あなたがこれまで考えた思考および意見は、誰かがすでにネット上に書いています。
だからあなたは何も新しいことを考えたり感じたりする必要はありません。
(長すぎる、これ)
はたして花粉症で人を殺せるのか!?
花粉症で色盲が治るか??
痩せる英単語“やせたん” 大好評発売中!!
…あした薬もらってこよ。もうダメだ。
ひとつの懸念: コンランドリにつかう 25セント硬貨がもうない。両替しなければ! 両替! 両ょう替え!! Web 1.99!!
今日もほどよく墨発 (ぼくはつ) しておりますが、これは正常です。
いまから 10年後ぐらいの子供は、もう「ブラウン管」というものを知らないんだろうなあ。 そして箱型のテレビが珍しいものになる。テレビはもう平べったいものだからだ。
これが世代間ギャップというものだよね。
おそらく、ある程度はそうだろう。 もちろん、curses で Illustrator や Photoshop の代替品なんかつくれない。 でも、ビットマップ表示でなければ GUI でないとか、アイコンを使わなければ GUI でないとかいうのは まったくアホげた意見だ。なぜ人々がコントロールパネルのようなものにまで GUI を使いたいかというと、
で、新山が Web アプリを見て「これは GUI じゃない」と思うのは、 たいていの Web アプリが上の 2つの原則をみごとに無視しているからである。 まずたいていの web アプリには操作の文脈があって、それはほとんどの場合 ユーザの目には見えない (あるいは非常にわかりにくい) ようになっている。 検索のように一発で操作が終わるのものならともかく、何かを入力したり、 修正したりといった場面では、特定のページでどんな操作ができるのか、 あるいはすべきなのかが非常にわかりにくい。 そしてさらにひどいのが、これらがサイトによってまったく違う ということだ。表示方法も違えば場所も違う。ブラウザのインターフェイスそのものは 変わらなくても、その上のレベルのインターフェイスが毎回変わるのである。 ユーザ名を入力する欄はサイトによって違っているし、色も違うし、 ボタンもリンクだったり画像だったりする。 「取り消し」ボタンの名前も (ときには意味も) 違う。 まさに「インターフェイス版バベルの塔」ってかんじだ。 サイトによってはこれらのインターフェイスはある程度統一されているが (たとえば google 上のいろんなアプリなど)、 サイトが違えばまったく違うし、誰でも勝手に自分の基準をおしつけられる。 なにしろガイドラインが存在しないので。しかもこの分裂はますますひどくなる。
この状況を誰かが止めようと思うなら、web 上のすべてのアプリケーションを 同一のツールキットかなにかで作るようにさせるしかない。でも、そんな状況が 本当におこりうるんだろうか。もしそうなるとすれば、そのツールキットを 提供する組織・企業は強大な権力を手にすることになる。 まさに Web アプリにおける Microsoft のような存在になるだろう。 そういえば、そんなのを狙っていそうな企業がどこかにありましたね。 実際、かれらはすでにブラウザの仕様をコントロールしたがっているわけだし…。 それにそういう世界のほうがホントに便利かもしれない。 やっぱり大審問官は正しかった。民衆は支配されたがっている。 個人の自立や自由なぞよりも、強制と便利さのほうがイイのだ。
そういえば、きのう昼飯を買うときに 5セント硬貨を出したら 「これは違うよ」と返され、よく見てみたらそれはカナダドルの 5セントだった。 い、いつのまにオレのサイフに…。だまされた。誰じゃこんなのを渡したのは〜〜! しかし、カナダの 5セントって、米国のそれとまったくサイズが同じなのね。
Curl で自動的に FTP アップロードする方法:
$ curl -v -u 'user:passwd' -T localfile ftp://ftp.example.com/incoming/directory/
だって。世の中なんでも広告時代だな。
考えるとは、合理的に考えることだ。どうしてそんな馬鹿げたことが言いたいかというと、 現代の合理主義的風潮に乗じて物を考える人々を観察していると、どうやら能率的に考えること を 合理的に考えることだと思い違いしているように見えるからである。当人は考えているつもりだが、 実際は考える手間を省いている、そんな光景がいたるところに見られる。… (強調は新山)この考え方によれば、能率主義が浸透するにしたがって、 人はますます考えなくなる傾向がある、ということだよね。 そして能率主義が普及しているのは今のところ否定できない。 つまり…-- 考えるヒント「良心」、小林秀雄
(追記) 去年 9月のメールを見てみたら、そのときのは 「これは、お客様が次の Google グループに申し込まれたことを確認するメッセージです。」 となっている。微妙に文言が変わっているが、どっちも「確認」とか根本的にオカシイ。 新山が邪推するに、これは国際化された文字列一覧を作るときに、 なにか別の英語メッセージに対応する日本語メッセージをまちがって対応させていると考えれば説明がいく。 誰も気づかないっつーあたりがすでに敗北的。
おお〜い、信毎〜! 画像がデカすぎてまるで荒らされたあとの掲示板みたいになってるぞ。ワハハ
しかし本当にすごいのは日本語の記事そのものではない。
どうでもいいけど、各国の 1人あたり公衆便所の割合を示した統計って、 どっかにないのだろうか。日本は文句なしにダントツだと思うが、どれくらい他を引き離しているのかが気になる。 すくなくとも NYC のそれと比べれば東京の公衆トイレ数は 10倍程度じゃあきかないほど多い。 新山はハイテクなトイレのことを「IT便所」っていってるんだけど、 日本に帰るたびに携帯よりもむしろトイレに驚くことが多い。驚くっていうか、「感動する」んだな。 たぶんこの感動は日本に来た外国人とも共有できると思う。
いま考えてみると、たぶんこの 3年連続の葬儀のせいでオレは電話恐怖症になった。 このときオレは東京にいたのだけど、当時の下宿には新山個人の電話機がなかったので、 電話がかかってくるとだいたい大家さんに取りついでもらっていた。 そして、じっさい電話がかかってくることはほとんどなかったのである。 90年代なのに、トイレ・キッチン共同の下宿で (アパートじゃないんです、ホンモノの「間借り」なんです)、 風呂は銭湯、そして親との連絡は手紙だったからね。 個人的にはこのオールドスタイルな生活がすごく気に入っていた (特に大学ではワークステーションをいじってるというギャップが好きだったんだと思う)。 でも親から電話がかかってくるときは、ほとんど必ず「悪い知らせ」だった。 これはトラウマになりますよね…。
なぜこんなことをいきなり書いたかって? それは
でもよー、Controversial な事柄 (例: 人種間に優劣はあるのか、温暖化は深刻か、味の素は人体に有害か) でこれをやったら明らかにまずいけど、でも、そもそもどこまでが Controversial だとわかるんだ?
統計的言語屋の本:
「87パーセントの人が声に出して読みたい日本語」
ちなみに、新山が声に出して読みたい日本語といえば、だんぜん「ドブロク」だね! どうして世の中の人間は気取った言葉ばかり持ちあげるのか。
ところで (てくるで、) あるページを見ていて思ったのだが (新山はめったにこういうページを見ない)、 ネット上で人気が出るためには「読者の対象年齢を中学生ぐらいに」しなければだめなのだな、ということに気づいた。 統計的に大半の読者が中学生か高校生ぐらい (あるいは精神的にそれとほぼ等価な大人) であるということを考えれば、たしかにそうか。そういうページはふつうなんやら気取った タイトルになっているが、真の (深層にある) タイトルは「ちょっと背伸びしたいキミに」とでもいうものになっている。 とりゃーえず今のところオレにゃーそういう文章はかけないなあ、と思って、 しかしそこまでしてネット人気が欲しい人々の心理ってどんなんかしらね。オヤおれは文法的に日本語的に変だぞ。
意味 : やさしい :
どうでもいいけどさあ (どうでもよろ)、やっぱ、頭が切れてかつ良心的な人間というのは、いずれ
マイクロソフト、Linux が 235個の特許を侵害していると主張。
しかしあいかわらず RMS のこの写真が…。これだけで 20秒ぐらいは笑える。こういうのをヤラセっていうんだ。
ところで、どうでもいいが (てくるで、どうでもよろ、) Darl McBride はどうなったんだ? コイツの脳味噌あるいは遺伝子 (いでんこ) が MS に移植されて培養されでもしたか? あるいは再就職? あるいはタイプ 4 クローン? (←「タイプ4」の部分に意味はないが、なんかそうつけるとカッコよさそうなので)
以下、「とくに意味はないが、つけるとなんかカッコよさそうな名詞句」一覧:
さあ、みなさんもご一緒に!
(論文、論文)
もしかすると「やらせ」を独立した概念として扱うのは日本語独自の発想なのかもしれない。 「たてまえ」と似たようなもんかな。実際には米国で「たてまえ」がないかといったら、 そんなことは全然なくて、むしろ米国は「無理にでも人をホメる、アホ賞賛文化」なのだが、 「たてまえ」は賞賛に限らないし、そのものに相当する英語はない。これを独立した概念として切り出すのは 日本独自の発想といえる。
ある抽象化した概念について、それを「他言語にどう翻訳するか」考えてみるというのは けっこう面白い思考実験だ。抽象名詞というのは言語によって微妙にズレがあるので、 翻訳を試みることによって、その言語に固有な「隠された層」を明らかにすることができる。 かもね。
cond
と if
(あるいは unless
) によって、
いちおう「並列的な分岐」と「従属関係のある分岐」を分けることができる。
C の switch もこれに似ているが、不十分。
しかしオレがやりたかったことは、そういうことなのかな。
くっしゃみ
ところでふと思いついたこと:
(追記) Google … No-evilness through obscurity (隠蔽による『悪さしない主義』) ってのでもいいよ。 うわ、よく考えたらこっちのほうがピッタシって気がしてきた。 しかしこれじゃまったくタダの「いい子ぶりっこ企業」じゃん。 まあ、新山は昔からこの企業にそういう印象を持っていたんだけど。 (註: "昔" … 白亜期のこと)
そういやー IE って <q>〜</q>
タグが使えなかったんだね?
知らなかったよ。
上の 2つのdef func1(x): if x == 1:return sub1(x)else:return sub2(x)
return
は、
並立である。それは、どちらも内容が等質であるという意味で。ところが
この最初のdef func2(x):if probe(): # なんかマズいことが起こった return -1doit(x) return 0
return
は
「抜け出し」の意味であり、次の return
とは意味が異なる。
すくなくともオレはそう表現したい。こういうとき、誤解をなくすためには
どういう書き方をするのがいちばんいいか?
プログラミング言語は、このように、より高度な「意味」というか、
プログラマの「意図」を表現できるようになっていくべきだと思うが、
同時にそれの使用をプログラマに強制するのは簡単ではない。
たとえば for
と while
の使い分けにしたって、
ヘンテコなことをしようと思えばいくらでもできるのだ。
結局のところ (ケッキョキ、) それは「説明とはなにか」という
より本質的な問題に帰着されるんではないか。
どうして「パリ症候群」という言葉はあるのに「ニューヨーク症候群」はないんだろう。 パリなんかよりニューヨークのほうが全然ヤバいのに! やっぱり、ねえ? アレかしら?? そもそも、日本人のうちで「パリに行きたがる人」と「ニューヨークに行きたがる人」は かなり異なるキャラクターのようの気のする。ヨーロッパ指向の人のほうがなんとなく 精神的に脆弱っぽそうというか (←とーーぜん、偏見)。そういう人が パリのあのバッチさを見たら、たぶんショックを受けちゃうだろうよ。 しかもフランスってのは、裏表の差が異常にハゲしい印象がある。 つまり、空港とか「うわべだけはキレイ」ってのがかなり多いのである。 だから観光地ばっかり行ってると、あれがフランスの平均なのかとカン違いしそうであるが、 実際はすっっっげーーー汚ねえじゃん。はっきりいって、 新山の印象ではニューヨークのほうがまだパリよりもだんぜん清潔だ。 だってパリと違って犬がウンコすればみんなちゃんと掃除するし。 (パリでは誰もそうしているのを見たことがない、あれはたぶん「散歩中に犬のウンコなんか掃除するのは プライドが許さん」って奴が多いんだろう。だからフランス人は嫌いなんだ。)
そういやー、前にパリで乗り換えしたときには入国審査の若僧がフランス語しかしゃべんなかったので オレはずっと日本語を喋っていた。
どうでもいいけど (どうでもよろ) こないだ本屋でビックリしたのだが、 かつて天然系アナウンサーの代表格だった雨宮塔子がいまじゃすっかり 「パリの奥様」みたいな存在になってしまっていて、なんかサンジェルマンみたいな (?) 本を書いていた。 ワーオ。この人は、結局のところ (ケッキョキ) こういう人生がやりたかったんだ? そう考えると笑える。かつて永六輔とラジオで大バカをさらしていたころの自分は 「ウソの自分」だったのかしらね。
ぜんぜん関係ないけど誰か敵性語に関する解説をwikipediaに書いてくれないかなあ。 どうも日本語版は戦時中の記事に弱い傾向がある。
おまけに外は夕立ちってるし。ぼうさいあぐ (もう最悪)。 tehse crappiness of whether is the worst of horrid pumpking BBQ loflmao de raadt.
Document ID: 33d9aa23d330d2e3c80cd9096be36b05
Yusuke Shinyama