2008年 6月 (2)。

Last Modified: Mon Jun 30 21:47:32 JST 2008

インスタントな人生でも逞しく育ってほしい。

Jun 30 [Mon]


(19:21)
エコディ (江古田y) とエゴティ (江古田y) は違う。

ということに対して。

今日は、いつもより空気がかなり澄んでいたと思った。 自転車に乗っていてもそれがわかるのだ。雨が降ったからだろうか。 こうしてみると、東京もかなり空気が汚いのかもしれないなあ。 ベイジンほどではないにせよ。。。///

てくるで (ところで)、きょうふと気づいたのだが、 オレが帰りにいつも通っている新目白道りの一部は豊島区だったらしい (イケブクロ区??? ddy.)。 つまり、オレは気かないうちに 3つの区を毎日、通っていたワケだ。 練馬区はさすがに通ってないだろう。…いや、どうかな??

どうでもよ爐 (ddr)。

(21:27)
なるべく陰口を言わないように気をつけてはいるが、 陰口を聞かないようにするのは時にむずかしく、これにはムカつかされることがよくある。 オレの前で言うな! べつにオレに関係することじゃないので基本的にはどうでもいいのだが、 それでも聞こえるところでやられると、人前でゲロを吐くのを見せられているような気分になる。 (と、いうような文句を、面と向かって言いたがる新山の人生はなにかと問題だ)

オレとか彼とか彼女とかに対する言葉。人生において「したたかさ」はたしかに必要だ。 でもそれだけでは、自分をものにすることはできない。

Jun 29 [Sun]


(10:06)
なぜか短編集「聴く女」を読みなおしてみて、あらためて思ったのだけど、 これに収録されている「嵐」という短編、ほんとに短い短編は 「この世のおわり○○○○○○o○○○○○」に似ている。

この宇宙がパンのみみからできていると知ったら、あんたは驚く。 それはまちがいない。問題なのは詩的な部分とそうでない部分をひとつの日記の中に混在させることで、 これは昔から自我と彼岸の可和的平均的として語られていた。 すくなくとも、レヴィ紀では。

死んでから、自分とはまったく別のものにされてしまう人は多い。 ウチのジイちゃんだって、生前は仏壇とか葬式とかに近寄るのも大嫌いだったのに、 ついにそいつの中に入れられてしまった。

Jun 28 [Sat]


(17:07)
本日のバカな一言: フェラガモって、鴨の一種じゃなかったんだ?

…さて、バカなのはいいとして、今日は朝から「もう来なくていいよ」と言われるために病院へ行き、 そのごセンタクをし、昼食後に先週借りた傘を返しに近所のスーパーへ買い物に行き (やっぱり品揃えはよくなかった)、そのあとエアコンを買いに電気屋へ行き、 既存エアコンの廃棄料について大家と電話交渉をし、そのあとは図書館へ行き、 帰りにもう一度、別のスーパーへ行き、帰ってきて洗濯物をとりこみ、 やっと今コーヒーでお茶にする (?? ヘン謎な日本語) ことができたわけだ。 なんだか、ずいぶんイロンなことをしたような気のする。 まあそういうわけ。ddy.

(20:32)
親から根曲がり竹が送られてきた。ご丁寧にも、さばの缶詰まで送られてきたのには笑ってしまった。 北信の人間にとって根曲がり竹と鯖缶の関係というのは、 中南信の人間にとっての塩丸イカとキュウリの関係のようなものである。 あるいは、それ以外の世界の人々にとっては、ポンチョ・サンチェスとコンガの関係といえばわかってもらえるだろうか? とにかく、ゴールデン・共起関係なのだ。 凶器関係? 狂気関係? どうべも
よろ。

残念ながら、自分が長野県に生まれてきたことを誇りに思うね。まことに残念ながら。

(23:23)
なに、明日はまた雨かよ?

Jun 27 [Fri]


(21:36)
情報と答えを混同してはならない。情報を得ることはいとも簡単だが、答えを得ることは簡単ではない。

まあ、いまのところは。

言いかえると、本というものは答えを見つけるために読むのではない。 答えは自分で見つけるもので、本は問題を気づかせてくれるためにあるものだ。

Jun 26 [Thu]


(19:39)
めざせ! 明朗会計!!

Jun 25 [Wed]


(22:16)
きょうは午前中に偏頭痛にやられてダウンし半休。このごろご無沙汰してたと思ったら、 久々に朝からガツンときた。ご心配をおかけしました。

ご心配といえば、一昨日とても怖い話を聞いた。うちの会社のある人が、 先週ホームから落ちたというのである! …さいわい、すぐに這い上がれて怪我もなく無事だったらしいが、 山手線のホームだったというから、タイミングが悪けりゃほんとに最悪の事態になっていたわけだ。 しかし話を聞くと、盲人というのはみな一度はホームから転落したことがあるらしい。 ある意味「盲人はホームから落ちて一人前」ともいえるほどによくある事故で、 むしろその人が今まで落ちなかったのがラッキーだったといえる。 しかし、そりゃますます怖い話だ。そう考えると、今までただのジャマな柵だと思っていた あの可動式ホーム (? 何ていうのあれ正式名称 ?) もあんがいバカにできないしろもの (大仏、だいぶつ) なんだな。。。

Jun 24 [Tue]


(21:00)
きょうすごいと思ったのが、 AdvFSのソースが公開されたこと。 まだ Linux では動かないが、なによりいいのはこれまで部外秘とされていた (PDF には "HP Confidential" と書かれている) ファイルシステムの設計文書が公開されていることである。 これはすごいよ。設計理念から、構造体の中身までぜんぶ解説されてるので、 ファイルシステム設計をしたい人は必読だろうと思う。

AdvFS は Digital UNIX の時代から使われていたが、 ファイルシステムの動的な拡張やデバイスのホットスワップ、そしてスナップショットなどができる すぐれものの fs である。ようするに、これは 1990年代からある ZFS のようなものだ。しかし AdvFS が本当にすごいのは、これが 10年前にすでに v4.0で「枯れた」システムだったことである。 新山も使ったことがあるが、当時は慣れていないので怖かった (だって研究室全員のホームディレクトリが入ってるディスクを移動させる作業だったんだもん、そりゃ怖いよ)。 かつての altavista もストレージは AdvFS で作られていたという。いまZFSと比べてもぜんぜん見劣りしない。 当時 linux ではまだ ext2 が主流だったことを考えると、いかに DEC が先進的だったかということだな。 OSはフル 64ビットアドレッシングだったし、完全に時代の 10年先を行っていた。 これは、この業界ではトンでもなくすごいことなのだが、たぶんスゴすぎて誰もついてこれなかったんで 売れなかったのだろう。惜しいことよ。

いっぽうで、ZFS はまだそんなに信頼性がない (とくに 32bit 環境下では) という話もある。 それにこれは linux には永久に移植できないようなライセンスになっているし…。 しかしこの AdvFS を linux に移植するのもまたかなり大変だろうけど、 とにかく設計文書は勉強になる。

Jun 23 [Mon]


(18:58)
やられた。 家まであと 500mぐらいというところで、突然のドシャ降り。 近くにあったスーパーにかけこむが、すでにかなりダメージをうけていた。 夕食の買い物をして雨がやむのを待っていると、店員のおばさんが傘をかしてくれた。 ここは家族でやっているようなところで、いつもあまり品ぞろえがよくないのだが、 今日ばかりは感謝である。ありがとう!

Jun 22 [Sun]


(12:04)
「書くこと」を決めるのは著者だが、「書かれていること」を決めるのは読者である。

わかるかな?

(19:01)
今日はトコヤへ行ったぞ。そんたけ

あいかわらず、新山にとって 「世界で、もっともエキサイティングな場所」は図書館のようである。 いや、エキサイティングな場所はほかにも沢山あるのだが、 それは「まだ自分が行ったことのない場所」なので、現在のところ それについての感想を書くことはできないのだった。 そういえば、1年ぐらい前は地球の反対側にいったんだっけな。 しかしいま興味があるのは、もっと近くの場所である。

(22:32)
どうでもいいけど (どうでもよろ)、新山は死刑制度に反対である。 ちっとも「どうでもいい」ような話題じゃないが…。 きょう、図書館でそれ関係の書籍を読んで、あらためてそう思ってしまった。 小学生を殺したあのオヤジのように、例の秋葉原の人殺しも死刑を望んでいるのだろうか…。 しかし本人が望んでいるにしろいないにしろ、オレは死刑には反対だ。

日本における死刑廃止論に対するよくある反論は「それじゃあ、お前の家族が殺されても死刑に反対するのか」 というものである。それに対する新山の答えは、トーーーゼン賛成するに決まってんじゃん。 というか、新山の場合はむしろ積極的に死刑執行に参加したいって言うかもね。しかし、ここで重要な点は、 このときの新山は冷静ではなくなっているのである。周囲の誰もそんな新山のタワゴトをまじめに受けとっては いけない。基本的に、集団は個人よりも冷静な判断ができるはずだ。 集団としての社会は、少数の感情的になった人間の暴走を抑える義務がある。 よく「被害者の遺族感情を考慮して」ってのを聞くけれど、 もちろん遺族にも権利はあるだろう。しかし、彼らといえども人を殺す権利はないと思う。 それにムカつくのは死刑をやたらに主張する無関係な周囲の人間である。 あんたら、どーせ他人の死刑でウサを晴らしたいダケだろ? と思ってしまう。 昔から処刑は庶民のストレス発散のための見世物として利用されていた。にもかかわらず、いまの人間は 実際の死刑を見るのはイヤがるだろう。彼らは汚いモノは見たくないし、殺すだけならゲームで十分だからね。 こうした連中はただ単に抽象的に「罰した」という感覚が欲しいだけなのだ。 ようするに、北朝鮮をやたら批判してる連中と一緒である。新山は義憤というもの (の正当性) を信じてない。

そもそも「死刑が犯罪抑止になる」などという議論はウソだ。これは統計的にみてもそうだし、 理屈で考えてもそうである。出典は忘れたが、ある犯罪心理学かなにかの 研究者がそのことをわかりやすく説明していた。彼女いわく、 人が殺人をする動機には大きくわけて 3パターンあるそうな:

  1. 計算ずくのうえでの殺人 … 犯人は殺人で得られる利益とリスクを最初から計算してやっている。 刑罰が重くなれば、そのぶん犯人は周到に準備するだけだ。 たとえ死刑になるとわかっていても、それを上回る利益が見込めれば、やっぱり殺人をする人間はいる。 結局、死刑があったとしてもこのような犯罪は抑止できない。
  2. 怨恨による殺人 … 殺すほど人を憎んでいる人間は、殺すことのみに全人生をかけているので、 刑罰をいくら重くしようが彼・彼女を思いとどまらせることはできない。 こうした犯人は殺したあとのことなど考えないので、結局、このような犯罪も刑罰を 重くしたところで防げない。
  3. やむにやまれぬ殺人 (現場を目撃されたから殺すなど) … この場合も、犯人は冷静な思考ができなくなっている。 死刑を逃れるために人を殺すのだから、このような犯罪もやっぱり防げない。
結局のところ、どのケースでも死刑は無力なのである。死刑が唯一、説得力をもつのは (これは非常にイヤ〜な言い方だが) 「懲役刑に比べるとコストが安い」ことだけだ。 つまり囚人をずっと檻につないでおくのは金をくうので、そんな余裕のない社会では殺してしまったほうが 安あがりなのだ。中国で死刑がやたらと多いのは、おそらくそういう理由だろう。 「更生の見込みがない人間は殺すべき」っていう議論も、基本的にはこれと同じである。 つまり役立たずは殺せと。で、ところで「役」って何だね? この手の議論から「薄っぺらさ」を除くことは不可能だる。

集団主義のはずの日本人が、いったいなぜこの問題になると集団の和よりも (遺族の) 個人的な感情をそれほどまでに優先するのか、いままでオレにはわからなかった。 死刑制度でなによりひどいと思うのは、これが「国家の名において」実行されることだ。 つまり、新山も (望まない) 殺人に加担していることになっている。 そんなに遺族の感情が重要なら、遺族に殺させればいいのに。江戸時代には、 遺族が仇討ちをすることは公認されていた。…しかし最近あることを考えついた。 それは心中理論だ、つまり「みんなで憎めば怖くない」理論、である。あるいは「みんなで殺せば怖くない理論」ともいう。 遺族だけにムカつかせておくのはあまりにも荷が重すぎるだろうから、 国民全体でムカつくことによって、遺族のどす黒い感情を「うすめてあげよう」というのである。 そして国家の名において復讐に加担してあげる、そうすれば誰も一人で責任とらなくてすむから、 ということだと思う。しかし、ひどい話だ。

新山にとって、日本で死刑が人気なもうひとつの大きな理由と思えるのは、 それは「死ねば浄化される」という根強い考え方ではないか、と思う。 つまり死んだ人間を悪く言わない、ということで、執行されればそれからあとは問わない、 という風潮ができあがっている。この観点からいくと、むしろ死刑は救いですらある。 逆に、新山のような人間は「死ぬのと許されるのは無関係」と考えているので、 ある意味でほかの人間よりもずっと残酷かもしれない。 しかし日本の死刑制度で一番の問題は、こういう話をだれも好きこのんでしないことだ。 たぶん。

Jun 21 [Sat]


(10:42)
きょうは朝方、雨がふっていたらしが、ネボーシタら晴れた (?) ので、 無事にセンタク終了。ずら

てくるで (てくるで)、「ネヴォーチタ (“ヴォ”にアクセント)」ってなんかロシヤ語の単語みたいに聞こえない?

今週末こそはトコヤに行くこと!

(11:12)
ところで (ところで)、「インテリ」の反対は「エクステリ (extelligent)」だろう。きっと。foo-haa!

Jun 20 [Fri]


(19:27)
フー、きょうは雨がふりそうだったが、なんとか自転車で帰ってこれた。
(20:06)
そういえば、さいきん学習したことをひとつ書いておく。

「中小企業は、ボーナスすくねー」

…とゆうことだ。いや、べつに新山としては、ボーナスなんてもらえるだけで感謝、 ってレベルなんですが (奨学金にはボーナスなんてなかったし)、相対的にという意味である。 とくに大企業の連中と比べるとすごいぜ。奴らは、ケタが違うぜ。 そもそも通常の手取りでもかなりの差があるのだが、 あれじゃー車だって買えちゃうよな。ま、オレはべつに欲しい物もないから いいんだけど、なんとなく世の中にある「格差」というものを 実感してしまった。すごいよ。これが経済とゆうものか! と思うね。 しかし、幸か不幸か新山はまったく問題を感じないのだった。 もうすこし欲があったほうが人生は豊かになるのかもしれないが…。 わからん。でも同時に、オレはすでにこれ以上ないくらい贅沢な人間だとも思う。 どっちなのよ?

(21:53)
で、上の話には続きがある。こうしてみると、新山の境遇は こないだ秋葉原で人殺したどっかのアホとたいして変わらないような気がするのだ。 といっても新山の場合はかなり人間的な環境で仕事してる (と、自分では思っている) のと、 親との関係も非常にいいので、そういう心理的側面を考慮すると実はかなり違うのだろうが、 客観的に外部から測定できる量 (ようするに、カネ) だけを考えれば、そんなに差はない。 新山と奴では収入もたいして違わないだろうし、むしろ奴はトラック (ダンプだっけ?) も運転できるわ、 携帯電話だって持ってるわで、どう考えてもオレのほうが負け犬である。 にもかかわらず、奴は何かしら社会に不満だったというんだから、人間とゆうもんはわからん。

でも、ふと思ったのだが、実はああいう性格の人間は潜在的にかなり多いのかもしれない。 たとえば、ここに例の加藤某とはまったく逆の境遇であるような人物 - 一流大学を出て、いま大企業でいいカネを稼いでいる (そして、それを自分の能力のおかげだと信じて疑わない) 人物 A を考えよう。この人物は現状に満足しており、現在の社会を全面的に肯定しているのだが、 この 2人の考え方は根っこのところでは似たようなもんだ。 それは「世の中は合理的である」 -- つまり、能力のある者は報われ、 ない者は淘汰されるといった信念である。加藤某が人を殺し、 A が人を殺さないのは、たまたま加藤ナニガシが「淘汰された」側であり、 A が「報われた」側だったからだ。両者の背後にある理屈はまったく同じで、 加藤某は「この社会は (能力のない者が淘汰されるから) ダメだ」と考え、不満をつのらせる一方、 A のほうは「この社会は (能力のある者が報われるから) よい社会だ」と考え、保守的になる。 どちらにとっても、この手の合理主義は自己の行為の正当化のために使われる。 だからもし A を加藤某と同じような境遇に置いたら、社会に不満をもつ (そして、ついには人を殺しだすかもしれない) ということは十分にありうるのだ。 で、新山はこうした「合理主義的人生観」をもつ連中が大っ嫌いだ。前にも書いたが、 あまりにもキライなので何度でも書く。キライというよりは、本当は恐怖してるんだと思うが、 その理由はうまく説明できない。ひょっとすると同族嫌悪なのかもしれない。 たしかにこうした考え方は、プログラミングをやっている人間には多そうだ。 プログラミングというのは、あるレベルでは非常に合理主義的な、 理屈っぽい考え方をする必要があるので、この方法をプログラミングの範囲を超えて 適用したがる人間がいてもおかしくはない。が… それでも、あるレベルをこえて合理的になるのは、新山には傲慢にしか見えない。

基本的に、新山は自分の人生にとってのプラス、マイナスという観点で ものを考えないようにしている。どうせ自分は死ぬまで (というか死んでも!) 何もわかっちゃいないのだから。 あとは何もわからないままで死ぬ覚悟ができているかどうかが問題だが、 とにかく、これからもオレは自分の人生をひたすら意味不明な、 ワケのわからないものにするよう努力するつもりだ。 それは、そんなに簡単なことではない。

Jun 19 [Thu]


(07:38)
職業に貴賤はないというが、うちの親はいつも 「一番エラい職業は農家と漁師」といっていた。 食料自給率の見直しで、ようやくこのことを 世間一般の人々も理解しはじめるのかもしれない。
(20:38)
gcc を C++ で書き直すという計画があるらしい。 きょうのLWNでのコメント論争を見ると笑える。 みんな、 C++ が気になってしょうがないんだなあ…。いったい、なんで?? 新山は C++ が嫌いだが、技術的にはこいつはほとんど終わっている言語である。 適材適所という考えでいくと、現在のフルセット C++ にはどこにも「適所」がない。 C のようなコンパクトさもなく、Python のようなわかりやすさもなく、Java のような IDE もない。 とはいえ新山も仕事で C++ コンパイラを使うときはあるわけだが、 基本的には gcc の拡張機能以上のことはしていない。こうした終わった言語のコンパイラを、 その言語自体で書こうとしているやつらがいるのなら、ご勝手にって感じだ。 実際、GCC のような内部で複雑な構造を使っているプログラムは C++ のほうがスマートに書けるかもしれない。しかし拡張性や保守しやすさが重要なら、 なぜ Lisp なんかの高水準言語のほうに行かないの? と思う。 実際、GCC の中ではモロに S式っぽい構造を使ってる部分が沢山あるし、 懸案となっている bootstrap の問題も Lisp ではクリアしている。 そんで、書き直しのコストを考えれば C → C++ の実質的なメリットは差し引きでは marginal なように思えるんだな。いまの時代に 「テンプレートを使えばCよりも数パーセント速くなる場合がある」とかいったって、どうにも説得力がない。 結局、この人々はヒマをもてあましているようにしか見えない。 ま、google の社員なんてそんなもんだ。(←見てきたような発言)

さてここで、OpenBSD で PCC の開発を進めている Theo様のインタヴュー:

インタビュアー: OpenBSDで、PCCがGCCの代わりになるまでにはどれくらいかかるんでしょう。

Theo de Raadt: まだ、かなりかかるね。とはいえ i386ツリーのかなりの部分はコンパイルできるんだが、 まだ PIC やそのほかのアーキテクチャが欠けている。 それに gcc のいろんな拡張機能はとても重要だ。

インタビュアー: GPLライセンスのコードを OpenBSD から除くにあたって、 ほかにどういった障害がありますか?

Theo de Raadt: そんな計画は今までに一度だってないよ。一部の人々は、 ぼくらが GNU のコードを嫌ってると思ってるらしいが、 ぼくらが本当に嫌ってるのは巨大なコードなんだ。それからバグがあるコードで、 上流が保守していないもの。本当の問題はそこだ。 ... gcc は、新しいリリースが出るたびに毎回 5〜6% ずつ遅くなっている。 そして新しいバグが出てきて、アホなコードを吐いて、うちらの頭をおかしくしちまう。 PCC は何かもっといいものができないかという試みのひとつなんだよ。

ちなみに、gcc は Cコンパイラの実装としてもかなり「終わって」いる。 これはもとから内部の各モジュールが分離できないように わざとからみあって設計されている。つまり GPL な部分を 分離して商用コードをくっつけられないようにしてあるらしい。 だから構文解析や中間コード生成にフックを入れるのはものすごく大変だ。 たしか RMS 自身がそのことをどっかで説明してたんだけど見つからない。 それから undeadly.org で Marc Espie がいっているように、 現在 gcc を開発しているのはもはやボランティアグループなどではない。 かれらは RedHat や Apple だ。 こういう企業の仕事を「フリー (自由な)」ソフトウェアと呼ぶにはもう無理があるよ。

Jun 18 [Wed]


(20:38)
そういえば、こないだ新宿からなんとなく中野行きの路線バスに乗ったら、 途中で新山小学校とゆう 学校の前を通った。読み方も「しんやま」である。へええ。 こんな近くに「しんやま」があったとは! まあ、近くったって笹塚のあたりだから 自転車でいってもだいぶかかるし、そもそも行く気ないがね…。 というか、なんで「にいやま」じゃないんだ。頭おかしくない? 変態だね! まあいいや。ドーデモ

(追記) うちの先祖は武士ではないので、この「しんやま」という苗字は オレの祖先が高田にいたころテキトーにつけたものだと思われる。 てくるで「先祖」と「祖先」ってどう違うんだ?

(21:08)
きょうはcPickleのワナにひっかかって悩んでいた。

あるディレクトリ X の中に、Yというモジュールがあるとする:

このときディレクトリ X の中に、 ディレクトリと同じ名前をもつモジュール X/X.py があってはならない。 もしあると、Y 中で定義されたクラスは pickle できなくなる。

どういうことかって?

$ ls -l
drwxr-xr-x 2 euske 4096 Jun 18 21:04 X
-rw-r--r-- 1 euske   22 Jun 18 21:04 foo.py

$ ls -l X
-rw-r--r-- 1 euske    0 Jun 18 21:04 __init__.py
-rw-r--r-- 1 euske  107 Jun 18 21:03 Y.py

$ cat X/Y.py
import cPickle

class A(object): pass

def doit():
  print cPickle.dumps(A())

if __name__ == '__main__': doit()

$ cat foo.py
import X.Y

X.Y.doit()

$ python foo.py

$
上の場合はふつうに動く。ところが、こうすると…
$ touch X/X.py
$ ls -l X
-rw-r--r-- 1 euske    0 Jun 18 21:04 __init__.py
-rw-r--r-- 1 euske    0 Jun 18 21:09 X.py
-rw-r--r-- 1 euske  107 Jun 18 21:03 Y.py

動かなくなる:
$ python foo.py
Traceback (most recent call last):
  File "foo.py", line 2, in 
    X.Y.doit()
  File "/home/euske/tmp/X/Y.py", line 6, in doit
    cPickle.dumps(A())
cPickle.PicklingError: Can't pickle : import of module X.Y failed

なぜか? pickle ではオブジェクトを保存するときに、 (あとで自動的に load できるように) それが定義されているモジュールの絶対的なパス名も一緒に保存しようとする。 上の例ではクラス A はモジュール X.Y内で定義されているので、 pickleは X.Y.A をクラス名の絶対的な名前として保存しようとするわけだ。 このとき cPickle は、本当に X.Y というモジュールが存在するかどうかを まず (import してみることによって) テストしようとする。 ところが、Python では X.Y という名前だけでは モジュールの絶対的な位置を表せない。PYTHONPATH が通っているディレクトリ (と、 現在実行しているモジュールのあるディレクトリ) のいずこかで X.Y という モジュールを探さなければいけないのだ。ここでもし検索パス上に X.py という (ディレクトリではなく) ファイルがあると、Python は先にこれを import してしまう。 結果として X.py の中に X.Y.A は見つからず、 エラー! ということになる。ややこしい。このバグはすでに GvR本人が何年も前に気づいているようだが、 Python の仕様上の欠陥で直せないようである。くそったれ。

問題の部分はここ:

Python-2.5.2/Modules/cPickle.c:1967:

  /* XXX This can be doing a relative import.  Clearly it shouldn't,
     but I don't know how to stop it. :-( */
  mod = PyImport_ImportModule(module_str);
  if (mod == NULL) {
          cPickle_ErrFormat(PicklingError,
                            "Can't pickle %s: import of module %s "
                            "failed",
                            "OS", args, module);
          goto finally;
  }

ちなみに、なんでか知らないけど、 この現象は Python で書かれた (cPickle でない) 普通の pickle では起こらない。 こいつのせいで、今日は午後かなり無駄なデバッグで時間をとられた。 ディレクトリに同じ名前のモジュールを入れるのはもうやめる。

Jun 17 [Tue]


(07:35)
キホン的に、新山は他人の気持ちがわからない。 でも、わかりすぎないのがいいんだと思う。

だいたい、いつも集団で残酷行為を繰り返すのは、 きまって他人の気持ちを必要以上にわかりすぎてる奴だ。

(23:10)
自分の人生には、まだまだ必死さが足りないと思う。

新山の人生における目標は「必死だな (藁)」と言われるようになることだ。 必死さとは…。ある種の必死さはカッコ悪いの二乗だが、 ある種の必死さはカッコ悪いの反対である。 べつにオレは、何もかも斜に構えて行きているワケではない! のはずだが…。

Jun 16 [Mon]


(21:43)
そういえば、いまさらな話だけど 2008年 Linuxアプリケーションランキング が発表されていた。あいかわらずつまらん結果だが、ひとつだけ注目すべき箇所がある:
Favorite Text Editor: vi (35.3%)

Honorable Mention: gedit (15%)

やっぱり vi か。 Emacs、KWrite、Kate はどれもほぼ互角で 10% 前後だって。 日本では Emacs を使ってる人が圧倒的だと思うけど、 いかにこれが他国の感覚と違うかということだな。 はっきりいえば、日本語入力がすべて悪いのだ。


Document ID: 207035d5a64e7ed2d513e9207a2c8f6b

Yusuke Shinyama