なんでなのか、最近自分の人生というものが、前よりもずっとマンネリ化していると感じる。 毎日楽しみにしていることがほとんどない。息子の成長は楽しみだけど、 正直自分が積極的にできることはあまりないし、趣味に使える時間もほぼゼロだし、 これは子育て中はそういうものなのか、あるいは自分がただ歳とってそうなったのか。 あるいは自分にとって面白かったことはなんでも AI がやってしまうからなのか? わからじ
ここに挙げられている人々はみな OSS界の有名人であり、 程度の多少はあれ、みな何らかの偏屈・差別的な考えの持ち主である。 そして何よりも重要なのは彼らは「声が大きい」ということだ。 このページが偏っているとか、人はだれでもみな偏屈・差別的な考えの持ち主だとかいう 一般論はここではあまり意味がないと思う、なぜならそれは 「彼らがヤバい考えをもっており、なおかつ声が大きい」という 事実を変えるものではないから。
まあつまり、個人崇拝は悪ってことだ。 これはとりわけむずかしい。 とくに個人崇拝したい・されたい人々にとっては。
今日は雨がふっており涼しい。まあ外には出れないけど。 新山自身はべつに外に出れなくても結構なのだが、どうもうちの子供には不健康な気がする。 しかし明日は大雨でも出社しなければならない用事があるし、子供も保育園に行かなければならない。
ところでいま気づいたが、新山は「保育」のことを「ほいいく」と入力する癖があるようだ。 発音は「ほいく」なのにね。これはたぶん体育をほぼ「たいく」と発音するが、 入力は「たいいく」とする癖? のためだと思われる。オレはいつだって正しい。 ちなみに、新山はいつだって「ところで」のことを「てくるで」と発音する。いつだって。
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さて、最近 MS-DOS の古いゲームをあさって気づいたのだが、 新山はどうも「ゲームがそんなに好きじゃない」ということに気がついた。 というか「自分が好きなものは実はゲームではなく、ゲームが体現している別のものである」 ことに気づいたのかもしれない。というのは、ほとんどのゲームは問題空間がわかってしまうと 「ああ、こんなもんね」と思って、すぐにアキてしまうのである。 歳のせいかとも思うけど、でも飽きないゲームってのもあって、 それは「探検」「発見」の要素があるゲームなのだった。どういうことかっていうと パズルで新しい面があるとか、つぎつぎ新しい場面に行くアドベンチャーとか、 そういうものである (ただしストーリー的な要素は好きじゃない、なぜかというと 文脈を理解するのが面倒くさいので)。考えてみると、自分は実生活でも つねに「探検」とか「発見」が好きなのである。つまり自分が楽しいと思っていたものは そういう要素であって、別にゲームじゃなくてもよかったのね。