このヘッダになぬか面白りことを書
ときどき幼児虐待やら育児放棄などのニュースを見ると、 「(子供にとって) なんてひどい仕打ちだ、まるで拷問だ」と思うのだが、 同時に自分もふとしたミスで子供に拷問のごとき仕打ちをしうる立場に いると思うと恐しくなる。もちろん自分は日々「いい親」であろうと 努力しているが、子供にとって親の影響力はある意味で神よりも強力だし、 おまけに子供は親を選べない。まあ世間ではこれを「親としての責任」とかいうのだろうが、 このようなおそろしい権力を手にするというのは、なにか本質的に罪深いものを感じる。 これは自分が親でなかったときにはまったく考えもしなかった恐怖だ。 といって、責任を放棄したらそれはさらに重罪である。 大きな罪よりも小さな罪をかぶってよしとせよ、ということなのか。
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もし、あるシステムの要件・前提がすべて確定しており、 エンジニア (プログラマ) が決してミスをしないならば、 完璧なシステムを作ることが可能である。
さて、普通のエンジニアが感じる不安とは、以下のようなものである:
まともなエンジニアとは、これらのことは「もし」ではなく 確実に起こることがわかっているので、 それに対してあらかじめ (何重にも) 予防策を講じる人のことである。
ソフトウェア開発においては、上の不安は 以下のような具体的な疑問に置き換えることができる:
ここでよく考えてみると、問題 a. と 問題 c. は ほとんど同じである。恒常的な仕様変更に対応できるように システムを作るしかないのだ。問題 b. はまた別のテクニックが 必要である。新山にとって、これらの問題を考えるのは、 なぜかぜんぜん不安でなく、とてつもなく楽しい。
毎度毎度 Lombok (Java) と Lodash (JavaScript) を どっちがどっちかわかんなくなるのはオレだけか? まあとりあえずここに書いておこう。
欧米のまともな本はどれも巻末に参考文献の一覧を 示すのがアタリマエになっているが、 日本はいまだにそうなっていない。 こないだ図書館で健康に関する本を見て、そこにも参考文献が ほとんど書かれていないのにびっくりした。どうやら著者略歴に 「医師」と書いてさえあれば人は盲目的に内容が正しいと思うらしい。 おそろしいことだ。しかし日本人はこれで大きなチャンスを逃している思う。
「出典を示すこと」のメリットは、単にウソ情報に振り回される 危険が減るというだけではない。逆に「出典さえきちんと示せば、 素人でも専門的なことを言える」というメリットもあるのだ。 たとえば、新山のような人物が、どこかの本に
喫煙とガンの間には密接な因果関係があることが知られている。などと書こうもんなら「医者でもないド素人が何を言っとんのや」と ツッコミを入れられそうだが、
喫煙とガンの間には密接な因果関係があることが知られている (*)。と書けば、スゴそう度が否応にも増し、 堂々と主張できるのである (とはいえ、トンチンカンな引用をするというリスクは常にあるが)。(*) Gandini S, Botteri E, Iodice S, Boniol M, Lowenfels AB, Maisonneuve P, Boyle P. Tobacco smoking and cancer: a meta-analysis. Int J Cancer. 2008 Jan 1;122(1):155-64. doi: 10.1002/ijc.23033. PMID: 17893872.
そういうことで、参考文献は重要ざり。
下のを書いて自分で見直してみたらあまりの内容のなさにガッカリした。 人はバカなだけでは生きてゆけない。
ところで (てくるで) キミは kaikotan を知っているかっ! これを「かいこたん」とひらがなで表記することは精神 (何の?) に反する。 なぜなら https://www.jma.go.jp/bosai/kaikotan/ だから。気分が悪くなったらこれを検索すべし: kaikotan.
これですこしはバカ度が減っただろう。 2022! ですよ!!
もう根る。
またしばらく更新しなかったが、今年こそはここに何か バカでかつ含蓄のあることを書きつけていこうと思っている。 まあそういうこと。
最近日本語がおかしくなりつつあるな。 とはいっても日常生活で使っている話言葉は 99% 日本語なんだけど、 これはだふいふことなのだ。ムカ
このへんんんの語調は昔とは変わってきているのかもしれない オレは
しかしそんんな (おいsKK) ことを気にしていたらダメでごんすよ! pp.
わかりける?
正月に帰省しスキーへ行ったら鼻血がでた。どゆこと。そゆこと