箸でマウスボタンを押すのは難しい。
それよりも面白かったのは、チャペックの「スペイン旅行記 (飯島周 訳、恒文社)」と ブラッドベリの「ブラッドベリがやってくる 〜 小説の愉快 (小川高義 訳、晶文社)」だった。 どちらもエッセイで、小説ではない (といってもその境界はあやしいもんだが)。 チャペックのほうは、本人による力の抜けたような挿絵がついてる。 新山はチャペックの小説もブラッドベリの小説も読んだことがあるが、 彼らの書くノンフィクションのほうが、どうしても面白い。 作家にそういうことを言うのは悪いけど、でもそうなのだ。
…すこし前までは、フィクションを楽しめないのは、自分がどこか人格に問題があるためだと思っていた。 でも、よく考えてみると、フィクションとノンフィクションの差は程度の違いにすぎない。 エッセイとかノンフィクションでも脚色がまったくゼロであるということはなく (説明のために細部を省略するのだって、立派な「演出」の一種である)、逆に、 フィクションも「100%ぜんぶ作り話」というものはない。なぜなら、フィクションで描かれる キャラクターは現実の人間観察にもとづいて作られるのだから (そうでなければ読者の共感が得られず、物語として成立しないはずだ)。 つまり「現実との一致度」が高ければノンフィクションと呼ぶし、 そうでなければフィクションと呼ぶだけのことである。 ただし、普通はどっちか先に宣言しとかないと混乱するので、 たいていの -- 良心的な? -- 本はそれがすぐわかるようになっている。
さて、新山はなにか文章を読むときに、かならず「そいつが言いたいこと」を くみとらなければならない、という脅迫観念にとりつかれているので (一種の病気です)、 フィクションの場合は作者の意図をくみとるのに苦労する。ものすごく憶測しなければならないのである。 「作者は何の目的があってこの場面にこの人物を登場させたんだろ」 とか「この意味ありげな記述は何? なにが言いたい?」とか考えだすと、とても疲れる。 しかし人間の書いた文章のうちで、自己主張の入っていないものは存在しない。 逆にエッセイというのは基本的には「書き手の意見」しか書かれていないため、 とても把握しやすい。たとえウソでも、とりあえず書き手の対象ははっきりしているので、 余計な憶測をする必要がない。新山にとって、書物を読むということは基本的には (書き手と自分との) 「会話」なんだと思う。たとえ本がフィクションであっても、その書き手は現実の人間であって、新山は 本を書いた向こう側にいる「生身の人間」とやりとりすることが楽しいのだろう。 (けっきょくオレは、ナマモノにしか興味がないのか!)
いっぽう本や物語そのものはあくまでも媒介物なので、あまり興味がない…のかもしれない (だから映画とかドラマも見ない)。 もちろん、媒介物は重要だ。それはプロトコル変換ケーブルのようなもので、 それがなかったら相手のことを新山はまったく理解できなかったかもしれない。 でも、なるべくならその部分はサッサと済ませたいと思う。 新山は本を読むときは過程には興味がない人間なんだろう。 物語そのものを楽しめる人には、ただ驚くばかりだ。 …しかし世の中には旅行するんでも「目的地」しか興味がなく、 途中経過にまったく興味をもたない人がいるので (新山は逆にこっちが理解できない)、 まあそんなもんね。
どうでもいいけろ、日が暮れたらとたんに風が出てきて寒くなったね。 裸足にツッカケ (とワイシャツ一枚) で近所のスーパーまで行ったら、 すんげーサブかったよ。
実は google が、second life のできそこない (まあ second life 自体、最初からできそこないだが) をやっていたという話を、きょう知った。
そして、彼らが今年末でそれをやめることにしたという話も、きょう知った。
この会社 (にかぎらず、米国企業) のおそろしいところはココであると思う。 新しい領域にすばやく参入するのは、基本的に誰でもできる。 しかし本当に重要なのは逃げるタイミングだ。かれらは、これを長く続ければ それだけダメージがでかく、今やめなければならないということを理解しているのだろう。たった数ヶ月のうちに 宣伝して、バーっと資源を投入して、実験して、逃げる。非常に合理的だ。 彼らに悪いとか、恥ずかしいなんて意識はまったくない。なぜならこれが一番合理的な選択なのだから! アメリカ人が「米国は世界一の国」と思っているのは、ある意味で当たり前のことである。 感情的なものをぬきにしても、彼らは「合理的に考えて、 世界一の国は米国しかないだろう」と本気で信じているのだ。そして彼らの考えている 「合理性」が本質的には wishy-washy かもしれない可能性に気づいてるアメリカ人は少ない。 日本にもそういうのはいるがね。
アニメ版のスヌーピー。 この背景に流れているジャズっぽい曲がたまらん。 こういう音楽を使うアニメ (しかもそれがまたよく合っている) は珍しいと思う。 むかし日本でやってた、谷啓だかの声よりも新山はこっちのほうが好きだ。 ここでは、チャーリーブラウンはちゃんと子供っぽい声をしている。 しかし、ルーシーはいつもイヤな奴だが、 「お約束キャラ」として不可欠な存在である。
♪ Lucy's the Boss, Lucy's the Boss
♪ So you've got to listen to Lucy, listen to Lucy.
♪ And here's what Lucy says
(ところで) てくるで、「ピーナッツ」のチャーリーブラウンとルーシーの関係は、 「ムーミン」にでてくるムーミントロールとミイの関係によく似ていると思う。
ちなみに、叩いたら全部ホコリがいっぺんに出てしまう人間はつまらない。 ホコリはなるべく少しずつ出すほうがいい。
いま悩んでいるのは __add__
などのメソッドを追加したときの挙動と、
int
や list
など既存の型を、一方では関数として扱い、
もう一方では基底クラスとして使えるようにするための枠組みである。たとえば
↑これは TypeError になるが、class A(object): pass x = A()+A() # TypeError
↑これは正しい。class A(object): def __add__(self, obj): return 'foo' x = A()+A() # xの値はstr型
また、
↑これは正しいが、class A(object): pass print A()
↑これは TypeError になる。(class A(object): def __repr__(self): return 123 print A()
__repr__
は文字列を返さなくてはいけない)
つまり、メソッドの有無によって例外が変わるのだ。 これを検出するためには、かなり複雑なグラフを構築せにゃなんない。 こういうことを考えてると頭がおかしくなってくる。
きょうわ、朝から目の舌にまっくろなクマができていた。 ゆうべはなぜか、 Sam Harrisの討論 を理解しようとしていたのである。しかし、途中で何度か意識がトンだ。 新山は宗教に興味があるが、自分ではいかなる宗教に対してもまともな信者にはなれそうもない (統計的自然言語処理教の信者にもなれなかった)。基本的に、これはオレが臆病なためであると思う。 新山は何事にも身構えてしまうため、「目をつぶって 両足で ピョン」というのが どうしてもできないのだった。
ほかにもいくつか書きたいことがあるけど今日はもうだめ。
なんだこれは。これじゃとても人に勧められない。 だいいち値段が高い。4300円也もする。もっと安いとこもあるんだろうが、 この大きさじゃなあ…。ほとんど寝台車に泊まっているようなもんだ。 それに、けっこう隣のテレビの音が漏れてうるさい。飛行機のビジネスクラス (乗ったことないが) よりはマシかもしれない。ちなみに新山は (これも実験と称して) 山谷に泊まったことがあるが、 山谷の 3000円の宿 (+近くの銭湯) のほうが中野のサウナつき4000円のカプセルホテルよりいいと思う。 あー、でも山谷のほうはタタミか布団の中にいた何者かに皮膚を喰われたっけ。 結論: どっちもダメだ。
なによりつらかったのは、暖房である。もともとホテルの暖房ってのは乾燥しすぎてて喉をいためるので、 新山はだいたい冬に泊まるときはバスタブにお湯をためてドアを開けておくか (これは椎名誠のどっかの本に書いてあった)、あるいは濡れタオルをつるしておくかするのだが、 カプセルじゃそれはできないし動けるスペースも少ないので、長いこといると 頭がボーっとしてきた。けさは頭痛とともに目覚めた。あんまり休んだ気はしないし、 どうも徹夜したあとのようなダルい感覚が残っている。
それからもうひとつ、トイレのスリッパを共用させるのはやめろ! これは日本の衛生観念のおかしなところで、こういうことをしてるから日本では水虫が蔓延するのだと思う。 新山はまえに一度、銭湯で水虫に感染したことがある (経路を特定したわけではないが、 足ふきマットが非常にあやしかった)。以来、銭湯ではマットの上にほとんど足を乗せず、 浴室でほぼ完全に身体を拭いてから出るようにしている。結局 (ケッキョキ)、 今回もなんか気持ち悪いので、帰ってきてもう一回シャワーをあびてしまった。 いやー、やっぱり、自宅でねるのが一番いいや (これは、たいてい海外旅行から帰ってきたときに 感じることでもある)。おやすみ。
さて図書館につくと、いつものようにランダムに本を選ぶ。 しかし「ランダムに」といっても、じつは必ずしも無作為抽出ではない。 新山はどういうわけか知らないが、フィクションが無性に読みたくなるときと、 研究書っぽいやつが読みたくなるときと、実用書ばっか読みたくなるときがある。 きょうはカッペリレな (Cappeliarre) 気分だったので、それなりのものを選んだ。 しかしひとつ、どうにも抵抗できない本があった。それは 伊藤忠彦著『宇宙が味方する経営』(講談社インターナショナル刊、2006年) である。もうこの題名だけでメロメロ。で、ちょっとページを開いてみると 「2章 宇宙進化の気流に乗る秘訣」とか「いい仕事をして魂のステージを上げる」とか書いてある。 こいつには心臓を串刺しにされた。新山はたいていいつも、まともそうな本にまじって こういうアヤしさ抜群の書籍をスパイスとして一冊借りてしまう。 それは何やら抗 (あがら) えない力がそうさせるのだ…。抗 (あがら) えない力が。
それにしても、図書館っていいよね。 新山は自分の金で本を買うときには非常に慎重になるが、図書館でならどんなに高くても 恥ずかしい本でも倫理的に悪の本でも平気で借りられる。つまりそれが自由ってことなんだけど、 新山が図書館に敬意をいだくのは「思想の自由」というものを体現しているからだ (自分のいた大学でもそういう雰囲気を感じられればよかったんだけど)。 図書館は自由を味わいに行くのに格好の場所だと思う。
そのあと外に出て、まだ雨がふっているかと上を見上げると、 じつはここの入口にでっかいガラスの屋根がついていたことに気づく。 ただいま午後5時47分。
なにが言いたいかとゆうと、麻薬も、音楽も、ゲームも、そして宗教も、 ある程度は「現実からの逃避」である。そして公平さの観点からいって、 このうちどれかひとつを認めたら、すべて認めなければならない。
宗教が現実からの逃避だって? もちろん。 ただし「100% 逃避だ」といっているわけではない。 宗教には逃避以上の、現実に積極的に働きかけようとする部分もある。 しかしそれは音楽だってゲームだって麻薬だって同じだ。どれも逃避以外のポジティブな役割がある。 しかし、やっぱり第一の目的は逃避だろう。逃避という言い方が気に入らなければ 「現実を生きぬくためのクスリ」といってもいい。
麻薬にしろ宗教にしろ、それを嫌々やっている人はほとんどいない。 たいていの人は「気分がよくなる」からゲームや麻薬や宗教をやっているのだ。 そして、人間のこうした「気持ちよくなりたい欲求」を消すのはほとんど不可能である。 いくらゲームや音楽などを「倫理的に問題がある」といって非難してみても、 「やりたい人」の欲求を外部から抑えこむのは非常にむずかしい。 なので、結局のところ (ケッキョキ) 「やりたい人」には、ある程度までは 「やらせるしかない」のだと思う。
ただし「倫理的にオーケーだと認める」というのと「(法的に) なんのコントロールもしない」 というのはぜんぜん違う話である。酒を飲むのは倫理的にはオーケーかもしれないが、 子供に飲ませるべきでないし、酔っぱらいには運転させるべきじゃない。 同じように、麻薬にもゲームにも宗教にもある程度のコントロールが必要で、 好き放題にやらせるべきじゃなく、使用上の注意をよく読んで使わせる必要がある。 こう考えると、これらはどれも本物のクスリと同じように思えてくる。
新山はかなり確信をもっているのだけど、おそらく将来的には、 麻薬や音楽やゲームや宗教といった産業 (?) は、もっと統合されたものになると思う。 ひとつのアイデアとして、これらを“病院”のようなシステムとして扱う方法がある。 つまり「最近なんか人生がつまらないんですが…」といって相談に行くと、 カウンセラーのような人が出てきて「それじゃあこの薬をためしてみたらどうですか」とか 「この音楽/小説/映画はあなたのような人におすすめですよ」 「このグループ活動に参加してみてはいかがですか」などと言われ、 ゲームや音楽や宗教を処方される、という世界である。 そのいっぽうで、娯楽をむやみに濫用すると健康に害があるので、 レコード屋は処方箋のない客にCDを売ってはならないし、 まともな免疫のない人間を宗教行事などに参加させたらそれは違法とされる。 きちんとした医師の監督なしに娯楽を使ってはならない! …新山は、こんな世界はぜんぜん好きじゃないが、じつは娯楽を規制することには賛成だる。 けど、規制するのは一体誰だろう? それはまったくわからない。
さて、話は戻るけど、ゲームも麻薬も宗教も、表面的にはかなり違っているが、 本質的にはどれも同じような役割のものである。だから、認めるならゲームも麻薬も (適切な規制があると仮定したうえで) すべて認めるべきだし、 否定するならすべて否定しなければならない。 で、個人的にはそんなの全部どーでもいい。
目標があると、人生はゲームと同じものになる。 ただ達成することだけが重要になる。しかし、それは逃げかもしれない。 本当につらいのは「目的」がはっきりしない状態で何十年も生きることである。 (多くの人が「目的」と考えているものは、実はほとんどただの「義務」にすぎなかったりするので。) 目的のない状態で生きのびられる人間というのは、本当に強い人だろう。オレには無理だ。 新山は、まるでヤク中が麻薬を求めるのと同じように、人生の目的を求める。 そしてこいつは、ニセモノをつかまされる危険性が麻薬よりもずっと高い。
思うに、人生というのは補集合として定義されているような気のする。 つまり「自分がなにを選択したか」ではなくて、「なにを選択しなかったか」によって。 自分が切り捨てたものの集合によって形づくられているような気がするからだ。
選択とは、結局のところあきらめることである。 しかし、あきらめる覚悟なしには重要な決定はなにもできないのだった。
陽光キラキラすてきな日♪
子供が遊ぶにゃもってこい!
キミにはたくさん請求書
さあ、どうする?
給料安いし仕事はキツイ♪
長い一日終われば行くとこなし
Q番街の家へ帰ろう
キミが住んでるQ番街♪
みんなも住んでるQ番街♪
そしてキミは今22歳
キミが住んでるQ番街♪
(くりかえし)
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Yusuke Shinyama