明日は今日よりもきっといい、と言えるのは、今日実際に何かをした人間だけ。
それにしても。
きょうわ、パソコニが、こわれてしまったので、 ブドグドの、コーチン (名古屋) が、できませに。
どうぢますふょう、.
実際、日本人以外の人が、紀伊國屋で日本コミックなどをみて 「なんでこのキャラクターが女の子なの??」などというソボクな (もっともな) 疑問を 呈しているのを見ると笑える。 (ちなみに、英語版「ウィキペたん」議論ページでも "Why a maid?" と書いてあって爆笑した。あんたは正しい!) こういう人々は漫画的なステレオタイプに 汚染されてないのだが、そうすると逆に楽しめないのだった。 つまり漫画を楽しむためには偏見はむしろ必要、なのである。 実は漫画だけじゃない、ほとんどのメディアは偏見を利用して売っている。
ちなみに、米国にきて確実に勉強になったことのひとつが、 米国では見た目で人を判断するのが日本よりも明らかに難しいということだ。 日本ではみんな人種も考え方も非常に「そろっている」ので、ステレオタイプを 構築するのがかなり簡単であるし、実際に的中率も非常に高い。 これは日本で見た目による差別が強化されてしまう原因になっていると思う。 つまり日本ではアヤしそうに見える人は実際アヤしいことが多いのである (注: 新山の基準では。ほかの人の判断は知りませぬ)。 そういう差別をなくそうと思ったら、もっとみんな「見た目を裏切る」ようなヤツに なんなきゃダメだ。しかし米国では外見による予想はかなりアテにならないので (そりゃ新山が見慣れていない人々が多いという理由もあるが)、 偏見をぶちこわすいい機会になる。
ところで (てくるで) 新山は「心」という言葉を真面目に (慣用句以外のところで) 使いたがらないようだ。なぜだろう?
夕焼け。 すこし前にとったやつで、今日のじゃないけどね。
結局 (ケッキョキ)、次世代 DVD って消費者からみてなにがいいワケ? 結論。何にもよくない。 今回はレコード→CD とか、ビデオ→DVD のときのようなわかりやすいメリットがないもんな。 売る側からみればコピーコントロールが (今度こそ) 完璧だ! というのがあるのかもしれないけど、 消費者側のメリットが画質だけじゃあねえ。おまけにフォーマット分裂ずみ。終わっとる。
あなたはまだ信じていますか?
そういえばきのうはパネリストに Cornell から Paul Francis というおっさんが来てた。 新山は知らなかったんだけど、この人こそ NAT を開発した帳本人らしい。 ipv6的にいえば諸悪の根源じゃよ。どでもよろ
ところで、言葉というものは持ち運びできる。 キリスト教は言葉を媒介にしているため、どこにでも持ち運びできる“モバイル宗教”。 しかしそれが逆に限界を作っているともいえる。
新山は google を思考のハッシュテーブルとして利用している。 いや、実際あれは中身もそのままハッシュテーブルなんだろうけど。 ある種のフレーズは、ある特定の思考体系をもった人間しか思いつかないだろうと思われるので、 それを含むページを検索すると、ある特徴をもった一連の「タイプ」の羅列が発見できることになる。 もちろんどんなフレーズかは秘密だ。組み合わせが多すぎるのでなかなか難しい。 ただしこれはまだ web でしか使えないという欠点があるケド…。 で、本当に何かを調べたいときは「検索語 wikipedia」というキーワードで入力するにかぎる。 Wikipedia の検索がもうちょい速くなってくれるといいのだが…。
会員向け鑑賞会。すんげーー混んでて、開館前からすでに行列が 入り口数百メートルにわたってずらーと人が並んでいた。 demo, はっきりいって、新山はピカソもエル・グレコもあまり好きじゃないんだよなあ。 El greco はなんかやたら暗くてオドロオドロしいし (そもそも中世の絵はあの美術館の雰囲気に合わない)、ピカソはなんか間抜けだ。 若い頃のピカソは画全体がぼんやりしてるし、後期ピカソの描く顔は失敗した福笑いみたいである。 ダリはわりと好きなんだけど (本人もキチガイっぽいし)。まあ、ピカソもある意味 「ぶっとんでる」のだろうが、この人は絵が多すぎるよ。
ねむいし。
結論: ムーアの法則を成り立たせるためには宇宙開発が必要。
そのあとのレセプションではワインとチーズをゲットし逃走。
(追記… これが学生ではなく職業研究者になったら、こんな悠長なことは言ってられなくなる (大学の給料でも今の 3倍近くになるそうだし)。 だが学問的に十分インパクトがあって、なおかつ実生活に役立つような、 そんないいアイデアを毎年毎年ポンポンと思いつく能力が自分にあるとは考えられない。 新山が職業研究者になれないと思うおもな理由はこれだ。 もちろん、そんなことをしなくても世の中、 適度に目立ってさえいれば“研究者”という肩書でやっていけるし、 またそうしている人が沢山いることは知ってる。 しかしそれは「他人がダメだから自分もダメでいい」というのと同じことで、 これまた自分が積極的に選ぶ職業を正当化する理由としてはひどく虚しいと言うしかない。)
You claim to seek progress, but you succeed mainly in whining.
(人は進歩を求めているというが、ほとんどの場合は愚痴で成功している。)-- Dennis Ritchie
__getattr__
と __setattr__
いまそこらでネコの鳴き声が!!
…アクセスログというものの存在を知らないある女が、 自分の人気を確かめようとブログロ上で自殺予告をした。 本当は犯行予告のほうが注目を集めやすかったのだが、 それだと捕まるから自殺予告にしたのである。 しかし、ほんの冗談のつもりが…
こういう小説はとても多そうだ。とっても。とっっっっっ、
教訓: 学習しない奴はバカ扱いされる。Itisatruthuniversallyacknowledgedthatasingleman.
ところが、ソフトウェアにはあんまり工学的なカッコよさを感じない。 みんなソフトを使う側の効率のよさばかり異常に気にしているが、 「作る側」の効率のよさはどれくらい考えられているのか。 おそらくほとんど考えられてない。いつも、何か新しい機能が追加されてるのを 見るたびに思うんだけど、ソフトウェアを作る側のコスト (およびそれを何年にもわたって保守していくコスト) と使う側のメリットを比べた場合、 これらは本当に見合っているといえるのか。あやしい。 プロなら、そのあたりの見極めに厳しくなければイカンと思う。けど、 ソフトウェアはいつもアマチュアっぽいというか、「感傷的すぎる」んである。 これは基本的にプログラマのひとりよがりが多いためかもしれない (しかし多勢で開発すりゃいいもんになるワケでもなし… UI に莫大な人数と研究費をつぎこんでいるはずの MS でさえアレだからなあ)。 ある新しいソフトウェアを作る (あるいは、機能を追加する) のは、 短期的にはユーザのためになるかもしれないが、 その調子で今後 10年間も開発を続けられるのか。 10年たったソフトウェアは捨てるとしたら、それで業界が維持できるのか (ソフトウェアが今後ますます巨大になっていくというのに)。 あるバケモノ (=ソフトウェア) を作り出すときに、どういう言い訳なら許される? あんた自身 (新山) はどうなんだ? 歳をとるにつれてますます仕事がキツくなっていくのは、 歳のせいばかりじゃなく、みずから進んで自分の将来をキツくするような 業界に変えてきたからじゃないのか。プログラミングをただの一発屋商売と 考えている人ならともかく (もしかすると、ほとんどの人はそうなのか??)、 少なくともプロとして生涯この仕事をつづけるつもりなら、「続けられるような職業」にするよう 努力すべきじゃないのか。実際、新参者がまともなプログラマになるための障壁は 10年前よりも今のほうがずっと高い (そりゃ、ActionScript なら簡単に使えるでしょうけれど… 道具は教育の代用品にはならないよ)。 この点についてあまりにも無反省な人が多いような気がする。 高校生がこのことを理解できなくてもしょうがないと思うけれど、 「プロ」であるはずの人でもわかってなさそうなやつはいったい何なんだ? それともこんなのはアメリカ人だけなのか? わからん。
UNIX はたしかにあんまり感傷的ではなく、一応 (表面的には) プロっぽい。 でもこれは (1970年代の技術的限界のせいで) 偶然こうなっただけのような気がする。 この原則を理解してこの方向で進めていこうという人が (とりわけ Linux ユーザには) あまりいないみたいだが、 こんなんで大丈夫なんだろうか。
同じようなことは、多かれ少なかれどの産業でもあるのかもしれない (家電とか)。 しかしソフトウェアはその複雑さが直接自分にはね返ってくるので、 志ん朝になるにこしたことはないと思う。
帰りは微妙に霧雨っていたが、雲がかなり低くたれこめているので city hall も woolworth ビルも上のほうはボンヤリして灯りだけが見え、 あたりは薄靄のかかった幽玄な雰囲気に。先々週ぐらいは激サブかったのに、 今週になったら非常にあったかくて上着もいらないほど。どうなってんだ?
日本のマスコミがいう「知る権利」にはもう飽きた。 「考える権利」をよこせ!
クラスタ1: 89.4 ロバート・トレント・ジョーンズ・トレール・マグノリアグローブ 44.9 トーナメント・オブ・チャンピオンズ 23.5 ポーラ・クリーマー 19.0 アラバマ 14.8 モビール クラスタ2: 35.2 藤沼亜衣 30.5 青森山田高 20.9 ミキハウス 19.3 福原愛 18.0 卓球 クラスタ3: 37.4 長島圭一郎 35.6 吉井小百合 35.3 小平奈緒 34.9 大菅小百合 29.3 岡崎朋美 クラスタ4: 29.2 グレートアイランド 23.0 伊藤園 14.8 千葉 10.4 レディ 10.0 アンダー クラスタ5: 39.3 大相撲九州場所 27.9 琴欧 27.9 黒海を押し出し 26.6 小手投げで 26.1 上手投げで クラスタ6: 67.8 大阪府富田林市の府営 35.5 富田林署 29.4 年の女子生徒 23.9 市立中学 20.6 女子生徒は
うーん、もうちょいデータがあればうまくいくかもね?
基本的にこのやり方は次のようなもんである:
(恐怖にゆがんだ顔で) 「あ、安楽椅子!??」
しかしあるとき非常に説得力のあるたとえを聞いた。
そういう人々にとって、人生とは「あわわわわわわ!」の繰り返しらしいのである。 つまり彼らは自主的に何かを考えたり、選択したりしているのではなく、 しじゅう「あわわわわわわ!」とやっていると。彼らにとって日常のほとんどの業務は「反射」なのだ。 ああなるほどね。そして彼らは自分が「反射している」ということすら自分では認識できていないらしい。
やるなあ、世の中。
しかし、たまには怖くない人もいるからさ。 そういう人をみつけて個人的に仲良くしてくしかないよね…
これが新山の盲点だる (この図は 96dpi で見てください):
右の青い「・」がプロットされてない部分が見えてない部分である。でがい!! こんなにデカい部分がいつも見えてないにもかかわらず、普段は片目を閉じてもこんな 欠損部分があるなどとはまったく気づかないところがすごい。それに、盲点の位置もよくデザインされてる。 この図では右目で左の + を見ているから、実際に画面の正面に見えているのは (右目を正面に向ければ) 視界の右のほう、つまり視界の周縁部にあるのだ。たしかに、 どっかに盲点をつくらなきゃいけないなら内側よりも外側のほうが不利にならないもんな。 いやーすげえよ人間て。
床屋へ行く。(tokoyah)
…って、明日は lispnyc の日じゃんか!
#trough li{ padding:3px 0 3px 5px; p\adding:3px 0; margin-left:-15px; ma\rgin-left:0; }
てくるで、日経を見ていたら「NYにユニクロがオープン」という記事があった。 何これ。やっぱカタカナなの? カッコわり〜。 新山はじつは日本でも uniqlo に一回も行ったことがない。 服はだいたいいつも久が原のジャスコで買っていたからなあ。 しかし経験によれば、だいたい外人ウケする日本製品はどれも、 平均的な日本人客にとっては「げげげげ、趣味悪い」というもんなのである。 ヒトも同様。新山はだいぶ最近まで村上隆を知らなかったんだけど、 そういえば前に MoMA でこいつのデカい絵を展示していたんだよ。 で、そのときは「ぬんじゃこのキモチ悪い絵は〜〜 (しかもでかい)」としか思わなかったんだけど、 あとになってアレがじつは村上隆の絵だったということを知った! あんなのが! なんともはや。
しかし、不幸なのは、この「趣味悪い感覚」は日→米の一方向にしか動かないことである。 これが日←米になると、すげー趣味悪くてもたいていの日本人は 「なんかスゴそう」と思ってしまう。でもこういった現象はべつに日米に限ったことじゃなくて、 国内だって「有名人のデザインした服は、たとえ趣味が悪くても『なんかスゴそう』という反応を引き起こす」 んだから、結局のところこれは「声の大きい奴が勝つ」という例の一般則の応用にすぎない。 かくしてうちらは今日もまた声の大きい奴に耳を傾けるのだ。
# オーソドックスな方法 s = '' for i in range(1000): s += str(i)
# range のかわりに xrange を使う s = '' for i in xrange(1000): s += str(i)
# リスト内包表記を使う s = ''.join([ str(i) for i in range(1000) ])
# リスト内包表記 + xrange s = ''.join([ str(i) for i in xrange(1000) ])
# ジェネレータ式を使う s = ''.join( str(i) for i in range(1000) )
# ジェネレータ式 + xrange s = ''.join( str(i) for i in xrange(1000) )
for
< ジェネレータ式」の順で速くなり、
同じ方法なら range
を使うよりも xrange
を使った方が速くなると思っていた。
なぜなら、ジェネレータや xrange を使えばリストをわざわざ構築する必要がないと思ったから。
しかし、結果はこうである:
range
のかわりに xrange
を使う : 3.37msec - (6)
xrange
: 1.80msec - (1)
xrange
: 1.93msec -(3)
なんと予想に反してリスト内包表記がいちばん速かった!
使ったのは Python 2.4 だる。
どうやらジェネレータを使う時にはオーバーヘッドが結構あるらしい。
この順位は range
の値を 1000 から 10000 に変えてみても同じである。
おもしろいのは、for
を使ったときは xrange
を使うと
かえって遅くなるということだ。この数値は最適化の方法が変われば
変わるかもしれないけど、まあこれなら speed critical な部分では
ぜんぶジェネレータ表記をやめちゃってもいいかな
(そして vnc2swf のほとんどはそういう部分である)。
そんなに読みやすさは変わんないし…。
しかしこのプログラムは yield
を一度も使っていない。
これは新山の書くコードの中では非常に珍しいことだ。
研究で使うコードでは使いまくっているからね。
socket.settimeout
が使えないじゃん。ダメか。
全然話は変わるけど、そういえば昔 fj
あたりで使われていた
「かまって君」という概念は死語になったんだろうか? いまや、人は
誰でも「かまって君」であるということが判明したからな。
Samba 開発チームから Novell へ再考のお願いNovell が 11月2日におこなった決定に対し、Samba チームは強く異議を申し立てます。
プロプライエタリなソフトウェアの世界と、フリーソフトウェアの世界との根本的な違いのひとつは、 プロプライエタリな世界ではユーザどうしの共有を制限するようなライセンス条項に強制的に同意させることによって ユーザコミュニティを分断しているのに対し、フリーソフトウェアの世界ではユーザにそのソフトウェアの 利点を共有させ、ユーザどうしの団結を促進していることです。
今回 Novell と Microsoft のあいだで交わされた特許契約は分裂をもたらすものです。 これはフリーソフトウェアのユーザおよび作成者を「商用」か「非商用」かで異なる扱いにしており、 彼らが自分たちのフリーソフトウェアを Novell から直接入手したものか、それ以外の第三者から 入手したものかにより異なる扱いをしようとするものです。
Free Software コミュニティと GNU GPL はそのような配布を認めないことを目標としています。
さらに、GPL では GPL化されたすべてのソフトウェアがソフトウェア特許に対して 一致団結して反対しなければならないと明言しています。私たちは団結することによってのみ、 ソフトウェア特許によってもたらされる脅威を防ぐチャンスがあるのです。 今回の合意により、Novell はこのような団結した防御を破壊し、Free Software コミュニティの長期的な目標を、 競争相手よりも優位に立つという Novell の短期的な目標ですりかえようとしています。
Novell にとって、このような取り引きを交わすことは Free Software コミュニティとの関係に対する 深い不信の念を意味しています。同社に供給している立場である私たち、および Novell は、 自己の目的のために Free Software コミュニティとは反対の立場を表明している人々と 取り引きする権利はないということを理解する必要があります (訳注: should know)。
フリーソフトウェアの世界で特許を武器として利用することは受け入れられません。 この件について、これまで多くの論争や議論や、カンファレンスに参加してきた Novell はこのことを知っているべきでした。私たちは Novell に対して、 Free Software コミュニティの利益の受け手として、 ソフトウェアの自由法律センター (Software Freedom Law Center) と協力し、 今回の特許契約を取り消してその責務を果たすよう要求します。
なんだかすげー文面だな。どっかの市民団体みたい。 しかしフリーソフトウェアが必ずしもユーザに文字どおりの「ソフトウェアの共有」を 促進しているかどうかは議論の分かれるところだ。 GNU は (いわゆる "Free Software" は) そう言うだろうが、 それが一番の目的かと言われれば、どうかな。
近ごろ、「主張がなければ文章を書けない」ような 強迫観念を多少感じるようになってきた。職業病というのか。 これはとても不幸なことだ。なぜなら新山は昔からとくに意味もなく ダレダレと意味不明な日本語をたれ流すのが好きだったから。
…帰りの電車の中などで、やることもなく立ちつくしているときは この日記に書くことが滝のように思い浮かぶのに、 いざ帰ってきてシャワーを浴びてメシを食ってしまうと 「ぐてーん」という感じになって何ひとつ思い出せなくなってしまふ。 都市かしら。
(今まで Advil を飲んで寝ていたというのはウソ本当)
Document ID: fcdbbe5342fde836554b064f4dec4d38
Yusuke Shinyama