As much as I hate to admit, but 最近、なんかテキトーなスクリプトを書くのに新山が使う言語は Python よりも JavaScript (node.js) が多くなってきた。 これにはいくつか理由がある:
ちなみに最近また lynx をブラウザとして使い出した。
日本語パッチとか当てなくてもデフォルトでちゃんと UTF-8 を表示するしね。
検索なども、"ddg
" なるコマンドを用意していたりする:
function ddg { command lynx https://html.duckduckgo.com/html; }
しかし Lynx をいじっているとやはり 「もっとまともなテキストブラウザはないのか?」と思えてくる。 ここでいう「まとも」とは w3m とか Browsh ではなく、
"mass hysteria" ってやつだよ
なんだか自分は「技術者を育てている」というよりは 「『技術者』っぽく振舞える人を育てている」だけなんじゃないか、という不安。
a.k.a. 「オレも昔はワルだった」的追憶。
もう去年の話だが、いつも出ている視覚障害者の生徒向けのワークショップに出ていたんよ。 そしたらそこに来ていた中学生・高校生 (計4人) がやたらとオトナしかった。 自分としてはもっと「言うことを聞かない」生徒を期待していたのである。 そもそも勉強なんてものは教師の指示を待っていたんでは上達しない。 まあ、オレが信用されなかったとか、そもそも彼らがあまりプログラミングに 興味なかったという可能性もあるが、これまでの生徒と比べても 彼らは覇気がなかった。しかも彼らはスマートフォンからの毒気にやられているわけでもない。 これが時代的な傾向だとしたら心配なことだ (などと、おおげさに論評したがるのもオッサンの悪い傾向だも)。
もう寝る
ときどき、「世界の終わり」に関する夢を見る時がある。 本当に世界の終わりかどうかは知らないが、宇宙的な「何かの現象」が起きて、 地球人口の何割かが死滅する、みたいなストーリーである (自分も死ぬのかどうかはその前に夢が終わってしまうので知らない)。 その禍々しい「何か」は世界じゅうの人々に見え、自分にも見えるのだ。 よく覚えてないけど、なんか昼間なのに空の一部に巨大な暗黒物体が出現するとか、 夜なのに昼間のように明るい爆発が起こるとか、そんな感じである。 そしてなぜか自分は「それ」が来ることをあらかじめ予期していて、 「ついに来た!」と思っているのだ。そんな夢を過去に何度か見た。 新山は「世界の終わり」になにか道徳的な意味があるとは思ってなくて、 ただ「人生そんなもんだ」と思っているのだが、キリスト教な人々は そう考えないのかしらん。
で、こういう夢を見ると思い出すのがムーミンの小説に出てくる 「この世の終わりにおびえるフィリフヨンカ」である。 新山は、なんとなくこのフィリフヨンカとは気が合いそうな気がする。 ちなみに彼女は非常に美しい「この世の終わり」を目撃することになる。 初期のムーミンでは他にも「世界の終わり」を扱っているストーリーがあることから、 これはヤンソン自身の傾向でもあったのかもしれないが、 彼女の場合は戦争体験が影響しているのかもなー。 だとすると、オレの場合は一体なんの体験が影響しているんだ? まあこれがべつに深刻な精神病だとは思わないが (今のところは)、 ふと「どうせ世界なんて簡単に終わっちまうかもしれないもんな」と思う ときがある。特にそれで投げやりになることはないが、ときどき そういう考えになるのは妙に開放感がある。 自分はそんなに刹那的な人間だとは思ってないが、まあ ときどきそう考えると自分の行動に影響するよね、うん。
Microsoftのサンプルによく contoso.com ってのがでてくる。 あれはなんなの。
ウヌボレた話だが、自分の過去の日記を読み返してみたら 「やっぱり面白いじゃねえか」と思った。 やはり自分はもっとバカな日記を書かねばならないよなあ、と思った。
と思った。
実家からもってきた、古い安 ASUS ラップトップに Arch Linux を入れた。 ウィンドウマネージャは dwm にしてみた。 それにしても、久しぶりに Arch をゼロからインストールしたわい。 かなり枯れているIntelチップセットなこともあるが、 何もしなくても WiFiや電源管理や X11 が動いて、時代は変わったと思える。 やっぱり自分はこういう趣味が好きなのねえ。