欺瞞だ! ここには欺瞞がある欺瞞発見。
はて、この場合「許す」とはどういうことか?? 「ゆるしのコピーライト」をもっているのは神様だけだ! ところでこれって一瞬「ゆすりのコピーライト」と読めちゃう、よね。 またこれが似ている言葉はおなじよなものだ! つまるところ、 世の中のすべての言語はおなじだ!! aaaaaaaaaaaaaaaa... = a*
ただ書いてみたのです。
ところで (てるくで) 思ったのだが、オレは日本にいたときは 日本語の語感や文字の形にこんなにこだわる人間だったっけか。 この傾向は日本語がメジャー言語じゃないところへ来てからのような気がする。 これはオレのあまのじゃくな性質によるものなんだろうか? よりにもよって周囲の誰も理解してくれないところでそのよさに気づくとは!!
てくるで (ところで) 最近、大瀧詠一 (人名) の「大瀧詠一 (アルバム名)」を入手した。
こんなんどうやって NE で区別すんだよ!!
新山がいちばん好きなのはこの頃の大瀧詠一で、それ以降はたいして好きではない。
まあそれはいいとして、「大滝詠一」というのは誤字ではなくて、 大瀧詠一のペンネームで、この 2つは区別されるべきだということを今まで知らなかった。 そんなこと、どうでもいいんだけど。
これはまだふつうに売っているからまだいいのだが、 細野晴臣は「はらいそ」がいちばん好きなのにこれは廃盤なのだ。ちくしょう。
jai.st
とか nai.st
とゆードメイン名は
すでに誰かが取ってるが tite.ch
はまだない (べつに欲しいわけじゃないので念のため)。
たしかに .ch
ドメインは高そうだ。
そもそも、.ch ってスイス在住じゃなくても取れるんだろうか?
ところで (てくるで)、 ミヤノさんの日記からリンクされてた「ぱどチュー」についての考察がたしかに笑えたのだが、 ああいうガキどもを異常だと言うのはむずかしい。新山にとっては、ブログロをやってる人々も あそこで観察の対象となっている小中学生となんら変わらないように思える。 小学生に小学生のプロトコルがあるならば、年寄りには年寄りのプロトコルがあるのである。 そういえばブログロって盆栽を見せあってるのとあんまり変わらないもんな。
「ネット上でいい人を演じる」のは、「実世界でいい人を演じる」よりもはるかに簡単であると思うので、 きちんと計算して狙っていけば、架空の (自分のポリシーとはぜんぜん違う) 人格でブログロ界の 名士となるのなんかワケないことだろう (すくなくとも日本ではそう見える。海外ではまた違うかもしれない)。 もちろん文章力とかそのへんの基礎体力は必要だろうが、基本的に「ネカマ道」の上級編みたいなもんだと思う。 以下に新山の考える「ブログロ界で人気者になるならこれを実践しろ!」HOWTO を示す :
あれま。いーかげんに書きはじめたのにこんなに思いついちゃったよ。オレって才能あるかもね。 しかしこう書きだしてみると、まったく変な人々だ。
で、新山は上にあげたようなことが大キライなので、そのほとんどすべてがあてはまらない。 そもそもそうしたページはほとんど読まないし (にもかかわらず、検索するとしょっちゅうそんなページばかりぶちあたるのは何故だ? SPAM 並にタチが悪いよ)、 人の意見をまったくきかずに自分の書きたい内容だけをここに書きつける。 人をだますつもりはないが、人に信じてもらうつもりもない。 ましてや人に読んでもらうつもりなど!!!
いや、実際、娯楽として見るなら敗北だし、時間の無駄を後悔するだけだし、実用性でいうなら… おい、そもそも実益をアテにして他人の web 日記を読むような人間などいるのか?? そんなんのは新打法がマシです。 しかしそういうのが多いから動的ブックマークみたいな“日記”が人気出るのかな。よくわかんない。
これはこれはこれは!!
で、さっき、日本のブログロ界で有名になるのは簡単そうだと書いたが、 じつは同じことは日本の「オープンソース界」にも言えてしまうのであった。 すくなくとも今の状況を見ていると、ちょっとくだらないコードを書けばすぐに その道の有名人きどりができてしまうように見える。 メジャーなツールなんか書こうもんなら神様扱い。 基本的に人が少ないせいだろうけど、敷居が低くて天井も低いよ。 学生ぐらいが人気とりで始めるならブログロよりもこっちのほうがお得だと思うね。お解読品! …ブログロがどうなろうが知ったこっちゃないが、こっちはもうちょっとなんとかなんないのか。
きょう思いついた洞察: ブログロ == spam の web ページ版。
メールが spam だらけでフィルタなしではほとんど使いものにならなくなってきたように、 じきに web もどうでもいいブログロだらけで使いものにならなくなるのかな? すでにそうなりつつあるような気もするが…。すると、 web の検索はますます制限的・選択的にならざるを得ず、 知らずしらずのうちにわれわれは“検索”と“検閲”の区別がつけられない世界に住むことになるのだろう。 それは誰かの意図的な選択の結果なのか。わからん。
とやるよりも、import os, stat ... def isdir(fname): return stat.S_ISDIR(os.stat(fname)[stat.ST_MODE])
の方がいい。その理由:def isdir(fname): import os, stat return stat.S_ISDIR(os.stat(fname)[stat.ST_MODE])
ところで「計算時間が早い (この場合の“時間”は duration という意味であって time ではない)」
というのはやっぱりおかしいと思う。「速い」を使ってもおかしい。
「計算時間」は「長い」「短い」というべきだ。
「時間が早い」というと「時間」はかならず「時刻」の意味になる。
「時間が速い」とはいえない。速いのは動作や変化であって時間ではない。型エラー肩エラー
ところでなぜ日本語では early と fast にどちらも「はやい」という単語があてられたのか?
関係ないが、日本語では「まえ (前)」という単語に 時間的な“過去” と空間的な“前方”という意味の両方があてられているが、 時間的な“まえ” と空間的な“まえ”では ほんらい方向が逆のような気がする。自分が時間軸にそって進んでいるとすると、 時間的な“まえ”はすでに過ぎさったことなので、これは“うしろ”と呼ぶべきなのだ。 じっさい、日本の手話では時間的な“まえ”を表すときは手を肩のあたりから後へ振る (物理的には“うしろ”を表現している)。おもしろいことにこれは英語でも一致していて、 英語でも過去と前方をあらわすのにどちらも "before" が使えるのだ。 ところが日本語ではさらに徹底してて、時間的な “後(あと)”と空間的な“後(うしろ)”も時間軸の方向が逆転しているのが変。 しかしまてよ、「後」の場合は漢字が同じだけで、読みとしては違っているから、 やまとことばではこれらは区別されていたのかな? とすると、漢字をあてたときに、だれかが 「前」と「後」が意味的に完全に対称的になるようにわざと「うしろ」と「あと」に 両方「後」という字をあてたのだろうか? だとすると、そいつはなかなか賢いヤツだ。 というかそんなところで統一性を持たせるように日本語を設計しようとするとは油断のならないヤツである。 考えてみれば中国渡来の漢字に「訓読み」をあてるというのはものすごい発明で、 おそらく日本人が今後これ以上の発明をするのは (未来永劫) 不可能なんじゃないかというくらいすごい。 なにより「普及させた」ってとこがすごい。今じゃもう誰もそんなことできない (キチガイあつかいされるだけ)。 しかし漢字の訓読みはいったいいつから庶民のあいだに普及したんだろう? オレはいままでそういうこと全然気にしなかったなあ。江戸時代ぐらいからか? そもそも昔は識字率が低いだろうから漢字をたくさん使える人は少なかったと思うけど、 同じように漢字を輸入しても韓国語ではほとんど訓読みはしないらしいからな (そして今じゃ漢字さえ読めなくなって、あの情緒のかけらもないカクカクした文字で代用してるわけだ)。 中国人と話すと、かれらは漢字には一種類の発音しかないと信じているので、 訓読みの話をすると驚く。"so complicated!" って。 なんしろ、日本語じゃ 4個も 5個も読みがあるのがあるからね。まいったか。 「後」だけでも「ご」「こう」「あと」「うしろ」「しり」と 5通りはある。 地名や人名で使われるヘンな読み方まで入れるといったいいくつになるんだか想像つかない。
ところで、(てくるで、) 「情緒」がもともとは「じょうしょ」と読むもんだということを 新山はいま知ったが、関係ないけど、まえに「ニューヨークは情緒がまるでないから嫌い」とある人に 言ったことがあるが、よくよく考えてみりゃ情緒が「ある」という形容が使えるのは 日本のものだけのような気がする。 「異国情緒」は海外のものを形容する言葉として使えるけど、 異国じゃない素の「情緒」という形容がつかえるのは日本だけなのだ。 アジアやヨーロッパのほかの国々にはそれなりの雰囲気のある場所があるだろうが、 それは「情緒」という言葉で表されるものとはべつのような気がする いやはや、まったく情緒のない国には住みたくないですねえ。
と、情緒フアン低の新山がモウしております。。。
センスがあってやる気もある奴だ!!
で、それは誰? オレじゃない。オレじゃない。
ぬんてこったああぁ!!! 1
どんくらい
寝たいかって
ゆうとさ、
←←←←←← こんくらい!! →→→→→
クソっったれ。
えんぴりかるりすク (ふりすクの親戚)
新山は
日本語は
歯をみがきながら
しゃべれる
英語は
しゃべれない
Space Market でなつかしに「いかリング」をみつけた (レモンをつけて食うと非常にうまいことが判明) が、 そんなことで喜んでる場合じゃない! キーボードはどこだ!!
さっき帰ろうとしたら雨が激ふってて帰れなかったので、またぞろ戻ってくる。
しかし今日もまた何もわかっていない
では明日もかということか?
論理的にいえばそうだな。(理論的にいえば違う)
ぞんぞん違います。
おやすみ。
…もう元に戻ったのか?
そのあと帰ってきたら、navneet とその友達 2人がチキンカレーを作っていたので、 いただく。カラかったけどウマいよなあ。今日は非常にむし暑いのだが、 こういう時に辛いものを食うのはリフレッシュるのでいいと思う。
萩尾望都「11人いる!」とこれと先に読んだのはいったいどっちだったかもう忘れたが、 とにかくオレがそれを読んだのは 大学 1年か 2年のときだった。 当時世の中はすでに 95年だったので、いずれにしてもそれはえらく古典的なものだったことになる (いまではこの話は朝日ソノラマ刊「大島弓子選集 第1巻」に収録されている)。 とにかくこれは印象な強烈で、これを読んで (そして同時期に萩尾望都も読んで) から、 新山は少女漫画というものをまともに読むようになったのだ。 といっても積極的に買うほど好きというわけでもなかったので、 読める機会があれば読む、という程度の「まともさ」だったが。
で、それからしばらくたち、あるとき「あの話」がふたたび読みたくなった。 ところがオレはそのときにはもう、その話のストーリーも題名もほとんど忘れていたのである。 ただ覚えていたのはそれが大島弓子作だということと、「強烈な印象だった」ということだけ。 もともとこの話は人から借りたときに 1回しか読まなかったので、 この条件だけではちっとも絞りこめなかった。 周囲に少女漫画にメチャクチャ詳しい人でもいればわかったのかもしれないが、 そういう人は新山の周りにはおらず、最初に新山にその本を貸してくれた人とは 連絡がとれなくなっていた。それからというもの、新山は大島弓子の本を見かけるたびに 「これがアレかな?」と思い、古本屋で立ち読みしたり買ったりしてたのだが、 いっこうに見つからなかった。しかしこのあいだあるところで web を見ていたら、 「もしかしてこれでは…」という感覚があり、Amazon からわざわざ買ってみた (つってもそれ「だけ」のために注文したわけではないけど。 送料が高いのでいっぺんにいろいろ買ったほうがおトクなのよ)。 そしてようやく「これが、あれだった」ことをやっと発見した。 それがいま手元にあるのでその感想を書く。
まずびっくりしたのは、この話は「ほんとにこれが大島弓子か?」というくらい、 今の作風からは違ってるということだ。正直、こんなに違うとは思ってなかった。 絵もちがうし、雰囲気も全然ちがう。これまですでにいろんな大島作品を読んできて、 すでに「大島弓子っぽい雰囲気」というのがなんとなくわかっていると、 この違いにはショックを受ける。あの「のほーん」とした雰囲気がない。 あまりにも直球すぎるのだ。絵もなんか…たしかに 70年代って感じである (といってもこれが出た 70年にはオレはまだ生まれてないから知らないが)。 あまり好きな絵柄じゃないな。
しかし、この話がなんでそんなに印象に残ったのか、やっとわかった。 たしかに、純粋にストーリーがぶっとんでてショックを受けたというのはある。 それまでぜんぜん少女漫画というものを 読んだことがなくて、どーせあれはテキトーなフワフワした恋愛モノなんだろ、 と思っていたところに、いきなり中絶で生きるだの死ぬだのという話を読んでしまったのだから まあ多少はびっくりしても許されるだろうと思う。でも、もっと別の原因があった。 それはショックを受けたとか感動したとかではなく、もっと細かいところが問題だったのだ。 まずこの話はあまりにもテンションが高すぎて、頭クラクラする。もうすごいよこれは。 最初のシーンであさみが吐いてから、この漫画は 120% を軽く超える ブチキレ度で最後までずーーっとつっ走っているが、その定格出力を超えた電力のために、 読んでるとなんかだんだん頭がとろけてトリップしたような感じになってくるのだ。 そして、こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、この話は これほどシリアスな内容でありながら、笑える。 なんかオレは何かに憑依されてるんじゃないか? と思うほどだ。 単純に笑えるというよりも恐怖と歓喜がいりまじったマゾっぽい笑いというべきか。
なぜこのころの大島作品はこんなに高テンションなのか知らないけど (この話がダントツだが、ほかの初期の作品もだいたいテンションが高い)、 これが忘れられなくなっているのは、このテンションを保ちつつ、 なおかつ後の作品に見られる独特の「大島弓子っぽさ」が同時に組み合わさっているせいだと思う。 たとえば大島作品では、読者が「こらこらこらこら、そんなのありか」とか思ってる間に どんどん事態がエスカレートしてしまい、最終的にはトンでもない状態まで 一気に持っていかれるという展開がときどきあるのだが (そしてそこで突然終わったりする)、この話も基本的にはそういう展開である。 そしてそれが全体的に高テンションなのでものすごくキョーレツなのだ。 「おいおいなんだそりゃ、こらこらこらこらなんだよそれは、うわーー死んだ!」という 具合で読者はとにかく散々引きずりまわされる。こういうのが楽しいってオレはマゾだな…。 まあそれはいいとして、とにかく登場人物はみんなおそろしい。 とりあえず主な登場人物は 3人いるのだが、
おいおいおいなんだそりゃお前。もうヨッパらってるだろ。薬やってんのか? で、あさみを案内するよう言われて貴に強引にひっぱられる玲のセリフもすごい:「ぼくはあさみさんを 高校生だとしらずに愛しました 高校生とわかっていたら… …やっぱり愛しました おなじように愛しました
「とてもつよい! とても逃げられない!」のあたりが秀逸。「気ちがいよ まるで気ちがい だわ! きっとこんないきおいであさみを 思いどおりに したのね! とてもつよい! とても逃げられない!
しかし一番スゴかったのは (実際このセリフは覚えていた)、 自分が孤児であることを知らない玲に対するあさみの母親のこの一撃である:
うわ〜〜〜〜〜。 「やどなしっ子よ こじきよ〜っ」って部分がもう終わってます。こんなのあり? こ・じ・き! これほどヒステリーをうまく表現した漫画がいままでにあっただろうか。 よくわからない謎の理由により、新山はこの場面で大笑いする (漫画や小説をよんでいてもストーリー自体に没入せず、言いまわしとかフォントとか 周縁的な部分でバカウケてしまうのは新山の悪いクセかもしれない)。 しかしオレはほんとうにおかしくて笑っているのか、それとも じつは怖いのをごまかしたいので笑っているのか、よくわからない。「(あなたは) あなたの お父さんが ひろわなかったら 死ぬか…孤児になっていたか どっちかよ! やどなしっ子よ こじきよ〜っ
で、この話は長さのわりには登場人物がやたら多いのだが、 この中のひとりでも現実に存在したらオレは恐怖を覚えるね、オレは。 そういう意味でこの物語はよくわからんが印象に残るのである。 でもストーリー自体はクドいし絵柄もあまり好きじゃないのだが、 ときどき辛いものを食べたくなるのと同じように、 ときどきこういうキツいのが読みたくなることはある。
さて、これ書くのに 2時間もかかってるんですが…。
ぬる
わかったか! で、まあ自分としてはそういう状況をけっこう楽しんでたりするのだけど。
あるわけですね??
うんうんしかし
あるのか
ねー…・・・
で、今朝は部屋の火災ホーチキを鳴らしてしまったのだが原因はこのせいではなくて、 きのうトースターを掃除したのだが、うっかり強度ツマミを「最強」に設定したまま 放置してあったのに気づかず、黒こげのライ麦パンからモウモウとたち上る煙で 見事にやられましたのこと。 、っったくよう。
おかげで、炒め者に塩コショウふるの忘れた。 しょうがないので、自分の頭に塩コショウをふってごまかす。
ところで GC でオブジェクトが消える直前の“最後の晩餐”を finalization というが、 これを日本語で「後始末」とか「しめくくり」と訳すのはいまいち好きではない。 なぜなら専門用語っぽく聞こえなくなってしまうからだ (これは sentinel のときと言ってることが食い違ってるかもしれないが、 個人的には sentinel は専門用語というより、プログラミング技法に 無理矢理名前をつけているだけに見えるから、一般的な言い方のほうがいい)。 それに、「後始末」とか「しめくくり」だと、 「final (最後の)」がもつニュアンスもなくなってしまっている。 また、finalization はオブジェクトを解放するわけではない (clean up とは違う) ので、 「後始末」では誤解を招く。ということで「最終化」としたが、これまたあまり好きではない。 「なんとか化」というのはいかにも事務的な響きがするのだ。オレの感覚では 「最終処理」がいいのだけど、でも他の用語とのかねあいがあるのでそうもいかない。 Finalization は処理的にはだいたい initialization (初期化) と対応しているので、 日本語でもほぼ「初期化」の対義語っぽい語彙を選んだほうがいいと思った。 すると「初期」に対してはまあ「最終」かなということになる。 でもホントはこれもちょiと違うよね。論理的にいって「初期」に対応するのは「末期」だが、 これは日本語ではなぜか「末期症状」などの悪いニュアンスを含んでいる。いっぽう「終盤」というのも考えたのだが、 これだとどうも「終わりが近い」というだけでまだ完全に終わったわけではないような気になってしまうし、 「終了化」は日本語としておかしい。「初期」「最終」については形容詞的に「初期(の)段階」 「最終(の)電車」などといえるが、「終了」の場合は「終了の人間」などとはいえない (ごくまれな用例として「あいつは終わってる」という意味を表すのに 「終了だ」ということはあるかもしれないが、これまた final とは意味が違う)。
ところでプログラミング技法につける名前の話で思い出したのだが、デザインパターンも 英語ネイティブが英語で呼んでいるからニュアンスが伝わるのであって、 日本人があれを「Composite」とか「Observer」とかそのまま呼んだところで、 はたして日本人どうし意志の疎通にどれくらい役に立つのか。 ソフトウェア開発では共通語は英語であるべきで、日本人もみんな英語を使え、 コメントも英語で書け、という主張なら理解できるが、それならそもそも日本語で解説する必要はない (すくなくともプログラマは composite とか observer とかのニュアンスがわかるほど 英語に精通してなきゃいけないんだから、ちなみに新山の英語はそのレベルにもまだ達していないが!)。 しかしオレはどのみちデザインパターンがうまくいくとは思っていないから、どうでもいいけどね…。 やつらは言葉の幻想に頼りすぎなんだよ、キリスト教と同じように! プログラミングについて具体的でなく語るやつはみんな詐欺師だから注意しろ。
linux.or.jp
にはすこしそういうのがまとまっているけど、
あんまり利用されていないみたい。まあ、たとえ誰かがやったところで、
はたしていい文書が集まるかどうかはなんともいえんのだが。
結局、本を書いたほうが早いのか。しかし書籍は書籍ですぐに obsolete するという欠点がなー
もちろん、根本的なところ、抽象的なところはこの十年かそこらでもまったく変わってないかもしれないが、 多くの初心者にとっては表面的な違いのズレのほうが戸惑う。
そういえばきょうは久しぶりにぐりむ先生と会ったが、彼は日に焼けヤケて顔が真っ赤になっていた。
ふつう、技術的な文書を自発的に翻訳したくなるのは 「翻訳することによって精読せざるを得ないので、つまりその結果学習できる」という さもしいメリットがあるからだが、今回はまったくペイしなかった。説明がヘタなのだ。 はっきりいってよく考えずに引き受けたことには後悔しているが、 まあオレが犠牲になったと考えることにする。こいつのせいで、 この 2週間ずっと気が重かったよ。説明の順序はおかしいし冗長だ。 用語が統一されておらず、同じことを違った単語で言っている。 わざわざどうでもいい場面で自明なことを説明している。そして重複。まとめろよくそったれ。 文章力がない奴はただの箇条書きに徹したほうがましだ。 おまけに終盤に行くにつれてあきらかに書いてる側の説明が雑になっており、それに同期して 新山もモチベーションも激しく低下した。 こっちが中途半端に「まともな日本語にしよう」と 心がけているもんだからタチ悪い。
しかし、これらの努力が報われた気はまったくしない。 aaa、疲れた。
それから病。
"???電?腦?網?路?技?能?養?成?大?全???"
どうでもいいけど、"Sentinel" って、なんて訳すのが一般的なんだ? むかしどこかの教科書で「番兵」ってのがあったけど、これは一般的な日本語ではない。 そもそも辞書を引くと sentinel 自体あまり一般的な単語じゃなく、いまは sentry (歩哨、見張り番) を使うのが一般的だと書いてある。べつに英語がマイナー語だからといって わざわざオカシイな日本語を使う必要もないんで、日本語でもオーソドックスに 「見張り」ぐらいにするのがいいんじゃないか。
$ find . -perm -0002 -a ! -type l
しかしそういう意味でいっても、現在こんなバカでかい国に住んでいるのは不本意以外のなにものでもない。 まあニューヨークは米国じゃないけどね (←選民思想)。
おいこら! そこのポール・ジョンソン! 衛星放送の勧誘電話を毎日毎日 留守電に残すんじゃねえ! おかげでこっちはもうお前の名前を覚えちまったぞ、この野郎!
<meta>
タグで自己申告されている値である。
実際のコード判定はしていない。頻度 2以下のものについては無視した :
51266 shift_jis 13851 x-sjis 1963 euc-jp 814 iso-2022-jp 610 iso-8859-1 384 x-euc-jp 192 shift-jis 108 utf-8 91 windows-1252 45 euc-kr 26 csshiftjis 20 sjis 20 gb2312 17 big5 16 us-ascii 15 euc 12 x-sjis-jp 11 iso-8859-2 10 x_sjis 10 x-euc 9 x-mac-japanese 9 sift_jis 9 shift-sjis 9 euc_jp 8 jis 7 shift_jis; 7 iso8859-1 6 x-jis 5 s-jis 5 ks_c_5601-1987 4 shift_jis> 3 windows-1251 3 windows-1250 3 unicode-2-0-utf-8 3 shift_jis,iso-8859-1 3 s_jis 3 null 3 latin1 3 csiso2022jp
かなりスペルミスが多い。すでに「sift_jis
」なんてのが 9件もあるし、
「ecu-jp
」とか、全角で「MS
」とかいうのまであった。
そのあと、Ben とへれんと新山の「試験前せっぱつまってる三人組」で集合して オベンキョー大作戦。3時間ほどぶっつづけ。疲れたが、だいぶ理解が深まった。 Dan の送ってきた試験のサンプル問題というやつがものすごく偏向してて、 ほとんどその対策に費やされた。だってこんなんだぜ? :
ところで、新山がこっちに来て学んだ大切なことのひとつに 言語学者のエラさを理解したというのがある。いや、ほんと。 昨今では言語学者が自然言語処理からどんどん離れていると言われているが (この状況は日本でもあまり変わらないはず…もうだいぶ昔からそうだが)、 彼のようにコーパスアノテーションに熱狂している人を見ると畏敬の念とでもいうものが湧きまさあね。 ああいう人がいなければ自然言語処理なんてやっていられないよ。 機会学習屋がでかいツラしている世の中はまちがってると思うが、 いつの時代もどーでもいいものがさも重要そうに扱われているのは仕方ないのか。
出逢いはいつも検索エンジンから。