パスワードが変わったのではなくて、オレの記憶が改変されたのだ。 と、思う。
おしらせ:
なし。
まったく。きのうまでストーブが必要だったのに、きょうから蚊取り線香が必要じゃないか。まったく。
…とかいいつつ、実は新山がインターンをしたある会社では、技術部門と営業部門の仲が悪かった。 しかし、この会社は (新山から見ると) ひたすら客を騙して金を巻き上げればよい、 というスタンスの企業だったので、まあ、ああいうところでは「ひたすらお調子者のマーケティング」と、 「客をナメきった技術開発」という構図が生まれる、ということがよくわかった。 そうなるとお互いに搾取しあうという関係が生まれるのだろう。 ちなみに、その会社は技術者が (過剰に) 優遇されるところだったので、 技術者も一攫千金を狙ったエリート指向の人間が多く、オレはそういう連中がとても恐ろしかった。 儲かっているIT系の企業ってみんなああなんかね? で、いっぽう周囲を見渡してみれば、 こうした企業を手放しでホメてる共犯的なマスコミと、それにいいように踊らされてる人々がいる。 新山は彼らのステップに踏みつぶされるのがコワいので、いまはこうして離れているわけだけど。
こうしたケースでいつも共通して見られるのは「人生に合理性を求める人びと」である。 つまり世の中で大事なのはカネと効率性だけだと思っている人間、 ようするに人間を人間扱いしていない人間だ。 オーケイ、たしかに新山はプログラミングには合理性が必要だと言った。 しかし人生というものは合理的ではなく、それに対して合理主義を適用してはならない。 そんな“人間”は経済学のモデルの中にしかいないと思っていたんだけど、 いやはやヒトは「客観性」というお墨付きがあると、ここまで傲慢になれるものかと思う。 もちろん、こんなことをいってる新山もまだ完全に個人を個人として扱えているかどうかは、 あやしいところなので、これは自分の生涯にわたっての目標だけど。
foo*baa
とやれば
ふつう「foo
で始まってbar
で終わる」ファイル名が返される。
ところが、MS-DOSのコマンドによっては、baa
が勝手に無視されて
foo
で始まるファイルが勝手に選ばれる場合がある! (とくにcd
)
これにゃあムカついた。MS-DOSはファイル名の glob はシェルがやってるのではなく
各コマンドが勝手にやってるのだろうが、この仕様のせいでとんだバグを
入れるところだった。
とくに日本手話においては、ある動作を 1回やるのと 2回やるのでは ぜんぜん意味が違うことが多い (ex. 「東」を2回やると「東京」になるなど)。 これは「シングルクリック」と「ダブルクリック」の差に似ている。 2回やるとぜんぜん違う意味になってしまう。 で、細かい素性の区別は手話の読みとりでも重要なんだけど、 自分が話すときも意識せねばならず、これがなかなか大変。 うっかり同じ手話を (やり直しのつもりで) 2回やったり、開く 指の本数がなんとなく違ってしまったりすると、いわゆる音声言語でいうところの 「どもり」や「もごもごした喋り」のように相手には聞こえてしまうようだ。 つまり手話が上達するためには、この「素性」を弁別する感覚を 身につけねばならず、それにはまだ長い時間がかかると思われる。 しかし考えてみれば、音声言語でも音韻学的な素性というのは山のようにあるはずで、 これらの膨大な素性の中から適切なものだけを (無意識に) 選んでいる 人間の能力というのは大したもんだ。
てくるで (ところで)、手話で話そうとすると、自分がふだん いかに抽象名詞に頼っているかを知ってガッカリする。 新山がこのんで使う語句には、手話辞典にも載ってないし、 たとえあったとしても手話では (大げさすぎるので) そのまま日常会話で使えないだろうというのが多いのである。 こういうのは意訳しなきゃなんないだろうけど、まだオレはそこまで語彙を知らないし… (←そう、この「語彙」って単語もそうだ)。 とくに抽象名詞は微妙なニュアンスが違ってくるので難しい。 たとえば、新山が大好きな「基本的に、〜」って言いまわし。 この日記でもおそらく何百回と書いているし、日常的にも使っているし、 英語でもかなりの確率で "basically, ..." って言うことが多い。 でも、これってどう表現すりゃいいんだ? 「基本的に == 第一義的に」という意味で考えれば、 「まず」で表現できるかもしれないが、ちょっとニュアンス違うような気がする。 「たとえば」ではおかしいし「普通×2」とかでいいのかな? いっぽうで、日本語にはないが英語となら翻訳可能だと思えるものもある。 たとえば同じく新山がよく使う英語の "anyway, ..." (おそらく Ralph がよく使っているから影響された) は 日本語には一語でピッタリくる単語がないような気がする。 「とにかく」だけではちょっとキツいので、どうしても何らかの間投詞を入れたくなる。 しかし、手話ではこれは「別の話 (両手を右へどかす)」がかなり似ている、 ような気がする。
べつに新山はこの歌詞それ自体のメッセージに反発する気はない。 新山はおとなしくて従順な性格であるので、「生き物を大切に」とか 「おとーさんおかーさんを大切にしよ〜」とか言われれば、ハイハイと 素直に従うほうである。しかし、どうしてもここには大人のズルさのようなものがある。 それは、ここで言われている「命を大切にしよう」という主張自体にあるのではなく、 むしろ言われていないことにある。新山は小さいころから この手のお題目を聞くたびに必ず疑問がわいていたのだが、それは以下のようなものだった: 「生きものを大切にしようという主張は、よくわかるんだけど、 でも、なんで生きものは生きてるの? べつに生きてなくてもよかったんじゃないの?」 ということである。いまあらためて考えてみると、 この疑問は次の 2通りに解釈可能である:
まあ、とーぜんながら、オレのこういう疑問には当時の大人たちは 誰も答えてくれなかったし、今でも答えてくれないだろう。 なぜなら、誰も答えを知らないからだ。1. の疑問は、人間原理を使えば答えられるかもしれない。 でもそれが新山の欲しかった答えなのかどうかはわからない。 しかし、新山がとにかくズルいと思うのは、 誰も正直に「知らない」とは言わないことである。 たいていの大人は、こうした質問に対して以下のどれかのパターンで対応する:
なんで新山がこういうことにいつまでもこだわるのかと言うと、 それはオレが「疑問」というものを、制御できないもののように 感じているからなのだと思う。人間の「欲望」は、 意思があれば抑制できるかもしれない。しかし、人間にとって 「疑問を抱かないようにする」などということは、 (たとえ意思があっても) 不可能に近い。すくなくともオレにはむりだ。 疑問あるいは謎というものは、おさえようもなく真空中から生まれる。 そして一度生まれた「謎」は永久に消えない。 たとえ人類が滅亡したあとでも謎は依然として残るような気がしている。 これはそんなに根源的な問いでなくても同じことである。 新山がなんで自然言語処理に (今のところは) 愛想をつかしたのかといえば、 誰も「そこに謎がある」ということを認めたがらないように見えたからである (まあ、新山の周囲では)。オレから見るとただの時間かせぎ (あるいは論文かせぎ) としか思えないようなことを人々は「研究」していた。 しかし言語の「謎」に関しては、新山は機会があれば将来もう一度まじめに 取りむべきだと思っている。解決できる自信はまったくないが…。 ようするにオレは「謎」というものを、なにか絶対的な 存在として考えているのかもしれない。よくわからない。
久しぶりに文章を書いて疲れたのでもうやめる。
きっと、料理しないやつは知らないだろう。 マーガリン代用品じゃだめなのだ。 自分でつくるわけにもいかないし。聞いた話によると、 乳脂肪分の高い Jersey乳などをビンにつめてひたすら振っていると 分離してバターができるというが、そもそもジャージー牛乳なんて 売ってねえよ! しかし、そういうものがもし自力でできるとしたら、 それはかなり高尚な趣味になりそうである。
調べてみたらあった。 しかもバターだけじゃなくて、 カテージチーズやヨーグルトの作り方も載っている。 さすが北海道。でもこれって自分で牛飼ってる人向けだよね。
新山はよく、こういう人々に向かって 「オマエら、そんなに他人を気にするより、もっと自分を気にしろよ!」 と言いたい時がある。しかし、そもそも連中は“自分を気にする”ということの意味が わかってないのじゃないだろうか。彼らにとっては、世界には他人しかいないのだ。 英語で新山が好きな表現のひとつに "be yourself" というのがある。 たいていは「落ちつけ」とか「気をしっかりと持て」とかいう意味に翻訳されるが、 この表現にはそれ以上の含蓄があるように思う。そして、新山の知っている 多くの人は being themselves でない。どうしたものだか。
思うに、"be yourself" はそんなに簡単にできることではない。 おそらく人は長い年月をかけて "yourself" になるのだろう。サンテグジュペリは こう言っている:
君は人生に意義を求めているが、人生の意義とは自分自身になることだ。それから、ワインバーグの本には引用として以下のように書かれていた:
古い諺にあるとおり、「一人の人間を作るには一生かかる」のである。ようするに "being yourself" は一生 (生きているかぎり) 終わることのない プロセスであり、あえていえば態度のようなもんかもしれない。 新山はそう考えている。努力していれば (努力だと? そんなもんはオレは嫌いだ) いつか死ぬときにヒトは "yourself" になるのかもしれない。 しかし、"yourself" でないまま死んでいく人も、これまた沢山いるような気がする。
寒い。まだストーブをしまわなくてよかった。
きょうはまたもやオチャワンでお茶の飲んだ。ちなみにBGMは、 これ。
(追記: てくるで、新山はこういうインドのキチガイ的な音楽は好きだが、 Soulja Boy とかは好きなれない。ああいうのが流行るあたりに米国と日本との 趣味の違いを感じる。とはいってもオレは自分が“ニッポン的”な趣味だとも 思っていないが。まあどうでもよろ)
「“いいやつ度”」
しかし、新山にとって大切なのは「自分自身にウケること」であって、 ここに書いたことで他人にシラを切られようがどうでもいい (←間違った日本語)。つまり、ここにおいては芸術と科学は分離されていない。 突然なにを言っているかって? オレが出したメールを読みたまえよ。 ところで今日は某国のおエラ方 (つまり“おエラ人民”) が来日し、 どっか大学で講演するとかいうことで、うちの 会社の周囲ではヘリがやたらうるさかった。あれは警備のヘリかな? と思ったら、聞くところによると、どうやら報道用らしい。 あいかわらずくだらないことで視聴率が稼げるようである。 でも、カンケーねえよ。今日はそんなに暑くなくてよかったが、 研究はあまりはかどらなかった (研究!?)。いやいや、つまり、 実機になるといろいろアルってこってす。
(ps. この手の現象は「まんが日本昔ばなし」の範疇のような気もする。)
それから。日本のテレビでひたすら鼻につくのが、 見た目とか、音楽の趣味とかに見られる日本的“やさしさ”および “かわいさ”の追求、である。 とにかく「やさしさ」の叩き売り。 性別に関係なくそうである (ネットでもそう。 巷に出回っている「2ちゃんねる感動フラッシュ」の類を見よ)。 男っぽさで売ってる タレントでさえ、アニメキャラに向かって話しかけたり、さりげなく 「やさしさ」を誇示しないと仕事もらえないらしい。 ちなみに、日本的な“やさしさ”ってのは、たとえば 「餓死しようとしている人の目の前で、 イチゴのミルフィーユ食いながら『その人がいかにつらいか』を思って 一緒に泣いてあげること (もちろんミルフィーユはあげない、だいたい餓死しようとしてる奴なんか キタナイじゃんか! だから見物するときはマスクをつけて5メートル以内には 近寄らないし、万が一そいつが狂いだしたときに備えてスタンガンは 常時手放さない)」である。もちろんこのとき流れるBGMはバラード系だ。 それこそが、太文字の、やさしさ。 ああ、やさしぃ…。 (ちなみに、ここでのBGMはバラード系)
さて、食器洗うか。
今日の教訓: ニンニクの芽は、最後に入れること! (さもないと色が変わってしまう)
(ps. そういやー、マスクをつけてる状態でどうやってミルフィーユ食うんだ?)
(追記) そういやー PDF の暗号化アルゴリズムのどこがアホなのかわかった。 奴ら、最初からHMACを使えやいいのよ。
やつらを殺せばテロは止まるか? そんなこたぁねえ!
天皇を殺せば太平洋戦争は終わったか? そんなこたぁねえ!
Stephen Soldz によれば、 彼はブッシュが 911後のスピーチで「テロとの戦争」をものすごく曖昧に定義したことに 驚いたという (そうだったっけ? 新山は覚えてない)。 それはまるで決して終りのない戦争であるかのように聞こえたというのだ。 まさしく、そうなんだろうなあ。 たぶん太平洋戦争のときの米国は「戦争を終わらせるつもり」だった。 でも今の戦争はたぶん終わらせるつもりがない。連中は、こういうやり方をしていれば 新たなテロリストがどんどん養成されてくるという事実を 知っててやってるのだろう。つまり、実は彼らはアホじゃない。
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Yusuke Shinyama