インスタントな人生でも逞しく育ってほしい。
ということに対して。
今日は、いつもより空気がかなり澄んでいたと思った。 自転車に乗っていてもそれがわかるのだ。雨が降ったからだろうか。 こうしてみると、東京もかなり空気が汚いのかもしれないなあ。 ベイジンほどではないにせよ。。。///
てくるで (ところで)、きょうふと気づいたのだが、 オレが帰りにいつも通っている新目白道りの一部は豊島区だったらしい (イケブクロ区??? ddy.)。 つまり、オレは気ずかないうちに 3つの区を毎日、通っていたワケだ。 練馬区はさすがに通ってないだろう。…いや、どうかな??
どうでもよ爐 (ddr)。
オレとか彼とか彼女とかに対する言葉。人生において「したたかさ」はたしかに必要だ。 でもそれだけでは、自分をものにすることはできない。
この宇宙がパンのみみからできていると知ったら、あんたは驚く。 それはまちがいない。問題なのは詩的な部分とそうでない部分をひとつの日記の中に混在させることで、 これは昔から自我と彼岸の可和讃的平均的として語られていた。 すくなくとも、レヴィ紀では。
死んでから、自分とはまったく別のものにされてしまう人は多い。 ウチのジイちゃんだって、生前は仏壇とか葬式とかに近寄るのも大嫌いだったのに、 ついにそいつの中に入れられてしまった。
…さて、バカなのはいいとして、今日は朝から「もう来なくていいよ」と言われるために病院へ行き、 そのごセンタクをし、昼食後に先週借りた傘を返しに近所のスーパーへ買い物に行き (やっぱり品揃えはよくなかった)、そのあとエアコンを買いに電気屋へ行き、 既存エアコンの廃棄料について大家と電話交渉をし、そのあとは図書館へ行き、 帰りにもう一度、別のスーパーへ行き、帰ってきて洗濯物をとりこみ、 やっと今コーヒーでお茶にする (?? ヘン謎な日本語) ことができたわけだ。 なんだか、ずいぶんイロンなことをしたような気のする。 まあそういうわけ。ddy.
残念ながら、自分が長野県に生まれてきたことを誇りに思うね。まことに残念ながら。
まあ、いまのところは。
言いかえると、本というものは答えを見つけるために読むのではない。 答えは自分で見つけるもので、本は問題を気づかせてくれるためにあるものだ。
ご心配といえば、一昨日とても怖い話を聞いた。うちの会社のある人が、 先週ホームから落ちたというのである! …さいわい、すぐに這い上がれて怪我もなく無事だったらしいが、 山手線のホームだったというから、タイミングが悪けりゃほんとに最悪の事態になっていたわけだ。 しかし話を聞くと、盲人というのはみな一度はホームから転落したことがあるらしい。 ある意味「盲人はホームから落ちて一人前」ともいえるほどによくある事故で、 むしろその人が今まで落ちなかったのがラッキーだったといえる。 しかし、そりゃますます怖い話だ。そう考えると、今までただのジャマな柵だと思っていた あの可動式ホーム (? 何ていうのあれ正式名称 ?) もあんがいバカにできないしろもの (大仏、だいぶつ) なんだな。。。
AdvFS は Digital UNIX の時代から使われていたが、 ファイルシステムの動的な拡張やデバイスのホットスワップ、そしてスナップショットなどができる すぐれものの fs である。ようするに、これは 1990年代からある ZFS のようなものだ。しかし AdvFS が本当にすごいのは、これが 10年前にすでに v4.0で「枯れた」システムだったことである。 新山も使ったことがあるが、当時は慣れていないので怖かった (だって研究室全員のホームディレクトリが入ってるディスクを移動させる作業だったんだもん、そりゃ怖いよ)。 かつての altavista もストレージは AdvFS で作られていたという。いまZFSと比べてもぜんぜん見劣りしない。 当時 linux ではまだ ext2 が主流だったことを考えると、いかに DEC が先進的だったかということだな。 OSはフル 64ビットアドレッシングだったし、完全に時代の 10年先を行っていた。 これは、この業界ではトンでもなくすごいことなのだが、たぶんスゴすぎて誰もついてこれなかったんで 売れなかったのだろう。惜しいことよ。
いっぽうで、ZFS はまだそんなに信頼性がない (とくに 32bit 環境下では) という話もある。 それにこれは linux には永久に移植できないようなライセンスになっているし…。 しかしこの AdvFS を linux に移植するのもまたかなり大変だろうけど、 とにかく設計文書は勉強になる。
わかるかな?
あいかわらず、新山にとって 「世界で、もっともエキサイティングな場所」は図書館のようである。 いや、エキサイティングな場所はほかにも沢山あるのだが、 それは「まだ自分が行ったことのない場所」なので、現在のところ それについての感想を書くことはできないのだった。 そういえば、1年ぐらい前は地球の反対側にいったんだっけな。 しかしいま興味があるのは、もっと近くの場所である。
日本における死刑廃止論に対するよくある反論は「それじゃあ、お前の家族が殺されても死刑に反対するのか」 というものである。それに対する新山の答えは、トーーーゼン賛成するに決まってんじゃん。 というか、新山の場合はむしろ積極的に死刑執行に参加したいって言うかもね。しかし、ここで重要な点は、 このときの新山は冷静ではなくなっているのである。周囲の誰もそんな新山のタワゴトをまじめに受けとっては いけない。基本的に、集団は個人よりも冷静な判断ができるはずだ。 集団としての社会は、少数の感情的になった人間の暴走を抑える義務がある。 よく「被害者の遺族感情を考慮して」ってのを聞くけれど、 もちろん遺族にも権利はあるだろう。しかし、彼らといえども人を殺す権利はないと思う。 それにムカつくのは死刑をやたらに主張する無関係な周囲の人間である。 あんたら、どーせ他人の死刑でウサを晴らしたいダケだろ? と思ってしまう。 昔から処刑は庶民のストレス発散のための見世物として利用されていた。にもかかわらず、いまの人間は 実際の死刑を見るのはイヤがるだろう。彼らは汚いモノは見たくないし、殺すだけならゲームで十分だからね。 こうした連中はただ単に抽象的に「罰した」という感覚が欲しいだけなのだ。 ようするに、北朝鮮をやたら批判してる連中と一緒である。新山は義憤というもの (の正当性) を信じてない。
そもそも「死刑が犯罪抑止になる」などという議論はウソだ。これは統計的にみてもそうだし、 理屈で考えてもそうである。出典は忘れたが、ある犯罪心理学かなにかの 研究者がそのことをわかりやすく説明していた。彼女いわく、 人が殺人をする動機には大きくわけて 3パターンあるそうな:
集団主義のはずの日本人が、いったいなぜこの問題になると集団の和よりも (遺族の) 個人的な感情をそれほどまでに優先するのか、いままでオレにはわからなかった。 死刑制度でなによりひどいと思うのは、これが「国家の名において」実行されることだ。 つまり、新山も (望まない) 殺人に加担していることになっている。 そんなに遺族の感情が重要なら、遺族に殺させればいいのに。江戸時代には、 遺族が仇討ちをすることは公認されていた。…しかし最近あることを考えついた。 それは心中理論だ、つまり「みんなで憎めば怖くない」理論、である。あるいは「みんなで殺せば怖くない理論」ともいう。 遺族だけにムカつかせておくのはあまりにも荷が重すぎるだろうから、 国民全体でムカつくことによって、遺族のどす黒い感情を「うすめてあげよう」というのである。 そして国家の名において復讐に加担してあげる、そうすれば誰も一人で責任とらなくてすむから、 ということだと思う。しかし、ひどい話だ。
新山にとって、日本で死刑が人気なもうひとつの大きな理由と思えるのは、 それは「死ねば浄化される」という根強い考え方ではないか、と思う。 つまり死んだ人間を悪く言わない、ということで、執行されればそれからあとは問わない、 という風潮ができあがっている。この観点からいくと、むしろ死刑は救いですらある。 逆に、新山のような人間は「死ぬのと許されるのは無関係」と考えているので、 ある意味でほかの人間よりもずっと残酷かもしれない。 しかし日本の死刑制度で一番の問題は、こういう話をだれも好きこのんでしないことだ。 たぶん。
てくるで (てくるで)、「ネヴォーチタ (“ヴォ”にアクセント)」ってなんかロシヤ語の単語みたいに聞こえない?
今週末こそはトコヤに行くこと!
「中小企業は、ボーナスすくねー」
…とゆうことだ。いや、べつに新山としては、ボーナスなんてもらえるだけで感謝、 ってレベルなんですが (奨学金にはボーナスなんてなかったし)、相対的にという意味である。 とくに大企業の連中と比べるとすごいぜ。奴らは、ケタが違うぜ。 そもそも通常の手取りでもかなりの差があるのだが、 あれじゃー車だって買えちゃうよな。ま、オレはべつに欲しい物もないから いいんだけど、なんとなく世の中にある「格差」というものを 実感してしまった。すごいよ。これが経済とゆうものか! と思うね。 しかし、幸か不幸か新山はまったく問題を感じないのだった。 もうすこし欲があったほうが人生は豊かになるのかもしれないが…。 わからん。でも同時に、オレはすでにこれ以上ないくらい贅沢な人間だとも思う。 どっちなのよ?
でも、ふと思ったのだが、実はああいう性格の人間は潜在的にかなり多いのかもしれない。 たとえば、ここに例の加藤某とはまったく逆の境遇であるような人物 - 一流大学を出て、いま大企業でいいカネを稼いでいる (そして、それを自分の能力のおかげだと信じて疑わない) 人物 A を考えよう。この人物は現状に満足しており、現在の社会を全面的に肯定しているのだが、 この 2人の考え方は根っこのところでは似たようなもんだ。 それは「世の中は合理的である」 -- つまり、能力のある者は報われ、 ない者は淘汰されるといった信念である。加藤某が人を殺し、 A が人を殺さないのは、たまたま加藤ナニガシが「淘汰された」側であり、 A が「報われた」側だったからだ。両者の背後にある理屈はまったく同じで、 加藤某は「この社会は (能力のない者が淘汰されるから) ダメだ」と考え、不満をつのらせる一方、 A のほうは「この社会は (能力のある者が報われるから) よい社会だ」と考え、保守的になる。 どちらにとっても、この手の合理主義は自己の行為の正当化のために使われる。 だからもし A を加藤某と同じような境遇に置いたら、社会に不満をもつ (そして、ついには人を殺しだすかもしれない) ということは十分にありうるのだ。 で、新山はこうした「合理主義的人生観」をもつ連中が大っ嫌いだ。前にも書いたが、 あまりにもキライなので何度でも書く。キライというよりは、本当は恐怖してるんだと思うが、 その理由はうまく説明できない。ひょっとすると同族嫌悪なのかもしれない。 たしかにこうした考え方は、プログラミングをやっている人間には多そうだ。 プログラミングというのは、あるレベルでは非常に合理主義的な、 理屈っぽい考え方をする必要があるので、この方法をプログラミングの範囲を超えて 適用したがる人間がいてもおかしくはない。が… それでも、あるレベルをこえて合理的になるのは、新山には傲慢にしか見えない。
基本的に、新山は自分の人生にとってのプラス、マイナスという観点で ものを考えないようにしている。どうせ自分は死ぬまで (というか死んでも!) 何もわかっちゃいないのだから。 あとは何もわからないままで死ぬ覚悟ができているかどうかが問題だが、 とにかく、これからもオレは自分の人生をひたすら意味不明な、 ワケのわからないものにするよう努力するつもりだ。 それは、そんなに簡単なことではない。
さてここで、OpenBSD で PCC の開発を進めている Theo様のインタヴュー:
インタビュアー: OpenBSDで、PCCがGCCの代わりになるまでにはどれくらいかかるんでしょう。
Theo de Raadt: まだ、かなりかかるね。とはいえ i386ツリーのかなりの部分はコンパイルできるんだが、 まだ PIC やそのほかのアーキテクチャが欠けている。 それに gcc のいろんな拡張機能はとても重要だ。
インタビュアー: GPLライセンスのコードを OpenBSD から除くにあたって、 ほかにどういった障害がありますか?
Theo de Raadt: そんな計画は今までに一度だってないよ。一部の人々は、 ぼくらが GNU のコードを嫌ってると思ってるらしいが、 ぼくらが本当に嫌ってるのは巨大なコードなんだ。それからバグがあるコードで、 上流が保守していないもの。本当の問題はそこだ。 ... gcc は、新しいリリースが出るたびに毎回 5〜6% ずつ遅くなっている。 そして新しいバグが出てきて、アホなコードを吐いて、うちらの頭をおかしくしちまう。 PCC は何かもっといいものができないかという試みのひとつなんだよ。
ちなみに、gcc は Cコンパイラの実装としてもかなり「終わって」いる。 これはもとから内部の各モジュールが分離できないように わざとからみあって設計されている。つまり GPL な部分を 分離して商用コードをくっつけられないようにしてあるらしい。 だから構文解析や中間コード生成にフックを入れるのはものすごく大変だ。 たしか RMS 自身がそのことをどっかで説明してたんだけど見つからない。 それから undeadly.org で Marc Espie がいっているように、 現在 gcc を開発しているのはもはやボランティアグループなどではない。 かれらは RedHat や Apple だ。 こういう企業の仕事を「フリー (自由な)」ソフトウェアと呼ぶにはもう無理があるよ。
(追記) うちの先祖は武士ではないので、この「しんやま」という苗字は オレの祖先が高田にいたころテキトーにつけたものだと思われる。 てくるで「先祖」と「祖先」ってどう違うんだ?
あるディレクトリ X
の中に、Y
というモジュールがあるとする:
X/Y.py
X
の中に、
ディレクトリと同じ名前をもつモジュール X/X.py
があってはならない。
もしあると、Y
中で定義されたクラスは pickle できなくなる。
どういうことかって?
上の場合はふつうに動く。ところが、こうすると…
$ ls -l
drwxr-xr-x 2 euske 4096 Jun 18 21:04 X
-rw-r--r-- 1 euske 22 Jun 18 21:04 foo.py
$ ls -l X
-rw-r--r-- 1 euske 0 Jun 18 21:04 __init__.py
-rw-r--r-- 1 euske 107 Jun 18 21:03 Y.py
$ cat X/Y.py
import cPickle
class A(object): pass
def doit():
print cPickle.dumps(A())
if __name__ == '__main__': doit()
$ cat foo.py
import X.Y
X.Y.doit()
$ python foo.py
$
動かなくなる:
$ touch X/X.py
$ ls -l X
-rw-r--r-- 1 euske 0 Jun 18 21:04 __init__.py
-rw-r--r-- 1 euske 0 Jun 18 21:09 X.py
-rw-r--r-- 1 euske 107 Jun 18 21:03 Y.py
$ python foo.py
Traceback (most recent call last):
File "foo.py", line 2, in
なぜか? pickle ではオブジェクトを保存するときに、 (あとで自動的に load できるように)
それが定義されているモジュールの絶対的なパス名も一緒に保存しようとする。
上の例ではクラス A
はモジュール X.Y
内で定義されているので、
pickleは X.Y.A
をクラス名の絶対的な名前として保存しようとするわけだ。
このとき cPickle は、本当に X.Y
というモジュールが存在するかどうかを
まず (import してみることによって) テストしようとする。
ところが、Python では X.Y
という名前だけでは
モジュールの絶対的な位置を表せない。PYTHONPATH が通っているディレクトリ
(と、 現在実行しているモジュールのあるディレクトリ) のいずこかで X.Y
という
モジュールを探さなければいけないのだ。ここでもし検索パス上に X.py
という
(ディレクトリではなく) ファイルがあると、Python は先にこれを import してしまう。
結果として X.py
の中に X.Y.A
は見つからず、
エラー! ということになる。ややこしい。このバグはすでに
GvR本人が何年も前に気づいているようだが、
Python の仕様上の欠陥で直せないようである。くそったれ。
問題の部分はここ:
Python-2.5.2/Modules/cPickle.c:1967:
/* XXX This can be doing a relative import. Clearly it shouldn't,
but I don't know how to stop it. :-( */
mod = PyImport_ImportModule(module_str);
if (mod == NULL) {
cPickle_ErrFormat(PicklingError,
"Can't pickle %s: import of module %s "
"failed",
"OS", args, module);
goto finally;
}
ちなみに、なんでか知らないけど、 この現象は Python で書かれた (cPickle でない) 普通の pickle では起こらない。 こいつのせいで、今日は午後かなり無駄なデバッグで時間をとられた。 ディレクトリに同じ名前のモジュールを入れるのはもうやめる。
だいたい、いつも集団で残酷行為を繰り返すのは、 きまって他人の気持ちを必要以上にわかりすぎてる奴だ。
新山の人生における目標は「必死だな (藁)」と言われるようになることだ。 必死さとは…。ある種の必死さはカッコ悪いの二乗だが、 ある種の必死さはカッコ悪いの反対である。 べつにオレは、何もかも斜に構えて行きているワケではない! のはずだが…。
Favorite Text Editor: vi (35.3%)Honorable Mention: gedit (15%)
やっぱり vi か。 Emacs、KWrite、Kate はどれもほぼ互角で 10% 前後だって。 日本では Emacs を使ってる人が圧倒的だと思うけど、 いかにこれが他国の感覚と違うかということだな。 はっきりいえば、日本語入力がすべて悪いのだ。
Document ID: 207035d5a64e7ed2d513e9207a2c8f6b
Yusuke Shinyama