上がるけど下がらないものってなーんだ?
おしらせ:
そのうちに。
きょうはいーかげん groff の「あほ加減」にアッタマきたので、 python で groff モドキを作っていた。といってもマクロ定義とかは とーぜんできず、ただ OpenSSH の man で使われているコマンドを サポートするのみである。しかし、なんしろ web 上のどこを さがしてもまともな ROFF の構文を説明した文書がない (groff のマニュアルじゃ全然わからん)。 だから、まだ動作がよくわからないコマンドがある。 まるでリバースエンジニアリングだ。もうねよ。 明日には完成する。
それにしてもだな、 http://www.openbsd.org/donations.html を見ると、カネを出している日本人は結構いるのに、 誰も労力を出しやがらねえ (山形さんを除いて)。 まるで日本みたいだ。
またゲヒンな話ですいませんが…
新山が食べ物のよしあしをわかるにはだいたい約1日かかる。
なぜなら、味のよさは食ったときにわかるが、身体に対する「よさ」は
ウンコにならないとわからないからだ。たいてい「悪いものを食った」と思うときは、
以下のような特徴がある:
で、「スッキリしたウンコがでる食事」をこれまでいろいろな食い物で ためしてみて、最終的にいちばん良い結果らしい、と思われたのは 「ごはん + 魚 + 野菜」の組み合わせだった。ちなみに、この感覚の差っていうのは、 実際にすんごく違う。よくない物を食った次の日というのは、 トイレから出てきたあとの感覚が一日じゅう残っているような気分になる。 このことから、自分はやっぱり身体的に日本に束縛されているんだと確信した。 ちなみに新山はインド料理や韓国料理など、カラいものは 「口では好き」なのだが、胃腸は嫌いらしい (たいてい翌日、 下痢気味になる)。
白状するけど、 新山が NY にいるときに感じていた軽い罪悪感 (のようなもの) というのは 「卑怯さの感覚」に由来していたと思う。つまり、 結局オレは日本的なものがなくては生きられない肉体であるにもかかわらず、 なぜ米国なんぞにいるのか? という疑問である。しょせんは 日本食 (と日本文化) に頼っているくせに「日本はダメな国なので、 海外に住みます」とかいってる連中は好きじゃなかった。なぜなら、 どことなくウソくさい、逃げているような感じがするからである。 でも大学教育に関しては、日本の大学はほとんど意味がなく、 海外のほうが申しぶんなく上だと思っていた (今でも思っている) ので、 それがある意味、言い訳になってはいた。しかし、教育はあくまで一時的なもんである。 いったん教育を終えてしまったら、もう海外にいる言い訳は何もない。 新山の場合、文化 (テレビ番組や本) については米国文化でもある程度は 「食える」ようにはなっていたが、食事は依然として日本のものがなければダメだった。 だって、自分の物理的な身体がそういってるんだから!
…というわけで、自分が日本に帰ってきて会社員になれた時に感じた 解放感というのは、身体的 (胃腸的) なものと、精神的なものの両方があったと思う。 これでオレはもう「自分の身体にウソをついてる」奴じゃなくなった、というわけだ。 しかし日本に帰ってきたからといって、新山がいろいろなダメさ加減に 目をつぶるようになったかといえば、ゼーンゼンそうなっておらず、 あいかわらず不満がいっぱいあるので、この意味ではオレはべつに何かをあきらめたり 改心したワケでもないらしい。それと、自分の傍若無人さは NY にいようが東京にいようが あまり変わらないということがわかった。つまり…
結論: 傍若無人さは関係ない。
○ 酒はうまい、ほんたうにうまい、うますぎる!-- 山頭火日記、昭和十五年 九月二十三日
ちなみにこの文が書かれたのは彼が死ぬ3週間ほど前。
(naniga?????)
2人の男が、NSF (とCERN) を相手どって、加速器の実験を中止する訴訟を ハワイ州立裁判所に対して起こした。理由は 『実験の結果、ブラックホールができて、地球が消滅するから』。 原告の1人、ワグナー氏はバークレーで宇宙線の研究をしていて、そのあと博士号まで とっている (でもなぜか分野は法学)。もう1人のサンチョ氏は作家で、 時間理論の研究家で、バルセロナあたりに住んでるらしい。 いったいなぜハワイの裁判所でスイスの CERN が訴えられるのか? ワグナー氏によれば、そのほうが (彼らにとって) 都合がよかったからだが、 CERN 側がほんとうに法廷に現れるかどうかは、まだわからないという。
笑ったらいいのだろうが、あんまし笑えない。 こいつらに比べたらパナウェーブ研究所なんか、まだかわいいもんだなあ。
ちなみに、きょうもうひとつウケたのは Bridezillaという名前である。 bridezilla って…。
それはそうと、今日はリバタリアニズムについて考えた。 リバタリアニズムというのは、ようするに以下の 3つの原則を持つ思想と理解できる:
このうち、とくに日本人 (新山を含む) になじみがないのは 3. だ。 米国では、武器 (銃) の所持の権利は憲法修正第2条で規定されている。 憲法で2番目だぜ。これほど重要な権利が武器の所持って、一体どーゆーこと? 前からこれは疑問だったが、合衆国憲法が基本的にリバタリアニズムに近い考え方で 作られたことを考えると、ようするに武器の所有を保証するってのは、 もともと「小さな政府」を念頭においたものなわけだ。 つまり「(小さい) 政府が自分を守ってくれるとは信用できないから」銃を持たせろ ってわけね。このことから新山の頭にうかぶ“リバータリアンのイメージ”というのは、 いつも銃の手入れを怠らない、疑心暗鬼な分裂病患者、といったものだった。実際、 頭のイカれたリバータリアンであるESRも 銃の話をしてるしな (おおっと、彼はネヲコン系に転向したらしい! どっちにせよイカれてるが)。 しかし、リバータリアンはべつにいつも銃が好きってワケでもないらしい。 リバータリアンの芸人 Penn Jillette が インタビューで言っているが、 彼自身は銃を持つのが嫌なんだそうだ。でも自分以外の人がすべて銃を持っていたら、 非常に安心するという。なぜならほとんどの人間は善人なので、万人が銃を持つことにより 「銃を持つ悪人」よりも、「銃を持つ善人」のほうが圧倒的に数が多くなるからである。 ふーん、なるほどね。そういう考え方もあるのか。 これは「すべての女性に銃をもたせるべき」といった議論にちょっと似ている。 女性が男性と比べて (生物学的に) 損なところは、襲われて体力勝負になったら 女は男に勝てない (少なくとも世間ではそう思われている) ことだ。 この差異を是正するために「女性はみんな銃を携帯してよい」ということにすれば、 女の非力をアテにして暴力的な脅しをかける (あるいは実際に暴力をふるう) 男は減るだろう。ぜんぜん現実的なアイデアじゃないが (本質的には何の解決にもなってない)、思考実験としてはおもしろい。 ま、とりあえずこの話はリバータリアンと関係ないけど。
で、リバータリアンに対するつぎの疑問が、福祉についてはどうなんだ、 これこそ政府がやらなきゃダメなんじゃないか、というものである。新山もそう思っていた。 そもそも規制をなくして金持ちがますます金持ちになる世界というのは、非常に 冷酷に聞こえる。しかしこれに対しても Penn はインタビューで答えていて、福祉は 「政府がやるんじゃなくて、ひとりひとりの国民が個人的にやるもんだ」という。 人間は本質的に善人なのだから、金持ちの中には必ず他人に援助する人間が 出てくるという (実際、ロックフェラーとかはそうだったわけだし)。 つまり、リバータリアンにとって福祉は「互助」で成り立つもんなのである。 これはお役所の福祉でも基本的には同じアイデアなんだろうが (だってもともと福祉の金は税金から出しあってるわけだし)、間に政府が入ると 「互助」という感じはボヤける。彼らは 「貧乏人や車イスの面倒を見るのは行政の仕事、という考えは間違いだ」という。 これは、じつはかなり本質をついているような気がする。結局、 お役所や JR が車イス用のスロープやエレベータをいくら整備しようとも、 それが完璧になることはありえない。福祉というのは、最後のところでは、 個人の、私的な協力がなければやっていけないからだ。 ここでいう「個人の、私的な協力」っていうのは障害者の家族や友達っていう意味ではなく、 道行く人すべての個人的な協力、「誰にでも気軽に手を貸すし、自分も 気軽に手を借りるよ」っていう考え方である。ちなみに米国のほうがこういった傾向はあり、 この態度のために (東京とくらべると全然バリアフリーでない) NYのほうが障害者にとっては 住みやすそうな気がした。 「エレベータがあるから/シルバーシートがあるから/点字ブロックがあるから、 オレは手をかす必要がねえし、席をゆずる義務もねえよ」と考えているような人間 (あるいは、点字ブロックを整備することが盲人のための最優先の課題と思っているような人間) は、 新山の意見では、まちがいなく精神的に子供で、しかも非常に冷酷だと思う。 その意味では、リバータリアン的な考え方はじつはかなり人間的ともいえる。 福祉はお役所がやったほうが平等にできるだろう、という反論もできるが、 すでにお役所がからんだ 平等でない例をいくつも見てしまった今となっては、その主張にもたいして説得力がない。
…しかし、ここまできてケチをつけるわけだが、結局のところ (ケッキョキ)、 リバタリアニズムというのは、なんか共産主義と似てる。 つまり、ある意味「人間的すぎる」というか、人間というものを理想化しすぎているのである。 リバタリアニズムがうまくいくためには 人はホントに個人主義にならなければいけないが、ヒトは本当に彼らがいうほど 性善説なものだろうか? しかも半端な個人主義ではだめで、 イザとなったら銃を取るくらいの気慨がなければだめなのだ。 そんなに強い人間がそう沢山いる (あるいは、増える) とは思えない。残念ながら。 たしかにリバタリアニズムは「大人の思想」といえるだろうが (じっさい、新山もすこしはイイな、と思っているわけだから)、 はっきりいって、これがうまくいく世の中なら共産主義だってうまくいくだろう。 とりあえず、日本じゃ絶対にダメだろうね。
でも、じつはお役人だけがとりわけ悪いのでもないと思っている。 彼らはただひたすら失敗を恐れているだけのことだ。そして、 なぜ彼らがこれほどまでに失敗を恐れるのかといったら、それは我々が (役人が失敗するたびに) 叩いているからにすぎない。 結局 (ケッキョキ)、自分に返ってくるのね。
しかし、 このぶんだと週末には散るんじゃないか? 植物というのは律義なもんである。
正直いって、新山は自分の母校を名前でなつかしがる人の気分がまったくわからない。 東工大にせよ NYU にせよ、大学の中にいるときはそれなりにいい所だと思っていたけれど、 いざ卒業してみると、その学校自体に特別な思い入れはないのだった。 とくに悪い印象もないが、他の大学と同じふつうの大学であるし、 そもそも大学なんてどこを出ても同じである。 むしろ思い入れがあるのは個々の建物や場所だが、それは大学という抽象的な 名前とは直接関係がない。ようするに、オレはどんなことに対しても具体的かつ 私的なつながりしか重視しないということなのだろう。これは自分ではごくまっとうな 感覚だと思っているけど、どういうわけか世の中には会社や、大学や、 国家や「フリーソフトウェア・コミュニティ」といった、 新山にとっては抽象的でサッパリわかんない枠組みに感情移入し、 連帯感をもちたがる人々がいる。こういう連中はみんな同じだ。 一言でいえば「○○○○」ってことだ。オレがこいつらに抱いている 不信をここで記してもむなしいだけなのでやめておくよ。おやすみ。
で、一応、ラジオデパートの地下へ行ってみたら、 カウンターのおじさんの横に見たことあるブツがホコリをかぶっていた。 10年ぐらい前、新山が研究室で使うためにはじめて買ったキーボードと同じである (そのころ、オレは PC を持っていなかった)。「アノー、それって売り物ですか」と 尋くと「動けば 7000円だけどね、動かないから 1000円」とのこと。 見せてもらうと SIIG Minitouch 2 のパクリ品らしく Made in Taiwan と書いてある。 NY にいたころ、新山はこのキーボード (の英語版) を買った。1年ぐらいすると ぶっこわれたのでもう 1コ買った。しばらくするとそれもぶっこわれたが、 製品のこわれやすさが気にならないくらいキータッチが気に入ってたので 3台目を買おうとした。 するとそれはもはや生産中止になっていて、あちこち探しても見つからなかった。 でもさすがに動かないものを買ってもしょうがないので、おじさんと メカニカルキーボードの素晴らしさをひとしきり語り合って店を出る。 なんか、ムカつく。
それにしても、秋葉原で行くところはもうほとんどなくなってしまった。 少なくとも LAOX よりも向こう側の店には用がないらしい。 行くのは秋月や千石がある通りまでであるが、新山はもともと電子部品には 興味がなく、ガード下とかにもそんなに思い入れはない。PCの自作も未経験なので (そういう泥くさいハードに手を触れないところがカッコいいと自分では思っている)、 パーツ屋にも用がない。 むしろオレはジャンク屋が好きなんだよ。 10年ぐらい前までは、PC 関係のジャンク屋が結構あった。 ジャンク屋といっても、いまあるような、「店員でさえ何に使うんだかわからない、 完全にガラクタ化したもの」を店の前に置いているようなところはダメである。 むしろ中古とジャンクの中間ぐらいのものが、しかもまだ結構動くようなレンタル流れ品とかが、 それなりの威厳をもって並べられているような店が好きだったのだ。 「ひょっとすると、この店からは MZ-2000 の筐体とか出てくるんではないか?」という 期待を抱かせそうな店。そうした、一見すると雑然と並べられてはいるが、それなりの 尊厳をもったマシンたちというのは、こちらの背筋を伸ばすような雰囲気がある。 こうした中古屋は、どことなく博物館に似ていた。どのみち新山はそこにあるものは 買わないのだけど、彼らのひそやかな営みに敬意を払いつつ出てくることができた。 しかしいまは「きちんとした中古PC屋」と「本当のジャンク」に分かれ、 かつての「境界的ジャンク屋」は減っている。 ラジオデパートの地下はまだ生きているそのような貴重な場所のひとつだ。 (それにひきかえ、ラジオ会館はもはや存在価値がなくなりました。) あと名前忘れちゃったけど、 あの近辺で、築30年ぐらいのビルのせまい階段 (絶対、ここから落ちて尾骨に ヒビを入れた奴が世界に 30人はいる、と思わせるほどの急激な階段) を 上がっていくとアヤしい改造PCが沢山置いてあって、 「わからないやつは入るな!」みたいな貼り紙がしてあった店、あそこもなくなっちゃった。 たしか 3〜4年ぐらい前までは、あったんだけど…。秋葉原について 3〜4年前のことを 語るのはアホだというのはわかる。あの街へいくと「歳をとるって、こういうことなのか」 という感覚がイヤというほどわかる、そういう場所だと思う。 ああ、でもあの輸入菓子のお店はいいな。 今度、ALTOIS を切らしたらあそこに買いに行こう。 でも Ritter Sport は (ミニしか) 置いてなかったけど。 あのお菓子屋は現在、秋葉原で唯一行く価値のある店だね!
インタビュアー: ご自分の一番の業績は何だと思いますか?
Logan: この髪をどうにか長く伸ばしたままでいたこと。 あと化粧をしていたこと…。 自分が成し遂げたことでおそらく一番だと思うのは、 私みたいな頭の悪そうな女にはこの仕事はできないって言ってた連中に向かって、 バカ野郎 (screw you) って言ってやったことでしょうね。
か、かっこいいーー!
…ところで (てくるで) 前から疑問に思ってたのだけど、日本語の
「切腹」という単語を「ハラキリ」として
外国人に伝えた人はセンスがあるとずっと思っていた。
なぜ訓読みにして、順序を逆にしたのか?
一瞬、わかりやすさのためかな、と思うけれど、外人はもとから日本語を
知らないんだから同じことである (むしろ harakiri のほうが音節が多くて覚えにくい)。
しかし、ともあれこのアイデアは成功だ -- 『せっぷく』っていう言葉は
なんか堅苦しい語感でイヤなかんじがするけど (新山の場合は)、
『ハラキリ』は、なんかコミカルなイメージがあって思わず笑ってしまう。
いかにも、過去の アホらしい 漢らしい
行為にふさわしい名前だと思うのである。
どうでもいいけど (どうでもよろ)、笑っちゃう名前っていえば、 西武新宿線の『特急・小江戸』という名前を見るたびにニヤっとしちゃう オレは異常なのだろうか。「小江戸」って、なんか、他になかったのかよ。 どうも特急につける名前としては語感がセコすぎる。 同じ川越関連のキーワードだったら、『特急・サツマイモ』とかにしたほうが ずっと安心感がある。 そうだろう。ははは
雨だけど。
Muhammad Yunus 「貧者のための銀行」 (邦題『ムハマド・ユヌス自伝』) を読みはじめた。 すんげ〜おもしろい。この人が 2006年のノーベル平和賞を 受賞したことは知っていたが、そのとき新山は NY でそのニュースを見ていたのだが、 どっかのニュースサイトにあった 「ノーベル委員会がただ overhyped (誇大宣伝) されただけの 人間を選ばなかったのは大したもんだ」 というコメントがずっと印象に残っていた。ああ、この "The Nobel committee are to be congratulated on not picking the over-hyped."ってやつ。 実際、このコメントにはまったく同感だる。新山はこれまで 「ノーベル平和賞」っていうのはノーベル賞の中でもいちばんウサン臭い賞だと思ってきた。 たいていの賞ってのは多かれ少なかれ政治的なもんだが、 平和賞は中でもダントツに政治的かつ主観的である。 だって、受賞してんのはほとんど政治家だぜ? 彼らが努力してないと言うつもりはないが、 努力は努力でも「政治的な」努力ってのは効果が不明である。過去の受賞者としては 佐藤栄作やマザー・テレサやダライ・ラマ14世 がいるが、彼らが何したの? と聞かれると、サッパリわからん。 たとえば、マザー・テレサの設立した「診療所」はぜんぜん実際的ではなく、 彼女は金を集めるのは得意だったが、実務的な知識がぜんぜんなかったし、 おまけにその主張はローマ法王も驚くほどのキリスト原理主義だったという 説がある。 ようするにノーベル平和賞は「がんばったね!」という意味で与えられる努力賞にすぎない、 と思っていた。
しかし、これに比べるとユヌス教授の成果は具体的で測定しやすいし、 その内容もずっとわかりやすい。で、おもしろいのは、 この本を読むとユヌスせんせいのアプローチはどこか「学者っぽい」のである。 結局のところ、彼がやったことは、 まず問題を発見し、それを解決するさまざまな手法を考えだし、 個々に実験をして (そして何度も失敗して)、 ようやくそれらしい解決策のひとつを見つけました、ということだ。 そして、うまくいかないときは「なぜうまくいかないのか?」と考える。 ようするに彼もまた、世界じゅうの技術屋に共通する 「アイデアで世の中の問題を解決するのだ」という信念でやっている。 ここに好感がもてる。 とはいえグラミンは決してアイデア一発でできたものではなく、 20年以上にわたる“デバッグ”のすえにできた精巧なシステムのように見える。 それに、この人はいまだに先生マインドから抜け切れていないらしく 「銀行家よりも教師として慕われたい」というようなことをいっていて、ほほえましい。 明らかに彼がやっていることは、 政治家や宗教家がやっていることとはまったく違う。とにかく現実的だ。 グラミンは政治や信条からなるべく距離を置いて成果をあげているし、 融資と同時に教育もやるので (バングラデシュは識字率が非常に低いので、 規則を覚えさせるために何度も言って聞かせるしかないんだそうだ)、 どちらかといえば銀行というよりも教育機関って感じだ。 だから、彼らのやっていることが、どことなく“生協”っぽいということは、 あるかもしれない。ちなみに youtube に登録されているユヌスの講演の中では一番よかったのが Charlie Rose によるインタビュー。 なお、グラミンのやり方には問題点もあるということが 指摘されている (こっちも参照)。 マイクロクレジットが 100% 「いいもの」なわけでもない。でも、確実な 業績はあるんであって、そういう意味ではユヌスへのノーベル平和賞は 「やるべき人にやった」という感じがする。残念ながら、 ノーベル賞委員会は 2007年度にはまた "overhyped 路線" に 戻ってしまった (ように見える) ケド。
NJ に住んでいたころ、アパートの大家はバングラデシュ出身だった。 この大家は 3人兄弟でやっていて、母親もそのアパートに住んでいた。 それからいま中野にある某インド料理屋もバングラデシュ人がやっている (バングラデシュは、もともとインドからイスラム圏が独立してできた国だから、 彼らは文化的にはベンガル人である)。 新山が知っている身近なバングラデシュ人というのはこれだけである。 彼らは、異国でこれだけビジネスを確立してしまえばもう国に帰るつもりは ないかもしれないが、どうなのかな。
(追記) ちなみに「図書館 + ネット検索」というのは、手軽に幅広い知識を得るためには 現在のところサイコーの組み合わせである。図書館は体系的な知識の「入り口」としては 申しぶんなく、Web はその「付録・補遺」として申しぶんない。本をある程度まで 読んでから、関連するキーワードで wikipedia (英語) や youtube をあさると、 おーおー出るわ出るわ、って感じだ。 ベンキョー好きな人間にとっては恵まれた世の中になったもんだ。
でも OMGWTFROFLMAOBBQ はまたこれとは違うな。
ML なんかの言語とちがって、Python ではひとつの関数が 複数の異なる型を返せるので、unification ではダメなことがわかった。 かわりに今は依存関係グラフを使っている (再帰呼び出しはループとして表現される)。 グラフをたどって、maximal set を得るのだ。これはずっと昔に、scheme で やろうとしていたことと一緒だ (文法上の違いをのぞけば、この 2つの言語は 意味論的には驚くほどよく似ている、だから乗り換えやすかったんだろう)。 でも、いずれ破綻するケースがあるんじゃないか? という心配をずっと考えている。
なにか新しいことをやろうとして、新山がいつも最初に心配するのは 「こんなことは誰にでも考えつく。だから誰かがもう先にやっているんじゃないか?」 ということと、「実はうまくいかないことがわかっているんじゃないか? そうでなければ、とっくに世の中に出ているはずだ」ということである。 これは“学者病”なのだろうか?
どうでもよかった。
とはいえ、彼らが日本と似ているとはぜんぜん思わないケド。
新山は、個人の能力に大した差なぞない、と思っている (前にも書いた)。もっとも視力とか握力とか単純に数値で 測定できるようなものは別だよ。だけど、一般に 「仕事の能力」などというものにそれほど差があるとは思えないし、 とりわけプログラミング能力については差がない。 それはさしずめ、美人とそうでない人のあいだには 実際は大して差がないのと似ている…。のかもしれない。 なぜかというと、とにかく尺度というものが複雑すぎるからだ。
「できるプログラマ」というのは「理想の恋人像」に似ている。 実際にはそんな奴はいない (いたら気味わるい) し、 そもそもどんな奴が理想なのかについて意見を一致させようとすると 血を見るハメになる。 一般的にいうところの「できる奴」と「できない奴」というのは 単に熟練度の差でしかなく、誰でも訓練すれば同程度の人間になる。 この点について、新山はまったく疑っていない。というか、 人間を多く観察すればするほど、ますますこの確信は深まっていく。
しかし、これも (話の展開が予想できるだろうけど) そうは思ってない人が結構いるらしいという話。 いったい彼らがどこでそのような幻想 (「世の中には天賦の才能をもったプログラマとそうでないプログラマがいて、 その間には越えられない壁がある」) を 仕入れてきたのか、サッパリわからんのだが…。いや、わかるんだけどさ。 世の中には以下のような人々がいる。彼らは、 「世の中の進歩というのはこんなにもモノスゴくて、 世の中には、こんなにもスゴい天才プログラマーがいるんだぁ〜〜〜」 ということを、だまされやすい人々に繰り返しくりかえし吹き込む。その結果、 従順な人々は、ついにそれをほんとうに信じこむようになる、という話だ。 ちなみに、それを仕事にしている人も新山は知っている。 こういう人々は、「社会をピラミッド型にしたい」のね。あるいは少なくとも 人々にはそう信じこませたい。もっとも、新山はおとぎの国から やってきたわけではないので、世の中に多少はピラミッドっぽい構造が あることは知ってる。つーか、ピラミッドというより、せいぜいゴミ処理場の 山ぐらいだと思うけど…。食物連鎖ほどにわかりやすいピラミッドじゃあない。 しかし、とにかく、世の中には「ピラミッド型の幻想」を広めたがっている 人がいるわけだ。理由は明白である。たとえ自分が頂点に立つつもりはなくても、 下に土台があると安心するからね…。 彼らが実際にそのことを意識してるかどうかは不明だが (してなさそう)。 いったい、いつからメディアの機能というのは、そっちのほうが メインになったんだろ? 最初からそうかもね。
(追伸) そもそも「人の能力には差がある」と思っていたら、 新山は今のような仕事はしなかっただろう。 だってそれはあまりにも人をバカにしてないか? (あるいはオレがバカにされてるかのどっちかだ)
しかし、なんとなく、いまは本を読む気にならない。 明るいうちに?
これが遺伝子レベルになると数億年になるが、そこまでは興味がない。
……ひっく!
(以下 下品)
げっぷ ひっく げっぷ ひっく げっぷ ひっく
×47回
銭湯へ。
世の中は、いつだって「あるいは、その逆」だ。 これはまったく隔離された世界においても正しい。
Document ID: 8f775b1eeab8887d50654a1fc5e9676d
Yusuke Shinyama