2008年 6月 (1)。

Last Modified: Sun Jun 15 23:49:32 JST 2008

ワラにもすがりたい人々に向かって投げられる藁は、たいてい間違った藁 (≒ワナ) だ。

Jun 15 [Sun]


(11:04)
いずれ、1億総スパマー時代の世の中がくるに決まってる。
(20:23)
きょうは、床屋へいこうと思ったが、mufg の ATM がお休みで現金をおろせずムカ。 そのあと図書館へいってしばらく篭る。遅い昼食は薬師通りの南印度diningでドサ食った。

午後は読書と昼寝をして、夕刻に銭湯へ。 きょうから 1回 450円に値上がっていたのでブチキレそうになるが、 番台のオバチャンの心底申し訳なさそうな顔を見たら許せた。

そのあと近所のスーパーへいったらゴーヤーが安売りしていたので、 夕食はチャンプる (略してゴーチャン)。 といっても新山は沖縄へいったことがないので、本当の琉球語は知らないが、 豆腐をイタめるときは水切りがポイントやね。てゆうか新山が作るといつもどおり かなり薄味なのですが、かわりにオレはほとんどの炒め物で仕上げにちょびっと酢を入れる。 こうするとパンチがきいた味になるのだが入れすぎると最低な味になるので リョーバの件 (つるぎ)。

(21:30)
きょうトチョカンで読んで面白かった本。 「プロブレム・シーキング - 建築課題の発見・実践手法 - William M. Pen~a, Steven A. Parshall、溝上裕二訳」 これは「プログラミング」に関する本である。建築の世界では「プログラミング」というのは、 いわゆる要求定義・仕様分析のことをいうらしい。 建築というのは、決して建築家の勝手な表現物などではなく、 ユーザ (住人) の満足度を高めることがなによりも重要だ。 失敗した建築では、住みにくく、使いにくいという まるでソフトウェアのような建物になってしまう。 ひとつおもしろいのが、本書の定義では「プログラミング」とは最初におこなわれる ヒアリングと要求定義・仕様分析のことであり、その先にくる「デザイン」が文字通り (狭義の) 設計と されていることだ。これは計算機の分野とは逆のような気がする。しかし、それ以外の部分では、 この本で言われていることはソフトウェアの設計とあまりに似ている。 用語すら似ていて (“プログラマー”とか“ドキュメンテーション”とか)、 わざとソフトウェア業界からもってきた用語を使っているんではないかと思うくらい。 たとえば p.24 には「プログラミングにおける代表的なタスク」として、 次のようなものが挙げられている:
  1. ゴールの確立
  2. 事実の収集と分析
  3. コンセプトの発見と検証
  4. ニーズの決定
  5. 課題の提示
さらに、デザインの決定要因として「機能 (Function)」「形態 (Form)」 「経済 (Economy)」「時間 (TIme)」が考慮されなければいけないとされており、 プログラミングにおいては以下の原則を頭におけ、とされている: さて、本の前半はこのように抽象的だが、後半はかなり具体的になっていて、 施設の種類によるコスト見積分析の計算式や、実際にあったケーススタディが 載っているほか、紙の上でのアイデアのまとめ方や、ヒアリングやミーティングの やり方、品質評価の手法などが書かれている。ここでいう「プログラミング」が 仕様設計のことをさすと考えれば、これはまさに SE の教科書のようでしょ?

そもそも建築もソフトウェアと同じく、何千万円・何億円とする製品を作るものであるし、 インターフェイスがなによりも重要である (というか建築のほうがソフトウェアよりもずっと先輩だ、ウチが勝手にソフトウェアは建築に 似ていると思い込んで「アーキテクチャ」なんて用語を拝借してるだけだ)。 しかも、普通はソフトウェアよりも建築のほうがはるかに人月を 要するプロジェクトであることが多いし、作っちゃったあとの始末はさらに大変だから、 その設計も慎重になるだろう。だからこうしたノウハウが蓄積されることは重要であるように思える。 ただし、建築はソフトウェアほど融通がきかないわけではないので、計算機ソフトウェアの 設計ほど細部にこだわる必要はないかもしれない (ソフト屋の偏見か?)。で、 この本のいいところはソフトウェア設計にも使えそうな警句が多く含まれていることだ (強調はすべて著者) :

p.45

...古い格言に「どんな愚か者でも加えることはできるが、減じるには天才が必要である」とある。 不適切な設計課題や、設計の方向性に影響を与えないささいな情報を破棄するには 「天才」が必要なのである。プログラミングはおもに分析を意識的に行うことであるが、 直観力、つまり、どの情報に利用価値があり、どの情報を破棄すべきかを把握する感覚も必要である。 利用価値の高い情報を破棄してしまうリスクは、経験によって最小限に抑えられる。...

p.58

(チーム活動について) ...中道精神では異なる思考方法の人たちをまとめることはできない。 一貫して中立を保とうとしても駄目である。直感が論理に優先しなければならない場合や、 その逆の場合、抽象的思考をすべきときや具体的思考をすべきとき、芸術よりも科学を 優先すべきときやその逆の場合もある。...

p.70

...事実は、それが適切なときのみに重要である。…事実に終わりはない。 プログラミングは事実を発見する以上の存在でなければならない。...

新山がとりわけ気に入っているのは、上の 「どんな愚か者でも加えることはできる」というくだりだ。 そう、この世界には加えるダケしかできない愚か者が多すぎるのである! いくら米国でコンピュータサイエンスが進んでいるといっても、体型までアメリカンを真似する必要はない。 もうすこしソフトウェア業界にも「スリムがカッコいい」という理想を広めようや。

ちなみに巻頭の「推薦のことば」を書いているのは 東工大の仙田満(マン)教授である。この先生の研究室には学部時代に取材したことがあるのだが、 おそらく本当の名前は「みつる」なのだろうけど、研究室のドアには "SENDA MAN LAB" と書かれていた。 本人も「せんだ まん」と名乗っていた。どうでもいいか。

Jun 14 [Sat]


(16:05)
いつのまにか (itumonanica)、 pinky などというコマンドができていた。
NAME
       pinky - lightweight finger

ha-ha- thats sooo amuuzing

どうでもいいけど (どうでもいいケロ)、 新山はなぜ以前の BSD finger が「重いプログラム」とされていたのか、 その理由を知らない。fingerd が走っていたからか? (むかしは xload だって重いと言われたんだぜ)

…fingerd といえば、これは新山がむかし「TCP とは何か」を理解するために すごく役に立ったことを思い出す。いまは fingerd なんて走らせている人はいないだろうけど、 当時の東工大・情報工学科では、ぜんぶの研究室の端末が global IPであり (X端末も global IPが普通だった)、ほとんどのホストでは fingerd や rwhod が走っていた。 まあ、米国ではいまでも全部 global が普通だけど。それでどういう経緯だったか忘れたが、 あるとき偶然、finger コマンドのかわりに telnet ホスト名 79 とやっても同じ結果が得られるということを発見した。 finger は非常に単純なプロトコルなので、人間が手作業でやっても十分使えたし、 ソースを追って中身を理解することも簡単だった。(ちなみに、当時は http も HTTP/0.9 だった。) こういうので一度「ああ、そうか!」という状態になると、あとは tcp/ip について 理解するのはずっとやさしくなる。現実的な例があるからね。 新山は unix の使い方や、tcp/ip の仕組みを教科書から学習した経験がない。 Stevens なんかの本を知ったのはだいぶあとになってからだ。 結果的にはオレはこれでよかったような気がするけど、いまの人はどうやって これらの概念を身につけてるんだろうね? こういった知識は、 本を読んでも大して身につかないものだと思う。そもそも今は書籍が多すぎだ!

(18:05)
ぞんねんながら (存念)、ワラシャー自分の人生がかくのごとくエキサイティングであると、 他人に認めてもらう必要はないんだな。

きょうはかったね。継続

(00:11)
おひたしについての論考。(おしたひ?)

新山はだいたい副食にはおひたしをつけるのが、ほぼ日課である。 きょうは初めて「つるむらさき」というものを食してみた。新山にとっては、

小松菜 > かき菜 > ほうれん草
である。とくに小松菜は 1週間に 2〜3束のペースで消費している。 新山はショッパイものに敏感なたちなので (と自分では思っている)、 塩気のある魚とかを食う合間に塩気のないサッパリしたものを 食わないとだめなのだ。だから新山はふつう「おひたし」といえば 醤油をつけない。小松菜やかき菜のいいところは、アクがないので、 なにもつけずに食えることだ。しかしこれがほうれん草やつるむらさきになると、 クセがあるので、どうしてもなにか調味料が必要になる。 ちなみにオレはこういうときは米酢:醤油が 2:1 だ。 つまりこの場合 p(A|B)・p(B) = p(B|A)・p(A) となり、 これを米酢の法則という。

おしたひ??

(01:07)
たかが数百年前のことで、「なつかしい」とか言わぬこ
と!!

Jun 13 [Fri]


(08:00)
米粒を入れて煮ると、バグがよく取れるんだよ。
(23:01)
現代の日本で、なぜ人を殺してはいけないのか? と尋かれたとすると、 その理由を心の底から答えるのはとてもむずかしい。 もちろん、人はつねに想像でこれらの理由、 a whole bunch of 理由を挙げることができる。しかし現代の日本においては、 身のまわりに“殺された人”がいる場合はとても少ない。戦争で死んだ人もいない。 新山にしても、病気で死んだ知り合いはいるが、文字どおり殺された人は知らないし、 自殺した知り合いだっていない (まあ、いてほしくもないが)。 だからなぜ人を殺してはいけないかの理由を「想像によって」説明することはできるが、 自分の経験から得た「絶対的な感覚」でそれを説明することは新山にはできない。 というか、ほとんどの人にはできない。 そうした人々は多いだろうし、今後も増えていくと思われる。 その中から、ある日、本当に人を殺す人間が現れるのだ。 が、彼or彼女が実際に殺人をおかす前に、「殺してはいけない理由」を 彼らに本気で言ってきかせることができないのは、いったい誰の責任なんだろうか? 人類には、つねに継続する喪失体験 (戦争や犯罪による殺人) が必要だということだろうか? …実はそうかもしれない。だから我々は、戦争を呪いつつ、殺人犯を呪いつつ、 にもかかわらずその必然性の輪から逃れられない自分を最後は呪うはめになるのだろう。 これはある意味、人間の宿命である。
(23:54)
オオニシ記者がまた日本についての記事を書いている。 今回はメタボについて。「… ほとんどの基準においてどう考えても肥満ではありえないニホン人だが、 厚労省のたくらみによって大々的な検診キャンペーンがおこなわれている。…」 あいかわらず、日本人の滑稽さ (腹まわりが数cmオーバーしただけで律儀に検診をする) が おもしろおかしく誇張されてるよーな気はするが、論調としては、いいセンいってると思う。 「否定的なイメージが持たれる“肥満”という表現とは ちがって、“メタボ”という名前はコミカルで受け入れやすいようだ」とオオニシ記者は書いている。 うん、たぶんね…。 べつに新山はわざと彼を追っているわけではないが、nytimes で日本の記事はついつい目がいってしまうので。

オオニシ記者のネット上での評判はおもしろい。たとえば Wikipedia の この否定的な書き方 を見よ。なにこれ? …これは「ダメな wikipedia 記事」の典型例になっている。 なにがダメかって、事実は事実でも、その「事実」の選択自体が非常に偏っているのだ。 必要以上に詳しい経歴や、「抗議をしても、返事が来ることはない」などの煽り文句。 そして「署名記事の一覧」の項をみると、いわゆる「反日」的な記事ばかり書いているように見える。 実際には、オオニシ記者は日本以外の国における移民関連の記事なども書いているし、 米兵暴行事件の記事も、地震の記事も書いていた。べつに「反日」記事ばっかり書いているわけではない。 でも wikipedia ではそうした「事実」には触れられていない。これのどこが中立なんだ? くりかえすが、新山はべつに彼のファンじゃあない。でも、こういうのを見るとよく ネットで「理性的」のようなフリをしている連中が、実際にはいかにアホなのかがよくわかると思う。 楽しそうだなああ。

さらに新山が注目しているのは、こうしたオオニシ記者への反応に見られる日本人の微妙な人種的偏見である (ええと、ここでは彼のファンのほとんどは日本人だと仮定する)。 かりにだよ、もし日系のオオニシ記者がこういう反日記事を書いたのではなくて、たとえば 純白人のアメリカン Fred Smith が書いていたらどうだろう? ここまで日本のネチズンたちは 騒ぐだろうか。騒がないんじゃないかな。新山が思うに、人々のオオニシ記者に対する 嫌悪感ってのは、基本的に以下のような感情だろう。つまり、 「こいつ日本人のくせに、なに他人のツラして NYTimes なんかで日本の批判記事を書いてるんだ? 日本人なら日本をホメる記事を書くのが当然だろう!」という、 日本人に対して当然期待すべきであろう (と彼らは思っている) 暗黙のお約束が破られたことへの怒りである。 新山は基本的にこういうお約束を期待する人々がきらいだ。なぜなら、そこには外国人に対する微妙な軽蔑と同時に、 自分自身に対する言いしれぬ自己卑下が含まれているように思えるから。 そもそもオオニシ記者に「日本人的なふるまい」を期待する判断基準って何かといえば、 それは彼が日本に生まれて、日本人の名前をもっているということだけなのだ。 それだけで彼は「日本人的な行動規範」を期待されてしまう。 ひどいアイデンティティの大安売りである。キミらは、そこまでして日本人というもんを “コモディティ化”したいかね? うげっ

Jun 12 [Thu]


(07:30)
そういやー、最近まで知らなかったんだけど、Xen は 電力管理がぜんぜんできないらしい。 これまで、新山は VPS というのは省エネ的にすぐれてると思っていた。 これはある意味ではたしかにそうで、1台の物理サーバで数台の仮想マシンをまかなえるのだから (CPU utilization が十分に高いと仮定すれば) そのぶんだけ実際のマシンの台数を減らせる。 問題は utilization が十分に高くない場合である。新山はこれまで、仮想マシンが暇な場合は Xen が勝手に省電力をやってくれるのではないかな、と考えていたが、これは間違っていた。 キホン的に、計算機における省電力の方法というのは、計算機が“暇な状態である”ということを なんらかの方法で検知し、そのときソフトウェアによる時間かせぎのかわりに ハードウェアの省電力命令 (一時的に電源を切るので基本的には時間かせぎと同じ) を実行するということだ。 だから Xen で省電力をやるためには、仮想マシンが「暇かどうか」を判断する必要がある。 ところが、これは仮想マシンの OS にしかわからない、hypervisor には知りえない情報だ。 仮想化というのはまさにこの手の“侵襲的な”やりとりを最小限にするものだから、 仮想化をちゃんとやればやるほど hypervisor には電力処理がやりにくくなる。 逆に、省電力のためには Xen はどうしてもゲスト OS と密に連携しなければならず、 仮想化ほんらいの目標である「分離を実現し、ソフトウェアの管理コストを下げる」という目的に反してしまう。 新山としては、べつにゲストOSの種類なんて Linux に限定してもいいから省電力を やったほうがいいと思うのだが、たぶんそこまで手が回らないのだろう。 そもそも、仮想化サーバがホントにどれくらいまともな目的に使われるのか疑問だ。 趣味的なサイトがせいぜいじゃないの? ほんとうにクリティカルな業務でサーバを使いたい人は 専用サーバを使うだろうよ。
(19:11)
きょうもまたトイレで仮想化に悩まされた。といっても、べつに便秘っているわけではなく、 朝はちゃんと出るのであるが。どうでもいいね、こんな話。

世の中にはやられる方とやる方がいる。なぜかそのうちに。意味不明。

Jun 11 [Wed]


(20:30)
きょうは会社で「う、ウンコしたい…」と思ってトイレの個室に駆け込み、 盛大にオナラをしただけで出てくる、ということを 3回ぐらい繰り返した。 このときふとある考えが見いだされたのであるが、それは 「オナラというものは、仮想化 (virtualization) された大便である」ということである。 新山のような人間にとっては、オナラは実際には何も (モノが) ないのに、 あたかも「そこ」にあるように感じられる。そして区別がつかない。 これこそまさに仮想化の本質だ。つまり…

・・・・・。

オレは、上品な奴なんだよ!! どうか信じてくれ。 しかし、すばらしいアイデアというものは、 たとえ自分の上品さを犠牲にしてでも書いておく必要がある。 新山はそういう人間だ。まいったか。

(22:38)
そういえば、今日オレは生まれてはじめて携帯電話というものをいじったんだよ。 そして、そのハイテクぶり、商品としての完成度ぶりにはおどろかされた。 ちなみに、新山がいじっていたのは Nokia N82 である。 別にオレが買ったんじゃないし、加入契約したわけでもないので、 通話はできなかった。しかし、べつに携帯電話に通信や通話機能なんかいらんよな…。
Python

日本の携帯電話はまださわったことがない (そりゃあ、物理的に手が触れたことぐらいはあるが)。 すなわち、オレはまだ純潔だ。よかった。

(00:00)
def foo():
                       print "no pun indented."        # それはダヅャレをイントンデしません。

Jun 10 [Tue]


(07:31)
なんだか夢の中で衝撃的な話を聞いたが、 「幽霊のまわりにとりつくヘビ」のことは黙っていよう。と思った。

なんだこりゃ?

(00:41)
それにしても、年寄になるとああも同じネタをひっぱって 数時間も盛り上がっていられるものか。よほど退屈してると見える。 ああわ、なりたくないと思ってしまった。いやほんと。

Jun 09 [Mon]


(07:53)
また雨なの?
(20:37)
いやすごいカミナリだったね。

最近、鞄を新調した (中野駅南口にある露店で 1500円のを買った) ので、 ついでにメモ帳も新しくした。いつまでも米国の住所や電話番号が書いてあるものを 持ち歩いててもしょうがないので。そして最近 思ったのだけど、新山はこれまで なるべく紙にものを書くときにはペン (ボールペンあるいはサインペン) を使っていた。 なぜならこのほうが字がはっきりと出て、よみやすいからである。 しかしここへ来て、がぜんシャーペンや鉛筆のほうが好きだということに気がついた。 なぜなら、これらは圧倒的に書きやすいのである。水性のボールペンなどでは、 紙にちょっと触れても黒くなってしまうので、タッチが軽くていいのだが、 じつはフィードバックがゆるすぎてペン先がすべってしまうのである。このせいで、 もともと下手な新山の字はペンで書くとさらに汚なくなった。これに対して、 鉛筆やシャーペンはあきらかに「書いている」という感覚がある。 それに液がもれてくるという心配もない。字は薄いけれど、オレとしては 読むのはあまり問題ないので (どのみち他人には読めないような字だから)、 書くほうを重視するようになってきた、ということか。

Jun 08 [Sun]


(10:24)
思考を停止するタイミングについて。 「自分はこう考える」「なぜ自分はそう考えるのか」を繰り返し考えていくと、 必ず最後には思考を停止せざるをえなくなる。「とにかく自分は (生理的に) そう感じるんだ」というところまできたら、そのときは思考を停止してよい。 でも、そのタイミングはなるべくあとあとまで延ばすほうがいい。 とはいえ、新山の場合はたいていそこまで行かないうちに疲れて寝てしまうのだが、 それはそれで健全といえる。しかしこのとき、「結論が出た」とは決して思わないこと。
(18:51)
きょうは、ごくふつうの、ありふれた、何の変哲もない日曜だった。

ところで中野ブロードウェイはなかなかに便利だ。 新山の興味はもっぱら雑貨屋とか食い物屋にあるので、 おもにウロウロするのは 1階と地階 (と、外のアーケード) だが、 なかなかに安くて豊富な品ぞろえでよろしい。キクマツヤとかね。 最初にそれと知らずに入ったときは、パジャマを探しているうちに迷いこんだのだが、 寝具店なんかもちゃんとあった。でも、ときどき 「ここ (消防法的に) 大丈夫なのか?」って思うけど。とくに地階とかは 火事や地震が起きたら絶対逃げ遅れそうなので、あんまり長居はしたくないよな。 ちなみに、2階や3階にある店をみると自分が「ふつうの人間」であることを実感できる。

しかし、去年からいまだに新山が探しつづけていて見つからないものがある。 それは花瓶だ。一輪挿し用の細長いガラスのやつ。半透明で青ガラスであれば最高。 さらに、オレはここにもうひとつの条件を課していて、それは 価格が500円程度でなければならないということだ。 なぜなら以前、Pier 1 Imports で買ったお気に入りの花瓶が $5 だったから、 そんなもんに何千円も払うつもりはまったくないのである。 この条件を加えると、なかなか見つからない。いつも安物を売ってそうな 雑貨屋を見つけるたびに花瓶をさがすのだが、いまだに having no luck だる。 あの花瓶は (大学のトイレで割ってしまったのだが) ほんとうに惜しいことをした。 ちなみにうちのママンは持ち物を呼ぶときの形容詞がかならず値段である…って前に書いたっけ。

やれやれ、それにしても。
アルカイダより日本人のほうがよっぽど怖いや。
(中国人はきっといまでもこう思ってるだろう、彼らに共感するところはある)

(23:15)
銭湯に行って帰ってきたら、なんだかヨッパライたい気分になり、 コーク 500ml で酔っぱらうことにする。うーい、ひっく。 これで数百キロカロリー消費だ。べつにオレはいつもカロリー計算してるわけではないが、 こんなつまらんモノで数百キロカロリー!! これぞ堕落への道。

ちなみに新山はノンカロリーとか、ノンファットのものを飲まないし、食わない。 なぜなら、たまにしか食わない嗜好品でカロリーを気にするなど敗北だから。 デカフェのコーヒーもいらん。 だいたい、そんなことを気にするんだったら、そもそもふだんの生活から マトモなものを食ったほうがよっぽどいい。たとえば豆腐とか魚とかなー。 自分が日常的に摂ってるもので唯一、標準的ではないものがあるとしたら それはカフェインだが (でもコーヒーと緑茶2杯ずつぐらいで、 こんなのたいした量ではない)、もしほんとうにカフェインをやめなければならない 身体になったとしたら、そのときはハーブティーを大好物にするわい。

Jun 07 [Sat]


(12:32)
新山は最近のシステムや手法について反対することが多いけれど、 これは自分がたんに歳をとってきたせいだ、とは思わないな。 20年前の計算機システムと、現在のシステムを比べたときに、 そこには世代の差とか、文化・習慣の差とは言いきれない、ひとつの 絶対的な違いがある。それは「人間ひとりの理解力と、システムの規模」の比率だ。 これはどんどん大きくなっている。 (あるいは小さくなって? どっちが分母になるかによるんだ、 どうでもいいよ)

なぜこの差が広がるとだめなのか。単に「システムがでかくなると信頼性が落ちるから」とか 「コストがかかるから」という理由もある。でも、新山にとってもっと重要な理由は 「自由じゃなくなるから」というものだ。つまり、自分の人生のなかで、自力でなんとかできる 部分が減るのである。新山の価値観では、これはどう考えてもよくない。 これが「いい」と思えるような価値観をお持ちの方は…どうぞ進めてくれ。 (もっとも、ある部分での自由が減ることによって、他の部分の自由度が増えることはありうる。 とすると、この場合「増えた自由」に相当するのはいったい何かな?)

ただし、システムの規模という値が意味をもつためには、ひとつの重要な仮定を受け入れる必要があると思う。 それは「ヒトの設計するシステムの複雑さには、(ほぼ理論的ともいえる) 上限がある」とでもいうべき 考えである。もし上限がないのだったら、いくらシステムが巨大化しようが、それにともなって人口も増やせば 問題ない。つまり、中国は世界でもっとも偉大な国だってことになる。でも新山は 「おそらく人類は決して、人間ひとりの理解力を超えるようなシステムをうまく設計できないだろう」と思っている。 といっても、現存する多くのソフトウェアは一人ですべてを 理解することはできないのに、うまく設計できているじゃないかって? それはモジュール化があるからだ。 規模と複雑さはじつは必ずしも相関がない。 現代の巨大システムは、モジュール化を非常に厳しくやっているおかげで、部分間の相互作用を無視でき、 全体像を理解しなくても各部分を別々の人が設計できるようになっている。つまり、この原則が 破られていないときのみ、大規模なシステムは動きうる。しかしこの条件はつねに成り立つとは限らない。 あるところでモジュール化の原則が破られたとき、ヒトは複数の部分にまたがった理解をする必要にせまられる。 しかし複数の人間が協力して、ひとつのこみいった概念を理解するなどということはできないので、 このときにその「理解」をおこなうのはつねに誰かひとりの人間の頭の中なのだ。 このようなことが多くの箇所で起こってくると、そのうちシステムは「構造的な欠陥をもつ」とされる ことになり、いずれは瓦解する。といっても、いきなり全部崩れるってことはなさそうだけど、 それは病気か老化現象のように、じょじょにシステムを侵食し我々を疲れさせていくことだろう。 つまり「直しても直してもバグがでる」ような状態になってしまう。 それでも、人は依然としてシステムを維持 (メンテナンス) することはできるかもしれない…。 社会的あるいは経済的な圧力のために。ちょうど、いまの Windows のようにね。 しかし、あまりにも維持だけに手間がかかりすぎて、 もう他のことはほとんど何もできなくなってしまう。そんな世界はつまらん! と思うのである。 いっぽうで、システムを単純化させてうまくいくような手法なら、新山はいつでも大歓迎だ。 というか、その手のバランス感覚は技術者がつねに頭においておかなければいけないもので、 基本中の基本だが、あまりに常識的な「基本」は学校でも教えないので、その結果として、みんな知らない。 ように見える。いや、知っているんだけど知らないフリをしているのかな? だとしたら、たいした才能だ。オレにはできないね。

そういえば、むかしのアナクロ的 SF 小説で「機械が人間を征服する」という類の 話があったけど、現実はそれほど状況は単純じゃないと思う。 むしろ巨大な計算機システムは、人間がみずから作りだした「病気」あるいは「回虫」みたいなものだ。 回虫は宿主である人間を殺すようなことはしないが、宿主のエネルギーを吸いとる。 そして人間は元気をなくす。うちらは今後もコイツを腹の中に入れたまま共生するつもりかい? 新山は回虫はあんまり好きではないので、できれば彼らとはきちんと距離をおいておきたいな。

(14:01)
最近のイベント、あるいは、イベンタオ:

さて、今日は久しぶりに図書館でも行こうかな。

(19:14)
つい長居しちまった。きょう読んでおもしろかったのは、 森達也の対談本 (タイトルは忘れた、なんか長ったらしい題名で、 いかにも森達也の本にありそうなタイトルだった) で、小林よしのりとの対談の部分だけである。 そこだけは読む価値があった。その後、数冊本をかりてくる。 帰りぎわに夕焼けを見た。

Jun 06 [Fri]


(21:46)
Advanced Windows という本がある。この業界ではけっこう有名らしいのだが、 きょう会社にこの本があったんで見てみたんよ。そしたら、ひどい本だった。 いや、情報量は結構あるので有用かもしれないが、とにかく気分がわるい。 結局 (ケッキョキ)、コレを読んでも Windows のゴチャゴチャさをより痛烈に認識するだけで、 「理解するのはあきらめろ」と言われているような気分になる。Stevens のようなエレガントさはない。 つうか、本自体が悪いというよりも、最初から主題が悪すぎたのかもしれない。 X Window 関連の本もこんなのが多かったが、あれもテーマが悪すぎたのだろう。 ようするに最初から設計の悪いものを、いくら上手に説明しようとしてもダメってことか。 ちなみに、Amazonのレビュー

そういえば、きのう nylug-talk を見てたら「もう 2008年なのに、いまだに コピー・ペーストが OpenOffice と GNOME の間で動かない…」といってる人がいて、笑った。 2007年の時点で、UTF-8 テキストをまともに Xアプリケーション間でコピーする標準的な規格は まだ確立されていないらしい。 いまだに X11 で Windows のようなデスクトップ環境を作ろうとガンバっている人々の努力は、 たいしたもんだと思うが、正直いって人生をムダにしているように思える。 まあ、趣味でやってるならいいか。もういっそのこと SDL みたいなので全部作りなおしちゃえば? と思うのだけど、メインの言語がいまだに C(++) みたいな言語であるかぎりオレは参加する気がない。 いや、しかし pygame がもうちょっと進化してくれば全部 python でデスクトップ環境を 作るってのも、趣味としてはいいかもしんない。とーぜん、ブラウザも Gecko なんか使わないで、 Python でレイアウトするのだ。じつのところ Quartz + Python はじつに魅力的だ。 あれがもうちょっと統合されてくれれば…。いやでもそのまえに、Python は Python で もうちょっと型安全になってくんないと…。

話は戻るけど、新山は他人が推薦する本をみれば、その人の頭の程度がわかる、と思っている。 といいつつ、オレはめったに本を人にすすめないけど、それは“いい本”の定義なんて (教科書のようなものでさえ) 人によって違うだろうし、実際に“いい本”は非常に少ない。 というか、新山も含めて多くの人はダメな本ばかり見させられ続けたため、 すっかり感覚がマヒしてしまったように見える。 本が多すぎるのが悪いのか? よくわからない。しかし、本が多かろうと少なかろうと、 いい本の割合は昔からたいして変わっていない。その割合は、おそらく 1% 以下だ。 ちなみに Freedman, Pisani, Purves の "Statistics" はいい本だが、 統計の本が数百、数千と出ている中で探しまわってようやく1冊か2冊って感じである。 これが言語処理のようなマイナーな分野だと、100冊も本が出ていないため、 そもそもその「1%」が存在してなかった。どーでもいい。 しかし、これほどダメな本を大量に出しておきながら、 まだ回っている出版業界というのはある意味すごいと思う。 それとも新山をふくめた消費者全体のバカさ加減がすごいのか。どっちもどっちだ。

Jun 05 [Thu]


(07:33)
米飯回帰でフリカケだと? メシはちゃんとしたおかずで食えよ!

ちなみに新山は国内のニュースはだいたい信毎で得ることにしている。国外のはNYTimes。 しかし、はっきりいえばこの手のニュースなんて別に日常生活でほとんど知らなくてもいいことばかりだ。

(00:35)
世の中の悪役も、これほどわかりやすいといいんだけど。

Jun 04 [Wed]


(07:41)
この記事すごいよ。 The Grumpy Editor's Guide to distributions for laptops。 ディストリビューションごとに、(ノートパソコン上での) 消費電力がどう違っているか、 スリープから復帰するまでの時間はどれくらいか、などを測定してる。 こうしてみると、けっこうディストリビューション間で差があるもんだ。 Grumpy Editor's シリーズはこれまでもたいていよく書けていて、 金を払ってでも読む価値があるものが多い。

おや、みなさん subscriber ではない? では一週間後にもう一度上のリンクをクリックしてください。。。 てゆうか、購読料なんか毎月$2.5じゃんよ ("starving hacker" 価格の場合)。 知人に Gift certificates を送るってのも粋かもしんない。

スリープからの復帰といえば、さいきんの Linux カーネルであきらかに進歩してありがたいと思わせるのは ACPI の扱いである。新山はハイバネーションを使っているが、いつも完璧に復帰するし、 前の APM のころみたいに X の画面がおかしくなるとかネットワーク接続に異状が出るということもない。 完全に電源が落ちるので、エコ的にもすばらっし! どのみち自宅サーバで 24時間電源を入れておくなんてのは、 もう最近ははやらないだろうし、遊び目的のサーバなぞ VPS でじゅうぶんである。

(20:12)
本人に向かって相手にされないからといって、オレに向かってグチを言わないように。ね
(21:52)
「 ...一度、ある小学校に行ったとき -- たぶん 3年生か 4年生のクラスだと 思うんだけど -- 教室じゅうに Apple II があってね、数時間ほどそこにいたんだけど、 そこにいる 3年生や 4年生の子供たちが、ぼくが育ったのとは完全に違う環境で 育っているのを見たんだ、このマシンのおかげでね。それで強く心に残ったのが、 ここに一台のマシンがあると。これは非常に少数の、Apple II の場合は 4人ほどの 人間が設計したんだけど、彼らはそれを別の人々にあげるわけだ。で、その人達は 設計する方法は知らないんだけど、それを生産する方法は知ってるわけ。で、 たくさん生産する。それをまた別の人に渡すと、その人達は設計したり生産したりは できないんだけど、それを流通させる方法を知ってる。それでまた別の人に渡して、 その人達は設計したり生産したり流通したりは知らないけど、それ用に ソフトウェアを書く方法は知ってる -- こういうふうに逆三角形のピラミッドが成長していって、 最後に多くの人々の手に渡ると、それが花開くんだ。この小さなタネからね。 これはものすごい効果だと思った。そしてこれらすべてがただひとつのアイデアから 始まったんだ。このアイデアがいくつものステップをへて、教室いっぱいの子供の手に渡り、 かれらがそれまでとは完全に異なった経験や洞察を積めるようになる。そして それは彼らの人生にとって非常に有益なことだと思うよ。数年前に出たこのアイデアの ゲノムがね。これはまったく言葉にできない感覚だよ。それは A) 自分はこれに 関わることができて、B) それは可能である、という感覚なんだ。それは自分が この世界になにがしかを“植える”ことができて、それを育てることができる。 そしてそれがいずれ少しずつでも世界を変えていくという感覚なんだ。... 」

-- Steve Jobs

Jun 03 [Tue]


(21:51)
グリルのなかでこんがりと焼けるアジの干物を見ていると、 ときどき、自分もこんなふうにこんがりと焼かれたらどんなにいいだろうと思うときがある。 実際には新山はきわめて根が暗く、ネガティブで後向きな思考ばかりが自然と受かんでくるタイプの人間だ。 でも、それを直さなくても生きていけるのは、基本的には自分がアホなためだろう。 つまりうしろ向きに回転しつづけると 360℃ 回って元に戻ってしまうというヤツですよ。 どういうことか知りたけでばうぬたも回転してみなせい。パチパチパチパチ
とね・・・・。。。

(はて?? 360℃って???)

(22:12)
そういえばきょう気づいたこと。 なぜか視覚障害者のことを「盲」といい、聴覚障害者のことを「聾」という。 「盲者 (もうしゃ)」や「聾人 (ろうじん)」とはいわないらしい。まあ、わかるけど。

きょう、帰りの電車の中で、指点字をやっている人をみかけた。 介助者が隣に座って指点字で話し、その盲聾とおぼしき人は音声言語を使えるらしく、声で喋っていた。 たぶん、もともと盲から聾になった人なのだろう。盲聾の人というのは、生まれつき完全に盲聾だったという ケースは少なくて、たいていは全盲で音声言語を身につけたあとに失聴したとか、 聾で手話を身につけたあとに失明したとかいうケースが多いらしい。で、それまでに音声言語を知っていた人は 指点字を使い (点字は基本的には音声言語を記述するためのシステムであるから)、 手話を知っていた人は触手話を使うようになるのだそうな。といっても、 新山も盲聾の人に会った経験はほとんどない (仕事がら、盲人に接することは多いけど)。 触手話ってのも、生で見たことはないなあ。どうでもいいけど、盲聾者が一人で出歩くのは かなり無理っぽいけど、たとえ介助者がいても大したもんだと思う。 見えないし、聞こえない状態で駅の人混みを歩いたりしなきゃいけないってのは、すごいストレスだろうよ。

ちなみに、こういうときの介助者 (女性が多い) は、みんないつも美人に見える。 これは実際の見た目よりも、その人の落ちつきや真剣さからかもし出される全体的な「カッコよさ」によって そう見えているのだろうけど、ようするに「ヒトが美人かどうか」なんてものは主観によって アッサリ変わる、といういい見本だ…

(22:35)
そういえば、きょう読んだ点字毎日に「漢字の散歩道」という連載があった。 これがわりとおもしろい。今日は漢字の概念を視覚障害者に身につけさせるのがいかに大変か、 ということが書かれていたが、盲人は漢字の字形という「本体」に近づけずに 漢字の概念を理解しなきゃいけないから大変だ。 たとえば、「正」という文字を考えてみる。この文字を視覚的にとらえることができれば、 そこに複数の読みを頭の中で「割り当てる」ことは比較的やさしい。つまり:

というぐあいである。 ところが、盲人の場合はこの「正」の文字を見ずに「ただしい」「まさ」「せい」の 各読みが同じ漢字から来ていることを学習しなければならない。つまり、

という状態で、これらの読みを関連づけなければいけないのだ。 視覚障害の学生が漢字を習うときにありがちなミスとして、 意味的に近い「わたし」と「ぼく」を、同じ漢字の別読みだと カン違いしてしまうことがあるらしい。晴眼者ではまず起こりえない勘違いである。 そりゃあ、大変だろうなああ。 そう考えると、6点漢字などの漢点字は日本語学習のツールとして 案外バカにできないものなのかもしれない。ただし、これを覚えるのは またそれでタイヘンそうだけど。オレなんかふつうの点字だって (頭の中で分解しながら) やっと読めるか読めないかという程度だというのに。 たぶん毎分 6文字ぐらいしか読めないね。しかもこれは点字を目で見たときの話である。 触読なんかムリだ。

さいきん、視覚障害者や聴覚障害者にとっての非常に大きな問題は教育だということが (ようやく) わかってきた。 人がなにか新しい概念を学習するときに、視覚や聴覚のどちらか (あるいはどちらも) が 抜け落ちた状態でやるというのは、すごく不利である。なんだかんだいって、 人間はかなりの割合で使える感覚をすべて使って物事を学習しているのだ。 一度わかってしまえば、それを活用することにかけては彼らが他の人々と比べて 劣っているとは思えないが、学習にかかる時間の長さは晴眼者・健聴者と比べるとあきらかに差がある。 たいていの聾学校や盲学校では普通学校に比べると学習教程が遅れており、 いまは知らないが、むかしは 2年や3年遅れていたこともあったらしい。 しかも、社会は以前にもまして、ますます「結果を速く求める」ようになってきているのだが、 そのいっぽうで、大学院などのドーでもいい教育期間は伸びていて、 盲学校は予算削減されている。これは屈辱だよなあ。

(追記) どうでもいいけろ (どうでもよろ)、 「障害者」の“害”をひらがなで「障がい者」と書く自治体などは、 日本的な「やさしさ」の典型例だと思う。ようするに、本質的な問題は あとまわしにして、うわべだけ気を遣ったように見せかけるっていうやつ。 いやーすばらしいよ。その書き換えのおかげで何万人という障害者が 幸せになっていることでしょうね!

Jun 02 [Mon]


(08:01)
やっぱり今日は電車にしよー、雨ふりそうだし。(I'm chickened out.)

新山における電車通勤でどーにも不条理なことは、 自転車より電車のほうがよっぽど時間がかかるとゆうことである。 うちは駅から徒歩10分ぐらいあるし、会社もまた駅から 15分ぐらいのところにあるし、 しかも電車は途中で特急通過待ちのために 5分ぐらい止まっているから、 実質的に電車で走っているのは 3分ぐらいなのに、合計で 30分以上もかかってしまうのだ。 自転車なら 20分なのにね…。納得いかんよ。 しかし歩いてもせいぜい 1時間なので、たまにはシャレで歩くという選択肢もあるかもしんない。今度やってみよ。

(19:13)
今日は涼しかった。これから、ずーっとこれくらいの気候だと助かるんだけど。
(19:44)
Yves Saint Laurent が人名だったってことをいま知ったね。
(22:54)
きょうは c++ でわずか 500行ほどのモジュールを書いただけで終わった。 つまり“Python換算”にすると 100行未満の仕事である。べつに行数が重要だというのではないが、 どうしても C(++) を使うと自分がバカになったような気になる。なぜなら 本筋のロジックではなく、つまんない作業で時間がとられるので、ちっとも仕事が進んだ気がしない。 しかも C(++) では「関数内関数」が使えないために、本当ならひとつの箇所にまとめておきたい処理が ソースコード上であっちこっちに散らばることになり、終わってもすっきりしない。 たとえば API からなんらかのコールバックで呼ばれるとして、 いちいちそのためだけにアドホックな関数や構造体を設計したりせにゃなんない。 つまり「意味的には一緒のはずのものが、一緒のところにまとまってない」という状態になり、 たいへんムカつく。クラスやテンプレートを使えばすこしはマシになるかもしれないが、 ほかの C API とのバイナリレベルの互換性を気にしなきゃいけないし、そんなテストをするのも めんどくさいので使わない。そういえば新山はまだ C++ で例外って使ったことないよ (基本的に Python でも、確実に捕捉できることがわかっているときでない限り使わないが)。

とりあえず、どうしても低水準のコードを書かなきゃいけないときは、 新山は次のような原則でやっている:

  1. とにかく愚直な、泥臭いコードにする。(ようするに djb風)
  2. 可能なかぎり文字列処理を避ける。
  3. マクロやテンプレートのようなものが必要だと感じたら、それは自分の設計が根本的に間違っているのだ。

とくに 3. は重要で、新山は Python でもアクロバティックな技法を避ける傾向があるし、 もっといえば、日本語に対してさえ似たような原則を持っている。つまり、常識的に考えれば、 人間界の物事は必ずつねに「平易な言い回し」で説明が可能なはずだ、という信念である。 平易な言い回しができないのは、自分の頭が悪いからだ。 しかし一方で、世の中には難解な言い回しを使ったほうが「賢そうに見える」と信じている人々も沢山いる。 物事をわざわざ晦渋なやり方で言う人々は、C++ で必要もないのにテンプレートを使おうとする人々と 同じくらい罪深い。まあ、晦渋な評論家も、難解なコードを喜ぶプログラマも、根は同じところにありそうだが。

C++のような言語をいまだにリキんで学習しようとしている人々がいることは 全世界的にみて、ひどい損失だと思う。少なくとも、こいつのせいで計算機科学の進歩が 20年は遅れたね。

Jun 01 [Sun]


(08:44)
そういえば、Python 2.5 から LazyImporter が導入されたおかげで、 pydoc が事実上役に立たなくなった。
$ pydoc2.4 email.Message
$ pydoc2.5 email.Message
(11:06)
というわけで、ヤットのことでせんたく中…。(昨日は雨でやめた)

さて、術後の経過はまあいいようである。 きょうは当直の医師に見てもらったが、とくに問題なしとのことだった。 病院は歩いて行ける距離にあるが、めんどくさいので自転車で行った。 サドルにまともに座らないようにすれば大丈夫である。 ただし、さすがにウンコすると痛かったが、中が切れているのだから 当然のことだ。どちらかというと裂けるよりも「シミる感じ」である。 排便が終わるとそのうちに痛みは消える。 抗生物質のせいか便は多少ユルかったが、日常生活的にはとくに問題なしと思う。

しかし、きのうはプチ病人っぽい状態だったので、こういうときだと テレビが欲しくなるのもわかる気がした。ようするに、当たりさわりのない、 テキトーな逃避が欲しくなるのだ。あれは病人のための娯楽だと思う。 逆にいえば、好きこのんでテレビを見ている人はみな精神状態が病人っぽいともいえる。

(追記) そういえば、はるか昔、ツウちゃんねる文学板かどこかで、ある人が言っていた: 人生が順風満帆のときはフィクションは必要ないが、少し疲れてきたときに音楽やフィクションが欲しくなる、 というようなことを。テレビ番組というのは、基本的にすべてフィクションで作られている。 なぜなら、あれはほとんどが純粋なフィクションか、あるいは自分たちとは異なる 非日常的世界のニュース (政治、スポーツ、芸能など) によって構成されているから。 だから、いつも精神的に疲れている人が、ついテレビのスイッチを入れてしまうのは理解できる。 ネットにはそういう機能はあんまりない (もっともネットはネットで別の、 ある意味さらに強力な逃避機構があるけど)。しかしテレビもネットの一部も 新山にとっては同じだ。つまりそれは精神安定剤の一種のように見える。 つまり、ときどき服用するのはいいが、一生飲みつづけるのはどこか不健康だと感じるところがある。

(13:21)
ゴハンくったらねむい。。。
(15:55)
さて。コーヒーを飲みながらテキトーに肛門の話でも…。

なんだか、今回切ったところは本当に浅かったようだ。 血もほとんど出ていない。こりゃあ、ガーゼだけ買っておけばよかったか? まあいいや。しかし今回はじめて知ったのだけど、もともと新山は肛門内部が よく切れていたようだ。いままで、自分がキレ痔だなどとはぜんぜん気づいていなかった。 だって別に痛みもなかったし、排便時に出血した経験もほとんどなかったからである。 ところが、ある時期に抵抗力が落ちると、傷跡から細菌が感染して広がってしまうケースがあるらしい。 まったく、胃や腸やケツの穴のこととなると、ふだんから見えないだけに気づかないからこわいな。 それにしても驚くのは、人間の免疫系やホメオスタシスといった機構のすごさである。 ヒトは毎日のように異物や細菌を吸いこんでいるし、身体の中じゃ癌細胞も 毎日のように生成されてるってのに、それが外に表れることはめったにないのだから。 しかし、ひとたび異物のほうが優位になると、とたんにそれは生命の危機になる。 実際、現代の (先進国の) ヒトの直接的な死因のほとんどは、心臓病をのぞくと 結局のところ肺炎や、敗血症か、あるいはアシドーシスなどによるものだとどっかで聞いた。 たとえおもな要因がガンでも、腫瘍そのものが人を殺すのではなく、 ガンによる体力低下から感染が起こり、臓器機能不全になるのだという。 あー、こういうこと書いてると落ちこんでくるからもうやめよう。 いまから死ぬときのことを考えてもしょうがない。

どうでもいいが、オレは別に肛門とか生理用ナプキンの話がとくに好きなわけじゃないんだ! こんな話ばっかりしていたら下品な奴だと思われてしまうよ。 これでもオレは掃除好き and/or 料理好きで、かつ何事においても控えめな人物として 通っているんだ
から…。てなわけで、この話題はこれにてowari.


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Yusuke Shinyama