新山は第二外国語でロシア語だったのでドイツ語の文法はまったく知らない。 ドイツ語では否定を動詞のあとに言うらしく、英語のあまり得意でないドイツ人と話すと 「I know not」とかいわれたりした。ほかにも彼らはときどき英語の is を "ist" と言う… もっとも新山の話すドイツ語も英語のまじったかなりあやしいもので "Ich bin ... a student." とか "Ist this Zug ... nach Mu:nchen?" とかだったんだから仕方ない。 それでもドイツ語はまだ語彙がかなり英語と似ているからいいのである。 「この列車はほんとにココ行きか?」と尋ねて「ほーふぇん!」とか返されても、 ああこれは "I hope" って意味なんだな (ようするに、相手も自信ない)、 とてきとうに推測することができる。それにひきかえ、 チェコ語やポーランド語は全然だめだった。文法とか語彙はロシア語のそれに近いのだが、 そもそも新山はロシア語はただ単位とっただけで全然ものになっていない。 それにこの 2つの言語はどちらもスラブ系で、中途半端に似ている。 たとえば "hello" はポーランド語では「ぢぇん どーぶりりぃ」で、 チェコ語では「どーぶりぃ でぇん」である。"thank you" も「ぢぇん くーいぇ」と 「でぃぇー くーい」だし、数字もそう。混乱することしきり。
それからつくづく感じたのは、やっぱり初めての国を何個もホイホイと短期間でまわるのはつらいということ。 ドイツとオーストリアぐらいはまだいいのだけど、それ以外のところでは、 言葉から、通貨から、電話のかけ方、時刻表の読み方、駅の表示などがすべて違うのである。 いったんある国のやり方に慣れてしまうと、またゼロからそれをやり直すのは結構きつい。 「地球の歩き方」とかみればそういうことは全部書いてあるのかもしれないが、 今回もってった "Europe by Train 2003" にはそういう細かいことまでは書いてなくて、 毎度自分で発見しなければならなかった。まあそれが楽しいともいえるのだが、 何回もやると疲れる。それからやはり通貨統合は偉大だと思ったよ。
オット、考えてみりゃ Dr. Dobb もたしかに「Dr. D」だ。
Computer Science が「サイエンス」ではないという意見はよく聞くが、 その気持ちはよくわかる。こんなのはたんなるノウハウのよせ集めであって、自然科学じゃないよな。 言語学のほうがよっぽどサイエンスだ (某学派は除くとして)。だからといって これが大事じゃないとはまったく思わないんだけど、 ノウハウのよせ集めから、さらにデカい (一般的な応用のきく) ノウハウを導けないとだめだろうなとは思う。 そう考えると、計算機科学の究極的な目標ってのは自然科学のそれとわりと似ているのかな? つまり世の中のさまざまな移り変わりに対処するための究極のノウハウというかプロセスを追求するのである。 しかし自然は変わらないのに対して社会は学問の発展なぞ無視してどんどこどんどこ変わっていくので、 計算機科学が自然科学みたいに着実に進んでいくことはありえない。つねに一進一退をくりかえすのだろう。 いや、でも自然だって変わってるよな。素粒子とかのレベルじゃかわんないけど、 地球環境が入ってくると状況は刻々と変化するわけで…。
ま、いいや。よーするに、Computer Science というのは数学とかと同様に 政治経済医学工学をやるさいの、さらに一段下にある道具って感じがするんだけど、 そのわりにはたとえば RAND に CS 出身者が沢山いるとかいう話は聞かないよなあ…。 まあオレにはどうでもいいのだが、やっぱしみんな「オタクすぎてダメ」なんだろうか。 あるいは実際のシステム (OS とか LSI) をやりすぎなのかな。
そういえば某国の駅では時刻表表示ディスプレイの画面左上に ちっちゃく tux が映っていた。おちゃめだね。 ちなみにヨーロッパ人は一般に日本にあるような駅のオルゴールなどを 嫌うというが、そこの国の人はけっこう好きらしく、地下鉄でもやたらピーピーいわせていたし、 駅では構内アナウンスの時にかならず「モルダウ」が流れるのであった。 考えてみりゃーこの曲調はけっこう日本人好みだと思う。なんか哀愁ただよってるし…。 カロとピヨププト (← 意味なし、いま勝手に思い出した)。
そしたら、小さい。視界が狭い。おまけに、世界が丸くなっている。通常の世界の 3倍 (この「通常の××の 3倍」という言い方もどこで覚えてのかなぞだ)。
しかもやたらと軽いので、なんかの拍子にストっと抜けそうで、こわい。
でも度はまた強くなってしまったらしいので、しばらくかけていると、 なんか、アレになってくる。(アレとはなんだ? 頭痛のこと。かもしれない)
昼飯くったから今ねむいのですが。
todo: 免許書とること。
<fonta
オレのコレぶりが消滅していることを知れ。焼肉定食
ぷりしゅてぃ すたにっつぇ
ネストが深くなり過ぎると悲劇が起こるる。
さういえば (さふいへば) 初代 SP-5030 ではスタックが 6段しかなくて
FOR 〜 NEXT とか GOSUB なんかのネストが最大 6段までしかできなかったのを
きみは知っているかね? そんなものを知る必要はどこにもない!
しそれはスタックとは呼ばないべきだ。いや、呼ばれないべきだ。
いや、呼ばれられないべきだし呼ばれるべきでない。それでわだいたい
ハノイの塔なんかは 6枚の鍵盤 (鍵盤!?) までしかできないよ、溶けない
よ! しかしそれは 26 - 1。あんたの推論はいつだって蚊に刺されている。
そのあと、久しぶりにチャイナタウンの小食屋でめしを食う。いいわあ。 言葉はわからないし (チャイナタウンの中国人は基本的に中国語だけで生活している、 テレビや新聞もすべて中国語だから英語はかなり下手だ)、 メニューもよくわからないし (全部漢字)、 衛生的にもちっとも安心できないのだけど (食器とかちゃんと洗ってなさそうな気がする)、 なぜだか落ちつくんだなあ。 やっぱオレはヨーロッパよりアジアに旅行に行ったほうが楽しいみたいだ。
で、入ってからの howto はこんなかんじだ (未完だが) :
基本的にこういう店は安宿 (ペンションかユース) に泊まれたときしか行かないことにしていたので、 毎日は行かなかった。しかしオレってば根がヒキコ森なのに我ながらよくがんばったと思うよ、うん。
でもふだんニューヨークにいるときはこんなことはまったくしないんだけれどね。
ふと思ったことその2:
なぜ日本でオープンソースなソフトウエアがはやらないのかという話。
もちろん技術的な問題はあるとしても、ほかにも原因があるんじゃないか。
思うに日本より「ケンチャナヨな国」のほうが、よりこういうものは流行りそうだ
(ここでいう「ケンチャナヨな国」とは、べつに特定の国をさしているわけではない、
どの外国も多かれ少なかれ日本よりはケンチャナヨである)。
というのは、日本人は一般的に「ちゃんとしたもの」が好きなのである。
ここでいう「ちゃんとしたもの」とは、企業の名が冠されているとか、
どでかい底上げパッケージで包装されているとか、
マニュアルがちゃんとした紙にちゃんとした印刷で書いてある (でも意味不明) とか、
バージョン番号に 1.0 以上の数値がついているとか、そういうことだ
(これをいうと Python 3000 のことを思い出すなあ…あれ結局どうなったんだろ)。
ちなみに、今回の旅行は風邪もひかず体重もあまりへらずほぼ無事に帰ってきた。
旅先で得たもの:
旅先でなくしたもの:
おまえら〜〜〜〜〜〜〜!!
ところで (てくるで) 旅行中に思いついた疑問:
「牛肉」や「魚肉」はそれぞれ「ぎゅうニク」「ぎょニク」と読むのに、
なぜ「豚肉」は「とんニク」と読まないのか?
ちなみにもう24時間以上起きている。死ぬほどねむい
おしらせ
7月7日から 3週間ほど旅行にいってきます。PC は持っていかないので、 そのあいだこのページを更新することはできませんが、手紙を出すことはできます。 新山の旅先から絵ハガキを受けとりたい方は、住所・氏名を (できればローマ字で) 書いて までお送りください。旅先でもメールを読めるときは読みます。 基本的にすべての人にお便りを出すつもりです (どこの国から出すかはまだ未定ですが)。 なお、すでに新山が住所を知っている方の場合は、この作業は必要ありません。 その場合は本人が望むと望まざるとにかかわらず、強制的にハガキが送られます。
ところで、いまさらもう遅いが、床屋に行っておくべきだったかもしれない。 このままでは帰ってくるころにはボサボサの菩薩地蔵になってしまう (ひとりで爆笑)。 まあ、向こうで床屋に行くって手もあるけど、言葉がわからないところでそれはちょっとなー。
しょっぱなから素晴らしいノドモトぶりだ。
それから、さいきん自作メーラの web インターフェイスを作って使っている。 入出力をほとんど抽象化してあるので、インターフェイスの作成そのものは 1時間ちょっととでできた。 そしていろいろ使ってみた結果、このインターフェイスは圧倒的に正しいということが わかった。もちろん画面は非常にシンプルでおそろしく低機能なのだが、このシンプルさがいい (画面上にはコマンドを入力するフォームがひとつと、テキスト出力のための領域がひとつあるだけ、 あとは何もない)。自画自賛。Gmail は使ったことないのでわからないけど、いわゆるふつうの (hotmail なんかの) web メーラよりも全然つかいやすい。なにより、シェルと同じコマンドが入力できる。 いちおう multipart の表示も可能 (添付はまだできないけど)。問題は、セキュリティである。 いまのところメールはすべて自分のホームに置いてあるので、web からアクセスする場合には cgi を yusuke 権限で動かさねばならない。これはちょっといやだ。 それと、これはコマンドラインで使っているときにも感じたことだが、やはり Python がおそい。 ふだん使ってるときにはあまり気にならないが、ちょっと複雑な検索をするとひっかかったような感じになる。 ちょっと profile をとってみたら、毎コマンドを起動するだけで 0.15秒もかかっていた。 これに加えてさらに
email.Parser
でパーズしているのである。
こりゃ、遅いわけだ。おまけにひとつのディレクトリ中に数千のエントリがあると、
スキャンするだけでも ext2 の制約により避けがたく遅くなる。なんとかせねば。
データベースには今後 Metakit なぞを使って高速化することも考えられるが、
Python の書き方自体でも不満がある。セッション情報をいちいち保存するというのは、
どうもあまりきれいじゃないのだ。バグも見つけにくい。
いまひとつ考えているのは、データベース操作部分をデーモンとして daemontools かなにかで常時起動しっぱなしにしておくことである。 通常のコマンドはそれとの通信のみを行う。こうしておけば、 いちいち Python 起動やセッション情報の操作にかかわる部分を省略できるだろうからね。 つまりこれはメールクライアントでありながらサーバであるという、 「メールクライアント・サーバ」ということになるのかな…? cgi から起動された場合は (適切な認証をへて) そいつと通信させるようにする。 この場合は cgi は nobody で動くのね。さらに、同一ユーザ権限のプロセスが コマンドラインから起動されたときはなにか認証をすっとばせるようにしたいが、 簡単な方法はあるだろうか。一般公開するのはこの書き換えができてからだな。 (今のバージョンはあまりにも「セキュリティホールができやすすぎ」て、 ふだんなんだかんだ言っている身としてはとても他人様にはお見せできないような構造をしている)
それから、基本的にこれらのコマンドはどれも stateless にできているのだが、 web 上から使う場合はメッセージの編集 (compose, edit) だけが「継続」っぽいものを 使う必要がある。なぜならこれは 1コマンド中に「これから編集します」→「エディタ起動」→「編集しました」 の状態があるからである。http ではこれらは別々のリクエストとして処理する必要がある。 いまはこれをアドホックな方法で対応している。ようするに 状態を切り分けたい部分で継続に渡す必要のある変数をぜんぶ列挙して、 それを (直接的あるいは間接的に) 受けわたしすることで実現しているのだが、 やはり継続を外部表現可能なデータとして持ち運べるようにできるとすごく便利なんだろうなあ きっと (stackless python では generator を pickle できるらしい)。しかし組み込みの継続は Jython が対応できないから入れないのだと Guido はいっていた。でも Python なら、 この「ステート分割」の作業を自動化することによって、 「ソースレベルでの継続化 (変な日本語)」ができるんじゃないか? つまり、
ちなみに飛行機はきょうの夜出発なのでまだのんびり寝ることにする。 寝つければの話だけれど。
ところでオレはまだ大田区田園調布本町の郵便番号を覚えていた。
大学のトイレで服をしぼる。はっきりいってビショ濡れだ。 風邪ひかなきゃいいけど。
昨日から何をムズかっていたのかというと、navneet の同居人の話である。 話は簡単なことで、要するに彼ら navneet の友達 (ときどき入れ替わったり複数になる) は 「職をさがしている」という名目でこのところずっと泊まっていたのだが、 その滞在がのびにのびてもう 2ヵ月ちかくにもなっていた (過去の日記を見ると、 5月中旬からいることになる)。それで、新山は来週からしばらく留守にするのだが、 同時に navneet も月曜から 1週間出張に行くというのだが、「その間、彼らにこの部屋を使わせる」というのだ。 オイちょっと待て。さすがにもうこれ以上はごめんだ。…という話である。 そうすると navneet は「こいつはおれの友達だし、泊まる先がないんだ」という。 それは同情したいところだが、そりゃあそっちの問題だ。それにこっちはもうなんだかんだで 2ヵ月近くも タダで泊めてやっている。Navneet が「何も迷惑はかけてない」というのはわかるし、 実際彼らが気をつかっているのはわかるのだが、彼ら自身でさえいつまでいるかわからんという。 オレとしてはこの調子で彼らにいつまでもダラダラと滞在されるのは精神衛生上よくないから、 ここらでケリをつけたかった。しかし話を切り出すのに苦労したよ。
しかも、インド人にこういう「すじ論」を説明するのは簡単ではないことがわかった。 「お互いの関係をあまりだらけさせないために、ある程度の厳密さは必要だ」といったのだが、 わかってもらえたかどうか。彼らの理屈は「なにも物理的には迷惑かけてないからいいじゃん」というものだ。 たしかに 3、4日ならそれもいいんだけど、程度ってもんがあると思う。2ヵ月ともなると話は別だ。 オレは厳しすぎるだろうか? (むしろ自分としては「いままでよく我慢した!」と自分をホメてあげたい気分なのだけど。) それともこれは、日本人的な「本音とたてまえ」による誤解なのだろうか?? で、きのう micky (=大家、バングラデシュ出身) と会ったので、たまたまこのことを話すと、 彼いわく「あー、インド人ってのは機会さえあればなんでも利用する人種だから、 こっちが嫌というまでのらくらと居つづけられるよ。大家としてもそんな状況は歓迎しないが、 それについては同居人であるキミがいちど強い態度に出るしかないだろうね、まあ、頑張ってくれ」という。 これを聞いて覚悟を決めた。この機会に彼らを追いだすべきだ。 しかしこういう人情がからむ話はいつも疲れるよ。でも「オレの知ったことじゃない」という態度を取らなければならない。 今回はカネがからんでおらず、オレが一方的に強い立場だったのでまだよかったけど、 もっと疲れるケースは沢山あるんだろうな。あいかわらず、オレは世間知らずすぎというか、 ナイーヴすぎるのだと思う。ルームメイト探しのときにも思ったが、やはりオレはこういう実社会の問題になると まだまだ甘ちゃんだな。困ったことだ。
まあ、今回の件は Navneet の性格も関係してると思う。 彼はどっちかっつうと「オレが何をしようがオレの勝手だ!」というタイプなのであるが、 この件についてはそれは間違っている。 彼がひとりで住んでいる場合ならそれでもかまわないのだろうが、これは共同生活なんだから。 新山はそういうところはわりと保守的なのだ (それでも日本の基準からみればきっとルーズなほうだと思う)。 逆に Owen はこういう他人との交渉をものすごくキッチリやる人間だったので、彼といたときには 問題はなにも生じなかった。まあ彼の場合はちょっと生真面目すぎてアレだと思うけど (彼は真面目すぎてストレスためるタイプだ)、日本人にとっては彼のようなタイプのほうが理解しやすい。 やはり民族性の差ってのはあるもんだね。
きょうの結論: ビジネス相手にはインド人より台湾人を選べ。
ところで (てくるで) 今きづいたけど「話を切り出す」ってのはおもしろい日本語だ。 どんな材料から、何をつかって切り出すんだろうか。紙とハサミ?
日立専用ザク 14 :仕様書無しさん :04/07/05 00:38 三菱製ザク。足が勝手に外れてジオング体型になる。
ちなみに新山はガンダムについてはほとんど何も知りません (オレの中では「ガンダムについて語る人間 = 新山より年寄り世代」という構図である)。 それをいったらアニメについてほとんど何も知らないのだが、それはそれ。
きのう WTC 駅を使ったら工事現場にばかでかい国旗が貼ってあって何かと思ったのだが、 こういうことだったか。しかしこいつら対テロはみんな freedom だと思ってるらしい。 クソっったれ。
そういう論理でいくと、新山は「日本(人)を理解している」とかいうアメリカ人をかなり懐疑的に見ている。 ウソつくなと思う。自分が育ってもいない土地のものを理解なんかできるわけねーよ。 キワモノ扱いするほうがまだ誠実な態度だ。同様に、日本人で、いわゆる 「オレは○○がホントに好きで理解している (○○にはフランス、インド、韓国などの地名が入ります)」 という人々も今のオレはかなり懐疑的に見るようになった。だからオレもマッシュポテト や R&B の真の良さなどは理解してない。それらはただ異国の珍品として好きなだけである。 しかし、まあ、まったく同じ論法で、オレは日本のことさえちゃんと理解していないのかもしれないな。
出発の前にかならず図書館で本をかえしておくこと。
トーで検索すると、 どういうわけか結果には「ツー」の結果がふくまれているのである。 Googleは「メイル」→「メール」などの自動変換をおこなうので、これは「トー」と「ツー」が同じ単語の別読みである、 と認識されているのだろう。それはそれでなんかヘンだが、どうやら完全に同じとみなされているわけでも ないようだ。 ツーで検索すると、 最初の数個はおなじサイトだが、5位ぐらいから先が違う。こりゃなんだ?
さて、新山がなにを検索しようとしていたのかは秘密です。
父「・・・・・ (なんでも開運鑑定団を見ている (長野では毎週この時間帯なのだ)、チャットに映っている息子はほとんど無視)」
息子「・・・・・ (メシ食いながら web を見ている、チャットに映っている両親はほとんど無視)」
母「・・・・・ (向こうの台所でパン生地こねるのに必死)」
こういうのって、家族だんらんっていうのかなあ?
いや、実際、どんな話をしているのかというと、世間話か、人間検索エンジン (親が「海外にこんな製品があるらしいんだけど、調べてよ」と言い、オレが googleる)。
さいきん面白い本を見つけた。O'Reilly から出ている「Hardware Hacking Projects for Geeeeks」である。 ようするにこれは「コーヒーメーカーをインターネット接続するにはどうするか」とか、 「パンにその日の天気予報を(焦げめで)印刷するトースターをつくるにはどうするか」とか、 「Linux と Xine を使って自作のハードドライブ・ビデオデッキを作る」とか、 そういう方法が書いてある本だ。基本的にアホなことをやっているのだが、内容は大真面目で、 回路図の読み方から始まって、どういうふうに組み込み web サーバを プログラミングするか、そして RadioShack で部品を注文するときのパーツ番号まで書いてある。 しかしとても初心者向けの本とはいえず、「ソフトウエアにはすでに十分詳しいが、 ハードはぜんぜんダメ」なオタクが対象らしい。まあ新山もそういう軟弱者の一人なのだが、 そういう人は多いと思うから、目のつけどころとしては 結構いいセンいっていると思う。それにしても、米国のすごいのはこういうのを日曜大工的に 作る人がけっこういるということだ。まあ暇人が多いということもあるだろうけど、根本的には もっと重要な哲学がありそうだ。米国ですげえなあと思うのは、車にしても家にしてもそうだが、 メーカーに頼らずなるべく「自力でなんとかしよう」という風潮があることだ。 これは日本ではみられない光景だ。日本には「モチはモチ屋」という言葉があるけれど、 日本人はなんでも既製品を買ってすませるということにわりと抵抗を感じない。でも こっちじゃ金持ちでも自宅の芝刈りとかペンキぬりぐらいは自分でやるのである。 それくらいのことも自力でできないような人はきっと仕事もできないに違いない、ということなのだろう。 日本じゃ、おばさんが家のペンキぬりなんて普通やらない (うちの母はそういうのが好きでよく ヘンなものをこしらえては見せびらかしているが、ありゃ周囲から見りゃ奇人のたぐいだ)。 米国人は「自力で生活すること」を非常に重視する人々らしい。そして新山はそういう態度は好きだ。 この本を見て驚くのは、こういうエレクトロニクス製品を相手にしてさえ彼らは 積極的に「自力でモノにしよう」という態度をとっていることだ。これは立派である。 政府や大企業からなるべく独立したいという雰囲気がそうさせるのか。こういうところにも、 実学重視の根っコみたいなものがあるのだろうし、逆にたとえば日本で PC-UNIX を“活用 (ただ道楽でインストールしてみましたというのではなくて、実際にそれを便利に使うということ)” している人がぜんぜん少ないのも、みんな既製品のソフトウエアを使ってなんの負い目も感じてないからだろう。
で、もしかするとこの傾向にひとつ関連しているかもしれないのは、 日本の電化製品や機械一般の信頼性の高さである。こっちじゃなんでもブっこわれるのは当たり前ぐらいの 勢いでブっこわれるので、いざというときには自力で生活できないと困る、という不安もあるのかもしれない。 でも日本じゃとりあえずほとんど何もかもが完璧に動くもんな。電車は停電しないし、 エレベータは暴走しないし、VAIOは壊れるけど。しかし日本の完璧主義指向がうまくいくのも、 おそらくハードウエア主流の時代までだ、と思う…。ソフトウエアの世界ではそれは幻想だ、 ということに気づいている人は少ない (これは米国でさえそうだ)。 この危険に比べりゃ、著作権とかソフトウエア特許とかプライバシーなんかどうでもいい瑣末な問題だ、 とさえ思うのだが、結局、文系でもテキトーに議論できそうな問題しか問題と認識されないんだよね、 かの国では。
訓読みの普及の話について続編。こないだ図書館で借りてきた 万葉集 (註釈・中西進) を読んでいると、ここには原文がついていて、 これはいわゆる漢字に音をあてた「万葉がな」で書かれているのだが、 もうすでに訓読みが頻繁に使われている。たとえば「ありつつも」は「在管裳」などといったぐあい。 万葉集ってのはほぼ西暦 750年ごろに形成されたと書いてあるのだが (複数人の手で段階的に編集されてきたので、正確な年月は決められないらしい)、 もうそのときすでに日本では訓読みがかなり普及していたんだな (といってもそのころに文字が読めた階級などごくわずかだっただろうけど)。 あいかわらず新山は古文がニガ手なので読む速度はトロいし (ふりがなでさえその語感をつかむのに時間がかかる! 「なにはのたかつのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと」なんて、 声に出すだけでひと苦労だぜ?)、歌の趣旨にもたいして共感しないのだが、文字はおもしろい。 あいかわらず暗号解読の気分を味わえる。
しかし古典とゆーのはだいたい写本のバージョンによって内容が微妙に違っているのがふつうだ。 平安時代の人々は CVS の使い方を知らなかったんだな。
(ヤバい! もしかしてジョークが微妙にアメリ感化している??)
ところで、PATHを見ていると、この電車ってすげーいいかげん。 新山は日本では東急線ユーザだったのでおよそ東急線のことしか知らないが、東急では 運転手はちゃんと指呼確認してたし、なんかいちいちかけ声を言いながら運転してた。 でもこっちでは、運転手は発車ギリギリにドアが閉まる前に乗りこんできて (こちらの電車では日本のように「運転手専用のドア」というものがないので、 運転手も車掌も乗客と同じドアから入る)、あわてて運転室のドアを閉めて やおら発車、とかいうケースはざらにある。ほかにも線路作業員を乗り降りさせるために 変なポイントとかトンネル内 (!) とかでいきなり止まってドア (一箇所だけ) を開けたりする。 そいつらが車掌と談笑しあっているのを見ると、この電車にとっては彼らが主役で、 「お客はオマケ」なのではないかと思う…。ま、そんなもんでいいけど。
慣れてくると特定の用途に専用のデータ形式をつくるよりも、 なんでも cdb の枠組みで扱ってしまったほうがラクなので、 結局ほとんどの仕事で cdb を使うようになってしまう。
このおっさんの eval evil な顔がすばらしい。