言えばわかる人間に向かって、黙っていてはならない。
おしらせ:
tabesugi.net は?
あるとき人は目が醒める。 一部の人は、いっしょう目が覚めない。 しかし目がさめればそれが幸せか? と言はれれば、そうでもないあたりが世の中で。
"Truly, truly, I say to you, unless a piece of HTML falls into the Web and dies, it remains alone; but if it dies, it bears much fruit."-- John, 12 : 24
"よくよくあなたがたに言っておく。一粒の HTML が Web に落ちて 死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、 豊かに実をむすぶようになる。"-- ヨハネによる福音書、12章24節
自分で言うのもなんだが、オレってロマンチストすぎると思う。
てくるで、 なぜMSのやることはこういつもいつもダサいのか? これは永遠の謎である。巨大企業はダサくなる宿命にあるのか? しかしIBMはそうでもないように思える。思いすごしか? わからん。
# Arcfour implementation # * public domain * class Arcfour: def __init__(self, key): s = range(256) j = 0 klen = len(key) for i in xrange(256): j = (j + s[i] + ord(key[i % klen])) % 256 (s[i], s[j]) = (s[j], s[i]) self.s = s (self.i, self.j) = (0, 0) return def process(self, data): (i, j) = (self.i, self.j) s = self.s r = '' for c in data: i = (i+1) % 256 j = (j+s[i]) % 256 (s[i], s[j]) = (s[j], s[i]) k = s[(s[i]+s[j]) % 256] r += chr(ord(c) ^ k) (self.i, self.j) = (i, j) return r assert Arcfour('foo').process('bar') == '\xc9C\x9f'
しかしこのことは、必ずしもこれらの技術に関して 否定的な意見の絶対数が多いことを意味しない。 むしろ、これは心理的な問題だと思う。 つまり「恐怖戦略はつねに勝つ」ってことだ。 新山はこれらの技術に対して否定はしないけど、 べつに賛成ってワケでもない。このようなどっちつかずの 態度こそ科学的だと新山は思っているワケだが、 問題は、こういった見方を長いあいだ留保することに対して、 かならず周囲から圧力がかかってどっちか一方にころばされることだ…。
おそらく、人間は機械のように、情報を右から左へそのまま処理できない。 各所にかならず (意識的・無意識的にかかわらず) 「解釈」が入る。 この「解釈」がいちばん危険なのだ。もっとも、解釈がなかったら 世の中はこれほどつまらないものもないけど。
そうだ、そういえば昨日書きわすれたことのひとつに、 会社の昼休みに外へ出てみたら、ジンチョウゲが匂っていた。 新山はニオイと記憶を結びつける傾向が強く、あるニオイで 瞬間的に過去の記憶がフラッシュバックすることがある。 春はたいてい沈丁花の匂いに関連づけられた場面が数多くある。 といっても、具体的に思い出せるやつは少ないのだけど、 というのもそれらの記憶は曖昧で、前後の文脈がはっきりしていないのが 多いためで「ああこのニオイはあそこでかいだのと同じだが… あのときオレは何をしていたっけ?」と一瞬悩むことがある。 ちなみに、そういうもので秋の代表格はキンモクセイだろう。 ついでにいうと、米国にはどちらも存在しなかった。 Wikipediaによればジンチョウゲもキンモクセイもアジア原産で、 おもに中国から日本にかけて分布しているのだそうな。 新山はこういうものが人生における重要な要素となっているので、 はっきりいって金木犀や沈丁花の匂ってこない地域には あまり住めそうにない。
えーと、それはいいとして、 この本はいわゆる米国における「ゲーム脳本」である。原書の出版は 1990年とたいぶ古いので (日本語訳は 1992年)、ネットが登場したあとの現在では さらに書き加える場所が増えているだろうが、結論はどのみち変わらない。 ようするにこれは、わかってない中年のおばさんによるお説教である。 なにより新山がアホだと思うのは、著者がやたらと「若者の脳が」「神経学が」という 用語をふりまわしていて、必要以上に問題を“科学的”に見せようとしているところだ。 スティーブン・ピンカーだってこれほどには言わねえよ。おそらく科学的な 教養のない人ほど「脳」とか「遺伝子」というキーワードにダマされやすいのだろうが… ま、ゲーム脳もそんな感じだったしな (てくるで、竹内久美子ってまだ生きてんの?)。 で、この本の議論というのはこうだ。 「若者の成績テストの結果が落ちている」のは、彼らの 「言語能力が低下してきた」からで、それは子供たちが 「視覚的な刺激を受けすぎている」ためであり、つまりは、テレビを禁止しろ! ゲームを禁止しろ! ってワケです。なんか、どっかで聞いたような議論ですよね…。 とどのつまった(?) 要旨は昔からあるテレビ批判と変わらない。 テレビは 60年代からすでにこういった批判に容赦なくさらされてきたと思うが、 たぶんその前にはラジオに対して同じような批判があったはずだ。 このテの技術に対する批判はいつになっても続くだろう。90年前半と比べて 今ならさらに批判対象が増えていて (120%増量!) イイ感じでしょうよ。
暇なので (というか、書きなぐりたい気分なので、) この本の具体的な批判をしてみる。 たとえば p.142 にはテレビとゲームが子供に与える影響が羅列されている。以下、抜粋:
上のうちいくつに [要出典] がつくのか知らないが、おかしいのは 「右脳型人間を作る」のが悪い効能のように言われていることだ。 日本では、「右脳型人間」ってなんか「直感的」とか「創造的」とか、 いいイメージで語られる (語られた、80年代ごろには) じゃない? どうやらこの著者は 「視覚的なものは非言語的であり、したがって右脳的だ」と考えているらしい。 で、このヒトの意見では「言語能力は教育にとって欠かせないもので、 したがって視覚的な情報を過剰に与えるものは現代の教育にとって有害だ (== 著者が「標準」と考えているペーパーテストの成績を下げる)」ということである。 あっったまいいい! 明らかにこういう人々は、視覚情報のみによって 自然言語 (手話) が構成されうるということを示したストーキーの業績を知らないようである。 視覚情報だろうが嗅覚情報だろうが人間の脳にとってはシンボルになりうるとは 考えないんだろうか? ちなみに 2. とか 3. は実際に正しそうである。 そりゃ常識的に考えてテレビを見るときは (テレビに対して) 積極的になるだろうし、 画面に集中してれば注意散漫にもなるだろうよ。なぜなら視覚からもたらされる 情報量を処理するのはかなり大変なんだから! 「ビデオは読み書きの能力を死滅させる」ってのも意味不明だが、 読み書きの能力がなくなってきたのは、それがなくてもやっていける時代だからと 考えるほうが自然じゃないんだろうか? 必要とされる能力が以前とは変わっているのだから、 測定方法を変えなければ成績は落ちてトーゼンである。では、かわりに どんな能力が必要とされるようになってきたのか、それを測定する (あるいは改善) するには どうすればいいのか、それこそが現在の“科学的な”問題だと思えるんだけど。
で、じつは新山は「テクノロジーに頼りすぎるな」という主張には個人的には賛成である。 だけどそれは子供がアホっぽい行動をとるようになっているからとか、 社会の風俗が乱れてきているからとか、コンピュータが反乱を起こす危険性があるからとか、 そんな安っぽい理由じゃない。技術が複雑になりすぎた社会を 懸念している人はかなり多いと思うのだけど、その理由が 「子供の成績が落ちているから」というのは、あまりにも子供をダシにしすぎている。 「病気」をキーワードに人を脅してるエセ健康食品屋といっしょだ。
どうでもいいけど[要出典]で思い出したのだが、誰か 「Wikipedia日本語版に出典をつける会」ってのをやんないのかね? これは文字どおり、どっかの図書館 (なるたけ大きなところ) にこもって、 蔵書にあたりながら、記事という記事に片っぱしから出典をつける 作業をやる会である。ヒジョーに地味なボランティアだが、 現在のウィキッペ日本語版はどうにも出典が少なすぎるので、 誰かがまとまって一気にやっつけたほうが効率がいい。 問題はたいていの図書館でWiFiが整備されてないことだ。 NYPLではどこもOKだったが、最近は日本でもよくなってきているのかね? できれば図書館の協力が得られればなおよし。司書の方に参加してもらうと最高。 べつに新山が個人的に始めてもいいのだが…
会社から帰ってきてからね!
これは fooling に実装したアルゴリズムを解説したものである。 これは、fooling のコード自体としては、 すでに去年の夏ごろにはできていたのだが、 ドキュメンテーションに今までかかっていた。というのは、きちんと アルゴリズムを「論文調で」残しておくべきだと思ったからだ。 それと fooling の実装には tcdb が使われており、まず tcdb の 解説文書を書かなければならなかった (必須ではなかったけど)。そんなこんなで、 これだけ時間がかかっていたのだ。技術的な文書を書くというのは本当に大変で、 頭が非常にサエてるときでないとほとんど書けないから、毎日の進み具合はのろかった。
基本的に Fooling 自体は、実装としてはべつに速くもないし、地味でもあるしで、 そんなに使われないだろう。python で書かれているしね…。しかし、 そのアルゴリズムはきちんと文書化しておく必要がある。 「実装は忘れ去られても、アルゴリズムは残る」と、 ヘンリー・ロイスも言っていた。ちなみに、これは新山の仕事とは 関係ない。まあ、そのうち関係するかもしんないけど、 いまのところは純粋な趣味である。
新山は論文を書かなくなってからしばらく時間がたった。 オレはもう研究者じゃないから今は論文も書く必要がないのだが、 いまになって、ようやく「どういう論文を書くべきか」がもう少しよくわかってきたような 気のする。それは取り上げるテーマや手法という話ではなく、スタイルという面で。 論文が新奇なアイデアを紹介した面白いものでなければならないのはもちろんだ。 が、読む側にとってはもうひとつの重要な基準がある。 それは、論文が「道しるべ」としての役割を果たすということである (こんな基本的なことに今さら気づいたなんて、どっかの先生から見ると 笑われそうだが、いまさら気づいたんだよ!)。その研究が成功であれ失敗であれ、 アホなものであれ笑えるものであれ、それがなんらかの「道しるべ」として あとからくる人の役に立てば、その論文は役に立つ。華々しい結果を 書くのはいいのだが、それはつねに「あとからくる人のため」に 残しておくものでしかない。科学とゆうのは自分でケーキをつくって、 それを食わずに冷蔵庫に残して立ち去るようなところがある。
まあ実際には、道しるべどころか本のシオリにもならない 論文 (というか紙) がいっぱいあるけどね…。ああ、あんたですかい?
世の中には「人前で (公に) ホメられる」ことを重視する人と、 「個人的にホメられる」ことを重視する人がいるように思う。 新山は圧倒的に後者のほうだ。だから他人にもそのようにするわけで…。 実際には、ほとんどの人は後者を望んでいると思う (内心では)。 ただ人は、明るいものに寄っていく習性があんのね、虫とかと同じように。 オレは電灯のほうはあんまり見ないんだよ、目を悪くするから。
追記。そういう意味では、いまの会社には新山はとても満足している。 なぜなら、組織がまったく等身大だから。社長はいつも見えるとこにいるし、 社員全員の名前もおおまかな仕事内容も知ってる。 大企業で働きたがる人間の感覚ってまったくわからんね。 (いや、まあ想像はつくけど。人格より所属のほうが大切なんだよね。)
このニッキはなるべく「自分が (その内容を) 面白いと思うページ」に したいと思って書いており、つまりは新山以外の人間が書いても (匿名で書いても)、 新山が見て「面白い」と思えるようなページにしたいと心がけている。 その意味で、本当はオレが自分で書かなくてもいい。 しかし世の中にはこれと違って 「面白い自分を内容としたページ (『面白い』が『自分』を修飾している)」を書く人々が存在し、これらは要するに その作者を知らなかったら、誰も見向きもしないようなページとゆうことだ。 しかし、後者のようなページを作りたい人って多いのかなあ。
“文化的”な有名人になりたがっている人 (ネットにもそういう人がいるでしょう) は、 ようするに名前を売りたいわけだが、それの真に意味するところは 「つまんないことを言っても注目される人間」になりたい、ということである。 連中がこのことに気づいているかは別として…。 それを堕落以外の何と呼ぶだろうか? つまり世の中にはそれを望む人が沢山いるのだ。ふしぎな人々ですね。
それにしても、以上のことをふまえてもだな、 最近オレがここに書いてることは面白くないぞ! なんとかしろ。 もうフテネしたい、フテネ。
Wikipedia (英語版) によれば、「ネオコンの父」 アーヴィング・クリストルがいうところの「ネオコン・5つの柱」とは、 以下のようなものである:
ちなみに、こっから 3., 4., 5. をなくして 「外国のことなんかドーでもいいよ主義」を加えると、 Ron Paul の主張するリバータリアニズムになる、ようだ。 ちなみに民主党 (いわゆる「リベラル」) は 1. と 2. については これとまったく逆の方針で、3. もわりと逆である。 米国の大統領選って、おもしろいよなあ。というのは、 Wikipedia の各候補者のページをみると、たいてい 「Political View」とかいう項目があって、
もし究極のDRMシステムといったものがあるとしたら… それは人間の網膜や視神経に直接、視覚情報を送りこむようなものになるだろう。 それは各人の神経パターンにあわせて最適化されているので、 同じものをコピーしても他人にはなんだかわからないのである。
Do you want that kind of world? I fuckin' don't.
だれか、目を覚ませって言えばいいんだと思う。ようする に
IT関連本といえば、(どうでもいいけど (どうでもよro)、 新山は日本に帰ってきてから、いまだに自分のサイフの ヒモを緩めるに値する本を一冊もめっけていないのだが、 これは探し方が足りないのだろうか) XP やら CMM やら、 それ以外にもマーケティングやら “ビジネス戦略”系の本というのは、 どれもこれも自己啓発の棺桶に片足つっこんでるようなのばっか多い。 これは一体なぜなんだろう、と考える。結局、この手の本は 具体的な手順についてはほとんど書けないので (だってそれらは業務ごとに違うのだから)、抽象的な 「お題目」に終始することになるのだが、それがヘンにお行儀がよくって 優等生的でムカつくのばっか。しかもこれらのお題目は たいていアドバイスが半端に具体的で、深遠さとかユーモアがまったくないので、 迷言として覚えるにも値しない、ようするに生ゴミだ。 自己啓発本に金を払うのは、google の広告に金を払うようなもんである。 つまり「一体、オレが買う商品の価値を決めているのは誰なのか????」 という (ほぼ永久に検証不可能な) 問いから逃れられない。 あるいは、1万円の Levis とか、某教会のつぼとかでも 似たようなもんだろう。いや、これらは明確な商品なんだからある意味まだマシかな。
で、話はIT関連書籍の自己啓発っぽさ (をバカにする話) に戻るのだが…。
この手の話で新山がいつもガッカリするのは、そのあまりにも
「薄っぺらな情報の多さ」である (←ヘンな日本語だ?)。
その顕著な例がスローガンとか、法則といった代物 (だいぶつ) だ。
いったい人はなぜこうも「法則」が好きなんだろう。
“情報を共有し、促進しよう
”とかいったたぐいのやつである。
ハア?? i dont get it. もっと具体的に言ってほしいんですが。
しかし人は (…ここでいう“人”というのは、著者とそれをありがたがる読者のことである、
こいつらはようするに共犯関係なのだ) 決して具体的には言わない。それは
ひとつは状況がばらつきすぎて実際に具体的に言えないということと、
もうひとつは、この手の法則は具体的に言ったとたんにその一般性を失い、
安っぽく聞こえるようになるからである。もう最初から十分安っぽいよ!
こうった書物をありがたがる人に聞きたいが、あんたはこの手の
「法則」をやすやすと信じこむほど、
それほどまでに自分の頭に絶望しているのかい?
それほどまでに自分の足元の常識というものがおぼつかないものだと思ってるのか?
カンベンしてくれ。ソフトウェア開発に関する本で読むに値する唯一の本は、
(いまだに!) 「プログラミングの心理学」しか見つかっていない。
だけどオレはべつにワインバーグがとくに好きなわけじゃないんだ。
実際、彼はこれ以外にもっとコンサル向けの教科書っぽい本も出してて、
そっちは全然読むに値しない。
「プログラミングの心理学」がいいのは、 この本が適度にとぼけた書き方をしているところだ。 この本はよくあるビジネス書のように「成功!」という目標に向かって 書かれてはいない (それがどんな意味であれ)。 むしろこれはどちらかといえば「プログラミングにとって、 人生とは何か?」という、ワインバーグの独り語りのような構成になっている。 そんで、この本を読んでも具体的なアドバイスはたいして書かれていない。 でも、そこがいいんだと思う。 この本には読者にアドバイスを与えず、そのかわりに考えこませる。 唯一この本にメッセージらしきものがあるとすれば、それは結局のところ 「ソフトウェア開発に必要な常識は、 その他の人生すべてで必要な常識とまったく同じものだ」という だけのことである。だけど悲しいことに、新山もこれがわかるのに 30年もの時間を要した。しかしここまで人間に主眼を置いてしまうと、もはや 「成功」とか「目標」とか「法則」といった単語は、ただの空虚な灰色用語にしか聞こえない。 もし人生に有効な「法則」とでもいうものがあるとすれば、 それは人から教えられたものではなく、そいつの人生が 自分で考えたすえ身につけたものに違いないと思う。 新山はいまでもそう思っている。でもこれは新山の考え方かもしれない。 トーベ・ヤンソンは、(ムーミン以外にも) いろいろな小説の中で登場人物たちに 「人間は結局のところ、自分自身の手で過ちをおかさなければいけない」 と言わせている。他人の過ちを見て笑うだけでは我がフリは直せないのだった、残念ながら。
今日が祝日だということを忘れて出勤。
です。
だいたい、なんの祝日だ? ケンコー記念日? 犬酷? そんなの、覚えてねえええよ! しかし、日本国においては 異常なのはオレであって日本ではない。くそったれ。 今朝はナーンの疑いもなく 8時20分ごろに家を出て、 「なんか道に人が少ないかな」とか思っていた。 で、近所にある某社の工場のシャッターが閉まっていたので、 ちょっとイヤな予感がしたのだが、そのすぐ横で工事をやっていたので 「祝日に工事をやるはずあるめえ」と思って気をぬいてた。 しかし途中 通る道すべてで、いつもいるはずの通勤途中の人間がおらず、 イヤな予感はどんどん高まっていき、ついにそれは タカダノバビー周辺に来たとき確信に達した。
「やすみだ〜〜〜〜〜〜! ガーソ。」
しかしここまで来てしまって帰るのももったいない(?)ので、 今日は一日ふつうに会社で作業をしていた。といっても、仕事ではなくて 趣味の開発である。まあ、今日の分の 電気代その他は横領した形になるが…。 はからずも「会社で趣味のコードを書きたい」というきのうの願望がかなえられた ことになった (ま、でも日記は書かなかったけれどね)。
さいきん、あまりここにまともな (つまり、デンピーな) 日記を書かなくなった。 べつに時間がなくなったせいではない。時間はたっぷりあるのに、なぜか 書く気にならないのだ。ひとつは物理的な環境のせいもある。新山は食卓で PowerBook をいじっているのだが、こいつのキーボードは疲れるし、 画面もなんか微妙に小さくて疲れるし、イスもよくない。これでは 落ちついてプログラムや文章が書ける環境にならない。ノートパソコンで 嫌なのはキーが水平なことだ。新山は必ずキーボードを傾けて (後の足を上げて) 打つタイプなので、キーが平らだと上のほうのキーを打つのがおっくうになり、 ストレスがたまる。おまけにこの Mac はどういうわけか Control (= CapsLock) が ときどきロックした状態になる。これはすんげーームカつく。 それに音楽を変えたいときも iTunes はキーボードじゃ使いにくいし、 ぶつくさ。
ホントいうと、会社で日記を書けばさぞかし書きやすいと思う。 会社には (大学で使っていた) 例の unicomp キーボードを持っていってあるし、 VM 上だけど kterm と fvwm と screen が走っているので、仕事はとても やりやすい。おまけに、新山は一日のうちにとても頭がサエる時間があるのだが、 それは朝と夕方なのだ。晩飯を食ってからはたいてい何もやる気が起きず、 死んだ状態になっている。しかし会社ではサエた頭で日記を書くよりも そのぶんを仕事に使わねばならず、したがってたいてい一日の「励起した状態」は ほとんど仕事で消費されてしまう。まあこれはいいことかもしれないが、 正直、大学で日記を書いていたときは楽しかった。
あーやっぱり腕が疲れてきたよチクショウ。やはり、まともに趣味として PC を使うためにはもっといいブツを買う必要があるようである。 とくに画面とキーボードがちゃんとしたやつ。 っていうか、家庭用のデスクトップって今はあんまりないよね。 なんか、一体型のヘンなのばかり。いや、一体型でもべつに文句はないのだけど (Linux が動けば)。新山はスペックにあまりこだわらないので、 Acer とかの安いヤツでもいいんだけどな。OS とかいらないし。 まあそれはそれでまた考えればいいとして…。
>>> u'あ'.isalpha() True
ふんげa
dis な play ってどういう意味なんだろう? なんか "downplay" と 似たような語感があるが、いちどこう思ってしまうと "display" という単語を見るたびにこの考えにとらわれてしまう、 ああもうダメだ。
すばらしい国だ! つまり、この国においては意思決定というもんが存在しない、 つうか、する必要がない。なぜなら、日本国民においては ひとつの意思しか存在しないからである。 we-are-one-people we-shall-prevail.
ところで (てくるで) Ann Coulter って日本人にどう説明すればいいんだろう。 「20歳若い (そしてさらに過激なバージョンの) 桜井よしこ」か? でも Ann coulter のバカさ加減は半端じゃないぞ。 いちばん秀逸だったのは、UK の Guardian だかどっかが言ったとされる "Rush Limbaugh in a miniskirt" というたとえである。 これ最高。あまりも強烈で、夢に出てきそう。 しかし、そもそも日本人は Rush Limbaugh 自体を知らない。 新山も、最近まであんなブクブクしたおっさんだとは知らなかった。 さぞかしミニスカートがよく似合いそうである。
「万人にピッタリ合う靴」などというものが存在しえないことは、 誰でも知ってる。なのに「万人に健康的な体型」 「万人に健康的な食品」が存在するという幻想に 人がやすやすと騙されるのはナゼだろうね?
もちろん、万人にとって正しいプログラミング言語や 万人にとって正しいOSは存在する。 それはたしかだ、間違いない。 はっはっはぁ。
(追伸) いったい、いつになったら frんdy.
どうでもいいけど MS はなぜそんなに Gooogle のケツを追うのが好きなのか。 そんなことより連中は「第二の Windows ME」と呼ばれているブツを なんとかしたほうがいいだろう。
くそったれ。
いや、食品の安全性がどうでもいいといっているワケではない。 でもべつにトップニュースで毎日経過を追いつづけるような問題ではない。 つうか、ある程度、話がまとまってから載せてくれりゃいいだろう。 しかし、ほかに大衆の興味をひきそうな話題 (懸念すべき話題) がなかったんだろうよ。そういう意味で、ニッポンは平和なぬである。 そしていつもマスコミの fearmonger (恐怖を煽りたてる) 戦略はむかつく。 この戦略はどこの国でも変わらない。食品が危険だとか、雪崩が危険だとか、 移民で犯罪が増えるとか、政治家がウソついてるとか、爆弾テロが危険だとか、 NHKがやらせだとか、bullshit! 知らなくて驚くかもしれないけど、 ギョーザを食うよりもそこらの道を歩いてるほうが死ぬ確率が高いんだよ。 これだけがメディアを売る方法だとしたらガッカリだ。
さて、会社に行くか。
さて、Windows しか使ったことないプログラマーから、 「Linuxって…よくわかんない」と言われた経験は誰にでもあるだろう (統計によれば、全国で2億5千万人ぐらいの人がこういった経験をしている)。 で、「いろんな人の寄せ集めで作られた、ソースコードがオープンなテキトーな OS です」とかいう説明をしても、それはそれで間違っていないと思うのだが、 それでもピンときてくれる人は少ない。なぜか? っていうと、新山の推測は、 おそらく Windows を使っている人々はそもそも「OS」が何を指しているのか よくわかってないからで、彼らはそもそも構造的にまったく違っていそうな (実際にはたいして違っていないのだが) モノを理解できずに途方に暮れるのである。 でもこれは彼らがバカなのじゃなく、むしろ彼らが MS に化かされている、といったほうが正しい。
Word や Excel はさすがに OS じゃない、というのは (いくらなんでも プログラマーと呼ばれる人々ならば) わかっていそうだが、explorer.exe とか IE はどうなんだ? MS によればこれらも「OS の一部」なんだからな。 彼らの戦略は昔からこの境界をあいまいにすることだったわけだ。 それに Windows は描画サブシステムが (X や Quartz のように) きちんと分離していないので、なおさら「OS のコアな部分」を 意識することが少ない。開発環境もそうだ。なんでも IDE で ごたまぜにされているので、エディタとコンパイラとデバッガの 境界がわかりにくいようになっている。しかし、彼らは (プログラマーであれば) Win32 API のどの機能が具体的にどの DLL に依存するかは知っているはずだから、 「DLL 一個 (あるいは数個)」が、Linux (あるいは UNIX) の どのコンポーネント名に対応しているかを教えれば、だいたい 感覚をつかんでもらえるのではないかと思う。つまり、
システムを設計する人間にとって、ある機能が抽象化された 「レイヤー」を考える、という作業は、ほとんど数学者にとっての 述語論理みたいに重要なことなのに、Windows を使っているプログラマーは この概念に触れる (触れさせられる、exposed される) 機会があまりにも少ない。これが「Windows ばっかり使っている プログラマーはダメである」ということの根拠だ。 しかし「ダメ」とはいっても、彼らは十分にいいコードを書くのかもしれないが、 抽象的な概念を学ばなければ、遠くを見わたす機会を与えられず、 ひたすら近視眼的な労働に従事することになってしまうよ。 なてしまうあるね。それが好きなら話は別だケド。
あ、Webアプリでこの手の概念がすべて学べると思っているやつはただのアホだね!
Document ID: a4ea9233cbb04c429ebbeeb3648a0817
Yusuke Shinyama