今月は日記を書きすぎた。だからこれ以上書かない。
このようなものを翻訳しました。
エドガー・W・ダイクストラ: 謙虚なるプログラマ (The Humble Programmer)
いまさらな話だが、 Glenn Beck が「日本の地震は神からのメッセージだ」と言ったらしい:
…ええと、ぼくは「神がこの地震を起こした」なんて言ってないよ。 え? ぼかぁ、ぼかぁそんなこたぁ言ってないよ、ね? 神様のやることは…神様だけがご存じのことだ。 ぼかぁ知らない。しかしこれだけは言える。 それをガイアと呼ぼうが、イエス・キリストと呼ぼうが、 何らかのメッセージが送られたと…ね? “おいお前ら! 自分のやってることがわかってんのか? そいつはちっとばかしマズいかも知んないな! そろそろやめがほうがいいかもな! (藁)” なーんてね! と言ってみるテスト。(略)
結論: 彼は将来の東京都知事になる資格がある。例の「天罰おじさん」でもなれるんだから、当然だよね。
ちなみに、キリスト教の神は日常的に2ちゃんねる用語を使っており、 聖書にもちゃんとそう書いてある。
(追記) Rush Limbaugh: 「日本人は地球を救うために頑張ってプリウスとか作って、 避難所ですらゴミの分別をしてるっつうのに、地球から恩を仇で返されてやんの、ワハハハ!」
ちなみにyoutubeには、有名人でなくてもこうした意見を言っているキチガイが沢山いる。 連中の主張にはどれもオリジナリティがないので、一度見ればもう充分。
…ところで (てくるで)、 Pat Robertson は今どうしてんだ?
オール電化!
…いやそれにしても、いまの東電はじつに気の毒な会社だと思う (まあ、これまでいい思いをしてきたのかもしれマセンが)。 結局、うちらが今まさに目のあたりにしているのは、「安全性」と 「利便性・効率性」のトレードオフそのものなわけだ。 もし利便性だけを求めるのならば、すべての資源を一元的に コントロールしたほうがいいに決まってる。いろんな種類の発電所をあっちこっちに作るよりも、 バカデカい原発をいっこだけ作って、そいつにすべての電力を供給させたほうが圧倒的に効率いい。 でもそれだと心配なので、わざわざいろんな発電所を作っているわけである。 同じように、小売業に対しても今回は仕入れの合理化が裏目に出た店が目立ったように思う。 こういう企業は、地震さえなければ効率的・合理的な経営として 賞賛されたのかもしれない。しかし、こういうときは多少効率が悪くても 複数の流通ルートをもっていたほうが安心なのだ。
そして、あいかわらず巨大システムに依存することの問題がとりついている。 たとえば、もしいま東電の柏崎原発でなにか安全上の重大な問題が見つかったとして、 検査のために発電所を止めるか? いまあそこが止まったら、東京じゅうが停電するのは ほぼ確実だ。おそらく消費者はブーブー文句をいうだろう。 かくしてその発見はもみ消され、リスクは増え続ける。 そのいっぽうで、もし本当に事故が起きたら、一般大衆は 「なぜもっと検査しなかったんだ?」とか言うに違いないのである。 結局、原発をやっても文句を言われ、やらなくても文句を言われるのだ。 かといって火力発電所にぜんぶ頼ったら、今度は中東情勢をひっきりなしに 心配しなければいけなくなるよ。
ふと思ったのだが、もしかすると新山が過度な合理化・効率化を嫌っているのと、 巨大・複雑なシステムを嫌っているのは、根が同じ問題なのかもしれない。 巨大なシステムというのは、だいたい合理化に重きを置きすぎた結果できるものだからだ。 新山が望むのは、分散・矮小化された「ケチくさい社会」である。 …しかしたいていの人はそういう社会は嫌いなんだろう。じつに残念なことだ。
きょう帰りぎわに新山とすれ違った 2〜3台の自転車に言いたいこと:
「べつに節電だからって、自転車のライトまで消す必要ないんだけど」
ホント、ただでさえ道が暗いのに、無灯火にされると怖くって大変迷惑。
おや、20-20だ!
大学生のころ、雑誌や生協のパンフレットなどをもって PCのスペックの話で盛り上がっている男どもを見て 「ああいう連中ほど哀しいもんはないよな」と思っていた。 そして、いまでは携帯電話のスペックとか webサービスの話で盛り上がっている男を見て 「ああいう連中ほど哀しいもんはないよな」と思っている。
さぞかし人生つまんないんだろうね。
ゆうべ、ベッドの中で、朝になったら書こうと思っていたことがあったが、 今朝になったら何だったか見事に忘れている。 しかしこの「忘れっぷり」が頭の回復ということなんだろうな。
人の記憶は眠っているあいだに再構成されるという。 つまり眠りというのは頭のGCのようなものだ。 (注: GC…Game Cube)
「わかりません」と言える学者は誠実な学者である。
"宮城" (Miyagi) っていえば、ふつうの人が思い出すのは Mr. Miyagi だよね?
参考文献: Pat Morita - Archive Interview Part 1 of 7
おそらく多くの日本人にとって屈辱的なのは、これまで 「健康的」かつ「衛生的」かつ「優等生的」とされてきた日本人が、 ここになって世界中から「国際えんがちょ」されつつあることである。 いままでさんざ中国産食品をバカにしてきたのにね。 しかし、こういう機会に立場の逆転を味わってみるのはいいレッスンだろう。 実際のところ、それが何だというんだ? 日本でいわれる「愛国心」とやらのほとんどは、実は海外コンプレックスの裏返しでしかない。 (まあこれは他の諸外国でも同じか)
月曜日が休みだとなにがまずいかっちゅうと、 ゴミの日を間違えることだ!
LispNYC MLでの話: CMU、情報科学の入門講座からオブジェクト指向プログラミングを排除。
きのうのずつき。 これもNYTに書いてあったことだが、 原発で事故が起こるのは、みんなが原発を嫌っているせいでもある。 なぜならそのために新規開発や研究がやりにくくなって、結局 ふるくなった原子炉を後生大事に使いまわすしか選択肢がなくなり、 その結果ますます危険性が増すからだ。この議論には、一理あると思う。
ついに自分自身をクローンさせる方法を発見しました。
きのう、ふと思いついて作ったもの。ひとりでバカウケ。
こんな奴が3人もいたらさぞかしウザイだろーなー (1人でも十分ウザイのに)
日本語の書き言葉というのはじつに偏見を生みやすい形態だ。 漢字、カタカナ、ひらがな、alphabetのどれを使っても その表記を使ったことによる一定の印象がもたれる。
きょうは震災後はじめて電車に乗った。新宿はえらく人がいない。雨のせいかも。
どうも外国の記者は消防団のハッピがお好きらしいね。 かならず写真に映ってる。
おもしろい資料を発見した。 「原発はどのようなところに作るべきとされていたのか?」
原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめやすについて (PDF, 16KB)
昭和39年5月27日
原子力委員会決定
1. 基本的考え方
1.1. 原則的立地条件
原子炉は、どこに設置されるにしても、事故を起さないように設計、建設、運転及び 保守を行わなければならないことは当然のことであるが、なお万一の事故に備え、 公衆の安全を確保するためには、原則的に次のような立地条件が必要である。
(...中略...)
1.2. 基本的目標
万一の事故時にも、公衆の安全を確保し、 かつ原子力開発の健全な発展をはかることを方針として、 この指針によって達成しようとする基本的目標は次の三つである。
- 敷地周辺の事象、原子炉の特性、安全防護施設等を考慮し、技術的見地からみて、 最悪の場合には起るかもしれないと考えられる重大な事故(以下「重大事故」という。)の発生を仮定しても、 周辺の公衆に放射線障害を与えないこと。
- 更に、重大事故を超えるような技術的見地からは起るとは考えられない事故(以下「仮想事故」という。) (例えば、重大事故を想定する際には効果を期待した安全防護施設のうちのいくつかが動作しないと仮想し、 それに相当する放射性物質の放散を仮想するもの)の発生を仮想しても、 周辺の公衆に著しい放射線災害を与えないこと。
- なお、仮想事故の場合には、集団線量に対する影響が十分に小さいこと。
2. 立地審査の指針
立地条件の適否を判断する際には、上記の基本的目標を達成するため、 少なくとも次の三条件が満たされていることを確認しなければならない。
- 原子炉の周囲は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること。
ここにいう「ある距離の範囲」としては、重大事故の場合、もし、 その距離だけ離れた地点に人がいつづけるならば、 その人に放射線障害を与えるかもしれないと判断される距離までの範囲をとるものとし、 「非居住区域」とは、公衆が原則として居住しない区域をいうものとする。- 原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、 低人口地帯であること。
ここにいう「ある距離の範囲」としては、仮想事故の場合、 何らの措置を講じなければ、範囲内にいる公衆に著しい放射線災害を与えるかもしれないと 判断される範囲をとるものとし、「低人口地帯」とは、著しい放射線災害を与えないために、 適切な措置を講じうる環境にある地帯(例えば、人口密度の低い地帯)をいうものとする。- 原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること。
ここにいう「ある距離」としては、仮想事故の場合、全身線量の積算値が、 集団線量の見地から十分受け入れられる程度に小さい値になるような距離をとるものとする。
…つまり、結論は「原発は大都市から遠く離れたところに作れ」ってことになる。 (まあ予想できてはいたけど。)
さらにつづき。 「原発の安全性はどの程度であるべしと規定されていたのか?」
発電用軽水型原子炉施設の性能目標について (PDF, 340KB)
2. 性能目標案2.1. 定義
発電炉は、炉心に放射性物質を多量に内蔵しており、万が一環境に放出されれば、 公衆に健康被害をもたらすという潜在的な危険性(リスク)を有している。 そのため、発電炉の設計や運転管理にあたっては、 事故発生時に放射性物質が環境に放出されることがないよう従来から、 多重防護の基本的考え方に基づいて原子炉の安全設計を行うとともに、 厳格な運転、維持管理を行うことが定められ、リスクの顕在化を抑制している。
しかしながら、万が一、安全設計で考慮された設備等の故障や誤操作等が重なれば、 想定される事象を超えて、炉心に重大な損傷(シビアアクシデント)が発生し、 更に格納容器の機能喪失に至るような事故に進展した場合には、放射性物質が環境に放出され、 周辺公衆に健康被害をもたらすような重大な事故が発生する可能性が否定できない。 我が国の安全規制体系の下で、適切に設計・建設・運転管理されている発電炉では、 このような重大な事故の発生確率は極めて低い水準に保たれているものの、 発生確率はゼロとはいえない。
こうした発電炉の安全確保の水準を評価するため、 我が国では既に定期安全レビュー (PSR: Periodic Safety Review)や アクシデントマネジメント (AM: Accident Management) 対策において、 PSA 手法を用いシビアアクシデントの発生確率や、 事故による影響等の定量的な評価が行われる。発電炉の PSA では、 レベル 1 PSA では、炉心損傷の発生確率、 レベル 2 PSA では、炉心から環境に放射性物質が放出される事象の発生確率と放出放射能量、 レベル 3 PSA では、環境に放出された放射性物質が周辺公衆に及ぼす健康障害という 3 つの段階に分けて評価を行う。 このうち、レベル 3 PSA の評価では、特にレベル 1 PSA 及びレベル 2 PSA の評価結果を用いて、 安全目標と直接比較可能な個人の平均死亡リスクが定量的に評価される。
一方、中間とりまとめにあるように、 原子力施設の安全確保には多重防護の考え方が採用されていることを踏まえると、 原子力施設の外側の層の防護機能を適切に仮定することによって、 重大な事故や事象の発生確率を安全目標に対応する性能目標として定めることができる。 そして、施設内部の安全上の問題については、この性能目標が達成されていると評価された施設に対しては、 安全目標で示されたリスクの抑制水準を達成できていることの判断が可能となる。 以上のことから、本分科会では、性能目標は安全目標への適合性を判断するための補助的な目標と定義し、 性能目標の指標としては、発電炉の特性に着目した指標を選定することとした。
定量的安全目標は、事故による影響発生の可能性の原因として、 機器のランダムな故障や運転・保守要員の人的ミス等により発生する内的事象と、 地震及び津波・洪水や航空機落下等による外的事象の両者を対象としていることから 性能目標の検討にあたっても、両事象を考慮した性能目標を検討の対象とする。
なお、産業破壊活動等の意図的な人為事象に起因するリスクの抑制は、 安全対策としてよりは、保安対策として検討すべき事項であり、安全目標専門部会同様、 本分科会でも検討対象外とした。
2.2. 指標の選定
発電炉周辺の公衆のリスクは炉内の大量の放射性物質の環境への放出に起因することから、 性能目標として用いる指標は、炉心の健全性、即ちレベル 1 PSA や、格納容器の閉じ込め機能の健全性、 即ちレベル 2 PSA に関連し、施設の性能をよく代表するもの、かつ、定義が明瞭で、 適切に定量化できるものを選ぶ必要がある。
具体的には、リスクの源となる炉心に内蔵される放射性物質の放出をもたらす炉心損傷の発生確率、 すなわち炉心損傷頻度(CDF: Core Damage Frequency)を性能目標の指標(指標 1)とすることは合理的と考えられる。 また、原子炉格納容器等の発電炉の最外層の防護機能が確保されていれば、 環境への放射性物質の放出を極めて低いレベルに抑制することが可能であることから、 格納容器の防護機能喪失の年当たりの発生確率、すなわち、 格納容器機能喪失頻度(CFF: Containment Failure Frequency) を 性能目標の指標(指標 2)とすることは合理的と考えられる。
以上のことから、本分科会では、発電炉の安全確保の水準を表し、 安全目標への適合性を判断するための性能目標の指標として、
を併用することとした。
- 指標1.炉心損傷頻度(CDF)
- 指標2.格納容器機能喪失頻度(CFF)
2.3. 指標値案
(...中略...)
以上の検討結果から、本分科会では、発電炉の性能目標の定量的な指標値として、
- 指標値1. CDF: 10-4/年程度
- 指標値2. CFF: 10-5/年程度
を定義し、両方が同時に満足されることを発電炉に関する性能目標の適用の条件とする。
なお、中間とりまとめに指摘されているように、リスク評価で扱うデータや事故による影響が発生する過程には、 我々の知識の不足などによりその結果には不確実さが伴う。そこで、 定量的目標または性能目標とリスク評価結果の比較には、原則として、 この不確かさの大きさを評価したうえで得られる平均値を使用することとする。
…オーケイ。これは問題だ。たしかに、どんな技術も「100% 絶対安全」なんてことはありえない。 原発も人の子であるので、人間にできることはせいぜい 「事故の確率 (リスク) を見積り、なるべくそれが少なくなるように設計する」 ことだけである。しかしここでの問題は、彼らの見積りが (おそらく) 甘かったことである。 上の資料によると、原発では:
…で、どっちのほうがありそうかといったら、明らかに 2. だよね? そもそも、原子炉みたいに複雑で、あっちこっちからいろんなものが出たり入ったりして、 なおかつ構成や環境の変化も多いシステムなんて、ほとんど複雑系みたいなもんだ。 こいつのふるまいを前もってすべて予測して危険性を計算するなんてのは、 人間業じゃない。それでも、こういう研究はこれまできっと沢山行われてきたのだろうし、 新山はそういう研究者をある程度は信頼しているので、もしかしたらおおまかな答えは 出せるのかも、ぐらいは期待できる。しかしここで新山がより大きな問題だと思っているのは、 ふつうそういう研究者が見落している、 巨大システムと組織にまつわる特有の構造的な問題である。
原子炉のように複雑なシステムは、ふつう一人ではできない。 原発を実際に作って動かすには、おそらく数千人規模の作業者が必要だ。 このくらいの規模になると、とーぜん各人が自己判断で動くわけにはいかないので、 彼等はよく整備されたピラミッド型の組織の中で働くことになるだろう。 さて、このような場合、“現場の認識”と“トップの認識”はいつも本当に一致しているんだろうか? …実にあやしい。なんしろピラミッドがあまりにもでかいので、 末端の情報が上に届くまでにはいくつもの管理職を通さねばならない。 その途中で情報が微妙に歪曲されたり、誇張されたり、あるいは無視されたりといったことは 実にありうる。なぜって、中間管理職の方々にもまた彼ら独自の事情 (評価とかメンツとか責任とか) があるからだ。
これは東電に限ったことではない。じつは NASA でも過去に同じ問題が起きていた。 なぜ新山がこんなことをいきなり書きだしたかというと、 この確率の話を読んで、ファインマンによるチャレンジャー号事故の報告書を思い出したからである:
付録 F. スペースシャトルの信頼性にまつわる個人的観察
R. P. ファインマン概要
宇宙船の故障と、それによる人命の損失の確率については、 人々の間に大きな意見の隔たりがあるようである。この見積りは およそ100分の1というものから、10万分の1というものまであった。 高い確率は現場のエンジニアからきたものであり、いっぽう非常に低い確率は NASA上層部からきたものである。これほどの不一致がおこる原因と、 それがもたらす帰結はどういったものであろうか? 10万分の1の確率といえば、 これは300年のあいだ毎日スペースシャトルを打ち上げつづけても 1回しか失敗しないということを意味する。だから私たちは こう尋かなければならない。「この宇宙船に対して、 NASA上層部がこれほどまでに絶大な信頼をおいてしまった原因は何だろうか?」と。
(以下略)
これにまつわるファインマンの逸話を読むと ("What Do You Care What Other People Think!"参照、 たぶん日本語訳は『困ります、ファインマンさん』に載ってる)、 あきらかにNASAでは現場と管理職の意思疎通がうまくいってない。 まあ、考えてみれば想像がつきそうなものだ。一方では“国家の威信”を気にしており、 もう一方では打ち上げ当日の気温低下によるO-リングの亀裂を心配しているのだ。 あまり利害が一致しているとは思いにくい。 今回の件にしたって、東電ほどの企業のトップと、 現場の (もしかしたら子会社の下請けの、そのまた下請けの) 作業員のあいだにどれほどの隔たりがあるか。 (まあ、実際には新山はそんな大企業で働いたことないんで、あんまり想像つきませんが…。) 彼らの作業をすべてトップが完璧に把握できると思う? この溝は組織がでかくなればなるほど深くなる。にもかかわらず、巨大な組織にならないと 原発 (やシャトル) ほどの巨大なシステムは作れないのだ! したがって、この手の巨大なシステムではつねにこのような意思疎通の問題による 事故の危険性が無視できない。もちろん、同じ問題はソフトウェアでもありうる。 たしか「もんじゅ」の事故の時も似たようなことが言われていた。 事故がおこるのは、たいていは細かいミスや細部の金属疲労が原因なのだ。 これらの欠陥をすべて一元的に把握できるかといったら、たいそう疑わしい。
いずれにせよ、こうした問題は原子炉の研究者が安全性の確率を計算するときには 考えに入ってこないファクターである。かれらは、各作業員が完璧に ロボットのように動くと仮定して計算するのだ (でなけりゃモデルが複雑すぎて 予測なんかできない)。しかし、たとえ東電の社員といっても彼らはロボットではない。 サボる奴もいるし、勘違いする奴もいるし、見栄っぱりの奴も 臆病な奴もいるのだ。東電社員どころか、それよりはるかに信頼されるはずの 検察官ですら組織ぐるみでゴマカシをやる社会だよ! かくして原発の安全性はこうしたファクターにより予測不可能なものになる。 このジレンマはどうやったら解消できるのか、新山は知らないが、 これから世の中にますます巨大なシステムが増えるに従って、 この問題は人類全体に重くのしかかるようになるだろう、と予想する。
原理的にいえば、この問題に対処する方法は 2つあると思う:
個人的に、新山の考えは圧倒的に 1. だ。しかし、もしかすると 2. のアプローチをとりたがる人々もいるのかもしれない。 この場合、彼らが目指すのは明らかな『統制社会』である。 だから新山は巨大システムを夢見る人々にはいつも恐怖を抱いている。 彼らが権力をとったら、まず最初にすることは「人類を平均化する (異端分子を排除する)」ことなのは 間違いないからだ。新山が複雑な機械や巨大なソフトウェアを忌み嫌う理由はこのへんにある。 …しかし、ドストエフスキーなどを読むと 「もしかして人類は個人の自由や独立なぞ望んでいなくて、 じつは統制されたがっているんではないか?」とも思う。 このテーマはいつも新山の思考の中にくり返し表れる。 でもまあ悩んだところでしょうがないよね。
↑を書くのに2時間もかかったぞ。どうしてくれる
どうも日本のマスコミは、 死者が多けりゃ多いほどいいと思ってるような気がしてならない。
で、今日になったらアメリカンの関心事はもはや
複数のアメリカン (マスコミ以外も含む) に聞いたところによると、 今回のガッカリしたことは「日本はすげえハイテク国家だから、 こういう時は絶対に巨大ロボットとかが出てきて作業すると思ったのに、 ヘリコプターで水なんか撒いてる、だっせー」 ということらしい。まあ、それはそうかもしれないが、彼らが理解してないことがあって、 それは「日本はハイテクなところと、そうでないところの落差が大きい」ということなのだ。 だから自販機やトイレ便座は必要以上にハイテクなのに対して、 いまだにTVはネットで見れないし (最近は見れるのか? 知らんけど)、 遺伝子組み換え食品にはみんな拒絶反応を示すし、 ATMや地下鉄は24時間営業じゃないし、いわゆる「バリアフリー」はひどくお粗末だ。
個人的にはこうしたイメージの崩壊は望ましいと思ってる。 日本人は自他ともに「何でもスマートにソツなくこなす、おとなしい (けど下半身は勢力旺盛!な) 民族」だと 思われてるみたいだけど、新山はまったくそういうタイプじゃないし、オレにはそういう連中がどうも ウソくさく見えて仕方がないんだよ。なんでだろうね。
てくるで、いまごろ秋月電子あたりでは ガイガーカウンタが飛ぶように売れてるんじゃないだろうか? もちろん、放射能を心配してこんなものを買っていくのは頭のおかしい人に決まっているが、 個人的にも前からあったら面白いだろうなと思っていたのである。 しかし買ってもどうせ1ヶ月で飽きるだろうから買わないでおくけど。 (基本的に、倹約・整理したいなら、出来心でものを買わなければいい。簡単なことだ)
どうでもいいけど (ddy)、スーパームーンはどうなった? 昨日だか今日だかに大災害が起こるはずなのだが。
それと、今回の惨劇をどっかの新興宗教の教祖が“予言”してたんじゃないのか、 ということが気になる。もちろん、こういう予言はいつも必ず後になって出てくるのだが、 それはCIAかなにかの陰謀で情報が隠されていたからに決まってる!
…いや、ほんとうにさ。こういう人々の頭の中はいったいどうなってんだか、 いちど分解してみたいよ。
(追伸) youtube で「japan earthquake godzilla」とかで検索すると 不謹慎な動画がいくつか出てくる。そろそろこういう連中を笑ってやろうじゃないか。
おい、いま中野ブロードウェイの地下の八百屋で、 福島産のホウレン草が一束120円だぞ! 買い占めろ!! …新山はとりあえずいっこ買った。新山はホウレン草をよく食うので、 本当は2束買ってもいいのだが。
しかし牛乳はすべて売り切れ。しょーがねーな。仕方がないので豆乳を買う。 帰りがけ、沈丁花の匂いがかなりきつくなっていることに気づく。 そういえば、毎年この匂いがするとかならず日記に書いているようの気のする。
MITの有名な「実験先生」。最後まで見るべし。
The Wonder and Beauty of Teaching Physics
銭湯へ行ったら、人が少なかった。
帰り道では月がよく見えた。「スーパームーン」であるということで、 本当に月は大きく見えているはずだが、 新山はただそんな気がしただけ。
cryptomeに福島原発 (たぶん一号炉) の安全性に関する資料が載ってる。 おやすみ
今日もカフンショーがひどいね。
きのうの Thom Hartmann の番組で、 彼が「さあさあ、もう日本には人が住めなくなるぞ!」と煽っているのを聴いて思い出したのだが、 そういえば去年、BPの原油流出事故があったときも こいつらはさんざん言っていたなあ。結局、あの事故は無事収束してしまった。 この人と Alex Jones の違いはただ左寄りか右寄りかの違いだけで、 どっちも与えられた事実から精いっぱいの恐怖を引きだすことをナリワイ (←“生業”って漢字を知らない) としているように見える。 まあ彼らもまた市場経済の中で仕事をしているので、これがニュースの売れるコツだからしょうがない。 個人的に Thom Hartmann は賢そうに見えるのに残念なことよ。
ふーむ、放射性廃棄物と健康の関係は、 調べれば調べるほどワケわかんなくなる。ので、やめた。 たとえば、純粋に放射線の度合いだけに絞った場合、ことは簡単である。 「半減期が短い同位体ほど放射能が強い」のだ。したがって、ヨウ素131 (半減期8日) のほうが セシウム137 (半減期30年) よりも危険だし、セシウム137のほうが プルトニウム239 (半減期24200年) よりも危険ってことになる。 しかし化学的性質を考えると、これらは人体内でのふるまいが違うので ことは複雑になる。たとえばヨウ素は甲状腺に蓄積するというし (だから甲状腺癌が多いのだ)、 セシウムは純粋に人体にとって毒である。プルトニウムは幼児の場合と大人の場合で蓄積する場所が違っている。 で、体内にとどまる期間もそれぞれ違うから、なにがどう危険かを一概にいうのはむずかしい。 米CDCの出しているToxicological Profile for Plutonium なども見たのだが、長すぎて読む気なし (tl;dr.)。 しかしとにかく、拡散は少ないにこしたことはないだろうけど、もう疲れた。
よーやくnytの一面が<h1>
見出しじゃなくなった。
今日は近所のサントクでよーーやくティッシュ5箱をゲットした。 どっか知らないメーカー製ので350円もしたが、オレはとりあえず 遠慮なく鼻かみたいんだよ! しかし昨日・今日とサムかったため、 花粉症はそんなでない。
オーケイ。 昨日はNYTimesの記事でだいぶ落ちこんだが、 今日になってやや安心した。とはいっても、連中はあいかわらず不安を煽っているのだけど、 これもまた「メディア恐怖戦略」の一種にすぎなかったらしい (もっと早く気づくべきだった)。 以下、いくつか調べたことを記す。
…結論をいうと、何がなんだかよーわからんということである。 とりあえず、あんまり危険じゃないっぽい。もちろん、まだ判断するには早いのだが、 いまのところ放射能よりも普通の病気のほうがはるかに怖そうである。 とはいえ、この件に関する新山の意見はだいぶ「海外寄り」だと思う。 新山が想像するに、日本のお役所は「一般大衆に細かい情報なんか教えてもどうせパニックするだけだから、出さない」と 思ってるんだと思う。つまり一般人をどうしようもなくバカ扱いしているのである。 たとえ状況がそれほどヤバくないとしても、政府 (か東電、あるいはその両方) の あの人をバカにしたような情報の出し惜しみは叩かれてもしょうがないよな。
しかし哀しいことに、今回は政府のほうが正しく、日本人は本当にパニックするだけかもしれない、 とも思うのである。詳細なデータを有効に使いこなすには、それ相応の訓練が必要なのだ。 訓練していなければ、情報の海におぼれ死ぬのがオチである。 いつも思うのだが、日本人は数値的なデータをもとに客観的に議論する練習をしていない。 学校でもマスコミでもそういう風習がなく、あるのはひたすら感情論だけ。 あまつさえ、詳細な情報を出すと「一般人を混乱させる」とかいって 怒りだす連中がいる始末。 本来なら、日本は国際的な批判に対してデータをもって応酬しなきゃいけないのに、 ぜんぜん国内にそういう雰囲気がない。これは原発だけじゃなく、捕鯨とか、 慰安婦その他の「謝罪と賠償」問題にしたってそうである。 「うちの学術調査ではこれこれこういうデータが出ております」という 議論をやって、中国や韓国とまじめに張り合わなければいけないのだ。 怒ったり謝ったりといった反応をしているようじゃ終わってる。 しかも一般人にそういう意識がなければ、役人が頑張ってもたかがしれている。 そういう意味で、今回の件も悪いのは必ずしも政府や東電だけじゃなく、 「データを使いこなすに値しない」レベルの国民も悪いと思う。 そしてテレビをつければ、まだ「カワイイ」か「キモイ」か「ムカつく」「感動した!」とかいうレベルの 価値判断に終始している歳をとった人間が沢山いるわけだ。 今後もまだまだ先は長いのだろう。
で、個人的には新山はあまりガチガチに合理的な議論をするのは好きじゃない。 たしかにデータは人を落ちこませたり、混乱させたりする。 しかし、人を安心させるのもまたデータなのだ。 グールドのメジアンは神のお告げじゃないを見たかい? 人によっては、ウソで安心したい人もいるのかもしれないが、 新山はたとえ死ぬとしても、的確な情報を知らされて死んだほうがいい。 人間が正確にリスクを知ったときの恐怖というのは、 不確かさによる得体の知れない恐怖とは本質的に違う。 知識があれば人は具体的な対策をたて、立ち向かうことができる。
(追記 3/21) しかし、どんなにがんばったところで、恐怖を決してゼロにすることはできない。 人間は恐怖でできているのだ。 精神的な強靭さとは、恐怖をなくすことではなく、 「恐怖は決してなくならない」ことを認めることにあると思う。 人間にできることは、せいぜい「得体の知れない恐怖」を 「得体の知れた恐怖」に変換することぐらいである。 それでも、「得体の知れない恐怖」は少しではあるが残るだろう。
ティッシュを探す旅・3日目。きょうも見つからず。 ただし乾燥ワカメ (「ふえるわかめちゃん」とは別ブランドだが) はゲットした。 近所のスーパーのおやじに「最近ティッシュ入荷してます?」ときくと 「…いや。問屋には頼んでるんだけどね。モノはあるらしいんだけど配送がね」 との返事。しかしこういうときは、通常の生活ができるだけでもありがたいと思う。 ウチの会社は月曜からバッチリ営業しております。
さて、きょうは朝から海外の報道を見てしまい、会社でずっと落ちこんでいた。 そういや、9.11の後もしばらく落ちこんでいたような気がする。 彼らが100% 正しいのではないとしても、あきらかに日本で 報道されていないことが多すぎる。「日本政府、謝罪はすれど詳細出さず」なんてのは 笑える。たしかにこの状況ではモノわかりの良さそうな 人物は政治家に向いてないのかもしれず、もっとアクが強くてヤクザっぽい人間のほうが リーダーシップを発揮するのかもしれない (だから戦時中は独裁者が人気あるのだ)。 そもそも、お役所がここまで疑われてたら何をするにも効率悪いよ。 とにかく、きょうは久しぶりに落ちこんだ。 しかしこんなことをしてるヒマはない!
(追記) ここ2〜3日の東電の発表で、 放射能もれが続々と「既成事実化」されているのには笑うしかない。 「東京では健康被害は出ないはず」って…あれ、これまでは 福島でだって健康被害は出ないのが当たり前と思ってましたが… え、そんなことは今までだって一言も言ってない? ああそりゃ失礼。なにか過去が塗り替えられているような気がする。 Ministry of Truth はどこだ?
昔から「原発がそんなに安全で効率なら、なぜ SIM CITYみたく 市街地の中心 (千代田区あたり) に作らないんだ?」と思っていたけど、 つまり大都市のそばにないという事実そのものが じつはすでに安全性の否定なわけだ。まったくなあ
ちなみに日本は過去に、通常の大学ではとてもできないような 大規模かつ長期のレベルにわたって、水銀を体内に蓄積させたらどうなるかという 人体実験をやったことで世界的に有名である。この壮大な計画を「水俣病」という。 おそらく今回の件は、その“放射能バージョン”として 後世の歴史や医学書に長く残ることになるだろう。 まともな原子炉や放射線の研究者は、いまごろ壁に頭を打ちつけているだろうよ。 そしてここからどんな奇抜な結果が出てくるか、まだ誰にも想像できない。 世の中というのはすごいもんだ。
今日の秀逸な画像: http://img.47news.jp/47topics/images/irasuto.JPG
** 被ばくを避けるための主な注意点 **
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ワーオ、国の指示!!
それって具体的には?
たとえば、「南京大虐殺はなかったと信じる」とか、そうゆうこと??
きょうは銭湯へ行こうと思ってわざわざ営業時間を電話までして聞いたのに、 行けなかった。オバちゃんごめんよ。
自動販売機について続き。 きょう帰るときに見たら、何台かの自販機は照明を落として、 いわゆる「省電力モード」のような状態になっていた。 しかし依然としてどれも販売中であり、電源が停止していたのはほとんどなかった。 あいかわらず、なんでこんな台数が必要なのか疑問である。 たぶん道端に空きスペースさえあれば置いておくだけでいくらか儲かるのだから、 いまの日本でこれが普及するのはある意味しょうがない。 結局(ケッキョキ)、市場主義の社会で世の中を変えるためには 消費者が賢くなるしかないのである。しかしとりあえずそれはいまも絶望的。 すまんね
てくるで (とこおで) 今日は会社近くのドンキで 安いスパゲッティ 1kg入をゲットできた。日曜日からずっと探していたのである。 すこし進歩だな。会社では「家のコメがもうないから、どっかで見つけてきて!」という 命令を受けた某おとうさんが奮闘していた。しかしあいかわらず「ふえるわかめちゃん」と テュッシュ5箱入りパックは見つからず。とにかく買い占めをしてる連中はムカつく。 で、今夜はこんな天気なのに、社長はマラソンの練習に戸山公園まで行くという。 すげえ、ここまで来るとマゾだな。 しかし、こういう時だからこそバカなことをやる必要があるのである! …
と、ここまで書いたら玄関のチャイムがなり、なんとエホバの方々が布教に来た! たっぷり着込んで「この世の終末うんぬん」という パンフレットをさしだす真面目そうな若者である。思わず新山はそいつのまじまじと見て、 「この寒いのにご苦労さまです」と言ってしまった。実際これは新山の本心である。 彼らは本当に感動的に真面目な人々だ。しかし惜しいことに、 どうしようもなく間違っている。 それにしても、なんつうマーケティング戦略だ!
…で、ええと何の話だっけ? ああそうだ。 スーパーに行くと何もかもモノがなくなっているのだが、 同時にそこにいる客も病人のように見えてきて気に入らぬ。 なんかこいつらみんな人生を投げたかのように トロトロ動いて見えるのである (明らかに、これは新山にとってそう見えるだけだろうけど)。 おーい、こっちの世界に戻ってこい! それとも、オレ一人が浮きすぎてるだけなのか?
今日、いちばん不穏な気分になった動画。 原発関連ではない。 http://edition.cnn.com/video/?/video/world/2011/03/16/gutierrez.quake.photo.surv.cnn
Anderson Cooper (と Sanjay Gupta) いま日本に来てるのか…
どうやら買いだめの被害に会ってるのは新山だけじゃないらしい。 会社の人に聞いたが、電池とかも売っていないんだと。新山はつねづね、 この手の「バカな一般大衆」は一体どこへ行ったらお目にかかれるのか、 不思議に思っている。こういう連中はきっとむかし「ネコよけペットボトル」を やってた奴等と同一のタイプだと思うが、そういう生物の生態に興味がある。 そいつらは、オバちゃんなのか? …いやそう決めつけるとオバちゃんに失礼だからやめよう。 オレはまだまだ真の日本人像を知らない。
あの普段メールをめったに書かない Edgar からもお見舞いメールが来るとは! 日本はどうなっちまうんだ!!
(追記) 今日も NYTimes や CNN を見ていたが、 原発の作業員800名がすでに避難した というニュースは日本では報道されたんだろうか? NYTには15日の午後にはもう出ていたが… 陰謀論をやるつもりは全然ないのだが、どうも日本のメディアは 原子炉関連のニュースを意図的に抑えている (あるいは、コメンテイターが正直な意見を控えている) んではないかという気がしてならない。パニックを抑えるため? たしかにNYTの記事にはかなり絶望的なことが書かれている:
それから、これは昨日のニュースだったと思うが「計器類が信頼性のある値を示していないので、 実はなにが起こっているか不明」というのもあった。…ああ、もう落ちこんできたのでやめよ。
ティッシュペーパーを切らしたので、 きょう会社の近くのドンキホーテへいったら、 トイレットペーパーを大量に買い占めてるアホとか、 列に割りこむババアが複数いて、非常にムカついた。 結局、ティッシュはどこへ行っても手に入らず。 おまけにスーパーではコメや乾麺をこれまたアホみたいに 買い占めてる馬鹿がいて、べつに新山はいま足りてるからいいのだけど、 ああいう連中をみるとぐったりする。"ugh" といいつつ帰宅。 人間、こういうときに育ちが出るもんだ。
で、電力節減とか言いながら、道端を見ると自販機が10メートルおきぐらいにこうこうと照っている。 こいつらを数十万台の規模でオフにすれば、もしかすると計画停電なんか必要ないかもしれないのだ (cf. 自動販売機の消費電力と電気代)。 理由はわかっている。ライトアップはやめても売り上げにたいして影響しないが、 自販機は「カネ」にもろに直結するからだ。くそったれ。実はこういうときに、 テレビを見てないというのは結構な利点だと思っている。ネットのニュースはすこし見ているが、 まともな感覚の持ち主があのインチキだらけのCMを見てたら発狂するよ。
(追記) 省エネというのはダイエットに似ている。 もしあなたがCO2削減とか電力節約とか、本気でそういうことを考えているのなら、 「祈り」とか、3日坊主で終わるくだらない節電なぞで悦に入るよりも、 自分のライフスタイルを「自販機でものを買わない生活」に変更しろ。 これを例えば10万人が10年間続ければ、確実に世の中は変わる。 それができないなら、さっさとあきらめて悪魔に魂を売ったほうがいい。
日本のメディアはなんでキレイな場面しか映さないんだ? もしそれが「残酷すぎるから」とかいう理由なら、あまりに人をバカにしている。
下心がミエミエなんすよ。
こりゃそのうち「地震で大変なので、やっぱりアナログ停波は延期しましょう」ってな話になるぞ、きっと。
そもそも完璧に機能してるテレビ受像機を前にして 「このテレビはじきに見れなくしますので、今のうちに買い替えてください」 というのは冷静に考えてみるとヤクザまがいの言動にしか思えない。 まあ、うちはどうでも
今回の地震に関する海外メディアのキチガイ的報道:
「日本の地震は月が地球に大接近する『スーパームーン現象』によって引き起こされた?」 - ABC News
残念ながらこの記事は削除され、いまは 「日本の地震と『スーパームーン』とは関係がない」という題名になっている。 さすがに ABC News が東スポ並の記事を載せちゃいかんと思ったらしい。 つまらん。
一方、いまやキチガイ陰謀論といえばこの人ですよ!
「日本の地震は太陽のフレア活動によって引き起こされた」 - Alex Jones Channel
ちなみにこの中では「東京で地震を体験した」という bob だか john だかという人物の 電話インタビューがおこなわれ、彼は「そういや地震が起きる直前には雲がひとつもなかったし、 ひどく暑かった、あんなことは初めてだ」という“証言”をしている。 こういうバカなアメリカ人を見ると、 アメリカンってのはみんなバカなんじゃないかという印象が ますます強まってしまうあるね。
そういやー、米軍の“気象兵器”として地震を起こせると言われていた H.A.A.R.P. はどうなった? たぶん今回の地震では絶対にコレが使われたに違いない。 そうに決まってる。オレは絶対に絶対に100%正しい。 いつだって
今回の地震に対して、素人が「長期的な視点で」復旧に対する 覚悟というものを考えてみることにする。 よく思うのは、こういうときに世間というものがいかに飽きっぽいかとゆうことだ。 いまは地震が起きた直後だからみんな興奮しているが、新山の予想では、そのうち どーせ1ヶ月もすれば飽きてくる。最初はみんなしきりに支援支援いっているが、 いま多くの日本人が考えている支援というのは、じつはただ一時的な熱狂に乗った “一発ネタ”でしかない。オレはいつもこうした流行に乗って騒いでいるダケの人々が嫌いだ。 真の問題は、こうした流行が去ったあとで継続した支援をするには どうすればいいのか、ということである。具体的には、今後3ヶ月間、 1年間、10年間の生活をどう構築していくか? という問題。 いま人命救助している段階や、避難所にいる人々に救援物資を届けたりしている 間はいわゆる "feel good" factor のような高揚感はあるだろう。 しかし、本当に資源が必要とされているのはこの段階ではない。
ここでちょっと簡単に試算をしてみる。たとえば、 今回の地震で深刻な被害を受けた人々がおよそ20〜30万人ほどいると仮定する (この数値はなにか根拠があるわけではなく、新山がいまテキトーに考えたものである)。 これは日本の総人口のおよそ 0.2% である。 しかしかれらはいますぐ仕事を再開できるわけじゃない。家を建て直したり、 仕事を探したりしなきゃなんない。このあいだ彼らは稼げないので、 かわりにほかの人の援助に頼る必要がある。しかも家を建てたりインフラを整備する コストは普通の生活費よりずっとでかいから、まあこれを年収の50倍と仮定しよう (これまたとくに根拠はない。10倍だと小さいし、100倍だとでかすぎる気がするので)。 そうすると日本人の総収入のうち 0.2×50 = 約10% が減ることになる。 で、今回の地震から完全に復興するまでに10年かかるとしよう。 そのあいだ残りの人々がこの金額を補填するとなると、 残りの人々は収入のうち 10% ぐらいを支援にまわすことを覚悟せにゃならない。 ここで最初の質問に戻るが、問題は この覚悟がいまの日本人にあるのか? ということだ。 つまり「今回の地震に対して本気で支援する気があるのか?」という質問は、 こう言いかえられる。「今後10年間、いまより実質収入が1割減ってもいいか?」 …繰り返すが、この概算は超テキトーなので、本当はもっと少なくてすむかもしれない。 しかしいまは被災者以外のすべての人間が一律に減収すると仮定したが、 生活保護を受けてる人や、年金暮らしの人から減らすわけにはいかないから、 実際の働きざかりの家庭が負担する量はもっと増えるかもしれない。 これを「できる」と言う大人は結構いるかもしれないが、 これができない人もまた多くいることを新山は知っている。 いっぽうで「税金のムダ使い反対!」とか「医療費値上げ反対!」とかいう スローガンに賛成することは (間接的にでも) こういった 復旧を否定する立場に近くなる。新山には、多くの 「熱心な人々」が、こうした帰結に対して見て見ぬフリをしているように 思えてしょうがない。こういうことに関してだれか経済の専門家が 解説してくれりゃいいのだが、おそらくマスコミも政治家も、 誰もはっきり伝えようとはしないだろう。これはえらく偽善的だ、と思うのであります。
…以上、まったく政治・経済を知らない素人による政治・経済論をお送りしました。
オレは、もうすこし先へ進みたいんだよ。