shit-tons of others. But the one we're gonna talk about is Godzilla. He starred in 28 films. There is no doubt that he is the ultimate king of the monsters. He was originally a bad guy destroying Tokyo and other cities in Japan, but then he became a hero saving the world from evil monsters and alien invaders, including ギドラ, ガイガン and メカゴジラ. He's been a father and environmentalist. He's been the subject of comic books, animated cartoons, tons of action figures and song by Blue Oyster Cult, and video games including many tournament fighters such as Destroy All Monsters melee, and recently Godzilla Unleashed. So we're gonna do is go through the whole 50 years of from 1954 to 2004 and see how this mega movie monster evolved as time passed. Why Godzilla? I don't know. It was just something I wanted to do for a long time. Monsters... Halloweens... close enough. It should be fun.

しかし新山は日本人でこんなに怪獣映画の好きな、いい大人を 知らない (晦渋映画好きなら知っているが)。

/05 [4]


(01:05)
やっと雑用が終わって、さて日記を書くかと思ったら、もう寝る時間だ。

/02 [1]


(19:56)
なんだこの風は。風邪ひくぞ。 帰るときにチャリをこいでたら強風のせいでほとんど前に進まず、上り坂でコケそうになった。 くんにゃろ。

てくるで、番茶と茶番って似てるよね。

(23:16)
ラララ卵黄♪
(23:21)
人を比較することについて。新山は、人を比較することには賛成だが、 それはわりと客観的に数値測定できるものだけにかぎる。

ときに「合理的な」人々は、あたかも人間の“優秀性”とかいうものが、 まるで客観的に測定可能であるかのような言い方をする。 しかしこれは実のところ、連中が (表面上は科学的なフリをしていても) まったく「測定」ということの意味をわかってないアホだからにすぎない。 オレはこうした人々が大っ嫌いだが、これは新山いち個人の主観である。 そして、個々人の主観が大勢にまったく影響を与えない社会は、よい社会だと思う。

/01 [0]


(14:51)
おっと、もう3月だったか。

Document ID: 6d26621a8881cb1146aa1e44531cfbd1

Yusuke Shinyama