一度走り出したプログラムには、走り続ける権利がある。
どうでもいいが (どうでもよくないが、) どうでもよろ。 …いや、どうでもよくないって言ってるらろ! ここ数日、現実逃避がこうじて例のモノばかり作っていたせいで、 かなり完成に近づいてきた (あれのことじゃないよ)。 まだまだバグってそうで実際に使うのが怖いけど。 もともと、あれを作ったのはこれのためだったのである。 そしてすべてオレのため。 いや、でもやっぱし、どうでもいい。
"より多くの検索結果を得るには、検索条件から引用符を削除してください。"
オレは自分では「ちょっとボサってる」くらいの髪型のほうが気に行っているのだが、 しかしこの「ちょうどいい」状態はいつもほんのチョっとの間しか続かない。 すぐにライオン丸な状態になってしまふ。くそーー! なんで髪は伸びるんだ!!
朝から落ちこんでいてもしょうがない。 今日は久しぶりに暑くなりそうだ。
おまけに今日はハナ(花粉)の調子(?) が絶好調。つまりオレのハナの調子は絶不調。 ふんげい
久しぶりにムカついたニュース。 米国下院、馬肉の生産を禁止する法案を可決。 知らなくて驚くだろうけど、 ようするに大多数のアメリカンは馬刺を食うのは悪であると思っているわけ。 さて、アメリカべったりの日本の新聞はどれだけ報道するんだろ。
繰り返すが、民主主義とは「人気によって善悪が決定されるシステム」とゆうことである。 「投票によって」といってもいい。論理や公正さはまったく関係ない。
そういえば、どこかの国にも他国の「イヌ肉文化」をしきりにけなしている人々がいますよ。 聞こえのいいお題目にホイホイついていく人が多いのはどこでも同じだ。 もちろん、新山もその一人なのかもしれないけど。 こういう話をするときわめて厭世的な気分になってしまう。 つまり「世の中、バカばかり」ということを思い知らされるからで…。
こんな奴はタクワン石をつけて海の底へ沈めちまうほうが日本のためだ。
そろろそ冷蔵庫のダッシュウ罪を買い直さねばならんのではないかね?
そしたらまっくら。
本が読めん。
そそそそ、そうだったのか!!!
!!!!
<BR>
新山は、そういう人間にはホントーに冷たいと思う。我ながらそう思う。
ところで (てくるで、) S嬢が機械学習の授業を取るらしい。
初年度からいきなしあんなの取っちゃって大丈夫かいな?? Lushがくるぞ〜〜怖いぞ〜〜。
学生はこの変態Lisp風言語を使って、最終的に画像認識かなんかのコードを書かされるのだ。
しかし Ralph はなるべく早いうちから彼女に機械学習の基礎をマスターさせたいらしい
(論文生産の目的にはいまだに機械学習は有効である由)。かわいそうに。
完璧な牛丼 (下線部が第二水準)
フリー万代損?
しかし、これがプログラミング言語になると「動きさえすりゃゃなんでもいい」とは言わなくなる。 なぜだろう? いや、本当はプログラミング言語も基本的には「通じさえすりゃいい」と思っているのだ。 ただし、通じる相手は計算機ではなく人間だよ。
プログラミングでも日本語でも、基本的に相手に「通じない」言語は意味がない。 だけど、どんな言語でも機械相手に「通じる」だけでは、意味のある言語とはいえない。 不幸なことに。
もしかしてあの日。。。
きょうは午後からネムくてどーにもなんなくなったので 図書館へ行こう…としたら rockefeller center で降りたら雨ってたので、 53st. まで行くのはやめて紀伊國屋でヒヨった (紀伊國屋は rockefeller centerのすぐ隣にある)。 雨がやむまで待つつもりだったのだが、1時間ぐらいたっても変わんなかったので そのまま帰ってくる。
最近、本屋に行くと新山がよくやっている遊びのひとつは、 「自分にゼッタイに用のなさそうな本」をわざわざ立ち読むことである。 たとえば…「声に出して美しくなるおまじない」「刑事訴訟法入門」 「おむつはずし一週間」「ルアー釣り」「チャクラで生きる人生」など。 いやーけっこう笑えるんだこれが…。まあ、ルアー釣りは将来的には興味をもつかもしんないが、 美容と宗教の本はどっちもオレにとっては「電波系」にしか見えない。 でも「ほうほう、こーーゆう論理の運び方があるんだ?」と参考になることが多い。 ただしニヤニヤしながら見ないように。ヤバいから!
空が高かった。
おそらく、自分が従うべきポリシーにはいくつかの階層がある。 より「上の」ゴールのためであれば、 「下の」ゴールはときに無視しても (= 無理しても) かまわない… でもそれってホントウかな? どうもウソくさいなあこれは。
オレは思考のいかなる定式化にも反対だ。反対にも反対だ。
1日 8時間、年間 300日働くとする (これはかなり多いほうだと思う): 8×300 = 2400時間
で、これを 30年間続けるとする: 2400×30 = 72000時間
こりゃ、なんということだ。 死ぬまでにあくせく働いても、たったの 70000時間 (繰り返すが、実際にはもっと短いだろう) しか働けないとは…。
つまり、ボケーっと日々をすごしているこのごろのあいだに、 貴重な時間はどんどん減っていることになる。よくないな。
いや、「よくある」のか?? どっちなんだ。ふんげa
(Q.E.D.)
新山は 24時間表示にしている、曖昧性が減るので。 おかげで今では壁かけ時計で「8時」というのを見ても自動的に「8時→20時」に変換してしまい、 「ああ、もうそんな時間か」というようになってしまった。キチガイ。
「めぞん一刻」は新山がこれまでハマった唯一のアニメおよび漫画である。 まだ中学生のころだ。当時はかなり真剣なファンだったが、高校になると やがてアニメには興味なくなってしまい (テレビをあんまり見なかったせいもある)、 漫画も全部他人にあげてしまった。昔は非常にオトナっぽいアニメだと思っていたが、 気づけばいつのまにかあそこに出ていた登場人物よりも歳をくっているという今日このごろ。
しかし、いま見てもこのアニメはいいと思う。なにがいいって、この雰囲気がね…。 基本的に新山は高橋留美子の漫画ってあんまり好きじゃない。「めぞん一刻」の原作も ややドギツい感じがする (初期の頃はとくに)。でもアニメで見ると救われてると思う。 新山はドタバタっぽい場面もわりと好きなのだが、とくに気に入っていたのは、 このアニメではしんみりとした「間」を演出するために惜しみない時間が使われてることである。 たとえば登場人物のセリフも音楽もなしで 20秒ぐらい風の音だけ、とかいう場面がある。 こんな贅沢な時間の使いかたは今のアニメでもできるのかどうか知らない。 普通はこれを見てたら飽きるだろうが、それをやっても間が持てるような場面だったということか。 それから、「夕暮れに柿の枝」というような、日常のなにげないシーンが 丁寧に描かれていたのもよかった。音楽もはまってたし、ストーリーラインを見ても、 「フツーの世の中のせち辛さを描いている」というところがいたく新山のお気に入りだった。 だいたいオレがなぜたいていの少年向け漫画を嫌いなのかというと、その理由は 「ヒーロー臭さ」のためである。たいていの主人公は最初からすでに いかにも「選ばれた人間」っぽい境遇になっていて、いかにも差別してくださいと 言わんばかりになっている。これが気に入らん。新山は 「世の中のすべての人間が選ばれている」と思っているので…
ええと、そんなことはどうでもよろ。で、めぞん一刻の話なんだけど、 この物語の中でも新山が特に心ひかれる (?) 部分は、惣一郎という「死者」の存在である。 突然ですが新山は「ムーミン谷の十一月」と「トーマの心臓」も好きなのですが、 今日いきなり気がついたんだけど、この 3つはぜ〜んぜん違う物語でありながら、 共通点があると思う。それは 「“死んだ人間 (あるいは、存在しない人間)”が登場人物たちをつき動かしている」 というところだ。これらの話の中では、死んだ人間は (まあ、ムーミンたちは死んじゃいないんだけど、 ありゃほとんど死人と同様の扱いでしょ) 物理的には存在していないものの、たしかに「存在」が感じられる。 べつに幽霊とかそういう夢のない話ではない。各登場人物の内部に なにか「ただよう」ものがあって、それが結果的にストーリーを動かしている ように見えるのである。隠れマルコフモデルみたいなもんですよ (意味不明)。 ただしこれら登場人物と死者との「結着のつけ方」はそれぞれの話で違っていて、 「ムーミン谷の十一月」ではこれは自己解決 (みんなムーミンたちのことは忘れて自立できる) だし、 「トーマの心臓」では、ユーリは生きているエーリクよりも「死者」であるトーマを選んだ (実際には「神を選んだ」ってことになってるけど、この 2つはあんまり区別されない)。ではそうすると「めぞん一刻」では どうなのか…? というと、新山の考えでは、響子さんは「両方」を選んだんではないか、 と思われる。
そもそも、めぞん一刻では最初から「惣一郎さんを(積極的に)捨てる」という選択肢は 彼女の中にはなかったし、たぶん最後までなかったと思う。彼はフェードアウトしたということになっている (し、遺品も返したし、ラストでは「さようなら惣一郎さん」とまで言ってる) が、 これは単に読者を安心させるためのごまかしにすぎない (断 定)。だって、その前のシーンじゃ 五代君が「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」といってるんだから、 実際には五代君がとった戦略というのは、惣一郎さんとの重婚なんじゃないかと思う (これは誰かがすでに似たようなことを言ってたような気がするが、思いだせない)。 ただ片方は物理的に存在していないだけだ。これよりちょっと前にも、 響子は五代に向かって「あなたは惣一郎さんの代わりなんかじゃ…」と言っている。 つまり響子さん的には、べつに惣一郎さんを捨てて五代君を選んだわけじゃなくて、 彼女は依然として惣一郎さんとも結婚しているし、同時に 五代君とも結婚したわけである。セコい奴! 三鷹さんが決定的にダメだった理由はここにあると思う。 たぶん彼は五代君のように「惣一郎さんを体内にとり込む」などというワザはできないだろう。 なぜなら彼は非常にはっきりした考え方をするタイプで、 響子さんが自分を選択したとすれば、当然それは惣一郎さんのことを忘れることを意味するだろうし、 そのように本人にも迫るだろう。彼の人生観においては、選択というのはつねに 「あれか、これか」なのである。だから明日菜さんと結婚した時には彼はサッサと身を引けたわけだ。 これに対して響子と五代の人生というのはネバネバしていて「あれも、これも」である。 五代君が優柔不断であるとされているところにもそういった傾向がみられるし、 響子さんは…わからんが、なんかセコいよなあと思う。
正直なところ、めぞん一刻ファンの間では「響子さんファン」が多いらしいが、 新山にはさっぱり理解できん。五代君にもあんまり感情移入できないし (むしろムカつく)、 だいたい美人であるとか未亡人であるとかっていうのはただの付加的な要因じゃないっすか。 そんなのがなんでいいわけ? むしろ新山の印象では、響子さんの性格は「ムーミン」に出てくる フィリフヨンカに似ている。クソ真面目で融通がきかなくて他人の世話を焼くのが好き。 しかも思い込みが激しくてヒステリー。そーっくり! フィリフヨンカのほうは別に美人でも未亡人でもないので (追記 - 「夏まつり」に出てくるフィリフヨンク・エンマ夫妻がいた、 彼らはたぶんフィリフヨンカ系に属すると思う)、ムーミンでは 彼女がすることはほとんどコメディとして扱われていた。ま、「めぞん一刻」も 所詮コメディなのだろうと言われればそんな気もするケド。 でも一般的にみれば「めぞん一刻 2大いい女」というのはどうしたって 朱美さんか明日菜さんになると思うのだが…。この二人、ベクトルは完全に逆だけど どっちも響子さんより圧倒的に強そう。とくに明日菜さんに至っては 三鷹の家に泊って朝食だけ作って帰ったり、三鷹の前で「魚屋のおじさんが驚いた…ギョ!」とかいう 捨て身のダジャレをかましたりして、じつは登場人物の中で最強なんじゃないかと思う。 その気になれば人を殺しそうだし。 でも主役キャラというのは中途半端なほうが人気が出るんかもしれない。
で…、どのキャラがいいかとかいう話はどうでもいいんだ。死者の話に戻るのだが、 いまトンでもないことを思いついたのだが、こういったストーリーをさらに 2000年ぐらいのスパンに 引き伸ばした (しかもいまだに伸び続けている) 物語が「キリスト教」なんじゃないか? とふと思った。 仏教では、創始者はすでに消え去ったものとして扱われている。 でもキリスト教では、ヤツはいまなお「復活した」扱いになっており、 いるんだかいないんだかわからないキリストの亡霊を人々はずっと気にして生きているのだ。 これはじつにありそうな話だ。おそろしや。かつて、パスカルはこう言った (らしい):
イエスは世の終わりまで苦しむであろう。これは小林秀雄「ドストエフスキイの生活」に載ってたんだけど、 元の出典がわからんかった。きょうび「眠っていない人」がどれくらいいるのか知らんが、 現実にこういう話が生きているとちょっとこわいな。
われわれはその間、眠ってはならぬ。
それにしてもオレは「死んだ人間」という概念が じつに好きらしい。いつかオレも死んでみたいもんである。
新山は紫と白の 2色ストライプのゴルフ傘を使っているが、 こいつは骨に弾力があるので、ある程度の風圧がくると勝手に「ぼこっっ」と裏返る。
非常に涼しい、というかさむい一日だった。最高気温は 20℃前後。
いま作っているのは非常に小さなものだが、 自分ではわりと丁寧に作っているつもり。 でも、やっぱドキュメンテーションがめんどくさい。
しかし、ドキュメンテーションをあなどってはいけない。 こないだワインバーグの本を読んでたら、彼は 「プログラムを書けない奴には文書書きをやらせておけという風潮」 を嘆いていた。これは (個人的には) するどい指摘に思える。 新山はいままで意識しなかったが、つまり世の中にはいまだに 「プログラミングより文書書きのほうが簡単 == バカでもできる」という 思い込みがあるのだ。実際には、これはぜんぜん逆である。 むしろいい説明文書はプログラムをちゃんと知っていないと書けないので、 これはプログラミングにさらに加えて追加の訓練が必要である。 はっきりいって、ちょっとしたアルゴリズムの設計やら実装なんて高校生でもできる。 ワインバーグが「いい文書が書ける人間を見つけるのは、 いいプログラマを見つけるよりもはるかにむずかしい」と書いているのはそういう意味だろう。 プログラミングだけで仕事が終わると思ってるやつは 間違いなく自分のケツを拭けない半端モンだということだ…。 それでも、現実にはそういう人はけっこう見かけるけど。
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Yusuke Shinyama