2008年 5月 (1)。

Last Modified: Fri May 16 20:37:17 JST 2008

パスワードが変わったのではなくて、オレの記憶が改変されたのだ。 と、思う。

おしらせ:
なし。

May 16 [Fri]


(07:14)
蚊に刺された (蟹刺されたのではない)! しかも、何箇所も。

まったく。きのうまでストーブが必要だったのに、きょうから蚊取り線香が必要じゃないか。まったく。

(20:33)
フロに入ってからメールをチェックするとどこかの人が pdfminer を使ってこんなことやりたい、というようなことを尋いてくるので (彼は python もよく知らないらしい)、わざわざサンプルコードまでつけて回答する。 そして、オレってなんて親切なんだ、と自分に酔う。ご飯まだ?

May 15 [Thu]


(07:53)
なんとか復活できそうな見通し?
(23:01)
ところで (てくるで)、開発をやっている人間が営業と仲がいいというのは 珍しいことなのだろうか。新山は、営業の人々との関係はかなりよい (と、自分では思っている)。 まだ入社して日が浅いからかもしれないが、自分は彼らに食わせてもらっていると思う。 いったい、どうして彼らと仲が悪くなれようか? だいたい、いくら製品がよくたって、 売ってくれる人がマトモでなけりゃ商売というものは成立しないのだ。 お客のサポートが重要なこの業界ではなおさらのことである。 新山もときどき電話に出ることがあるが、だいたい営業さんに代わるのだが、 お客さん相手の説明をしているのを聞くと「すげー根気あるなあ」と思わざるをえない。 オレだったら絶対すぐ投げ出すね。それから、顧客のニーズを一番よくつかんでいるのも 営業の人々である。いくら開発者がいろいろ想像で仕様を決めたところで、 最終的に営業の人々と意見が一致しなけりゃオレは不安だ。 よく聞く「開発と営業の仲が悪い」ってのは、一体どういう状態なんだか 新山にはサッパリ想像つかない。

…とかいいつつ、実は新山がインターンをしたある会社では、技術部門と営業部門の仲が悪かった。 しかし、この会社は (新山から見ると) ひたすら客を騙して金を巻き上げればよい、 というスタンスの企業だったので、まあ、ああいうところでは「ひたすらお調子者のマーケティング」と、 「客をナメきった技術開発」という構図が生まれる、ということがよくわかった。 そうなるとお互いに搾取しあうという関係が生まれるのだろう。 ちなみに、その会社は技術者が (過剰に) 優遇されるところだったので、 技術者も一攫千金を狙ったエリート指向の人間が多く、オレはそういう連中がとても恐ろしかった。 儲かっているIT系の企業ってみんなああなんかね? で、いっぽう周囲を見渡してみれば、 こうした企業を手放しでホメてる共犯的なマスコミと、それにいいように踊らされてる人々がいる。 新山は彼らのステップに踏みつぶされるのがコワいので、いまはこうして離れているわけだけど。

こうしたケースでいつも共通して見られるのは「人生に合理性を求める人びと」である。 つまり世の中で大事なのはカネと効率性だけだと思っている人間、 ようするに人間を人間扱いしていない人間だ。 オーケイ、たしかに新山はプログラミングには合理性が必要だと言った。 しかし人生というものは合理的ではなく、それに対して合理主義を適用してはならない。 そんな“人間”は経済学のモデルの中にしかいないと思っていたんだけど、 いやはやヒトは「客観性」というお墨付きがあると、ここまで傲慢になれるものかと思う。 もちろん、こんなことをいってる新山もまだ完全に個人を個人として扱えているかどうかは、 あやしいところなので、これは自分の生涯にわたっての目標だけど。

May 14 [Wed]


(06:38)
さいきん、夜は早く寝てしまう。寒いからだろうか。 どうでもいいけど、MS-DOS のコマンドでムカつくことに、 ワイルドカードの指定が一貫してないことがある。 きのうわかったのだが、UNIXのシェルでは foo*baa とやれば ふつう「fooで始まってbarで終わる」ファイル名が返される。 ところが、MS-DOSのコマンドによっては、baaが勝手に無視されて fooで始まるファイルが勝手に選ばれる場合がある! (とくにcd) これにゃあムカついた。MS-DOSはファイル名の glob はシェルがやってるのではなく 各コマンドが勝手にやってるのだろうが、この仕様のせいでとんだバグを 入れるところだった。
(07:17)
さいきん気づいたこと。音声言語と同じように手話も「発音が明瞭な」人と 「くずした」感じの人がいるが、音声言語と同じように手話にも 構成要素としての「音節」のようなものがある。ストーキーから始まって、 手話の構成要素を素性として整理しようとした言語学者は沢山いるが、 ネイティブサイナーを見ていて思うのは、彼らは「動きのどの素性に着目するか」 という感覚を生得的に身につけているらしい、ということだ。 たとえば英語では、r音と l音や、s音 と th音を聞きわけらないと聞きとれないし、 同時に発音し分けわれらないと通じない。英語ネイティブにとっては、これらは 造作もないことなのだが、彼らにとってこれらの音は顕著な違いとして認識されている。 同じことが手話にもいえる。彼らは健聴者が見落としがちな、 ちょっとした動きの違いを別々のシンボルとして感じとれる。 その素性としては以下のようなものがある:

とくに日本手話においては、ある動作を 1回やるのと 2回やるのでは ぜんぜん意味が違うことが多い (ex. 「東」を2回やると「東京」になるなど)。 これは「シングルクリック」と「ダブルクリック」の差に似ている。 2回やるとぜんぜん違う意味になってしまう。 で、細かい素性の区別は手話の読みとりでも重要なんだけど、 自分が話すときも意識せねばならず、これがなかなか大変。 うっかり同じ手話を (やり直しのつもりで) 2回やったり、開く 指の本数がなんとなく違ってしまったりすると、いわゆる音声言語でいうところの 「どもり」や「もごもごした喋り」のように相手には聞こえてしまうようだ。 つまり手話が上達するためには、この「素性」を弁別する感覚を 身につけねばならず、それにはまだ長い時間がかかると思われる。 しかし考えてみれば、音声言語でも音韻学的な素性というのは山のようにあるはずで、 これらの膨大な素性の中から適切なものだけを (無意識に) 選んでいる 人間の能力というのは大したもんだ。

てくるで (ところで)、手話で話そうとすると、自分がふだん いかに抽象名詞に頼っているかを知ってガッカリする。 新山がこのんで使う語句には、手話辞典にも載ってないし、 たとえあったとしても手話では (大げさすぎるので) そのまま日常会話で使えないだろうというのが多いのである。 こういうのは意訳しなきゃなんないだろうけど、まだオレはそこまで語彙を知らないし… (←そう、この「語彙」って単語もそうだ)。 とくに抽象名詞は微妙なニュアンスが違ってくるので難しい。 たとえば、新山が大好きな「基本的に、〜」って言いまわし。 この日記でもおそらく何百回と書いているし、日常的にも使っているし、 英語でもかなりの確率で "basically, ..." って言うことが多い。 でも、これってどう表現すりゃいいんだ? 「基本的に == 第一義的に」という意味で考えれば、 「まず」で表現できるかもしれないが、ちょっとニュアンス違うような気がする。 「たとえば」ではおかしいし「普通×2」とかでいいのかな? いっぽうで、日本語にはないが英語となら翻訳可能だと思えるものもある。 たとえば同じく新山がよく使う英語の "anyway, ..." (おそらく Ralph がよく使っているから影響された) は 日本語には一語でピッタリくる単語がないような気がする。 「とにかく」だけではちょっとキツいので、どうしても何らかの間投詞を入れたくなる。 しかし、手話ではこれは「別の話 (両手を右へどかす)」がかなり似ている、 ような気がする。

(21:33)
きょうは近所のスーパアできらら397が 5kg/1680円也で売っていたのでおもわず衝動買った。 そんだけ。

May 11 [Sun]


(20:47)
毎週日曜は銭湯に行くのだけど、きょうはそこで番台のテレビから 「♪みんなみんな生きているから〜 ♪ひとりに一つずつ、大切な、いのち〜」 という歌が聞こえてきてしまい、なんかドヨーンとした気分になって帰ってきた…。

べつに新山はこの歌詞それ自体のメッセージに反発する気はない。 新山はおとなしくて従順な性格であるので、「生き物を大切に」とか 「おとーさんおかーさんを大切にしよ〜」とか言われれば、ハイハイと 素直に従うほうである。しかし、どうしてもここには大人のズルさのようなものがある。 それは、ここで言われている「命を大切にしよう」という主張自体にあるのではなく、 むしろ言われていないことにある。新山は小さいころから この手のお題目を聞くたびに必ず疑問がわいていたのだが、それは以下のようなものだった: 「生きものを大切にしようという主張は、よくわかるんだけど、 でも、なんで生きものは生きてるの? べつに生きてなくてもよかったんじゃないの?」 ということである。いまあらためて考えてみると、 この疑問は次の 2通りに解釈可能である:

  1. そもそもなぜこの世には生き物が存在している (あるいは、存在しなければならなかった) のか?
  2. なぜ生き物は生きようとする (あるいは、生きなければならない) のか?

まあ、とーぜんながら、オレのこういう疑問には当時の大人たちは 誰も答えてくれなかったし、今でも答えてくれないだろう。 なぜなら、誰も答えを知らないからだ。1. の疑問は、人間原理を使えば答えられるかもしれない。 でもそれが新山の欲しかった答えなのかどうかはわからない。 しかし、新山がとにかくズルいと思うのは、 誰も正直に「知らない」とは言わないことである。 たいていの大人は、こうした質問に対して以下のどれかのパターンで対応する:

はっきりいって、どれも誠実な対応とは思えない。 たとえ相手が子供だとしても、これらは子供を納得させるような答えじゃない。 生きる理由は教えないのに、 「生きろ!」という命令だけを与えるのは、筋が通ってないと思う。 しかし、ほとんどの人はこの問題は解決したかのようなフリをしている。 実際には彼らは解決したわけじゃなくて、ただ単にこの疑問を忘れただけなのだ。 それはもっぱら自分を忙しくしておいて、こんなアホな (と彼らは思っている) 疑問を考えてるヒマをなくすことで達成される。そして、こんなアホな質問をする子供たちも、 いつしか自分たちと同じように「忘れる」ことを待っている。 ここが、もうどうしようもなくズルい。 悪気があるわけではないとしても、ズルいことに変わりはない。

なんで新山がこういうことにいつまでもこだわるのかと言うと、 それはオレが「疑問」というものを、制御できないもののように 感じているからなのだと思う。人間の「欲望」は、 意思があれば抑制できるかもしれない。しかし、人間にとって 「疑問を抱かないようにする」などということは、 (たとえ意思があっても) 不可能に近い。すくなくともオレにはむりだ。 疑問あるいは謎というものは、おさえようもなく真空中から生まれる。 そして一度生まれた「謎」は永久に消えない。 たとえ人類が滅亡したあとでも謎は依然として残るような気がしている。 これはそんなに根源的な問いでなくても同じことである。 新山がなんで自然言語処理に (今のところは) 愛想をつかしたのかといえば、 誰も「そこに謎がある」ということを認めたがらないように見えたからである (まあ、新山の周囲では)。オレから見るとただの時間かせぎ (あるいは論文かせぎ) としか思えないようなことを人々は「研究」していた。 しかし言語の「謎」に関しては、新山は機会があれば将来もう一度まじめに 取りむべきだと思っている。解決できる自信はまったくないが…。 ようするにオレは「謎」というものを、なにか絶対的な 存在として考えているのかもしれない。よくわからない。

久しぶりに文章を書いて疲れたのでもうやめる。

May 10 [Sat]


(10:55)
さいきんのムカつくこと: バター品切れ。

きっと、料理しないやつは知らないだろう。 マーガリン代用品じゃだめなのだ。 自分でつくるわけにもいかないし。聞いた話によると、 乳脂肪分の高い Jersey乳などをビンにつめてひたすら振っていると 分離してバターができるというが、そもそもジャージー牛乳なんて 売ってねえよ! しかし、そういうものがもし自力でできるとしたら、 それはかなり高尚な趣味になりそうである。

調べてみたらあった。 しかもバターだけじゃなくて、 カテージチーズやヨーグルトの作り方も載っている。 さすが北海道。でもこれって自分で牛飼ってる人向けだよね。

(16:24)
つねに 「オレはこんなに社会的に意味のある仕事をしている」と 自分に言い聞かせないとだめな人間 (男性に多いと思われる) は、 まだ本当の人間ではない。それはどういうことかって?

新山はよく、こういう人々に向かって 「オマエら、そんなに他人を気にするより、もっと自分を気にしろよ!」 と言いたい時がある。しかし、そもそも連中は“自分を気にする”ということの意味が わかってないのじゃないだろうか。彼らにとっては、世界には他人しかいないのだ。 英語で新山が好きな表現のひとつに "be yourself" というのがある。 たいていは「落ちつけ」とか「気をしっかりと持て」とかいう意味に翻訳されるが、 この表現にはそれ以上の含蓄があるように思う。そして、新山の知っている 多くの人は being themselves でない。どうしたものだか。

思うに、"be yourself" はそんなに簡単にできることではない。 おそらく人は長い年月をかけて "yourself" になるのだろう。サンテグジュペリは こう言っている:

君は人生に意義を求めているが、人生の意義とは自分自身になることだ。
それから、ワインバーグの本には引用として以下のように書かれていた:
古い諺にあるとおり、「一人の人間を作るには一生かかる」のである。
ようするに "being yourself" は一生 (生きているかぎり) 終わることのない プロセスであり、あえていえば態度のようなもんかもしれない。 新山はそう考えている。努力していれば (努力だと? そんなもんはオレは嫌いだ) いつか死ぬときにヒトは "yourself" になるのかもしれない。 しかし、"yourself" でないまま死んでいく人も、これまた沢山いるような気がする。

寒い。まだストーブをしまわなくてよかった。

(18:23)
ようやくバターをゲッotった。ゲロったのではない。
(21:12)
きょうは朝から偏頭痛ぎみで、あんまり具合よくなかったのだが、 夕方になったら Tylenol が効いてきたのかアホみたいに元気になった。 いまさら遅いよ!
(22:49)
iTunes Store の怖さよ。以前まで、新山はオンライン上の実体のないデータに あまり金を払ったりしないだろうし、ましてやこんな DRM つきの データなぞに数千円もつぎこんだりする気は毛頭なかった。 ところが、いま気づいてみたらもう 50曲以上買っている。 まあ、この 4年間での合計だから年平均すれば大したことはないが (1000曲ぐらい買ってるヤツはいそうだ)、こうして少しずつ、 合計ではけっこう金を払わせてしまうシステムとゆーのはこわい。 オレはようするに人生で算数ができない奴なんだ。

きょうはまたもやオチャワンでお茶の飲んだ。ちなみにBGMは、 これ

(追記: てくるで、新山はこういうインドのキチガイ的な音楽は好きだが、 Soulja Boy とかは好きなれない。ああいうのが流行るあたりに米国と日本との 趣味の違いを感じる。とはいってもオレは自分が“ニッポン的”な趣味だとも 思っていないが。まあどうでもよろ)

May 09 [Fri]


(22:01)
騙してワルかった。実はおれはもう、ずっと前から嘘をついていたんだ。

「“いいやつ度”」

May 08 [Thu]


(20:13)
これは、決めぜりふだ!!
(21:02)
きょうは、ふとした拍子に、 このサイトが 10年の時を超えていまだにネット上に存在していることを発見し、 カンドーした。更新日時を見よ。97年だぞ。すげーなああ。 いや、新山の日記も 10年以上続けているが、 このサイトのインパクトと笑いにはかなわない。 つうか、べつにオレはウケを狙って書いているわけではヌい
が…。まあ、ときどきは狙うカモね。

しかし、新山にとって大切なのは「自分自身にウケること」であって、 ここに書いたことで他人にシラを切られようがどうでもいい (←間違った日本語)。つまり、ここにおいては芸術と科学は分離されていない。 突然なにを言っているかって? オレが出したメールを読みたまえよ。 ところで今日は某国のおエラ方 (つまり“おエラ人民”) が来日し、 どっか大学で講演するとかいうことで、うちの 会社の周囲ではヘリがやたらうるさかった。あれは警備のヘリかな? と思ったら、聞くところによると、どうやら報道用らしい。 あいかわらずくだらないことで視聴率が稼げるようである。 でも、カンケーねえよ。今日はそんなに暑くなくてよかったが、 研究はあまりはかどらなかった (研究!?)。いやいや、つまり、 実機になるといろいろアルってこってす。

(21:54)
てくるで (ところで)、ちなみに新山の「おチャワンでお茶を飲むトうめい病」 はあれからさらに悪化し、きょうは味噌汁までおチャワンで飲んだ。 いや、残ったので…。まてよ、もしかして鍵はこのチャワン自身に あるのでわないか?? ひょっとするとこれは魔性のおチャワンで、 これで飲むものは何もかもうまく感じる…というのは、 ドラえもんの何かにありそうだな。(影響されすぎだ)

(ps. この手の現象は「まんが日本昔ばなし」の範疇のような気もする。)

(22:05)
だって "Africa" の複数形は "Africae" だよね?

May 07 [Wed]


(19:25)
この季節はいい。終業のあとすぐ帰れば、まだ明るいうちに家につける。 気温もちょうどよく、暑すぎず寒くもなし (しかし午後になるとオフィスの中はすこし暑かったが)。 おまけに花粉もないし、そして、 このような状態がずっと続くはずがない。
(20:51)
そういえば、このあいだ久しぶりに日本のテレビ番組をすこし (あちこち計2時間ぐらい) 見て、その「日本っぽさ」にすっかり 毒をあてられてしまった。まさにあれこそ日本の文化だと思う。 そこでは安っぽい感動のための演出が奨励され、 ヒトは他人の生活をひたすら気にするよう要求され、 そして、とにかく誰に対しても波風立てないことを脅迫される。 さもないと、あしたからクラスのみんなにシカトされるよ。 この傾向はNHKでも民放でも変わらない。 “ニッポン人”はテレビによって作られる。 テレビこそ日本を作る装置だ。テレビを見ていて、実際には映っていないはずの 「(笑)」の文字が自然に画面の中に見えてくるようになったら、 あなたも立派なニッポン人だ。あれを見ているかぎり、 人生は永久に憂鬱な、どーしようもないものと思わざるを得ない。 逆にテレビさえ見なければ日本的な脅迫観念からは ある程度は距離をおいていられる。といっても、日本のテレビは 「テレビ教から脱会すると世の中に取り残されて不幸になるぞ〜」という カルト宗教なみの洗脳を 日々やっているから、いったんアレにはまった人は抜けるの大変だろうね。 もっとも今じゃネットにもだいぶ テレビ的な役割が移行されつつあるから、テレビのかわりに ツウちゃんねるを見ても同じことだけど。 ある意味で、日本の情報統制は、ネットの検閲なんかやってる 中国よりもずっと高級だと思う。つまり 「外の情報が入ってこないように壁をつくる」のではなくて、 「内側からの情報をひたすら欲しがるように縛りつけておく」のだ。 そして、新山はあいかわらずテレビをちっとも欲しくならないし、 日本語のページもほとんど見たくならない。でも暇になるとウィキッペを 編集したりはしてるけどね…。

それから。日本のテレビでひたすら鼻につくのが、 見た目とか、音楽の趣味とかに見られる日本的“やさしさ”および “かわいさ”の追求、である。 とにかく「やさしさ」の叩き売り。 性別に関係なくそうである (ネットでもそう。 巷に出回っている「2ちゃんねる感動フラッシュ」の類を見よ)。 男っぽさで売ってる タレントでさえ、アニメキャラに向かって話しかけたり、さりげなく 「やさしさ」を誇示しないと仕事もらえないらしい。 ちなみに、日本的な“やさしさ”ってのは、たとえば 「餓死しようとしている人の目の前で、 イチゴのミルフィーユ食いながら『その人がいかにつらいか』を思って 一緒に泣いてあげること (もちろんミルフィーユはあげない、だいたい餓死しようとしてる奴なんか キタナイじゃんか! だから見物するときはマスクをつけて5メートル以内には 近寄らないし、万が一そいつが狂いだしたときに備えてスタンガンは 常時手放さない)」である。もちろんこのとき流れるBGMはバラード系だ。 それこそが、太文字の、やさしさ。 ああ、や…。 (ちなみに、ここでのBGMはバラード系)

さて、食器洗うか。

今日の教訓: ニンニクの芽は、最後に入れること! (さもないと色が変わってしまう)

(ps. そういやー、マスクをつけてる状態でどうやってミルフィーユ食うんだ?)

May 06 [Tue]


(18:43)
いつのまにか IPAフォントがフォントのみで (つまり余計な crap なしで) ダウンロードできるようになってた。すばらしい。まちがいなく、 これはここ10年ぐらいのあいだに IPA が出した一番マシな成果だろう (そもそもフォント自体はずっと前からあったので、IPA は 「公開」のプロセスだけをやるのに 10年かけたことになる)。 しかし "OSS iPedia" とかいうダサいサイトを運営してるが、 あれは無駄だからやめたほうがいいと思うね。 てくるで、未踏で金バラまきはまだやってるのか? (いまだにあれの目的がさっぱりわからんが、 おそらくオレは永久にわかる必要がないのであろう)
(19:59)
またなんでこなに風が強いの?? むかつく。

May 03 [Sat]


(10:03)
外泊するときに、いつも意外と気をつかうのが冷蔵庫の罪である。 今回はけさの朝食でちょうど全部終わるようにしておいた。 すばらっし! それじゃ。

(追記) そういやー PDF の暗号化アルゴリズムのどこがアホなのかわかった。 奴ら、最初からHMACを使えやいいのよ。

(10:22)
casual/causal

May 02 [Fri]


(07:11)
米国のやり方でいつも意味不明なのは、連中が リーダーさえ殺せばテロは止まると思っている (らしい) ことである。 今回のソマリアの件もそうだし、ザカルウィに対しても、びんラディンに対してもそうだった。 しかもそのやり方が秀逸。ミサイルを (その他多勢巻き込んで) ばこばこ撃ちこみ、 「どうやら死んだらしい」で終わり。アホである。

やつらを殺せばテロは止まるか? そんなこたぁねえ!

天皇を殺せば太平洋戦争は終わったか? そんなこたぁねえ!

Stephen Soldz によれば、 彼はブッシュが 911後のスピーチで「テロとの戦争」をものすごく曖昧に定義したことに 驚いたという (そうだったっけ? 新山は覚えてない)。 それはまるで決して終りのない戦争であるかのように聞こえたというのだ。 まさしく、そうなんだろうなあ。 たぶん太平洋戦争のときの米国は「戦争を終わらせるつもり」だった。 でも今の戦争はたぶん終わらせるつもりがない。連中は、こういうやり方をしていれば 新たなテロリストがどんどん養成されてくるという事実を 知っててやってるのだろう。つまり、実は彼らはアホじゃない。


Document ID: 8584e409330d4c0e0de744e598eb1dec

Yusuke Shinyama