((脂肪酸)) → アルキル博士!
それについて理解されなくてもそれほど問題はない (少なくとも、いまのところは)。 だが、ときどき自分の直感があまりに論理的に飛躍してるので、不安に思うことはある。
生理的な「気持ち悪さ」はどこからくるの?
これをもうすこし丁寧に説明できればオレも物書きになれるのだが…
(べつになる必要はないのだ)
自分の直感がどれくらい正しいのか? ということについて。
はっきりいってしまえば、つねに正しい。 自分の直感に反することをやってしまうと、かならず後悔する結果になる。 もっともそれが世間的一般的にみて正しいかというとそんなことは全然なく、 ただ「自分的に一番いい結果」を出すだけなのだが、それで十分役にたつ。 でも理屈や感情にジャマされて、直感に反することをしてしまう場合はいっぱいある。 それではダメなんだろうな…。つまり、経験的にいうと直感はすべてに優先すべき 要素であるにもかかわらず、いまひとつ自分の中ではそれに対する絶対の信頼が おけてないというか。
ちなみに、手袋をしてるくせにポケットに手をつっこむのは敗北だと思う。
"AWT" を「嘔吐」と読むのはオレだけだろうか??
なんでみんな。"AWK" は「オーク」と読むのに。
きょうはジャビー (java のこと) に費やされた一日だった。
カッキー (かきつばたのこと、もはや自分の中でどんどん名称が変化) はどうなったの??
ところでカッキーを進めなければ。
カ、力ッキーを… (朦朧)
いや、そもそも問題は、いつまでも同じ「名前」なんてものがあるのがいけないのだ! だから人と名前の対応関係が固定されて検索されてしまうのだ! だからこれからの人類は 1ヵ月ごとに名前をまったく別のものに変えて、 姿形も変えるべきなのだ!
…そういう人生もそれはそれでおもろそうだな。
System.out.println
を使うのはめんどくさいので、
次のようなクラスを作って使っている。これなかなか便利:
class prin { static final public prin t = new prin(); public prin f(Object s) { System.out.print(s); } public prin f(int x) { System.out.print(x); } ... } ... { prin.t.f("fuge!").f(10).f("\n"); }
このポスターまだあるのかなあ。この場面はダウンタウンだと思うんだけど。
どうでもいいけど、カダフィって歴史上の人物かと思っていたら、まだ生きてたんだ??
なぜか高そうなカードが 2枚ほど余ったのだが。。。
今宵は計算機科学の目的とでもいうものについて考えていた。
というか、そもそも純粋な「計算機科学」という独立した学問がほんとにあるかどうか知らぬし、 おまけに自然言語処理なんぞは「純粋な計算機科学 (たとえあるとして)」からは 大きくかけ離れているんで自分にはさっぱりピンとこないのだが、 おそらく理想的には、計算機科学というのは「複雑さを扱う学問」といっていいだろうと思う。 複雑さといっても、複雑系とかああいう自然界の複雑さではなくて、この場合は 「人間がデッチ上げた、構造をもった複雑さ」とでもいうものね。それの管理と分析。 たいていの CS の分野はこの範疇にあてはまる。 ソフトウエア工学しかり、OS やネットワークしかり。セキュリティもそうだ。 基本的なゴールは「複雑なものをなるべく単純に扱えるようにする」といったもので あるべきだと、個人的には思う。そして複雑すぎるものは「ムリです」とはっきり言えること。 これをやるためには複雑さとリスクの関係を定量的になにかいう必要があるが、 これはとてもむずかしく、こんなのはほとんど研究されていない。 いまだに「プログラム 1個の複雑さ」だって定量的には何も言えないに等しいんだから… (コルモゴロフ複雑性は定義のためにしか使えないし)。
でも、将来的には、「複雑さの測定」こそが重要なテーマなんじゃないかと思う。 たぶん人間はこの先 1000年ぐらいたってもあまり今より賢くならなそうなので、 「人間を改造します」とかアホなこと言いださないかぎりは、人類が扱えるシステムの 複雑さには上限があるような気がする。つまり科学というのは、 その限られた複雑さの中でしか発展できないんじゃないか? さいきん考えたのだが、ひと昔前に言われたような未来技術、 つまり核融合とか大規模な宇宙開発とかいうものは、じつはほとんどムリなんじゃないかと思うようになった。 たしかにミクロな点、つまりレーザー技術とか素材とか半導体とかにのみ注目すればそれらは 「原理的には可能」といえるわけだが、マクロな視点で考えれば実際にはそんな複雑なもの、 誰も全体像を把握できないし、コントロールもできないわけで、 そろそろこの「原理的に可能」ってやつも考えなおさなきゃいけないんじゃないかと思う。 それをやってるのが人間であるかぎり、実は多くの大規模技術は「原理的に不可能」なんじゃないか。 なぜなら人間はバカだから。
もちろんそれを定量的に言うにはちゃんとした研究が必要になるのだけど、 将来的に人間は「頭が悪いなりに」うまくやっていくすべを身につけなければいけないような気がする。 で、そのためには複雑なことをなるべくシンプルに (まあ悪くいえば安直なやり方で) 解決する技術が必要になる。計算機科学が将来的に追求すんのは、 こういう方面ではないかと思う。 てゆうか、それをやんなかったらマジで世の中バグで潰されるぜ。
電波ってる?
un.
しかし不幸なことに、現在ではそれをやるはずのコンピュータオタクという人々が、 世の中をわざわざ複雑にして喜んでいる。これをどうする?
$ /bin/ls -ld /home/yusuke drwxr-xr-x 1 yusuke proteus 4095 Sep 13 1752 /home/yusuke
まあ、ついでに:
漬 物 っ て な ん だ ?と い う 疑 問 に 我 々 取 材 班は
ドタドタな地獄。
基本的に、新山は知人の名前を Google 検索するということもやらないし、 直接知っている人のホームページというものをめったに見ない。 もしかすると意図して見ないようにしてるのかもしれない。 身の周りにいる人のページで一番よく見ているのは、ぺるりん先生のページぐらいだが、 これも彼のページが資料としておもろいからであって、彼自身に興味があるわけではない。 基本的に、www 上にある個人的な記録というのは「(物理的、心理的に) 離れてるから」おもしろいんであって、 身近な (あるいは、かつて身近だった) 人間がいまオンラインでなに書いてるかなんて読みたくもない。 というか、そういうのを見て喜ぶ人に対しては、はっきりと「気持ち悪い奴」という感覚をいだく。なぜだろう?
…いまシャワーをあびながら考えていたのだけど、いちばん嫌なのは 「現実世界で見えないものをオンラインで見ようとする」というベトベトした貪欲さである。 ま、もちろん現実世界で見れないものがあるからわざわざ web なんかを使うのだが、 そういう話じゃない。まあとにかく、人々は互いに隔絶されているとしかいいようがないね…。
歳をとるにつれて自分の過去を全否定するのは難しくなる、ものと思う。 それでも幸か不幸か、新山はまだ過去を全否定できるらしい。 しかしこの歳でそんなことをしても分別ないアホと思われるだけだ。 だから普段はそんなそぶりは見せないにかぎる。…
ところで (てくるで)、この週末にこそ「かきつばティー」を完成させること!
ひさしぶり (ひさびすり) に、Google で「たべすぎ」を検索してみたら、 いつのまにか大量の「たべすぎ」ライバル共にやられておった。 残念タリ。
眠れないので、起きて挨拶カードを書いていた。 まだ全員のぶんを書いてないけど、今年はすこし遅れてしまったな。 毎年、この時期になると「こいつの住所どこだっけ?」ということで、 年に一度しか使わない住所データベース (その実体はただのテキストファイル) を ひっぱり出したり古い紙きれをひっぱり出したりするのだが…。
どうでもいいけど、あの「環っか」はもみの木じゃなくてじつはヤドリギ (mistletoe) でした。
季節のご挨拶 (Season's Greetings)。を、もうしあげます。
皆様お元気で賞か。
(漢字をたくさん使うと堅苦しくなる感じを狙ってみました)
こういう気分のときは、またどうしようもないこと (オレは一体何のために学生やってるのか等) を考えてしまいだすので、よくない。 はて? 「考えてしまいだす」って変だな。「考えだしてしまう」だな、ふつうは。 日本語ってむずかしい:
つまり IPA 辞書における 動詞-非自立は後にもってこい、と。うん? それとも時制?
いかんいかん、オレはこんなことを考えてたんじゃなかったんだ。 いつもかような実際の問題 (?) を言語の問題にすり替えてしまうのは オレの悪いくせである。で、なんだっけ…。 ああそうだ、オレは一体なんのために学生やってるのか等…。
(沈鬱)
そろそろ ヤトコ なのであるが…
つまり言いたいことを一言でいうと「ひとりでできるもん!」だ。
それにしても今日みたいな風ビューュビーなときに長ネギをかかえて歩くのは苦痛だ。 ときどき、こいつの袋に入らないデカさにムカつくことがある。だから何? って感じだが。
Linux (RedHat) の話。
問. インストールしてからいままでに変更した設定ファイルを ぜんぶ 列挙するにはどうするのか?
答. 最近 ML でおしえてもらったのだが、 rpm の verify 機能を使うといいらしい。
verify を使うと、インストールした rpm の内容と実際のファイルシステムに存在するファイルの差
(変更日時、owner、group、ファイルの内容 md5 など) を検出できるので、以下のようにすれば、
どのファイルが更新されているかという (おおまかな) 情報が得られる:
# rpm -Va S.5....T c /etc/openldap/ldap.conf S.5....T /usr/share/VFlib/2.25.6/vfontcap (snip)
で、RPM ではいちおう「何が設定ファイルか」といった情報を保持しているので
("c"
などのラベルで表される)、これを使えばどの設定ファイルが変更されたかがわかる。
しかしこれだと RPM が把握していないファイル (手でインストールしたやつ) は無視されるし、
RPM が関係していてもスクリプトによって作成されるファイル (/etc/sysconfig/ など) も検知できない。
なので、rpm のパッケージ情報をもとにファイルシステムをスキャンして
「RPM に載ってないファイル」一覧を生成するスクリプトをつくってみた:
#!/usr/bin/env perl # usage: # findnonrpm.prl /bin /sbin /etc /lib /usr open(IN, "rpm -qal |"); while(<IN>) { # obtain all files managed by rpm next if (!/^\//); chomp; do { $rpm{$_}=1; s/\/[^\/]*$//; } while($_); } close(IN); sub look($) { my ($base) = @_; if (opendir(DIR, "$base/")) { foreach my $f (readdir(DIR)) { next if ($f eq "." || $f eq ".."); my $p = $base."/".$f; my ($dummy,$dummy,$perm) = lstat($p); if (($perm & 0170000) == 0040000) { # if directory if (!$rpm{$p}) { print "$p/\n"; } else { look($p); } } else { if (!$rpm{$p}) { print "$p\n"; } } } closedir(DIR); } else { print STDERR "cannot read: $base: $!\n"; } } foreach my $d (@ARGV) { look($d); }
これを実行して rpm 以外のファイルを挙げさせ、そいつを ぜんぶ tar.gz でひとまとめにしたら 500MBytes ぐらいになった。 ほぼこれだけで CD 一枚分ではないか。 いろいろ沢山ヘンなのインストールしたからな:
(でも実際に得られたファイル一覧を見てみたら、 カーネルのソースや Java のパッケージがほどんどを占めていた)# findnonrpm.prl /bin /sbin /etc /lib /usr | xargs tar zcf nonrpmfiles.tar.gz # ls -l nonrpmfiles.tar.gz -rw-r--r-- 1 root root 489685803 Dec 19 02:00 nonrpmfiles.tar.gz
ところで、カーネル (VFS) のレベルで「更新された inode をぜんぶログしておく」という
アイデアはどうなんだろう。一日にどれくらいのファイルが更新されるか具体的に統計を
とったわけではないので知らないが、
数字と変更日時だけ記録しておけばいいんだからそんなに容量くわないはずだし、
毎晩 updatedb
があんなにガリガリやる必要もなくなる
(更新されたファイルだけ見ればいいのだから)。
具体的にはなにか /proc に特殊なパイプをつくっておいて、printk みたいな仕組みで
klogd みたいなデーモンがひたすら拾ってファイルに書けばいいような。
でもそのためにカーネルに手を入れるのはアホすぎるかなあ。
しかし、キチガイ的なファイルシステム (200GB のディスクで、ディレクトリ数が 1000万とか) を もっていると、updatedb なんかがやっている「ファイルシステム全スキャン」は ほとんど意味をなさないどころか、ただの害悪になる。 夜中にスキャンを始めたデーモンが、1日たってもまだスキャンしてるのだ。 ま、結局のところ、用途によるのだろうが…。UNIX を DB や Web 用のサーバとして使っている場合には、 ディレクトリ構造があまりバカスカ変わるということはないような気がするけど、 自然言語処理屋はいろんなテキストファイルをどさどさ生成/変更というのが多い。 こんなのは一般にはあまりないケースなのだろうか?
こういう UNIX 管理一般のテクニックというのは、 ケースバイケースだからということもあるけれど、あまり体系的に解説されていることが少ないように思う。 みんな「設定ファイルはこう書きます」のたぐいばかりで、インストールしたシステムをほんとに 何年間も運用したり、他のマシンに移行したりといった際の tips というのはほとんどみかけない。 そういう例がすくないのかな。 「更新した設定ファイルだけを、まるごと別のマシンに移す」なんてノウハウは管理するうえで 結構重要だと思うんだけど…。もちろんパッケージシステムだけを 100% 使っていれば 問題はないのだろうが、複数人で使っているシステムでそんなストイックな運用は現実的にムリだ。 第二法則はここでも健在で、とにかく installation のエントロピーは増大しつづけるのだ。 むずかしい問題さね。
ところで installation って日本語で何て訳すんだろうね? 「インストールしたシステム」とでもいうのが適切だろうか。
さいきん GoLive を使ってる人が多いんだな。という話
google://無題ドキュメント/ (約705,000件)
google://welcome to adobe golive/ (約597,000件)
漢字の送り仮名を激しく間違っている文章を検索する。
google://黄色ろい/ (きいろい、0件)
google://を語たる/ (〜をかたる、約19件)
google://行こなう/ (おこなう、約102件)
google://司さどる/ (つかさどる、約83件)
google://設定いする/ (せっていする、1件)
でも、かな漢字変換器を使ってるのに、なんで送り仮名をまちがえるんだろうね?
まだ覚えているのですね。
当然です。
ところで、指がクセになるということについて。
さいきん、TeX で「\newpage
」と打とうとして、
「newdate
」と打つようになってしまって困る。
それはオレの日記用コマンドだっての!
ちなみに、本体はこんな具合だ:
(defun memo () (interactive) (find-file "/memo/cur/cur.html")) (defun memo1 () (interactive) (call-process "date" nil t nil "+<h5><a href=\"#%d%H%M\" name=\"%d%H%M\">(%H:%M)</a></h5>")) (defun newdate () (interactive) (call-process "date" nil t nil "+<h4><a href=\"#%d\" name=\"%d\">%b %d [%a]</a></h4>\n<hr noshade size=\"2\">") (memo1))
(@-@) (@-@) (@-@)
NYLUG の忘年会に行ってきたのだが、 タダ酒で、タダ飯だった。 なぜかというと IBM と AMD がスポンサーだったからである (お前はわざとそんなのばかり狙ってるのか? というあなたの推測は正しい)。 それにしても 57st. にある IBM ビルには今回はじめて入ったが、どっひゃー! こんなトコ、 オレが入っていいのか? というような感じのビルヂングであった。 一階ホールはどかーんと 20メートルぐらいの吹抜けになっているし、 その上にはでかでかアメリカ国旗と、直径 3メートルぐらいのもみの木の環っか (なんていうんだ、あれ) が 飾ってあり、なんか「おじぞう様」みたいな像が置いてある (まあ、お地蔵様じゃないと思うけど)。 しかもトイレがめちゃ綺麗だし!! たぶんニューヨークで見たトイレの中では 一番キレイなのではないかと思う。つうか、これ、 布団敷いて寝れるんじゃないか? っつうくらいの清潔さだった。 まあそれはよしとして…。で、参加層は若者が多いのかと思ったら、 意外なことにオッサン・オバサンが多数を占めていた (若者は LUG なんかには参加しないんだろう)。 でもみんな OpenOffice の印刷品質やネットワークケーブルの相性 (!) について熱く語っているのである。 ちなみにオレのテーブルでは Perl がいかにパワフルかについて 熱く語るネットワーク屋のおっさんがいて、となりのテーブルのおばさんからは 「あなた日本人ですか?」と日本語で声をかけられるしまつ。ふげっっ。 よく聞いてみたらこの人は言語学者で、しかもじつは Ralph の奧さんの知り合いだった。 なんてこと…。ニューヨークって広いようでじつは狭いんだよね、と人はいう。ほんとうだ。
しかし、日本にいたら LUG に入ろうなんて考えもしなかったろうなあ。
「カマンベールとダランベールは似てるよね」
「おーい、山田君!」
「おいこらお前ずうとるびのファンか!??」
「なんだいきなり」
「聞いてるんだよおおうう!! (爆発しだす)」
それはよく晴れた日の秋の長雨であった。
撤収。あるいは雷ときどき夜明け
あるいは
じっさい新山も冗談でそういうときはある。 しかし、本心ではそんなこと少しも思っていない。 人生はつねにアワアワして (バブルっているという意味でない、 慌てふためいているという意味である) いなければ意味がないのであり、 もし働けなくなったらひどく落ち込むだろうし、 カネ払ってでも働かせてくれという気分になるだろう、きっと。
そうか, これが未来のビジネすというやつか!!
Hee! Hee!
きょうはだいぶあったかい。カゼは強いが。
Cooper Sq. にある郵便局。前に何度もいったはずなのに、 また道を忘れていた。11st にあるのだが、「Cooper Sq. より下だっけ?」と思って 4st とかそっちのほうまで探し歩いていた。おまけにあたりはもうまっくらだし、 なんでか知らんがどうも頭がクラクラする (いつもクラクラしてるようなものだが)。
帰りに自転車に乗った外人二人づれにひかれそうになったが
(こっちではみんなすごいスピードでとばしてくるため)、
「英会話を習いませんか?」とは聞かれなかった。
まあそんなとこ。
この時刻はいちばん頭が爆発してる時間なのに こんなアホなことを書いて爆発を消費していてはいけねい。
/etc/fstab
がない」とかいって
ハマリな状態になってさっそく Rescue disk を使うことに…。
でも、やっぱ Slackware いいよな。なによりシンプルだし。 ちゃんと使えるようにするまでには時間がかかるのだけど、それでも 今は locale まわりもとくにいじる必要がないし、追加で入れる必要があるのは less と kterm と各種フォントぐらいだ…。あとは Acrobat とブラウザ類か (でもこれは RedHat でも同じだから)。 それにしても Slackware のインストールって、なんか「古巣に帰ってきた」という感じがするな。 もう何十回と見たこのメッセージも、あいかわらずである:
Welcome to the Slackware Linux 9.1 bare.i bootdisk! If you need to pass extra parameters to the kernel, enter them at the prompt below after one of the valid configuration names: ramdisk (to load a rootdisk into memory and boot it), and mount (to boot an existing Linux partition). NOTE: Most hardware is auto-detected without parameters. So, before assuming your system requires parameters, try a few different bootdisks. :^)
O Domine Slackware。それ以外は邪道。
どうでもいいけど、「灯火」という字よりも「燈火」のほうが好きだ。 意味的な違いはよくわからないけど。もしかして、旧字体なのか? 「灯火」というと、なんか灯油で燃やしてる安っぽい感じがするのに対し、 こっちは実際に何かが暗いところで燃えている感じがする。 どっちかつうと「死者のための火」って感じ。
しかし、訓読みで「ともしび」と読むには「灯火」と書かなければいけないのだ。 この言葉は、いかにもやまと言葉っぽくて語感がスキなのだが、 どうも 某宗教団体 を思い出してしまってアレである。
ちなみに「ともす」には「火をつける」以外の意味があるらしい。
という流れになるような気がする。 あーでも中国語ではすでに縦書きはほぼ絶滅してるから、
つうわけで、縦書きの保護を!
さらに問題は、買うだけでも 30分以上かけてるのに、 買ったカード類を「こいつは誰に宛てる?」とか考え出すと終わらなくなってしまう。 出す相手は n人いるので、 ここには NP 困難な最適化問題とやらがあはあはははっははははhh
for t in ticks(): if random() < 0.1: r = (random()-0.5) * math.pi else: r = min(max(-math.pi/2, r+(random()-0.5)*0.1), +math.pi/2) self.headto(r)
google://ブシュ大統領/ (80件、、約)
N種類のカードとN人の知人がおります。
ああ、これやこの人生パズルなり。
Mutt だと、日本語でない文字の部分には「?」が入るため、 中国語の spam ってどうも楽しげに見えてしまう。Re: 信息反?? euske 好: 从网上?檠?到? ?司的?柿?我?鞘?大路网??
これには 2つの側面があるように思う。
ひとつは純粋にモラル的にみてこれでいいのか、ということであり、
もうひとつは自分の人生がこんなふうでオレは満足なのか、ということである。
思うに、新山のこのヒネクレぶりというのは、 自分がほんらいやるべきでないと後ろめたく思っていることを無理してやっているからではないのか。
もちろん、これは「楽しい」とは別の問題である。 コンピュータをいじっているのは純粋に楽しい。かもしれない。 でもその楽しさというのが何かこう、「地面に足がついてない楽しさ」なのだ。 不名誉な楽しさ、ということ?
これはたぶん自分が受けた教育というか、親からの影響もあると思う。 うちの親からはいつも、「食いもんを作ってる人が一番エラい」ということを聞かされてきた。 そのため、コンピュータなんかをいじっている連中は、そういう人々からすれば圧倒的に 「えらくない」、いや「えらくない」ってのはなんかおかしいな。 何といったらいいんだろう。「不自然である」といえばいいかもしれない。 あるいは「みにくい」というべきか。「無駄なあがきをしている」といってもいい (ほとんどの人はこれが無駄なあがきだなどとは思っていないのだけど)。
いつのまにか、技術というものが、素朴な生活を手助けするたぐいのものから、 「もっともっと」というキチガイ的な欲望の激流とでもいうようなものになっていて、
その変貌ぶりは日に日にひどくなっている。 自分はどこまでそれにつきあえばいいのか? しかしそれに乗るしか食っていく方法はないとしたら。
自分の中の悩みというのは、自分のやっていることがこれほど 根本的にはまちがっているということを知りながらも、 自分には「これ」しかできない、ということだ。 農業は計算機科学よりずっと楽しいと思うけれど、 それを「楽しい」と思うためには今の新山とは比べものにならないほどの 体力と根性が必要である。そんなものはもうどこにもないのだ。
まあこれは多くの社会人に共通する悩みだろうけど、 これもまた繰り返し。
よく思うのは、あるソフトウエアを書いたとして、 「ふむ、これでこういうことができるようになる… でも、だから何なんだ?」ということだ。 もちろん、それは何かの役に立つかもしれないし、 何の役にも立なくてもべつにそれはそれで問題ない。 しかしどちらにしても自分が「まわりくどいこと」あるいは 「結局はどうでもいいこと」をしている、という感覚が残る。 いや、オレは単純なヤツなので、そんなにまわりくどい思考には ついていけないのだ、純粋に。
ま、しかし、どのみちそんなこと考えたって無駄なんだから、 結局やりたいことやってキチガイ的に人生過ごしたほうがまし、 という考え方はそれでいいと思う。 問題なのは、ときどきこうして我に帰るということだ。 2つの状態の間をいったりきたり。
さて、吹雪の中でも行って狂ってくるか。 ここが南極であると思い込むことにしよう。 そうすれば吹雪の中へ出ていくことはもう帰ってこないことを意味する。
ところで (てくるで)、抗うつ薬 Zoloft の CM に出てくる コイツ (リロードするたびにアニメーシォンが変わります) がすげー好きなんだけど…。 本当の CM ではもっと沢山出てきて、絵ももう少しかわいいのな。 そんでこいつらが悲しげにノコノコ歩く。そんでニヤっっ。ワーー wwwwww (勝手に妄想中)
なお、新山は抗うつ薬を使ったことはありません。
く ぷ き ぽ
こういうときに話相手がいるといいのになあ。友達がいないってつらいね。
…なんか新山の場合は、駅 (日本の駅とは限らない) が出てくる夢がやけに多いような気がする。 それも小さな駅でなくて、たいていはドデカい複雑な駅で 迷う、といったストーリーが多い。 そんで別の汽車に乗って「しまった!」と思うのであるが、乗っているときの記憶はあまりなく、 いつのまにか目的地に自動的についていたりする。まっったくわからぬ。なぜだ
金がかかんないのはソフター (柔軟剤) だけ!!
明日からまた冬がくるらしい。いやですナー−-。 それではまた一日ヒキコモラーにならねばなるまいのではないかと心配しきりづる。 日本語変。だけれども吹雪の中を village のカード屋まで行こうか。 そもそも、毎年いきあたりばったりで買うので、何枚必要かとかあまり計算してない。 しかもカードを選ぶのは時間がかかる。文面を考えるのはもっと時間がかかる。 この日記のようにアホなことばかり書いていられればそれでいいのだが、 そういうわけにもいかぬ状況というものがありまし。 てでも毎年ほとんど反応のこない相手というのが半分ぐらいいるので、 そいつらはほんとに生きてんのか? 死人にカードを出すのは反則技であるが、 まあそういう人生もまたいいかもしれん。存在しない人物にあてた郵便というのは どう処理されるんだろう? (当然、返ってきますよ。)
neneneneeneneneneneneneneneeeeenenenenene
<fonta size="-1"
(嗚咽)</fon>t
.
うーむ、うーむ。
てくるで (ところで)、クリスマスソングって全部同じに聞こえるのですがこれはオレが阿呆なためで賞か??
(とくに Winter Wonderland と Let it Snow は似ている)