血が出なければ何をしてもよい。
痛まなければ何をしてもよい。
what are you waiting for?
さいきん Analysis of Reactive Systems の授業に出ている。 とてもおもしろい。
日本の「裁判員制度導入」についての記事で、 どっかの主婦が「自分にできるのか不安」というようなコメントをしているのを読んで、 あらためて米国の陪審制度ってのは、一般人が専門的なことに平気で口をはさめる 風潮のある社会だからこそできるんだなあ、と思った。 たぶん日本で同様の制度がうまくいくためには、 少なくとも次のような雰囲気が必要だ:
で、これらは非常にむずかしいと思う。 なぜなら、なんだかんだいって日本の多くの職業は こういう「モチはモチ屋的発想」「素人はだまってろ」という 風潮に依存しているはずだから。「しろうと」のほうでさえ そういう状況に甘んじているような気がする。
ちなみに最近、新山はやたら中国づいているような気がするが、 これは中国語をすこしは真面目に独学しはじめたのと、 仕事で中国語のコーパスを見る (見せられる) ハメになることが多い、 ということによるものである。でも中国って国としては好きじゃないがなあ。 ちなみに新山がこれまでに学習した中国人とうまくやっていくコツというのは、
.py
ファイル) を
数えてみたら全部で 1000個以上になった。たぶん、かなり重複もあるだろうけど、
数百を超えていることは確実である。よくやるなあオレ。
で、なんでいきなりこんなことを始めたかというと、
前に書いたあるコードがどこにあるんだかわからなくなって
自分が今までに書いたやつを全部 grep していたのである。
で、結局のところ、消しちゃったらしい。
というか、途中で依存部分の変更が多くなりすぎたんで
「コレはものにならんな」と思ったんだと思うけど、
それにしてもあほだ。つうか、ファイル名も機能もよく覚えてない時点でムリっぽいんだけど。
(追記) どうにか見つかったが、あんまり使えなかった。よよよn
まあ、こんなのがいつか来るだろうと思った。 Wikipedia は権威になってはイカンのだよ。 まあこれは Wikipedia だけじゃなくてオープンなボランティア的作業はみんなそうだと思うけれど、 あくまで「草の根活動」の範囲内でなければうまくいかないと思う。 有名にならないと人が集まらないが、かといって有名になりすぎてもダメなのだ。 “放送”の機能が発生しだすから。 最近は日本語の Wikipedia も一部では「権威」あつかいされていて不安だな。
Spam にしてもそうだけど、この手の現象はケッキョキのところ “放送 (あるいは権威)”の機能が「本来あるべきコスト」よりも著しく少ないコストで提供されているために起こる。 本来 “放送”っていうのは、誰でも好き勝手にできちゃいけないもんだ。 でないと世の中バリゾーゴンだらけになって混乱するから (それはちょうど水戸黄門の印籠を誰でも好き勝手に使えちゃう世界のようなもんである、 あれは「水戸コーモンにしか使えない」設定だったから国家の滅亡まで至らずにすんだ、 というキワドイ世界滅亡SFの一種だったのだ)。 それでもほとんどの web ページは誰かがわざわざ見に来てくれなきゃいけないから、 ふつうは放送ではない。ところが wikipedia とか google の検索キーワード一位とか 有名人のブログロのコメント欄のように多勢が見にくるとわかっている所を 自由にできるようになってしまうと、必ずそこを自分の目的のために 利用しようとするやつが出てくる。これは電子メールやら wiki にかぎらない。 株のさや取りみたいなもんで、コストが低いかぎりそのコスト差を利用して儲けようとする連中が必ず出てくる。 ネット上ではそのコスト対効果比が尋常でなくデカイので目立つんだよね。
よく「spam はイタチごっこだ」と言われるが、これはイタチごっこの問題ではない。 むしろこれは recall-precision の問題、別名「あちらを立てればこちらが立たず」問題だと思う。 そもそも電子メールは誰でも低コストで送受信できるようにしたかったんでしょ? ところが今度はそう簡単に送ってもらっちゃ迷惑だという。この 2つの欲求は根本的に矛盾している。 pagerank やその他の「他人の投票」によって spam が完全になくなるかというと、 それもあやしいなあ。今のところだと「もっと巧妙な spam」が出てくるだけだろうと思う (そしてそれはすでに現れはじめている)。まあ、オレの知ったこっちゃねーけど。
それはそうと、Slashdot に書いてあったおもしろい実験:
もちろん悪いのは検閲をする中国政府であって google は決して悪くないよ!
どうでもいいけど、いまさら google を批判するのは、 いまさらライブドアを批判するようなもんだ。 つまり、1年遅い。
よぅーーやくたまっていた翻訳を消化した。さいきん、slashdot のほうが全然訳せてない。いかんな。
それを俺は知っているのに、僕は知らないふりをしています。
google://しちえます (sitiemasu)/ (36Ken)
やはりそうか
やはりそうか
やっぱりそうだったん
だ!!!
!!
1<>br
今朝はまずころきあに出、そのあとオフィスに戻って H嬢の abstract に うだうだ難癖つけて「そろそろ、昼メシ買いに行くか?」といっているところへ Ralph が入ってきてエンコーディングの問題になり、ラウンジで ご飯を食い終わって、GLARF のテスト用コードを書いていると、 それが終わらないうちに誰かが来て話し込み、そのあと Adam に呼ばれて clisp のうんたらを修正しているうちに 6時になり、そのあとデバッグし、 変換テーブルをもらったのでふたたびエンコーディングの問題にとりかかり、 10時前に終わって「げっっ、もうこんな時間!」
結論: 忙しくない。ただの喋りすぎ。
「株式会社が上場する」ってことは、宗教にたとえると「宗教法人として認定される」ってことに等しいのか。
「ヤスシ」の反対語は「シヤス」です。
「わたしはムーミン谷にすむムーミンパパです…」
という一文である。
しかも、これは声もムーミンパパっぽくなければだめだ!
はい、では、後に続いて:
「わたしはムーミン谷にすむムーミンパパです…」
「わたしはムーミン谷にすむムーミンパパです…」
こらそこ! コピー&ペーストしない!
(こいつは、すこしおかしい) と思ったそこの君! そういう重要なことは、株価が下がる前に言え!
_bsddbmodule.c
は、
最新の Berkeley DB 4.4 系列ではコンパイルできない。
4.3.29 ならできる。
くそったれ。
基本的に「autoconf でどの関数があるか調べられますよ」というのは、 ウソっぱちに過ぎない。すこし前だと memcpy がないとか vsnprintf がないとかあったが、 現在じゃほとんどの OS でこうした関数はアルんだよ。 それ以外のマイナー OS はどのみちテストされてないにちがいないんだから、 結局なんらかの人手の介入が必要になる。 で、pthread なんかは OS ごとに挙動が違う場合があるし、 すべてを自動的にすませようという発想がそもそもおかしいのだ。 よっぽどシステムよりの操作 (ethernetレベルの socket をいじるとか) をしない限り、 ほとんどのソフトウェアは標準的な関数と Makefile だけで書けるはずで、 それができないのは設計にどこか重大な欠陥があると新山は思っている。
てくるで (とこ)、FreeBSD にしてから標準の /bin/sh が bash でないので、
いままでに書いたシャルスクリプトのいくつかが動かなくなっていた。
新山は文字列置換に ${a/foo/bar}
ってのをかなり使っていたんだが、
これは bash依存だったんだな。basename や expr を使うように書き直さねば。
はっきりいって、シェルスクリプトは言語としてはまったく好きではない。 しかし、シェルスクリプトをまともに書けないやつにシステム管理をさせるのは絶対にむりだ。
packetfilter pocketfilter
まあ、内容はつまんなかったけど… (予想どおり)
世の中にはオウム心理教やラブイドア以外にもたくさんの 「プチ新興宗教」っていうか、「個人カルト」とでもいうものがあるんだなあ、 と思った。考えてみれば、そんなのができそうな下地はどこにでもある。 中小企業のあやしい社長の趣味から、ボランティア団体、政党、 カルチャースクール、学会、団地の寄り合い、 そして某Lispユーザーズグループまで、ほとんど 「世の中、カルトだらけ」といってもいいようなもんだ。
新山はもはやアホではないので (アホだ!)、 「自分は絶対こういうところにはひっかからない!」などとは思わない。 むしろ、つねに「自分はもしかしたらダマされているのではないか?」と思っている。 Python がそうかもしれない。FreeBSD や djb がそうかもしれない。 もしかするとこのアパート自体が明日起きてみたらキツネの葉っぱになってるかもしれない?? 同じことは学問でも起こりうる。とりあえず某統計的処理や機械学習には騙されなかったけど…。
新山は自分のことを "djb信者" と呼んでいるが、これはかなり屈折した自嘲であって、 実際の気分は野球チームの応援とたいして変わらない。オレが本当に依存しているものは たぶん他にあるのだろう (自分では気づいていないけど!)。 とにかく、重要なのは何か特定の“他者”に執着しないことなのだが、 いっぽうであまりに執着しなさすぎるとそれはそれで分裂したヒトになっちまうからな。 結局のところ (ケッキョキ) これもまた程度問題にすぎないのだけど、 自分としては「物事に対して自然な執着度を保つ」ことを目標としている、というこの目標自体もまた執着。
もうひとつの心配は「自分がだれかを不当に執着させていないか」ということである。 はっきりいえば、世の中、孤立しようとするよりは“教祖”になるほうがはるかに 簡単だろうが、オレはなぜかそういう状況がものすごく嫌いだ。 似たような感覚で新山は昔から「先輩ヅラする人々」というのがひどく嫌いだったので、 自分はそうならないようにしよう、としているが、成功しているかどうかは知らない。 だいたい“教祖”というのは多かれ少なかれ 「誰かに崇拝されたり、注目されたり、期待されたりすること」で 自分の自尊心を保っているのだろうけど、こういう人は幸せだと思う。 新山は「誰かに理解されたい」とは思っているけれど、他人を理解するというのは 他人を崇拝するほどお手軽じゃないうえに、そもそも原理的に不可能だから。
そういえば一部でカルト的人気を誇っていた奥崎謙三って去年に死んでたらしい。 彼はきっと“教祖”っぽい自分が好きだったんだろうなあ。 「ゆきゆきて…」は究極のドキュメンタリーかもしれないが、 忠実に記録された彼のヨッパライぶりを見るにつけ、これは究極のファンタジーでもあると思う。 たぶん「究極のファンタジー」ってのは、誰にとってもつねに目の前を泳いでいるのだが、 でも人はそれがファンタジーであるとは気づかず、みんな現実だと思っている。
ねむいなあオレ。なにいってんだろ?
ああ、そうだ…。最初に計画が出たのは ここだ。
やっぱ、オレは「なりゆき」をだまって受け入れられるほどには 人間出来てないんだよなあ、とあらためて思った。 どこかで反抗してしまう。それがまた
主語は省略されています。
; cmucl-init.lisp
(defvar *asdf-pathname* "/usr/local/common-lisp/asdf/asdf")
(defvar lisp-specific-fasl-subdir
#+freebsd "fasl-cmucl-freebsd"
#+linux "fasl-cmucl-linux"
)
(defvar *asdf-binary-pathname*
(make-pathname
:directory `(:absolute ,@(cdr (pathname-directory *asdf-pathname*))
,lisp-specific-fasl-subdir)
:type "fasl"
:defaults *asdf-pathname*))
(or (ignore-errors (load *asdf-binary-pathname* :verbose t :print nil))
(load *asdf-pathname* :verbose t :print nil))
(defmethod asdf:output-files :around ((op asdf:compile-op)
(file asdf:cl-source-file))
(let ((default-output-file (car (call-next-method))))
(list
(make-pathname
:directory `(:absolute ,@(cdr (pathname-directory default-output-file))
,lisp-specific-fasl-subdir)
:type "fasl"
:defaults default-output-file))))
a
に 5 が入っている場合は (symbol-name a)
はエラーになるため、
かのプログラムでは変数に入ってる型が前もって予測できないのでこれを使ったというわけだ。
げ〜〜〜っっ。
どうでもいいけど (どうでもよろ)、 日本から来ている学生 2人がこちらの授業に出てみたいというので、 ちょうど今日は Ralph の自然言語処理の授業があったんでコッソリ忍びこませることにした (バレバレ)。そしたら彼らはえらく緊張している。 おかげでこっちまで意味もなく緊張しちまったよ。しかしまあ、正直なところ、 最初のうちは英語の授業に出てもサッパリわかんないと思う。オレもそうだった。 これはもうしょうがない。 とくに Ralph の英語は上品なのだけど、ニゅーよぁーく的アクセントなのだ。 結局のところ (ケッキョキ、)「英語を聞ける」というためには、 世界のありとあらゆる訛りの英語を聞きとれなければならない。 とくに NY ではそうだ。米国人は基本的に東部のアクセントが多いけれど、 生活のうえでは中国語なまりの英語や、インド人なまりの英語や (?)、黒人なまりの英語、 スペイン語なまりの英語なども聞く必要がある。
ちなみに黒人なまりの英語ってのはいまだにむずかしい。 彼らはどういうわけか「ai」「ei」などの音を間延びさせて、 「a-」「e-」などのように喋るのである。 だから "say" が「せぇ〜」と聞こえるし、 "science" なども「さぁ〜えんす」と聞こえる。 "you know what i'm saying?" は 「ゆのーわらーっまっせぇ〜ん?」になる。 なんかシマリがナイんだな、これが。音韻的に。 しかしシマリがナイといえば中国人の英語も似たようなもんだ。 彼らは「a」音と「e」音を区別しない (というかできない?) 人が多いので、 "have" を完全に「へう゛」と喋る人もいる。そんでさらに連中は "v" や "j" などの 濁音が苦手なので、人によっては "visit" が「うぃじっと」に、 "usually" が「ゆーゆありー」になったりする。慣れるまでは非常に聞きにくいよ。 でもネイティブには意味は通じているようだから、やはりこれも「英語」の範囲内に おさまる程度の差異なのだろう。ちなみに日本人の英語もかなり聞きづらい部類に入ると思うが、 これはオレもまた人のこと言えない。
どうでもいいけど新山は日本人にしては (話すときの) ジェスチャーが多い。 たぶん平均よりは。これは英語圏に来る前からそういう傾向があったのだが、 こっちへ来てからいっそう加速された。カソック! こう考えると「人の話し方」というのは単純に声だけの問題でないことがわかる。 それに、最近は英語でも自分の話し方には自分なりのくせというか、 「スタイル」があることがわかった。どうしても文型や語法の選び方に 気に入った言いまわしがよく出てくるという特徴があるのである。
手話にもスタイルというのはあるんだろうか? あるだろうな、やっぱり。 個人による表現の差異を包含できなければ自然言語とは言えない。 これはどこかで読んだのだが、エスペラントはこれまでに作られた人工言語 (自然言語を代替させるという意図での人工言語) の中でも、 かなり理路整然としていないほうだという。しかしだから逆に普及した、というのだ。 つまり、個人にスタイル選択の余地を与えないような言語はどうやっても普及しない、 ということになる。でもこれは実のところ言語に限った話じゃないと思う。
すると Python はどうやっても普及しないことになる。のか?
どうでもいいけど、最近 google maps がバグってることが多いんだけど、 これはオレだけなのか??
どうでもいいけど、あのサザエさんの曲のアレンジは天才的だと思った。 最終回で再登場の斉藤さんが最高裁で最敬礼で…何だって? (what?) 再痙攣の聞きまちがいじゃないのか?? decomposition で decentralization の determination が designation で denunciation を dehumanization して decontamination だ。 ヘッヘ!
世の中、まあるく、マールブルク。
やばい! 「おじさん病」!
... この業界ではソフトウェアは複雑であり、 バグを直すのは大企業のほうが得意だと信じられている。 これは間違いで、バグは誰かがそれを十分気にかけているときに直されるんだ。 品質について気にかけるのは、大企業の得意とするところだとは思われていないんで、 時には 18歳の大学生なんかのほうがまともだね。 ...-- Theo de Raadt (出典)
新山は Theo様の発言をよく引用しているが、 この人はまともなことは結構言うのだけど その一方でキチガイ的なこともかなり言うからなあ。 この記事なんかによると、 最近では "securelevel は役に立たん (から、そこに穴があっても無視する)" っていってるらしいよ。 まあ、しょせんこれはつけ焼き刃だとは思うのだけど、 それをいったら chroot も同様のつけ焼き刃なわけだ。
どうでもいいけど
Python 2.5 のジェネレータに関する説明
を見ると、2.5 ではジェネレータに値を「送る (send)」ことができて、
val = (yield i)
などという最悪な変態文法が許されるらしい。
ああ、どこへ行くんだ Python …。Guido は反対しなかったのか?
max
が key
を取れるようになるのはいいけれど、
コルーチンに関してはもっとうまい方法はなかったのかと思ってしまう。
それこそ、generators を thread クラスのように定義できるほうがまともなんじゃないだろうか。
っていうか、yield まわりにあれこれ手を加えるよりも、
coroutine クラスとでもいうものを作ったほうがいいと思う。
どうでもいいけど (どうでもよろ (ddy) )、 オレは「どうでもいいけど」という枕詞を使うことがやたら多い。 しかし「どうでもいい」と書いてあることはホントにどうでもいいのだろうか? ホントはどうでもよくないのではないか? という疑問、あるいは疑念。 どうでもよろ。 たぶん、本当に人生にとって「どうでもよくない」ものなど、実はあまりない。 というか、新山はそういうものをなるべく少なくするように人生を送っている。 家族の誰かが病気になったとか、友達が結婚したとか、 飛行機が近くのビルに衝突したとかいうこと以外には、 新山にとってほとんどどうでもいいのだろう…。 とすると、オレは人生のほとんどの時間を「どうでもいいこと」に費やしているわけだ。 自分の研究テーマについてどことなく冷めているのも、ある意味そういう理由からだろうと思う。 本当は「どうでもよくない研究テーマ」もあるのだが、そんなことをここにやすやすと 書くほどオレはつまんない人間じゃねえぞ。どうでもいいけど。
このときの N を求めよ。
ところで (てくるで、)λ、 、 "teh" や "pwn" といったスラングは、 日本語でいえば「がいしゅつ」や「」などに相当るると思はるる。
そういや you is ... ってのもあったか。
風雪の流布 (204)
ちなみに彼はまだ納豆を食っているらしいよ。でも奥さん (同じく台湾人) は嫌がるんだって。
そのあとジャスミン茶をのみながら、怒涛の Lisp 地獄突入。
Adam がこのあいだ切り離したブランチはすでにコア部分だけで 37000行に達している。
しかも ACL 用に書かれているが、彼もまた CMUCL に移行したいと思っているので
新山の課題は「これを cmucl に移植して、そのさいの変更点を記しといて」というものであった。
まあ、オレも使うからどのみち必要なんだけど、こっちはこっちで平行して開発するので
毎度同期がタイヘンなんだよな。彼は計算機科学の人ではまったくないので、
とーぜんソースコード管理の概念をほとんど使わない。彼のコードが入ってる
ディレクトリはいくつもの revision 違いのファイルでおそろしいことになっちょる。
ここから「本体ファイル」を認識するだけで時間がかかるのである。
もう今じゃだいぶ慣れたけど、きょうもまた機種依存な部分を発見した。
こんな感じだ:
ACL> (format nil "~s" '3+1)
"3+1"
CMUCL> (format nil "~s" '3+1)
"|3+1|"
つうか、こういう場合は symbol-name
を使うべきだろ!
それにしても、こんな微妙な実装の差異で
動かなくなるプログラムって、こわくて仕方がないんだけど。