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2009/11 (a)
Last Modified: Wed Dec 2 07:50:18 JST 2009
今月の豆知識: 人は携帯電話もってなくても死なない。
News Flash: People don't die because of not having a cell phone. Take that Guantanamo torturers!
ハノイの塔について、その2。
科学というのは、ある意味「計器飛行」である。
つまり自分の感覚よりも測定器のほうを信じなければならないのだ。
これは、ほとんどの人間にとっては (科学者にとってさえも!) 相当な努力を必要とする。
温暖化の議論が発散しやすいのは、こういう理由なんだろうな。
「歳末する」、って??
きょうは朝からネボけており、SKKで「終わる」って入力するところを
どういうわけか「お割る」とか変換してた。(『オレってお茶目』シリーヅ第そのPart.-vol#1729r962-pl4807.build-20091130185824.42195)
コードを読んで「なんだ、こいつ簡単なことしかしてないよな」と思わせるのが、
本当によいプロギラミ。(+ よい説明)
複雑なことを平易にやるのが優雅さだと、今でも思っている。
ハノイの塔について。
新山は相手がバカであればあるほど会話にのめり込むタイプだが、
もしかするとプログラミングが好きなのもこれが原因なんじゃないか。
なんしろコンピュータは究極のバカだから。
Where's Rob?
今回のミッション:
- 俳優6人が NY Knicks の観客として Madion Square Gardenへ。
- その中の一人、間抜けの「ロブ」が、売店から戻るときに客席をわざと間違える。
- みんなで一斉に「ロブ、こっちだ〜!」と叫ぶ。(このときは、まだ周囲の観客は無関心)
- ロブは何度も売店へ行き、そのたびに「迷い方」がひどくなっていく。
- 客席では周囲の人を巻き込んで、だんだん叫ぶ人数を増やしていく。
- 最後は数百人レベルで「ロブ、こっちだ〜!」シュプレヒコール。
人間の素朴な善意をアテにした、じつに興味ぶかい心理的フィードバックの実験…
ともいえる。こういうくだらないことで一体感を味わうのって、楽しいだろうなあ。
プログラミングで人生を語るシリーヅその1729r1。
卸売というのは、流通の部分をのぞけばバッファに似ている。つまり生産と消費は
同じタイミングで行われるわけではないので、そのあいだの一時的な
置き場所を確保しておく必要がある。
ついでにいえば、資本というのもバッファに似ている。
ある商品を開発する場合、まともな利益を得るためには
ある程度の金銭的・時間的なコストをかける必要がある。
商品開発の観点からみると、「大企業」というのは
でかいバッファを持っている企業ということで、ようするに
それだけ結果が出るまでの金銭的・時間的なコストに
耐えうる余裕をもっているということなのだろう。
しかし大企業のバッファでは、出力を多くとれるかわりに
入力もはるかに巨大なものが必要だが。
乗りかけた舟、生きかけた人生。
プログラミングで人生を語るシリーヅその1729。
新山は「理系・文系」という区切りを pretty much バカにしており、
ある意味これは「アメリカ人」「ユダヤ人」などと同程度のジョークのネタとしか
思ってないが、その意味で「文系」についてひとつ言いたいことがある:
- 「文系」プログラマの特徴…
プログラムというのはコードを切り貼りすればできると思っている。
論文と同じように。
よくお笑いシーンで使われている、
あのシリアスな曲は
Benny Hill のテーマというのだと知った。
これは、おぼえておこう。
Lockerbie事件の犯人が末期癌で釈放されたことは是か非か? ディベート。
どうやらこの問題はそう簡単ではないようだ。出席者パネルは計4人なのだが、実にいろんな意見がある。
- 英国の保守系政治家 「釈放に反対 -- 何の見返りもないのに釈放するとはけしからん」
- 英国のリビア分析家 「釈放に反対 -- ガタフィは独裁者だからキライ」
- (爆破された航空機に乗っていた)被害者の父親 「釈放に賛成 -- 犯人が死んでも娘が返ってくるわけではない」
- リビアの学者 「釈放に賛成 -- これは英米の陰謀で、容疑者はやってない」
ちなみに新山の独断でこいつらをバカ度順に並べるとしたら 4., 1., 2., 3. である。
はっきりいって、どっちの側も言ってることはやや誇張しすぎてるような気がして、
いまある事実だけではなんともわからん。結局、有効なのはこの父親のいっている
感情論だけなんじゃないか? ちなみに、すべてのパネルよりもはるかに抜きんでて
すばらしいのが、この司会のおじさんである。この人、どっちの側にも容赦ないのね。
ダーウィン150周年だと?
ちなみに新山は「種の機嫌」よりも「ビーグル号」のほうが好きだ。
原語で全部読んでないが、ダーウィンは淡々と書いている:
バイア・ブランカからブエノス・アイレスへ
9月8日 -- ブエノス・アイレスまで乗せてくれるようガウチョを一人雇うも、
途中幾多の困難あり。ある者は父親が出てきて心配だと云い、また別の者は志願するも
あまりに臆病なため、遠くにいるダチョウをインディオと見間違えて
疾風のごとく逃げ出すなどと周囲から言われる始末。ブエノス・アイレスまでは
400マイルほどあり、人の居住せざる地のほとんどを通る。
早朝に発ち、バイア・ブランカの湾から数百フィートほど上がると、
寂寞とした平地に出た。
...
進化論について新山がムカついていることは、
ほとんどの人々がその教義の半分だけしか理解してないことだ。
その半分とは、つまり「適者生存」ないし「弱肉強食」の部分ダケという意味である。
これは金持ちにとっては自己正当化のために使われ、いっぽう貧乏人にとっては
「自分たちは“非適合者”である」という被害妄想を強化し、はては連続殺人なんかを
起こす動機として一役買っている。しかし進化論にはもうひとつ、とても重要な教義があるのだ…
それは「多様性こそが重要」というものである。
つまり実際には、何が本当に「適者」で何が「強」だかは決してわからない。
みんな自分はわかっていると思いこんでいるわけだが、
いざ気象変動が起きてみればそれまでドーーしようもなかった奴が
案外生き残ったりするのだ。ある状況によく適合しているシステムほど
ほかの状況には対応しにくいというのは、もう数学的な原理といってもいいと思う。
だから、なるべくいろんな状況に適合しそうなやつを幅広く準備してあるほうがいいのだ。
世界に変化が起きている限り、この傾向はあてはまる。“適合者”だって
つねに心配しなければならないし、いま“非適合者”として扱われてる人々だって
そう悲観することはない。どっちにしろ世界の変化をとめることはできないし、
変化それ自体には良いも悪いもないのだから。
これはとってもアメリカ的な考え方かもしれないけど。
基礎が重要だということについて。
何事においても、基礎はほんとに重要である。
つまりどういうことかというと、ほんとにほんとに重要って意味である。
つまりどういうことかというと…
最近、前にもましてそう思うようになってきた。そしてそれがわかってきたことで、
自分も「ベテランのはしくれ」ぐらいにはなったんではないかと思える (自画自賛だけど)。
なぜなら、たいていの「できない人間」というのは、まず基礎ができてないうえに、
そもそも「基礎の重要さ」を信じてないのである (そのくせ応用ばかりやりたがる、そんな人間はざらにいる)。
哀しいことに、若いうちはせっかちなので、みんな基礎をとばして
サッサと応用に進みたがるものでして…。しかしある時点で「基礎が重要だ」ということに
気づかないと、たいていの人には未来はない。おまけに、気づくだけではだめで、実際に
それを必死にやらなければいけない。
口先で「基礎は重要だ」といっている人は沢山みかけるが、正直なところ
彼らがどれくらい本心からそのことを思い知っているかどうかは疑問だ。
一見、くだらなそうに見えることを必死でやるためには、合理性を超えた“信仰”ともいうべき、
ある種のキチガイ的精神のようなものが必要に見える。斜に構えていては何事も
得ることはできないというのも、きっと真実なのだろう。
きょうは自転車で新宿まで行き、その結果「路線バスよりもママチャリのほうが早い」という結論に達した。
実際に新宿西口発のバスと並走して得た結果だから間違いない。
いや、ホントに並走したら迷惑なので、新山はそのバスのナンバーだけ覚えておいて
別ルートを走ってたワケですが…。そのバスはうちのすぐ近くが終点 (停留所) なのだが、
新山が着いてから3分ぐらいしてようやく来た。まあ、路線バスはしょっちゅう停まるし、
明らかに回り道するしで、当たり前といえば当たり前なのだけど、中野から新宿に行くには結局
(ケッキョキ) 「電車よりもバスよりも自転車を使うべし」という結論になってしまった。
でもやっぱ自転車で行くのはキライだ、なぜなら小滝橋をすぎたあたりの登り坂がきついから。
住宅街の道路を開拓すればいいのだけど、とくに東中野あたりから新宿にかけては
ワナが多いからなー。これで何度泣いたことか。
どうでもいいけろ (どうでもよろ)、じつは新宿駅西口周辺には自転車を停める場所がけっこうある。
ある物事について、「しょうがある」か「しょうがない」かと問われれば、
世の中のすべてのことは最終的には「しょうがない」のであるよ。
口パク、八百長、味の素。
世間からは忌み嫌われているが、必要なもの。
そもそも、八百長試合がなぜいけないのか新山にはさっぱりわからない。
みんな味の素が入ったやつを「天然素材」とか宣伝されて、
ウソだと思っても平気で食ってるでしょ? それと同じことだよ。
だいたい快楽の追求などというものは、つきつめればどれもこれも 100% フェイクである。
それが嫌なら動物であることをやめるしかないね。
自分でわかってて自身自身を騙してるのなら、それはそれでいいじゃん。
…だが待てよ、人生だって結局はそうじゃないのか。
視野を広げるためには、視野を広げるような“訓練”が必要であると思われる。
(もちろん、誰もそんな訓練を他人のためにしてくれる人はいない。)
職を転々としたり、海外旅行に行ったりするだけでは、必ずしも視野は広くならない。
故人の個人の学習能力というのは、究極的には
「いかにアホな質問を平気でできるか」に依存するのではないか、と思う。
「自分は知らない」と認めるのを恐れる人は、あきらかにそうでない人よりも
学習にコストがかかる。ご自分の“知的プライド”が死ぬほど高い人でも
きちんとした学習をすることはできるが、ものすごく他人より苦労せねばならない。
年寄りがだんだん物事を学ばなく (“学べ”なく) なっていくというのは、
じつは脳の機能がうんぬんいうよりも、この要素が大きいんではないか?
新山が軽蔑している3大要素:
"Lifehack"、
"Productivity"、
そして
"Productivity books" at Lifehack.org。
…いや、これは言いすぎた。こんな小者より、
もっと軽蔑しているものは世の中に沢山ある。
しかしせっかく思い出したので書いておく。
「生産性」などという言葉を、工場と農地と経済学の授業以外で使う人間はアホである。
たかが言葉じゃあないか? といえばそうだろう。しかし「生産性」はねえだろ。
新山がキライなのは、その合理主義的発想や理系的な計算高さではなく、
その騙されぶりである。キライというよりも怖い。
それはさしずめ“自然言語処理 (笑)”という用語を“(笑)”をつけずに使っている人のようなもんだ。
ちょうどカルト宗教の信者を前にしたときの嫌悪感 (あるいは同族嫌悪かもしれないが)・恐怖感に似ている。
つまり言葉では正しそうなことばかりいうが、その背後にある致命的な矛盾は見て見ぬフリをしているのだ。
表面的には一見、きわめて健全な生活をしていそうなところが、なおさら怖い。
これと反対の話がある。このあいだ (つうか一昨日)、
ある人が
「自分はもうタバコを吸わないが、自分はノンスモーカーじゃない、
ただ煙草を吸わなくなったスモーカーなだけだ」といっていた。つまり、彼のマインドセットは
喫煙者のそれであるという意味で。この考え方は新山にはとっても共感できる。
そういう意味では、新山は一度もタバコを吸ったことがないヘビースモーカーとか、
一度もドラッグを体験したことのないドラッグ中毒者みたいなもんだと思う。
こういう人々は自分というものを知っているので、“いかに生産性を上げるか”などということについて
真面目に議論したりはしないだろう。
基本的に、人はみななんらかの“宗教” (あるいは伝統的な意味での宗教でないので、“イズム”)
に属している。そして、ある宗教から脱け出したとたんに、また別の宗教に足をふみ入れているにすぎない。
ふと思ったこと。
音声言語といふのは、喋るほうからすれば選択性がある (特定の人だけにヒソヒソ話ができる)。
しかし聴くほうからすれば選択性がない (特定の人の話だけを聞くことはできないし、
聞きたくなくても無理矢理聴かされてしまう)。
これとは逆に、視覚言語というのは、喋るほうにとっては選択性がない
(手話を「特定の人だけに見える」ようにやるのはむずかしい --
「嫌い」などをなるべく小さな動きで (目の前の人にしか見えないように)
やる隠語っぽいものはあるけれど)。しかし聞くほうからすれば選択性がある
(大勢で話していても特定の人の手話だけを見ることができるし、
目を閉じればすべての言葉をシャットアウトできる)。
この違いは普遍的なものなのだろうか?
新山は、会社で世の中の誰も知らない (べつに知りたくもない) 秘密業務に十字従事している。
フロントエンドのアプリケーション
(つまりサーバー側の webアプリなんかではないという意味で) を Python で作っているのだが、
これは Win32 のデスクトップ上で Python を動かしてるわけだ。時々このことを
コンピュータに詳しい人に話すと「すげーーカッコいい!!」と言われる。しかし…
「カッコいい」って一体どうゆうことだ?
これはようするに「あんたってキチガイですね」と
言われているに等しい。このことに、オレは最近ようやく気がついた。
これがたとえば C# や Java だったら、カッコいいとは言われないであろうと思われる。
つまり「カッコいいですね」という言葉の裏にあるのは、
「(日本では) 誰もほとんど使わないマイナー言語で UI を書いている → 無謀 → total badass」
という思考の流れなのであろう。失礼な。
Mr. Jones, Mr. Jones.
右手と
左手を</bgi>
まちがえる!!1
この世界は寒いうえに、なんか魚くさい。
クリスマスは、どこまで逆行すれば気がすむんだ!?
新山は、製品を開発しているときはやたらと元気だが、
いざ売り出す段になると途端にやる気をなくす。
自分としては「よりよい品を、より安く」ってことには興味があるが、
いかに自分の側の利益を出すかってことについてはトンと興味がないようだ。
つくづくオレは、商売に向かないらしい。
新しい用語を肩書きや文書の表題に含めると、
「自分は最新のトレンドを知ってますよ」と他人に宣伝したことになるのだろうか。
トレンドで気をひくって戦略は、ほとんど scare tactics のようなものだ。
というかそれ自体だ。
新山は識別子 (ようするに enum) として数字を使うのが嫌いである。
なぜなら覚えきれないから。それよりも、シンボルを使うほうが好きだ。
この点、シンボルを first-class型としてはじめて認めた Lisp は偉大であった。
しかし、シンボルは通常の会話で (数字にくらべて) 発音しにくい。
むかし、人間の頭というのは訓練しだいでいくらでも新しいことに対応できるのだと思っていた。
たとえば新山がいまから訓練してオリンピックの陸上に出るのは絶対ムリだが、
精神というものは身体と比べて、もっと柔軟に変化できそうなものじゃない? でも、最近になって、
そうでもなさそうだと思うようになってきた。つまり人の精神にも物理的な“骨格”のようなものがあり、
ある程度成長して固まってしまってからそれを変えることは (一部の人にとっては)
不可能なのである。なにアタリマエのことを言っているのかって?
新山がここで話しているのは「論理的な思考力」とか「言語的な能力」とかのことである。
これらは、ある程度の歳にいってしまうと、もう身につけようとしても身につかない。
これは非常にコワい発想であるのだが、ある人々を見てるとそうなんじゃないかと思う。
きょう、会社でふと右手にマウスをもった…つもりだったが、
なんだかポインタがまったく動かないので、よく見たらそれは自宅からもってきたミカンだった。
オレってお茶目。
新山の机の上は非常によく整頓されている (これホント)。
しかし、普段からあまりにその整頓ぶりに頼っているため、
たまに妙なところにものを置くと見事なまでに自分で自分にダマされる。
これわ気おつけなけれべいけねいよ。
どうでもいいけど (どうでもよろ)
「対処療法」ってホントは「対症療法」の間違いだって知ってた?
オレはいま知った。
きょうは久しぶりに図書館へ行き、また片っぱしから本を物色する。
押井譲著「五月のガザ」を読んだら、つくづく気分が暗くなった。
いいルポであるが、どのように暗くなったかということを以下に書く:
取材開始の初日、イスラエル軍が一般人を砲撃し、著者のそばにいた
13歳の少年が目玉を撃ち抜かれた。著者はその写真を撮っている (80ページ)。
軍用の銃というのはたいてい音速よりも弾のほうが速いので、
はるか遠方から狙撃されると、音はあとからやってくるというのは新山は
はじめて知った。つまり何も聞こえないのに突如、壁にビシバシと穴があき、
気がついたら自分の顔も貫通されているというわけ。瓦礫の中で生まれ、
毎日のように大人がイスラエルにいじめ殺されるのを見たり、
イスラエル軍の戦車に火炎瓶の「ピンポンダッシュ」をしたりして育っていく子供は、
自分の人生なんて意味がないと思うようになるんじゃないか。その結末はたいてい想像がつく。
はっきりいって彼らはナチス時代の収容所にいたユダヤ人のようなものだ。
著者はパレスチナ問題に関してかなり現実的
(冷酷ともいう) な見方をしている。おそらくガザは今後も国家のようで国家でない
「巨大な収容所」として続いていくだろう、と推測している。
そしてこの本を見るかぎり (それからここ1年ぐらい中東の報道を見たかぎりでは)、
どうやらその推測は正しいようだ。新山はおそらくこういう所へ行ったら、
頭がおかしくなるか、少なくとも自分の世界観はまるで変わってしまうだろうと思う。
いまの日本に、なにか不幸なことが起きていると思っている人は、
中東関連のニュースを追ってみるといい (AlJazeera Englishはそういうときに便利だ)。
世の中にはこれほどどうしようもない不幸が毎日のように起きている場所があるというのには
驚かされる。まあ、とにかくこれはそういう本なので…落ちこんだ。
新山はフィクションをほとんど読まないのだが、ノンフィクションを読んで気分が
晴れるということはあんまりない。はっきりいって自分は暗くなる本ばっかり
読みたがる傾向のあるんではないかと思える。しかし、新山は普段の生活がアホすぎるので、
多少は暗くなっておいたほうがいいのかもしれない。
(todo)
そういえば、「夜と霧」についての感想をいつか書くこと。
それから "Unthinkable" の感想についても。
(どちらもノンフィクション)
薬ができることは、『治るのを早める』ことだけである。
最終的には、人間自身が治らなければいけないのだ。
トーヴェ・ヤンソンの短編集に「カリン、わが友」という文章がある。
まじめすぎる敬虔なキリスト教徒のカリンと『私』の、小さいころからのつきあいが
日記調の文体で書かれている。カリンには“聖女”という言葉が
使われているが、彼女はあきらかにキチガイ的な (周囲に恐怖を与える) 存在として描かれている。
カリンは「(自分は神に身を捧げているので、) 自分が俗世間で好きなものは、
なんでもすべて捨てなくてはならない」という信念をもっており、
最後のほうで『私』に向かってこう言う。「いずれあなたともお別れね」
「…私はこのときはじめてカリンに愛されていることを知った。哀しい運命だ」
と『私』は書いている。カリンがいなくなったあとも、『私』はかつて
カリンがいた場所に何かしら神聖なものを感じている、というところで文章は終わる。
このような人は、これ単体として見れば、あきらかなキチガイだ。
でも人生は、みんな多かれ少なかれ (比喩的にいって) 似たようなことをやっているような気のする、
たぶん。
そういえばむかし、どっかの絵本で、なんとかいう博士が
「どんなものでもキレイにするスゴイせっけん」を発明して、
これが何でもキレイにするので、この石鹸水を飲むと
身体の中のバイキンがみんな退治されて元気になってしまうっていう
物語があったけど、あの本、いまの時代だったら訴えられんだろーな。
アサリを茹でて仏教について考える。
DNSとは何でないか (Paul Vixie)
DNSSECを破る (Daniel J. Bernstein)
いやーー、ああいうインチキな連中をみると、ムカつくと同時になんだか安心するね!
まあせいぜいがんばってくれ、そんな気になるった。
壁崩壊のニュースを伝える Peter Jennings、1989年11月9日 - メチャ若い!!
もぉーーーmaaaaaww、 もう11月だというに、この暑さはなんなの?
これじゃそのうち溶解するぞ、南極の氷のまえに、このオレが!!
デブネコ
きょうのYoutube動画。
(見たあとで音楽的後遺症が残ってモ責任ハ持たジ)
どうでもいいけど、形態素解析についてメールで質問がくるのは勘弁してほしい。
すべては、ウィキッペあたりからリンクされている例のページが悪いのだろうが、
そろそろいいかげんに消すべきなのだろうか。
たぶん、言語処理の外にいる人々にとっては、「形態素解析 (morphological analysis)」という言葉は
エキゾチックに聞こえるのだろう。しかしはっきりいってこんなのは「web2.0」と同じようなもんである。
各人が主観で「形態素」って呼びたいものを勝手にそう呼んでるダケなんだから、
おそろしく前近代的・オカルト的だ。もし化学で、たとえば各研究者が「原子」というものを
勝手に主観で定義してたらどうなる? 笑えるよね。しかし自然言語処理ではそれが普通なのだ。
ただ形態素解析とかのいかにも学術的っぽい用語がいろいろとあるので、人々はそれに騙されるだけ。
ついでにいうと研究者自身も騙されている。こういうのはモギ健一郎みたいなのが
解説してくれればいいのにと、本当に思う。そうすれば、
人々はその裏にある「いかがわしさ」のニオイを少しは感じとるだろうから。
(ちなみに、大学院にいたころは、こういうことを言うと「オマエモナー」と返されてしまうので
言えなかったが、いまでは新山はこうした知的不誠実からは完全に足を洗いまして、
言語処理とはまったく関係のない仕事でメシを食っている。なので遠慮なくここに書けます)
それから URL について。URL を参考文献として挙げるのは最悪だ。
なぜなら URL は「場所」を指定するだけで、「内容」を指定しているわけではないから。
URL が同じでも、時間がたてばその内容は変わることもありうるし、
最悪の場合、その情報そのものが存在しなくなることだってある。
総じていえば、世の中はますます情報で人を騙しやすい世界になりつつあるよね…。
(この揺り戻しはいつか何らかの形で表れるのだろうが、それが一体どんな形だかは
いまの新山にはまったく想像すらつかない。)
(追伸) 自然言語処理についてだが、
いまの状況では、科学的に言語について研究したいと思う人は
去っていってしまうだろう (別に新山がそうだと言ってるわけじゃないが)。
その結果、残るのは「なんとなく科学的っぽいことをしているという幻想」が好きな人々ばかり。
チキンスープな週末であった (べつに風邪っていたわけではない)。
いま、新しい包丁を買うべきかどうか迷っているのだが、結局 (ケッキョキ)
今週も買わなかった。いま使っているやつはわずかに刃こぼれができてしまっているのだが、
まだ使えるといえば使えるし、研ぐのも面倒くさいんだよなあ…。
どうしょ
あいかわらず、オレは文章を書くのがおそいナァー。
英語だととくに遅いようの気がする。なぜかと考えるに、
おそらく「気どった表現」を使おうとしているのかもしれない
(なぜなら、新山が学生のときに書くように訓練してきた英語というのは
みんな論文とかレポートとか、そういうもののための英語だったからである)。
本当はもっとくだけた表現を使いたいのだけど、問題は、
日本語ではいくらくだけた言葉を使っても、
自分で「それがどの程度カッコ悪いものであるか」はすぐにわかる。
ところが、英語だとまだ直感が足りないので、
しばらく考えこまないとわからない。いきおいその分だけ
慣れない表現を使うことには慎重になってしまう。
こういう部分がまだ自分の「ネイティブさ」の足りない部分だな。
学習用の書籍というのは洋服のようなものだ。
それは自分の背丈に合わせて買い替えなければならない。
そして子供の背丈と同じく、たいていの物事の学習も最初のころはすぐに背が伸びるので、
逆にいえば初心者に特化した本であればあるほど、すぐに使いでがなくなる。
もし同じ本を何年もズーっと読んでいるようなら、
おそらくあなたはまだきっとその本の「想定年齢」の内にいるのだろう。
(べつにそれが悪いとは言ってない)
すごいPDFが送られてきた。
これである。
一見、ふつうの論文のようだが、じつはこれの33ページにある図表で
pdf2txt.py のレイアウト解析が止まったまま返ってこないというバグ報告があった。
なんでかと思ったら、じつはこの図表にある線は PDF の図形としてではなく、
すべて "." を使った文字で描かれていたのだった!
ぜんぶで何万ドットとある。そいつらをクラスタリングしようとしていたんだから、
そりゃ遅いわな…。いったいどうやって作ったんだろ。
TeX の Picture環境かなにかを使うと、こういう図ができるのかな?
Haskell について一言いわせてもらう。
こんな記号列が出てくる言語をオレはまともなプログラミング言語だとは思わない:
f _ _ (_:_) [] = []
C++ や Perl や BrainFcukと同レベル。
以上。
Haskellをホメる人々は、前衛芸術をホメる人々に似ている。
あるいは生きたままのナマコを“珍味”とか称してむさぼり食う人々。
そのうち、ごく一部はほんとうに理解している (らしい) が、
大部分はただ気取ってるだけ。新山はもっとドロくさい問題に感心があるので、
カンディンスキーなんかちっともいいと思わないし、
オジー・オズボーンだって好きじゃないぞ。
(追伸)
ここで言いたいのは、つまり「言語は見た目が重要だ」ということである。
新山は Haskell のコンセプトは嫌いじゃないし、monadもべつに嫌いじゃない。
Haskellの見てくれをもっとマトモにした言語があればいいと心から思っている。
しかし、いまのところは言語を設計することにゃ興味ないので、
Haskellに対しては文句だけを言うぞ。
(さらに追伸)
新山がこのように言語そのものの機能よりも、その表面的な字句や書体や色に
異常にこだわるのは、基本的にオレはプログラミングの多くの部分を
「視覚野でやっている」ためではないかと思う。たとえば新山は
Python のコードを読むときは (少なくとも、長いコードの場合は) 自分の
お気に入りのカラーリングがされてないと疲れるし、フォントも
Kappa 20 じゃないとダメである。あと画面の大きさはどのくらいとか、
距離はどれくらいとか、とにかく「見た目」がヒジョーに重要なんである。
このようにプログラミングを視覚的な処理として訓練しておくと、なにがいいかというと、
反射的にプログラムが書ける。…というのはウソとしても、
頭で考えるよりも「身体で覚える」ので (ある意味では) ミスをしにくいんではないかと思っている。
プログラミングというのはたいていの場合、とくにコーディングの段階では
本当に頭を使う部分はわずかで、
あとは圧倒的に「機械的な反復作業」が多い。こういう場合は、毎回アタマで考えるよりも
「慣れ」に頼ったほうが速いし、ミスも少なくなる。新山は自分で
プログラミングは速いほうだと思っているが (これまで周囲の人を見てきた経験からするとそうだ)、
速いプログラマは多かれ少なかれ直感に頼っていると思う。
ただし直感というのはほとんど表層的な情報に依存しているから、
直感をうまく働かせるためには表層的な条件をうまく整えてやることが必要なのだ。
新山が言語の見た目にこだわるのはそれだと思う。仮説だけど。
(さらにさらに追伸)
この意味で、「プログラミング速度の向上」というのは、「将棋の上達」とは
まったく逆のプロセスのような気がする。初心者がふつう将棋盤をみると、もっぱら
視覚的な情報に頼っているのに対して、将棋の名人は盤面を見ても記号的にものを考えるんだそうな。
しかしプログラミングが複数の人間の共同作業だということを考えると、
プログラムを記号的に扱うのはむしろ危険である。なぜなら、内的な記号というのは
本人の頭の中で勝手な意味づけがされていることが多く、各人の理解が食い違っていることが
多いからである。プログラムというものは誰が見ても (それが人間であれサルであれ)
同じように理解できることが望ましいので、むしろ表面的な感覚器に頼ったほうがいい。
ただし、それだと「目の見えない人はプログラミングできない」ってことになるが、
盲人でもコードを「空間的に」把握することはできると新山は思っている。
でもどれくらいの盲人がそれをやっているかは、周囲の盲人プログラマの
サンプルが少なすぎるので、なんともいえないけど。
(さらにさらにさらに追伸)
そういう意味では、日記というのは (相互理解という面からみると) まさに最悪だ。
すべては自分の「その時の」内的な記号で書かれているので、あとから読むと、その当時のニュアンスを
完全に忘れている。たとえば3年前の日記を読むと、まるで他人の書いた文章のように見える。
そのとき自分が何を考えていたのかさっぱりわからない。しかしプログラムは、(理想的には)
たとえ30年後に読んでも、いまとまったく同じ理解ができるように書かれなければいけない。
新山の場合、この期間は30年なんかではなく、もっと短い “3日”とかで忘却がくるので
この問題はずっと深刻である。
もし、新山の書いたプログラムが多少なりとも「他人にわかりやすい」ものだとすれば、
それはきっとオレ本人の頭の悪さに起因する。いや、ホントに。
そういう意味では、職業プログラマは頭が悪いほうがいいんではないか??
てくるで、松本空港ってなんで必要なのか、いまだにサッパリわからない。
さっさと廃止しろ。だいたい最初に長野に空港なんかを作ろうと言いだしたやつはだれだ?
オリンピックをやると決めたときから、長野県は「斜陽の県」への道をつっぱしってるよな…。
ちなみに新山は「斜陽の県」が大好きでありマス。
いつのまにか今日だった。
You AGAIN!!
きょうは一日じゅう家でゴロゴロしていた。
本当はカサを買わねばならなかったのだが、べつに明日は雨じゃないからいいか。
オレは本来、性格的にはヒキコ森のはずなので、本来は一日じゅう家にこもって
プログラミングなどしているべきだが、どういうわけかずっと家にいると
だんだん落ちこむようなのである。
しかし、新山はいいカサを買っても必ず半年ぐらいでこわれるので、
苦労して傘を選ぶよりもそのへんの安物を買ったほうがいいのかもしれないと思い始めている。
ワーお、降ってきたよ!??
てころで (とくるで)、新山はそのむかし『上には上がいる』という表現を
まちがって理解しており、「自分の上には“上”という存在がいるのだ」という
シュールな現実認識を表しているのかと思っていた。
(なぜなら、新山の周囲で最初に「上には上がいる」という表現を使ったやつが、
おそらく変態っぽい奴だったからだと思う。)
そしたら、違った。
Eewwww, creepyy!!
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< 2009/10 (b)
Document ID: c89de37bda0cde059f7d9200cd6c8187
Yusuke Shinyama