西から吹く風も
ばばあのあくたいも
どちらもさいごは
なみだでおわる
ちなみに、 いまオレの後では別の学生がやはり今日の締め切りのために狂ったようにキーボードを打っている…。 つまりノドモトはオレだけじゃないってことだ。
頭が痛いので帰りまするよ。
「ほんとは、あなた、そういうあなたでいるのがいちばんたのしいのね。」
…ほぼ 20年ぶりにその友達に会った。かれはぼくよりもずっと速く歳をとる 性格をしていたので、そのときかれはもうすでに 95歳になっていた。 ぼくと会ったときかれは、最近、悲しくなっても涙が出なくなった、と言った。 どんな人でも、人間が一生のうちに流せる涙の量というのは約 5.51リットルまでに決められている、 という理論を読んだことがある。今までぼくはそれは、 ハチは生涯のうちに 3.19×108 回までしか羽ばたけない、 というのと同じように、ばかげたことだと思っていた。 もう泣けない、と思ったとき、かれはもう涙を流せないのでかわりによだれを ぼとぼと流しながら悲しんだという。しかしヨダレはヨダレで制限があるから 注意しろよ、とかれはぼくの目をみながら声を殺して言った。 やつらはどこで監視しているかわからない、と。 やつらというのは彼にとって存在しているらしいなにかのことである。 そいつらは時々、存在を示す証拠として彼に名刺を残していくという。 それはどんなものなんだ、と尋くと、彼はポケットから だまってコショウのフタを取り出した。やつらの残す名刺はそのときどきで変わり、 ある時は家の下駄箱の上に、ある時は雲の上に、そしてある時などは かれ自身の口の中に置かれていたそうだ。彼の舌として。 「とにかくやつらが憎いんだ、それはそれは想像もできないくらい憎いんだよ」 とかれは言った。あまりに憎いので、彼はいちどかれらを食事に招待したのだそうである。 そしてかれらはご飯を 1.5杯しかおかわりしなかった。彼はあとで、あれはきっと 自分に何かを伝えるためだったんだ、といっている。 とにかくそいつらはどこにでもいるから気をつけろと彼はいった。 とりあえずぼくは彼の言ったことを信じるようにしている。 なぜなら、前にいちど彼から似たようなことを聞いたとき、 最初ぼくはそれを単に笑いとばしたのだ。そしたら次の日に 彼の左目はなくなっていた。そのあともう一度似たような話を聞いたときも、 笑いとばしはしなかったが、やはり心の中では疑っていたのである。 そしたらその 2日後にこんどは彼の母親が亡くなっていた。 だからぼくはつとめて彼の言うことは信じるように努力している。 おかげでいまでは彼の左目ももとどおりになり、母親も生きてきた。 しかし考えてみればぼくはただ鈍いだけなのかもしれない。 だいたいぼくは電柱にカラスが止まっていたとしても、 やや大ぶりのプテラノドンだな、ぐらいにしか思わないし、 道端でウサギを見かけてもちゃんと懐中電灯とお箸を持たせてやるのだ。そういえばかれは前にうちへ来て、ぼくのテレビが切手を貼らなくても 映るのに大いに感銘を受けたようだった。それは現存するテレビ受像機のなかでも いちばん古いものなんだ、とぼくが言うと、かれは放心したように タオルを首にかけていた。ときどき、かれはあんまり驚くと、 驚きすぎてシッポが生えちまう、といっている。 実際彼にはシッポが 2本あるが、それがなんだというのだろう。 ぼくなんか、いま生きているのだ。それがいったいどれほどのすごいことなのか、 彼には想像すらつかないようだった。
やべえ、「ゲナゲナ」を思い出して、また一人で二ヤついてる。 二ヤを、ついてる。二ヤってなに? ニヤニヤ二ヤニ。
というか本当は「つまる」予定だったのである。なんともハヤ。
いまちびちびと読んでいるの本のなかに伊勢物語があるのだが (いったい何冊の本を同時並列的に読んでるのか、もう自分でもわからなくなってる)、 これをみると日本語の文法変化っておもしろいなあと思う。 ここでは可能の否定形 (〜できない) を表すのに 「え + 動詞(未然形)」という形が使われているからだ (そういえば「已然形」ってのもあったよーな気がするが、なんだったっけ?)。 おもしろいのは“可能”のアスペクトをあらわす「え」が動詞の前に出ているところである:
とくに 3. の例は別の意味でも注目に値する。 「女のえ得まじかりける」って、現代日本語ではどうみても用言 (終止形か連体形) みたいなのに、 こんなツラして体言 (名詞句) なんですよ! 反則っす! なんかこれって英語の関係代名詞 (女「の」の部分が which に相当する) みたいじゃないすか。
ところで新山はとーぜん高校のころに古典などまじめにやるはずもなかった。 なのに、なぜ今ごろになって古典なぞに興味を持ちだすようになったのかは謎である。 でも、高校のころにもうすこし古典を勉強していたら何か違ってたんだろうか? まあ周り道しても結局たどりつきゃいい…でしょう…。
ちなみに、新山は100年後のプログラミング言語なぞよりも 100年後の日本語のほうがずっと興味あります。 そのころにはもうみんな漢字なんか手では書けなくなってるんじゃないだろうか。不安だ。
(追記 4/30) 関西弁では「え+(未然)」は「よう+〜ない」という用法でまだ生きている模様。 そういやー「ようせんわ」という言い方は聞いたことがある。
おやすみ。
気づいてみたら、4月はわずか 30日しかないのだった。
わずか!! たった
の ! ! ! ! !
! ! ! ! !!
Term project の締め切りは 5月1日である。あと1日余計にあると思ってイタ。 これは新山のようなノドモターにとってはきついよ。ところで、 バートランド・ラッセル (これ「ベルトラン・ラッセル」って読めばカッコいいのにな) によれば:
私はもっとも頭がイイ時期に哲学をやり、とのことであるが、新山は、もっとも頭がサエてる時にプログラミングをやり、 ちょっと頭がサエなくなってきたときに文章を書き、 かなり頭がサエなくなってきたときに翻訳をする、という流れになっております。 こんな調子じゃーまともな訳文はできねーな。
ちょっと頭が悪くなってきたときに数学をやり、
かなり頭が悪くなってきたときに文学をやった。
きょうもまた、書くことないのにほかしげに軽いり、あえかも文うみ書きまってて、 のまってた。だーたい用もないのにあれこれよりにいるんの、明日もうね。 これじゃエネン後が思い知られるよね。
(1000年後の日本言葉で書いてみました。願わくばこの言語がかの年後にも存在せうることを…)
つーかこんなこと書いてる場合じゃねえよ。
タンカレーとは牛タン入りのカレーのことです。そういうオヤギャグは厳禁です。
実家から下伊那のほうへ行ったときに撮ったという写真が送られてきた。
これを見て「あー日本に帰りてえ」とか思っても誰もオレをとがめられやしない。はあ? 何だって?第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、 私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が 戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、 私たちは身を以て体験し痛感した。日本がアメリ化してるいま、これを見ても単にシラケルダケですね。
そういえば、オレ自身はセンセイなどと呼ばれるのは死んでも御免の助だが、 うちの母はド田舎の某小学校で sort of 図書館司書 (つっても実際には資格もなんももってない 「ただのおばさん」なんだから、こう呼ぶとモノホンの司書やセンセイに悪いような気がする) をしているので、 いちおう「しんやまセンセー」とよばれてるらしい。 しかし話を聞くと実際やってることはほぼガキのおもりって感じなので、 「図書館のおばさん」ぐらいが名実ともにあってると思うんだけど、 きょうび学校に勤務する人間はなんでも「センセイ」付けで呼ばなきゃいけないんだとさ (ところでいま「用務員のおじさん」という呼称を使うと差別的発言とみなされるらしいよ、アホか)。 ちなみに本人はその仕事をけっこう気にいってるらしく、 最初は「ただの事務って聞いてたのになんでアタシが読み聞かせやら おたよりの製作やらをやんなきゃいけないのよ」とかいってたのに、 もともとそういうのは結構好きそうなタイプだったので、 いまじゃガキども全員の名前も覚えて (なにしろ小さい学校なので) 各人の読書傾向を「この子はこう、この子はこう」とべらべら語りたがるしまつ。 手におえねー。うちの父は毎日そんなものばかり聞かされてるのだろうか…。 ちなみにその副作用のせいか、さいきんの母の口から出るのは児童書業界の話ばっかりになっていた。
ところで英語の librarian という単語はなんか libertarian とか barbarian を連想させる語感で、 あまりよろしくない。"-ian" で終わるのがよくないっすよ。 archivist だったらカッコよかったんだけどな。意味違うか。
ところで新山はガキのころ親にかなり朗読してもらった記憶があるのだが、 親の読み聞かせ率と本好きになる確率の間にはやっぱ相関があるのだろうか?
あまり親ネタを書きすぎると群ようこみたいなのでやめる。
なんかきょうは起きたら左手の親指のつけ根がいたい。 多少腫れているらしく熱ももっている。 きのうからすこし痛かったのだが、今日になったら悪化した。 なんだろう。つき指とかしたっけ? 記憶にないんだが…。
一日おきにレディースの服 (まちがって買った) とそうでない服をとっかえひっかえ着ていると、 みょうな感覚をおぼえる。ボタンが左側と右側でちがうので、 なんだか右脳と左脳が交互に鍛えられる感じだ。
わけのわからないことを目前にして、 とくにわかろうと努力するでもなく、ただぼんやりと眺める。 そういう余裕 (というか「なんにも考えなさ」) が世の中には必要だ。
世の中だって?
やばいっっ。新山はふだんこんな間合いで喋る男ではない。 きのうから言語生成モジュールのエンコーダが「小説モード」になっていることが確実だっ。 といっても新山は小説なんか書きませんが。 デコーダを指定すると自動的にエンコーダまで影響されてしまうという腐り仕様ぶり。 これはダメです。
そのご 4線に乗って、一気に East Village までくだる。 車内にはボンゴコンガを装備した「パーカッション3人組」が乗っていた。 けっこううまいので余っていた小銭を適当に寄付。 ああいうのってよく息あうよなあ。ジャズでもそうだけど、 パーカッションだけだと余計むずかしい気がする。
いや、だがこういうことでヘタにストレスふやすのはつまらんし、 どうでもいいことでハラをたてたり悩んでる暇があったら もっと時間を他のこと (マクラによだれをたらして遊ぶとか) ができるだろう。
こういう夜をあとでなつかしく思い出すだろうと思った。
きょうはおかしな体験をした。 なんとなくタイトルだけで手にとった「ホテル・カクタス」なのだけど、 立ち読みしてるうちに頭のなかにぼーっと『あるイメージ』が展開されてきたのだが、 それがどうも以前に生成された画像と一致するのだ。 その文章の言葉そのものはぜんぜん覚えてないのに、 その景色だけは見覚えがあるのである。 もちろんそれは想像上の場所で、実際にはそんな所は存在しないことは知っているのだが…。
「なんかこれ、一度読んだことあるみたいだなあ」と考えているうちにふと思いだした。 2年ほど前、まだ日本にいたころ、NHK-FM の「ミッドナイト・ポップライブラリー」という番組で これは一度朗読されたことがあるはずだ。たしか「ホテル・カクタス」という名前だったような気がする。 あの番組かなり好きだったんだけど、まだ続いてんのかなあ。 たしかこの回は著者の江國香織自身が朗読してたような気がするが (違ったかもしれない)、 その朗読がよっぽど上手だったのか、それとも「帽子ときゅうりと数字の2」というキャラクターが よほど鮮烈だったのか (たぶんこっちが本当)、 一度聴いただけなのにイメージがはっきり頭の中に残っていたのであった。 この本、いちおう挿絵がついているのだが、それとはだいぶちがう。 新山の中のホテルカクタスはもっと薄暗く、こんなふうな白い壁ではない。
ま、それはいいとして、興味ぶかいと思ったのは、自分のなかでは ストーリーがほぼ「画像」として符号化されているということであった。 そして、新山の場合は同じテキストから想起される (生成される) 画像は つねに一意に定まるらしいということである。これはおもしろいな。 つまり自分の中では現実 (あるいは架空) の事象に対してある程度 確立されたコード体系が存在しているらしい。 だからテキストそのものを覚えていなくても画像を覚えていれば同一性の判定はできるということだよ。
しかししかしこれが他の人にとっても同一であるのかどうかは定かではない。 あと、実際の本を読んでみるとなんか自分の想像よりも江國香織の文章のほうが安っぽいことに気づく。 月日のたつうちに適当に記憶が加工されて、より自分のイメージに合うように“正規化”されてきたのだろうか。
どうでもいいけどこっちへきてから日本語の本を買うときはかなり 真剣に選ぶようになった。です。だってすげー高いんだもの。 まるで親にファミコンソフトを買ってもらうときの子供のような心境。 ちなみに、何を買ったのかは秘密です。
あ、もちろん、それは「友情」などというクサい言葉で呼ぶにはあまりにもアホらしき関係であった。 このこともいつか記録しておかねばなるまい。
耳年寄り
着年寄り
グャグ年寄り
おもうに、人は「わざわざ自分のところにナニカが配達されてくる」という感覚がうれしいのだろうか。 むかし KidPix にあった「○○さん専用」機能みたいなもんだな。 あとは、メルマガとか ML に入ってるといかにも「自分は情報収集に積極的です」ってな 感覚に酔うことができて、うれしいのかもしれない (いま流行ってるアンテナとかにも 「いち早く情報に追いつかないとダメ人間だと思われるぞ!」という、一種の脅迫観念を感じる。 まあ特定の分野ではそういうことはあるかもしれないが)。 自分にもひところそういう磁気がありました。 しかしいまじゃ基本的に自分は (義務で入ってるのをのぞき) ほとんど ML には入らない人間になったので、 いつもメールはほぼ個人宛てのものしかこない (どうでもいいが、さいきん sf.net 経由と openbsd 経由の spam がやたらと多い)。 そのためメールボックスはつねに閑散としている。
そういえばむかし「プッシュ技術」てのがやたら流行ってたときがありましたね…。 PointCast とか、一時期みんなやってたし。でも、見事に消えてやんの。けけけけ。 オモロイ。某M山先生とかも最初のころそれを研究してるとか書いてあったが、 PointCast は今どうなってんのかな〜と思ったら、売られてた。ひゃは! ついでに こんな記事 も 発見。しかし wired ってオマエら自分で「オレたちは煽り屋です」って認めてんのな。 この辺はなんつうか東スポ的ないさぎよさが見受けられてよいよ。
そういやー「いち早く情報に追いついているダメ人間」ってのも沢山いるでよ。
いや、べつに誰も身内が死んだわけではありません。ただそういうことを考えたのです。
自分の中に飼っているあまのじゃく。
こいつはつねに世の中に背を向けてる。新山のことも、決して好きになってはくれない。
けれどオレは意外とこいつのことが好きだったりするんだよ。
さっき死について考えたのは、 病気で死んだ人たち・自殺した人たちが直前まで書いていた webページを見ていたからである。 もし自分がいきなり死んだら、このサイト tabesugi.net は跡形もなく消えうせるだろう。 そしてあとは何か月間かのあいだ whois に住所が残るのみとなる。 そういう意味では自宅サーバって脆いよな、やはり別のサイトにしたほうが…って、 しかし、死んでまで自分の何がしかをネット上に残したいと思うかどうかが問題だよ。 それは、ここから始まるのだろうか。(←意味不明。新山はときどきこういう言葉をのこす。 だから何考えてんだかわかんないヤツと思われることが多いのだろうきっと。)
はっきりしない考え。 そういえば「ノーライフキング」では、すべての行動はキーを「打つ」という“打鍵操作”のみによって 表現されていた。現在、状況はあの頃からすると信じられないくらい複雑かつ 不健全になっている。いとうせいこうが表現したリアルは、もはやかなりオモチャっぽい。 いまでは Semantic Web なんかにも死者のためのカテゴリができつつあるというのに (←ウソですよ)。 ある人の人格は他者との関係において存在するという比喩を拡張するとすれば、 web ページはリンクこそが重要だということになるのだろうか? これは危険な概念の拡張だ。 抽象的なものに意味を見出しすぎる傾向のある人は用心することにしている。 「言語はドラッグのようなものだ」ということを指摘した点で、バロウズは正しい。 しかしそれを言語によっておこなっている点で、すでに世界は何もかもがまちがいだ。
言葉を捨てる、というのは、ある意味「禅的」なんだろうか? 西洋文化が言語に頼りすぎているというのはあると思う。… つまり、構文が正しくても意味不明な文書うとか、でもそこらへんで いくらカットアップしてみたところで絵や葉っぱをはりつけてみたところで 記号には変わりないし、本などというフレームがあるかぎりなにもかも。いや。 そうすると話はだんだんワケのわからない方向に向かいつつアルヨ。
まあつまり結論は、「もう寝ろ」と。 歯でもみがいてろと。 そして、「あぁ、しぁわせ」とか言ってればいいんだ、ひとりで。 ない脳みそを無理してひっかかない。
たいていの後悔は高階だが、公開の航海はほとんど人間関係に関する黄海馬鹿り (うましかり)。
てゆうか先生ひどいです。
風ふけば沖つ白波竜田山
ところで「竜田神社」と「龍田神社」はどちらが正しいんでしょうか? web を見ても 2種類の表記がある。たつたageとも関係があるのだらうか。
そういえばこのまえセキネさんとした会話:
「おざなりってどういう意味だっけ?」
「ordinary. (英語と語感が似てるから覚えているのだ)」
と思ってみたが、かりに鏡の国にきたとして、もしもタンパク質が左右鏡像になってたら 猛毒のため生きてはおれないだろうと思うので問題はない (何が?)。 世の中そううまくはいかないのである。 それにしても「自然界における右と左」は名著だと思う。なにより目のつけどころがいい。 たいていの科学啓蒙書と呼ばれるものが特定の分野だけを掘り下げているのに対して、 この本は 「なぜ人間はほとんど左右対象なのに心臓はつねに左側にあるのか? (ごくまれに右側にある人もいるんだと! ビックリ!)」 などなど、「右と左」というテーマをもとにいろんな分野の話をクロスカットしてる。 これってまさにマーティン・ガードナーじゃないと書けない本だよなあ。 なぜあれくらいの教養人が日本にはいないのか? 上流階級と同じようにどこかに隠れているのでしょうか? 隠れなくていいから出てオイデ、と言いたい。
ところで訂正。自然言語とプログラミング言語の類似性を指摘したのは Iverson だった。Baccus はたんにチューリング賞の講演でそれを引用しただけだ。
けっきょくそれは、ぼくのせいですから…
いまはキチガイ的じゃなくなってるのでかなりヒトの標準的な精神状態に近いのかもしれない。 もしかしてほかの人はいつもこんなふうに世界を見ているのだろうか。 とくに面白くもなく、かといってつまらなくもない、つまりそれはどちらかといえばつまらない、そんな状態。 “他人の気分になってみる”というワザは、自分が自分として生きているかぎり永久に不可能であるのだけど、 まあそういうふうに思いこんで酔っぱらうことはできらーな。ヨッパ! ヨッパ! ヨッパら!
なんだかんだいってもまだ一年目なんだから、あまり無理をいうのはよくないことは わかっているのだが、何年か後に自分の信念がどのように歪み捻じ曲げ位相変換されるのかが ミモノであるので、とりあえずここに書きつけておこう:
さいきん思ったのは、自分は基本的に「腕だめし」気分なのだということだ。 というのは、Ph.D という肩書きをとること自体はよく考えてみたら どうでもいいんだよな。もちろん、 この目的 (=phdとる) は大義名分としては役に立つだろう。 海外留学して Ph.D 取りました、といえば聞こえはいいし。 でも、結局そんだけのもんじゃん。そんなことより新山が気になっている (た) のは、 「自分はしょせん、井の中の蛙であるのか? だとしたらどれだけ井の中の蛙であるのか?」 ということだ。結論からいうと、結構、井の中の蛙だったと思う。 でもまだなんともいえないな。
なんにせよ、自分にとって Ph.D をとることは 一種の身体を張った“実験”のように思える。ある程度たがやされた土地があって、 一定の時間とタネを与えられて、それで何かできるかどうか。 ゲームといってもいいのかもしれない。 しかし、なにかとくにそれで実利的なご利益があるのかといわれれば、疑問だ。 アカデミックな方面の仕事につきたければ Ph.D という肩書きはたしかに有利なんかもしれないが、 自分がそっち方面に興味あるかというと、わからない。 じつはこの点については自分はいったりきたりしている。
基本的に、いまの現状をみる限り、日本でアカデミックな仕事につくのはただの言い訳でしかないと思う。 風習的になにもかも遅れているし…なぜわざわざハンデのあるところへ行くのか、ということになる。 だからそっち方面の仕事へ行くんならアメリカに残ったほうが断然いいだろう。 だが、自分は日本に住むのがスキなのだ。 そしていまの自分にとっては、そっち(=日本に住むこと)のほうがずっと大事なことのように思える。 心中のこともあるし。 だとするとだね…わざわざ敗北的な仕事につくために苦労していると考えるのは かなしいので、だったら肩書きなんか大して意味をなさない仕事につきたいよな。
しかしそれはいま自分のやっていることが無駄だというわけではないと思う。 技術者を目指すにせよ研究者を目指すにせよ、どのみち ずっと勉強は続けなければならないのだ。肩書きが重要な人の場合は、 Ph.D をとったらもう勉強はオワリなのかもしれないが、自分にとって Ph.D というのは てきとうに区切りのいいところで与えられるマイルストーンにすぎない。 目的は qualify することであって、肩書きはそれについてくるオマケ程度の位置付けなのだと思う。 …というのが理想なんだけどな。ダメだろうか。
けどねー、モンダイは、なんにせよいい都市してこんないいカゲンな人生計画でいいノカ、ということじゃなからうか。 これじゃ、まるでちゃらんぽらんじゃないか。それでもだれかまわりの人が「焦んなくていいよ」といってくれれば まだいいのだが、まわりをみると誰もが「お前、焦れよ」といってるように聞こえる。 パラノイヤ、パラノイア。
a, ちなみに新山はキーボードの Scroll Lock キーと同じくらいにモテませんのでご心配には及びません。
大学は学究の場であり、世間とは切り離されているべきだって?
寝言をいうなと思う。
いや、しかしこれはある意味では正しいのかもしれない。
ただその「切り離し」をカン違いしてる人が多いだけなのだ、かの国は。きっと。
なんできょうはこんなにキツいのだろう。
というか、ほっとした。自分の感覚は一貫しているんだと知って。
しかしなぜオレは同じ単語をまったく違う意味あいで使うのか?
“わくわくさせるためさね。”
→| |←
“毎月29日は肉の日です。”
たもうきょ
うはつかれ
た
ねuske
お帰り、Owen.
で、なんかてきとうなドメインのデータに応用してみろということなんで、 新山が例題としてやってみたのはジャバウォッキー! こういうキチガイじみたくだらねい実験になるとオレは異様に手が早いのだった…。 まず Jet の約 30,000語の辞書をとってきて、てきとーに先頭3文字と末尾3文字、 および単語の長さを切りだし、それらをたよりに C4.5 で品詞カテゴリとの相関を学習させる。 できた classifier を JABBERWOCKY の 未知語 21個に適用して名詞か、動詞か、形容詞か副詞かを当てさせる (でもこれ、本当に辞書にのってないかどうか調べてねえや)。 その結果でありますが、こんなんでした:
brillig noun slithy adj gyre noun gimble adj wabe noun mimsy adj borogoves noun mome adj raths noun outgrabe noun frumious adj manxome adj foe noun awhile adj uffish adj tulgey noun burbled adj galumphing adj slain noun beamish adj frabjous adj chortle noun
どうでしょうかこれは…? なんとなく大体あってるような気はするけど、ネイティブではないので自信はもてん…。 しかも "raths" って複数形っぽいがなあ…。
しかしまだまだ新山のノドモトは終わらない。つぎの予定:
やっぱり、ノドモトな状態のほうが真価が発揮できるような気がするが… これは発揮ではなくて、揮発してるだけなのか?? (いま発見した、この熟語が 2文字の入れ換えだけであることを)