世の中、疑問だらけ。そして人生は質問だらけ。
あなたは
どこかの
人さらい
…きのう、おかしな夢を見た。 死んだじいちゃん (聾) にオレが手話で話しているのである。 新山は最近そこそこボキャブラリーが豊富になってきたが、 向こうはなぜか音声言語で返す。アレ、じいちゃん、今日はえらく流暢だね? とか思っていたら目がさめた。中途失聴した人ならともかく、 ふつう先天性の聾あるいは難聴者は (たとえ物理的に声が出せても)、 健聴者のような喋りはまずできないのである。 でも新山が夢の中で手話を使ったのはおそらく初めてじゃないかな。
ある自然言語の習熟度をはかるひとつの目安として、 「夢の中でもその言語を使っているか?」ということがあるらしい。 新山は、英語についてはわりと普通に夢に出てくるようになったが (ただし本来英語を喋らないはずの人が夢の中では英語を喋っていたり、 その逆、つまり日本語を喋らないはずの人が日本語をしゃべることもある)、 日本手話についてはまだまだだな。なんしろ、今回だって向こうは 手話で返していないのだから。夢の中でも手話だけで会話するレベルになるには、 まだあと数年かかると思われる。
Oracleのラリー・エリソン、"クラウド・コンピューティング"をばっさり
間違い、宣伝、そしてパクリ記事だらけの Google Knol
「ほとんどの化学反応では、電子は互いにバクダンをつくるか、あるいは壊すかしている、つまり、 ライアン・シークレストにはほとんどの化学反応を起こすのに必要な物質が含まれている!」
「教授、それはぜんぜん中立じゃありませんよ。どこからその事実を得たのですか?」
「知らん。それで最初にこの酵素が使われたのは1897年じゃ」
「教授、それって1901年じゃないですか?」
「そのとおり、いま言ったように、1901年だ」
「私は 1899年だと思うけど」
「もちろん、今後はそう言うつもりじゃ」
「いま化学反応について話しているんじゃないんですか?」
「化学反応というのはしばしばX線の形をとって現れるのだよ」
「それについてもっと詳しく知りたいわね」
「うむ、X線というのはポップカルチャーではおもにX線透視という形で言及される。 この能力はスーパーマンとか、メトロイドのサムス・アランがもっておる!」
「ちょっと待て、いままでに教育的な知識はひとつも出てないじゃないか。 教授、あなたの専門は化学じゃないんですか?」
「それとスターウォーズじゃな。さて、ここにオリジナル三部作で活躍したメーキャップアーティストの一覧がある…」
「私について話してください、教授」
「おめえは有名人じゃないんだよ!」
「ギャーーー! (消滅)」
「さて、終わるまえにひとこと言っておくが、この授業はフリーじゃ。 これからもフリーでありつづけるようにしたいなら、コレをよろしく (金を要求)」
ところで、これは脳性麻痺の患者に限らないが、新山は車イスの人に話をするとき、 なぜか知らずのうちに自分もしゃがみこんでしまう。というのは、相手が車椅子のときに こちらが立って話をするとどうしても「上から目線」になってしまい、 失礼な感じがするからなのだが、これって変なんかしら。
てくるで、きのうはやたら暑かったのに、きょうはいきなし涼しいな。
ちなみにどこへ行ったかというと、「塔」で有名なところです。 といえば、わかる人にはもうわかるよね。
(こいつはホンモンのバカだ、と思ったあたなは 97% 正しい)
ところで (てくるで)、まえに Banc of America Securities がなぜに「Banc」なのか? とゆう疑問を呈したが、これは「銀行のような業務をしていながら、法律上は銀行でない (元金が保障されていない)」ため、"Bank" という単語を使うことは禁止されているが、 それでも「銀行のようなもの」という意味で使うらしい。 ようするに、投資銀行のようなもんか。
ちなみに、コメント欄によると、シャットダウンには起動よりも時間がかかるらしい。
なぜなら起動時は初期状態を厳密にコントロールできるのに対して、
終了時にはプロセスが終了する順序がまったく予測できないため、
安全にシャットダウンするにはどうしても待たなければならないから。
それにしてもすげえなあ。ゆうべはこれに触発されて、自分の eee pc でも
なんとかチューニングしようとやってみたが、やたら時間を費やしたあげく、
結局(ケッキョキ) 「clocksource=acpi_pm
をつけると
多少起動が速くなる」というぐらいのことを発見しただけで終わった。
ふんげあ。こんなんで昨夜はだいぶ寝るのが遅くなっちまった。
おかげで今朝の (オレの) 起動時間はやたらとかかったよ。
そういえば、このあいだ帰ってきたとき、成田空港の駅で白状をもったおじさんが迷っていたので、 空港の入口まで引っぱっていったのだが、こっちも荷物をもっているもんだから大変だった。 そしたらこのおやじが「あれっ! 駅員さんじゃなかったんだ?」とか言うので、すこしムっとする。 盲人の手を引くのは、なにも駅員や介護士や自称“ボランティア”の人達ばかしじゃないよ! ちなみに、一緒に歩いていくと明らかに周囲の人々が、まるでハレモノにでもさわるかのように 散っていくのがはっきりと感じられた。ああ、そうかい…。
こういう経験が、ある意味「日本に帰ってきたなあ」という感覚ではある。
(追記) どんな民族もある面では臆病であり、またべつの面では無謀だと思うけど、 日本人はとりわけ「自分で考えた意見に従う」ことに対して恐怖するように見える。 いっぽうで、日本人は「他人が考えた (あるいは集団で考えた) 意見に従う」ことに対しては、 これは他のどの国の人々にもまして向こうみずである。たぶん他の人々はもっと躊躇すると思う。
「なぜ日本の学校は生徒に自分で考えさせないのか?」というような質問は、 最初からあさっての方向をむいてる。最初からモラルに反するとわかっていることを、 先生も生徒もやるわけがないだろう!
無理は、イカニよ!!
どうだかねえ。
だいたい、そんなに JavaScript の速度を自慢するんなら、 HTML解析からレイアウトエンジンから何から全部 JavaScript で書けゃいいのに。 オレはてっきりそうしたと思っていたよ。GCつきの言語で書けば、バッファオーバーフローのような つまらないバグは心配する必要がなくなるし、文字列や辞書や関数型が 最初から使える言語なら複雑なロジックもずっと簡単に書ける。 (新山は仕事で HTMLパーザ、CSSパーザ、レイアウト猿人を全部 Python で書いたことがあるけど、 おそらく C++ では納期までに完成しなかっただろう。SVGはまだやったことがない。) 本当に速くて安定した JavaScript バックエンドがあるなら、 OS 依存部分とか C で書かれた既存のライブラリは外部モジュールとして wrap すればよいのだ。もし十分速いのなら、Flash や PDF の解析すらも JavaScript で書けるかもね。 なんでそうしないのだろう? とにかく、C(++)で書いておいてセキュリティ云々を宣伝するのは笑わせる。 この点でも、Microsoft のほうが将来的には堅実なアプローチをしているように見える。 もっとも、連中もちゃんとできるのかどうか、かなり疑わしいがね…。 (というかほとんど無理、オレはあんまり MS をホメたくないのだ)
ちなみに新山はくだんのブラウザはまだ使ったことがない (使える環境もない) が、 ソースコードだけは見た。googleの技術力がうんぬんいう人々は、彼らが書いたとされるコードをほんとうに 見たことあるのかなあ。すくなくとも mozilla のコードと比べると、 WinMain がどこにあるかすぐにわかるのはいいことだ。しかし、これまた、 microsoft の流出したソースコードと見比べてみると面白いかもね…。
アリバイ作りのためにもうすこしこのままにしておこう。(9/21)
現在、どこかに旅行中だった。(9/20)
現在、どこかに旅行中。(9/14)
そういえばひとつ思ったのだが、人が結婚相手を決める理由は ほぼつねに他人からは理解不能である。それはさしずめ、ブルドッグが 一度噛みついたら絶対、離さないのと同じだ (←意味不明的。) とにかく、真の問題が発見されるのは、必ずそれが手おくれな事態になってからと 決まっている。つまり、発見されたときにすでに解決不能であったような問題は、 定義により、じつは真の問題だったことになる。証明終
さて話は戻るが、こういうおかしな組織というのは、べつに今回のケースに限らず、 宗教とか大学とか企業でも、いくらでもありそうな気がする。 たぶんこういう環境ってのは、「空気」に満ちていて、ある種の人々にとっては、 たまらなく「居心地がいい」んだろう。新山はそういうところに 居座っている人間を本能的に恐れる (基本的にこうした人間は 臆病なタイプだ。でも臆病な人間というのは、同時にもっとも残酷かつ凶暴になれるもんである)。 そしてなぜか“こういう組織”は“そういう人々”を呼び寄せるのだ! オレはそんな世界はぜったいイヤなので、これからも世の中を「居心地よくしない」ように努力しようと思う。
人は、生産性を上げそうなものに金を払うのであって、
実際に生産性を上げるものに金を払うわけではない。
a = MyException() raise a # 型フロー → 例外フロー try: raise MyException except Exception, e: a = e # 例外フロー → 型フロー
こんなバカなことしてないでさっさと会社行かなきゃ。
ちなみに、Pythょん といってもあのPythょん ではないよ。
なぜもいきなりこんなに寒くなりやがる
か???
??
ルツコイふくだいとうりょう
ルツコイだいふくとうりよう
どういうことかというと、新山の観察によれば、 多くの日本人にとって英語は「機能拡張」よりも「機能制限」としてはたらく。 つまり、たいていの日本人は「英語が使えると、こういうことができるから英語を学ぼう」と 思っているのではなくて、 「英語が使えないと、こういうことができないから英語を学ばざるをえない」と 考えている。あるいは英語が使えないと就職できないからとか恥かくからとか、そんな理由。
日本に帰ってきてから、米国で数年間暮らしてきたことを誰かに言うと、 そいつの反応がきまって「じゃあ英語が喋れるんですね」というものであることが、 あまりに多かった。ええそうなんですよ、Big fcxking deal! ですね! 米国といえばあんたの 最初の興味が「英語」なのかい? それはそれは語学がさぞかしお好きなんですね? …こういう人々はたいてい英語学習を胃カメラと同じようなものと考えている。 「イヤだけど、やらなきゃいけない」ものとして。しかし、実は英語なんぞは ぜんぜん重要じゃない。胃カメラのほうがよっぽど重要だ。 新山だって昔はひどいもんだった (初めて行った Heathrowの入国で、あまりにアヤしい英語のために 5分間もねちねちとイジめられたことをオレは決して忘れない)。 中国人とか見てみるがいい。あんな聞きにくい発音 + ハチャメチャな文法でも しつこく食いさがれば、相手は言うこと聞いてくれるんだから! で、こういう人々にかぎって、じつは英語なんか学習しても特にやりたいことが あるわけではない。旅行だけならまじめな語学学習なんて必要ないし。 逆に、海外でなにかを本当にやりたがっている人間に対して 「英語を勉強しろ」などという必要はない。なぜなら、嫌でも覚えるから。 それよりも本当にその職業で必要とされているものを身につけることに 時間を使ったほうがいい。でも、それがわからないから英語に逃げるんだよね。 「英語ができないから」海外で仕事ができません、といえば、日本では それが完璧な言い訳として通用する。すばらしい。アホか。
たとえばプログラマーとして働きたいなら、 英語なんかよりもまずアルゴリズムとデータ構造を完璧にしろよ。 それから OpenBSDのソースを読め。…おっとこれは英語だったっけ? しかしこういうものを読むことで「嫌でも覚える」プロセスが働くのだ。 ソースも読めないのなら、そもそも開発者として働くのは諦めろ。 それから、人にわかりやすく説明する練習をするべきだ。それも英語じゃなく、日本語で。 プレゼンテーションスキルってのは、じつはその言語の習熟度には影響されない。 日本語でうまく説明できないやつが英語で説明するのは、ゼッタイ無理だし、 さらにいえばプログラマのくせにプレゼンテーションの重要性がわかってない人間は、 海外に行くとかいうまえに職業人として終わっているので (世間の迷惑)、さっさと別の仕事しろ。 (追記: すみません、“別の仕事”に失礼な発言でした…。彼らはこちらで引きうけます。)
さて、こういう英語過剰重視症候群をさらにおしすすめているのが、 巷にあふれるコンプレックス産業 (および、コンプレックスを煽る人々) である。 いわく「3秒でわかる英会話」「1日1粒でTOEICの点数アップ!」「洋楽/映画/大麻/ITで学ぶ英語」…などなど。 まるでいかに苦労せずして英語を学ぶことが「うまい生き方」の必須条件であるかのような扱いだ。 そして何か海外のモノを紹介するときに「これはおすすめです。 英語の勉強にもなります」とかいう台詞をはいて、 英語の“重要性”にそれとなく言及する人々。 なるほど。いい騙しっぷりですね! 新山は英語の資料を人に紹介するときに 「英語の勉強になるから読め (あるいは聴け/観ろ)」というような言い方は 絶対にしないようにしている。ゼッタイに。なぜって、新山はたいてい 「すんごくいいモノ」しか人に勧めないので、もし相手が本当にそのテーマに興味があれば、 這ってでも (?) 読みたがるだろうし、もしその気がないのならそれだけのことだ。
最初の話に戻るけれど、個人にとって英語を学習すること自体は重要ではない、と思う。 英語学習それ自体が目的となってしまうような「だまされやすい」人は、 ある意味何をやってもダメだろうし、そういうだまされやすい人を利用しようとしている 連中に対しては、ただムカつくのみである。
ちなみに「本川越」は、新山の中では勝手に「ポンかわギェー」と呼ばれている。 もっとも、新山の身の回りの会話でそんな固有名詞が出てくることはまずないので、 独り言のときに使っているだけだが、この「ギェー」の部分をどうやって正しく発音したらいいのか、 自分でもまだわからぬい。
ポリシーとメカニズムの分離 (Separation of policy and mechanism):この用語はセキュリティを考慮したシステム設計でよく使われる方針のひとつ。 たとえば、花火大会の交通規制をすることを考えてみよう。 このとき「○○日の午後6時から8時まで、特定の領域の車両通行を禁止する」というのがポリシー。 これに対して、それを実現するために 「フェンスを置く」「警察官を配置する」「自治体のチラシなどで注意を呼びかける」などの手段がメカニズム。 「ポリシー」と「メカニズム」という概念は、「目的」と「手段」にやや近いかもしれないが、 ここではもうすこし狭い、もっと具体的なニュアンスをもつ。 別の例として、Apache で特定のページにアクセス制限をかけたいときに、 「社内LANからアクセスしてくるユーザは制限なしで、外部からのユーザはパスワード認証で」という方針がポリシー。 これを実現するために Apache が提供している
Limit
やRequire
という 命令がメカニズム。一般に、セキュリティの分野で「ポリシーとメカニズムを分離する」というとき、 それはユーザの多様なポリシー (「こうしたい」という要求) になるべく広く対処できるように、 システムの側がさまざまな手段 (メカニズム) をあらかじめ用意しておいて、 ユーザにそこから必要なものを選んで使わせる、という方針のことをいう。 セキュリティを考慮したシステムを設計する場合、ユーザ側の個別の事例を ぜんぶ聞いていたらキリがないので、それらをなるべく包括するような 「仕組み」のみを最初から切り離して考えるのが大切。でないと収拾がつかなくなってしまう。 この概念は 1970年代に Levin, Cohen らによるマイクロカーネル OS である Hydra の中で はじめて提唱された。
ちなみに、X Window System もポリシーとメカニズムを分離するという方針だった。 この場合、X Window におけるポリシーとは、「マウスの左ボタンで選択」とか 「ウィンドウのタイトルは上に表示する」、 「取り消しボタンの名前は必ず『キャンセル』に統一する」などの決めごとをさし、 メカニズムとは「マウスボタンの入力を検知する」「画面に線分を描画する」などの API のことだった。なお、Mac OS や Windows では X Window ほど ポリシーとメカニズムが厳格に分離されていない。 (この例からわかるように、「ポリシーとメカニズムの分離」という方針には 明確な基準があるわけではなく、曖昧なものである)
もういっこ。
イテレータ (Iterator):プログラミングでは「反復子」とか「繰り返しの処理を抽象化したもの」とかいわれてるけど、 これじゃ何のことかわかんないよね。もっと具体的にいうと、イテレータとは以下のようなものだ:
このトラックみたいなのがイテレータ。下の人間はイテレータを使っているユーザ。 イテレータは、データの置いてある各戸を進んだり (
next
)、 戻ったり (prev
) することができ、いまの場所のデータを ユーザのために取り出したり (get
) できる。 言語によっては、イテレータが「ひとつ進む」のと「取り出し」を同時にやるものもある。 (たとえば Java のnext()
はそうだ。)この概念を使うとなにがいいのか? それは、いまトラックがどんな 道路を走っているのか、どのような走り方をしているのかをユーザは 心配する必要がないことだ。つまり、トラックが走っている道は配列でもよいし、 連結リストでもよい。それが、ループしていても、無限に続いていてもよい。 トラックからデータを取ってくる方法さえ知っていればユーザはデータを処理できる。 (似たような例えとして、ほかにもクレーンとか列車とか考えたけど、 「いろんな道路を走ってユーザのためにデータを取ってきてくれる」という点で トラックがイテレータの例としてもっとも適切と判断した。)
実際のイテレータには、走る道によっていろいろな種類がある。 たとえば進むだけで戻ることができないイテレータもあるし、 自分の現在位置を知っているイテレータと、知らないイテレータがある。 任意の場所までスキップできるイテレータもある。 たいていのイテレータには「終点」がある (無限数列など特殊なものを除く)。 終点に達したイテレータは、なんらかの方法でユーザに 「もう取れるデータがない」ことを知らせてよこす。 Java ではこれは
hasNext()
が false を返すことによって通知するし、 STL では「最後の場所end()
」と現在の場所を比べることで イテレータが終わったかどうかを判断する。Python ではこれは例外 (StopIteration
) により検出される。イテレータの概念と「ストリーム」の概念は共通する部分が多くある。 混乱しないようにすること。
さらにもういっこ。
ストリーム (Stream):さて、イテレータとよく混同される概念としてストリームがある。 ストリームもイテレータと同様、データをいっこいっこ処理していくときに使うのだが、どこが違うのか? イテレータの場合はデータは基本的に一箇所にじっと止まっており、 ユーザの側が主体的にその上を動いていく、という方式だった。 ところが、ストリームの場合、stream (小川) という名前からもわかるように、 一箇所に止まっているのはユーザで、データのほうが勝手に動いていってしまうのだ。 つまり以下のような状況である:
このように「勝手に流れていく」データをストリームと呼ぶ。ストリームは配列などとちがって、 いちど見たものは二度とふたたび見れない、基本的に「一期一会」の世界である。 音声信号やキー入力など時系列で入ってくるデータは、本質的にストリームとしてしか扱えない。 もちろん来た情報をすべて記憶しておけば、(過去の分は) 配列として扱うことができるだろうが… それでも「未来のある時点にスキップする」ということはできない。 おそらく、ストリームでもっとも有名なのは、C言語のファイル入出力で使う
FILE*
だろう。 実際には、ディスク上のファイルアクセスは、必ずしもストリームである必要はない (C のFILE*
ではファイル中の好きな場所に勝手に移動できる)。 しかし今ではコンピュータが扱うファイルは、すべてハードディスク上にあるのが 当たり前だが、そうじゃない時代もあったのだ…。C が開発されたのは、 紙テープや磁気テープといった装置がまだ使われていた時代である。 これらの装置はランダムアクセスできなかったし、途中で止めたり進んだりすることはできても、 巻き戻したりするのにはすごく効率が悪かった。また、C で書かれた多くのデータ処理には 「次の1行を読む」とか「次の1文字を取得する」とかいう操作を頻繁に使ったので、 ハードディスク上のファイルも、テープ上のファイルもぜんぶ「ストリーム」という概念で まとめてしまえば、ユーザはそれがディスク上にあるかテープ上にあるかを考えなくてよかったので、 便利だったのである。(なんかイテレータのときと話が似てるな、と思う人もいるかもしれない。 イテレータにせよストリームにせよ、こうした抽象的概念は 「ユーザに細かいことを気にせずにすむようにさせる」ために考え出されたものだ。 プログラミング言語の歴史とは、じつは抽象化の歴史である。)
おっと、そういえばストリームは「出力」もできるということを忘れていた。 上の例ではデータの取得のみだったが、ストリームによってはユーザがデータを 「流す」ことができるものもある:
ユーザがデータを受けとるようなストリームを入力ストリーム (input stream)、 ユーザがデータを流せるようなストリームを出力ストリーム (output stream) という。 出力ストリームの代表例は、これまた C の標準出力
stdout
だろう。 入出力どっちもできるようなストリームもある (ファイルがそうだ)。 ちなみに、最初から C言語と密接な関係にあった UNIX には、外部入出力装置の種類をあらわすのに 「キャラクタデバイス (character device)」という概念がある。キャラクタデバイスとは 「ストリームとして扱える装置」のことである。代表例がテープだったが、ユーザからのキー入力や ネットワークからの入力もキャラクタデバイスとして扱われた。 ハードディスクのようなランダムアクセス可能な装置は、 「ブロックデバイス (block device)」という特別な装置だったのだ。さて、ファイルや配列のような本来固定されているものでも「ストリーム」として扱うことはできるが、 そうすると先に説明した「イテレータ」とできることの違いはほとんどないように見える。 それどころか、「進むだけで、戻れないイテレータ」を考えればテープや音声入力のようなものでも イテレータの枠組みで扱うことが可能である。では一体、なぜストリームとイテレータという 2つの概念を区別する必要があるのか? …というと、実は「イテレータ」というのはプログラマの 設計する手続きのことを呼んでいるのに対して、「ストリーム」というのは プログラムが受けとるデータのことを呼んでいるのである。 どういうことかって? 基本的には、どちらの仕組みも 「プログラムが一個ずつ進みながら何かを処理していく」という 幻想を演出するものだ。幻想というのはつまり、 実際にはいっこずつ進むわけではない配列やファイルを、あたかもそう見せかけることによって、 すべて同一の処理で済むようにしている、ということである。 ではこの幻想を演出しているのは誰か。「イテレータ」の考え方では、 これはプログラミング言語の側がやっている。これに対して「ストリーム」の考え方では、 これはデータの側がやっているのである。といってもデータが勝手にみずからを 変化させることはないので、これはシステムが (OSのレベルで) そう見せかけているものを呼ぶ。 ストリームというのは UNIX 初期 (オブジェクト指向などの考え方がまだないころ) に作られた概念であって、だから UNIX のキャラクタデバイスというのは、 まさしく名実ともに「ストリーム」の代表例なわけだ。 一方 Windows プログラミングではストリームという概念はあまり出てこないし、 プログラミング言語の側のサポートが豊富になってきた現在では システムの側で対応するよりもプログラミング言語の側で対応させたほうが柔軟なので、 最近ではストリームよりもイテレータの概念を使うのが一般的になってきている。
ああ、つかれた。いつかある程度まとまったら unixuser のほうに置くつもり。
工学においては、変数の数を増やしたら、 問題は解決しなくなるかもしれないし、逆に解決に近づくかもしれない。
かもしれない。
ところで、いまからヘリウムを吸引する。...
(すーーっ)
変ワッテル? ドンナ声ニナッチャッタアルヨ。アっはっは。
…戻っちまった。
今日の結論: カタカナはこのように使える。
そりゃ、新山だって根本的なところで病人だが、 彼らは自分たちが病人であるということに気づいていないからなあ。
…なるほど、こういう人々が経済成長論 (または、魔法のツボの存在) を信じるわけだ。 なんしろ「モノが出てくるためには、まず入れなければならない」という 現実を理解するのは、大学を出た人間にとってさえ難しいからな。
↑↑↑ Sarcastic Warning!! ↑↑↑ (おそいよ)
しかし、この人、有名になってから毎日のようにテレビにとりあげられて、 米国膵臓癌協会のCMにも出されて、議会で証言までさせられて、そのあいだも すこしずつ弱っていくさまを撮影されている。残酷なもんだな。 たぶん、こういうのがアメリカ人の好きなヒーロー像にうったえるのだろうけど、 じきに死ぬとわかっている人間すらも積極的に社会のために利用しようという あの国の考え方はオレは嫌いだよ。
(追記) とはいっても…もし新山が膵癌のようなひどい病気になって、 まだピンピンしてる状態で「余命3ヶ月」とか言われたら、 いったいどうするのかはかなり悩む問題である。 自分はなるべく最期の日まで決して特別なことをせず、 「普段どおりの生活」をするよう努力したいと思っているが、 死ぬ直前まで何も準備しないといざ死んでからが大変そうだし、 そもそも自分にそれができる度胸があるのかどうかまだわからない。 醜く悩むことになるかもしれないなあ。 どうだろね。
ひとつ確実に言えることがあるとすれば、自分がガンであるかにかかわらず、 新山は自分の「死に方」を非常に意識しているタイプである。 オレはあくまで「普通に死ぬ」ために努力することはできるのか。 これからも? じつに難問だ。
で、そのソースがどこにあるのか、最近やっとわかってきた。人口増加とエネルギー消費増加だ。 ようするに、昔よりも指数的に人が増えて、エネルギーもますます安く効率よく使えるようになってきたおかげで 経済が成長するのだ! 「生産性」が向上するからではない。技術革新による 生産性なんてものは、たいして向上していないのである。なぁ〜んだ。 そんな簡単なことをオレは今までわかっていなかったとは! つまり人間は、指数的なグラフの右のほうの「将来のとんがってる部分」を 先取りしていただけだったのである (そしてこの希望的観測は、すくなくとも数十年ぐらいは持続できた)。 しかし、その指数的なグラフがじつは指数的じゃなかった、 ということが一般に浸透してくるまでは、誰もこのトリックを説明してくれなかった (少なくとも新山は聞いたことがない、クルーグマン先生の経済入門でも触れられていない)。
…さて、もはやこの「右肩上がり理論」は否定されてしまったので、 ウチらはみんな doomed である (その本当の影響がいつ実体となって現れてくるかは 誰も知らないとして)。だから「江戸時代はスバラシイ」って結論になるのかもしれないけど、 とりあえずさしあたっての新山の楽しみは「いまだにこの事実を隠そうとしている人間が どれくらいいるか」ということを発見することだな。うん。
受け売り? 受け売り。
東工大にいたころよく行っていた鵜の木の川嶋浴場は そういう昔ながらの銭湯のひとつだったが、 新山が某国に行っているあいだに店を閉じてしまっていた。 そこは近くにタクシーの営業所があるのか、タクシーの運ちゃんがよく来ていて、 更衣室ではつねに演歌が流れており、フロントの愛想いいおっさんは いつもお客と競輪の話で盛り上がっているような店だった。 好きだったのになあ、ああいうところ。あすこは今、どうなっているのだろう…。
いとしの google 様が教えてくれるカモね!
しかし、いっぽうで、自由にモノを考えるというのは、 これほど危険なものもない。おそらく新山を含む多くの人は、 そうした危険に対して本能的に恐怖する (それに自分で気づくかどうかはともかくとして)。 とりあえずオレは、とっても怖い。
(コノヒ゛ミョウナヒタイシヨウセイニ不安ガル人物る)
そういえば昨日言いわすれたこと。 google は、よく「自分たちはネットをよくしたいだけだ」みたいなことを言う。 とりあえず何が「よい」ネットなのかという定義は置いとくとしても、 この目的自体は彼らの本心であるかもしれない。しかし、重要なことは、 彼らは「ネットをよくしたい」とは思っていても、「実社会をよくする」ことはゼーンゼン興味ないのだ。 そしてこの 2つは必ずしも対応していないのである。その差異に彼らは気づいていないし、 おそらくこれからも永久に気づかないままだろう。(だから彼らはどこまでいっても オタク成金にしか見えない。) とりあえずそれは新山個人には何の影響もないケド、 あの会社の隆盛を観察すれば、社会科学的にずいぶんと多くの教訓が得られそうな気がする。
それにしても、あの会社は本当に JavaScript と心中する気なんだなあと思った。 JavaScript 自体は言語としてはべつに悪くないが、 フレームワークとしてみると終わってるとしか言いようがない。MS が silverlight とかを 推進しようとしているのに比べると (まあ、それがアサッテな方向かもしれないのは置いとくとして)、 Google の保守性ぶりはものすごい。 あれが革新的な企業だとかいってた (まだ、いってる?) のはどこの誰だろう。 人をだますのは簡単だ。
汚れは簡単に落ちるが、こいつらは簡単には落ちない。
ところで (てくるで?)、きょう帰るときにある自転車を 1台追いぬいたのだが、 そいつはどうも後ろから見るとフラフラおぼつかない走り方をしていた。 近づいてみて原因がわかった。そいつは前のタイヤが完全にパンクし、 周囲にギュウギュウと音が聞こえるほどの状態だったのである。 あんなので無理して走ったらかえって車輪の寿命を縮めるだろうに、アホなことよ。
で、そういうところで新山がよく尋かれた質問が 「なぜ、今の会社に入ったのか?」というものであった。 いったい、どういう意味なんだろう?? なんで今の会社に入ったかって? そりゃ、この会社が気に入ったからだ! それ以外に理由ってありえる? …しかし彼らの真意はおそらく「なぜその会社が気に入ったのかわからない」という 意味だろうと思われる。失礼な。しかし逆に、じゃあどういう会社なら 気に入っていいんだろう。会社というものを人間と同じように個性のある存在ととらえると、 ある人間を好きになるのに、理由が必要なのか? そして、どういう理由なら許され、 どういう理由なら許されないのか? 新山の場合はここのところで 「反・合理主義」が働くので、「理由なんかねえ!」という回答になる。 というか、理由は「好きなので」という以外になくなる。もちろん、 もっとましな (合理的っぽい) 理由はいくらでも後付けできるが、 だいたい、会社に入るのになんで合理的な理由がなきゃいけないんだろう? それが理解不能だ。
たとえば、世間では「条件のよい会社」 「待遇のよい会社」 という言葉をよく聞く。それで、できるビジネスパーソンは 「よい条件を求めて」転職することが重要だ、みたいなことをいう人がいる。 しかし新山にはこの言葉の意味がわからない。 いや、少しはわかっているつもりだが、ここでいう「条件」ってのは、 ようするに給料の額とか、職場の立地とか、福利厚生の充実度のことをいうのでしょ? 現在の日本でこれらのことが本当に重要なファクターだとは、新山にはどうしても思えないのである。 そりゃ、バングラデシュあたりで就職するのと 日本で就職するのには明らかな差があるでしょうよ。しかし、日本国内では そこそこの水準が満たされている限り、これらのことに気をもむ必要はほとんどない。 新山がインターンをした米国の某社は、世間一般では「条件がよい」とされている 企業らしかったが、オレの印象は正直「はぁ? これが良い条件??」というものであった。 たしかに給料は高いが、そんなものにはたいして意味がない。それに仕事内容だって、 べつにオレがやんなくても、どっかの好き者がやりゃいいやってレベルだ。 そんなわけなので、新山は「良い条件をもとめてあっちこっち転職する」人々というのを 基本的に信用していない。(そりゃ、飲み水もまともに手に入らないような生活から、 電気ガス水道付の生活に移行したがっている人がいたら共感できるけど…以下略。) ようするに、彼らは本質的には自分の好きなものがわかっちゃいないのだ。 こういう人々は、一生迷える子羊のままだろうなあ。
... この業界には2種類の人間がいる。ある会社を成功させるために働きたがる人間と、 すでに成功した会社で働きたがる人間だ。(... you can divide our industry into two kinds of people: those who want to go work for a company to make it successful, and those who want to go work for a successful company.)
ちなみに、新山がどうやっていまの会社に入ったのかというと、 じつは「ゲリラ的就職活動」であった。いまから 2年ぐらい前の話だが、 新山はこの会社の「お問い合せ用」アドレスに、「あのー、当方こういう者で、 現在就職先を探しておるのですが、御社のことがたいへん気になっているのでありますが、 雇っていただけないでしょうか?」というメールを送ったのだ。 向こうが募集もしていないのに、である。 はっきりいって、中小企業はそう人をポンポンとれるほど余裕のないところが多いので、 我ながら無謀だったと思う。で、結果的に返事をくれた会社の社長が、 いま新山が働いている会社の社長なわけだ。このことはいまでも個人的に恩義を感じている。 だから新山は「良い条件」などというノッペラボーな概念を信奉している人々が 信用できない。彼らは、一個の人間として生きていないように思えるからだ。 ようするに、そいつがこの世の中にいなくて、だれか別の人間に置きかえられても等価なのだ。
実際、小さな会社はオモシロイ。なにが面白いかって、日々業務が 「回っている」ことが肌で感じとれるのである。たとえば誰かが電話している会話がぜんぶ聞こえてくるし、 経理の人と税理士のセンセイとのやりとりも聞こえてくる。 ときには新山も電話をとんなきゃいけないから、そういうときは聞いたことのある 取引先の名前をきいて「この名前・分野はたしか○○さんの担当だったな」というような 感覚もできてくる。お客さんの「動かないよ」サポートもする時がある。 ってゆうか、規模が小さいので、お客さんの個人名すら覚えてしまうときがある。 プログラミングをやっている最中にこうしたノイズが入るのは、じつはとってもありがたい。 こういう環境がなくて、たとえばどこかの静かな研究所に閉じこめられたら、 オレはおかしくなってしまうだろう。やはり会社を選ぶときは、個人的な趣向が もっとも重要なのだ。
手話について。まえに (中央線で) 指点字をやっていた人を見かけた、と書いたが、 聞いたところによると、じつは盲聾者のコミュニケーションは指点字よりも触手話のほうが はるかに多いらしい (ちゃんとした統計はとっていないようだけど)。ま、よく考えてみれば当たり前の ことである。なんたって、指点字はたかだか10数年前に考え出されたにすぎないんだから…。 それに、手話は「自然言語」のアナログ性をフルに表現できるが、 点字というプロトコルはもともと音声言語をむりやり (デジタル式に) 表記したものだし、 その方法もかなり恣意的だ。それまでに音声言語をほぼマスターしていれば、 指点字を使うことはできるだろう。つまり盲→聾ベースの人ね。でも先天性の盲聾者が 生まれつきの言語として指点字を習うのはほぼムリだろう (それをもし誰かがやろうとしているのであれば、 それは非常に残酷だと思える)。人間は本質的なところで、アナログ的な曖昧な表現を 必要としているように思える。
さて、手話で興味ぶかい特性のひとつが、その持続性である。 「文字っぽさ」とでもいうか。音声言語の大きな欠点は、言葉をある一箇所に とどめておくことができないことだ。すべての言葉は発声したとたんに流れていってしまう。 これに対して、手話ではある「概念」を空間上に配置し、それをくりかえし参照することができる。 たとえば、以下の内容:
ただし、その副作用かどうかはわからないが、手話は音声ほど記号が豊富ではないので (音節のような粒度で短時間で単語を弁別させられる仕組みがない)、品詞を判別するのに 苦労することがある。よく文脈を見ていないと、ある単語が名詞的な役割を果たしているのか、 それとも動詞なのか、あるいは副詞や前置詞的なのかといった関連がわかりにくい。 たとえば日本手話では「…について」という手話と「内容」という手話は同じだし、 「…のために」と「目的」という手話も同じだ。どっちも手が動くので、 動きだけに気をとられていると混乱する。ま、どんな形にせよ、コミュニケーションの方法には 一長一短は存在するのであって、しかし最近、「手話をやっている人間はボケにくい」という噂を聞いたことがあるが、 どうなんだろうか。やっぱりそれってただの「希望的な噂」だよなあ。
しかし、どちらにせよ…。
手話や点字を知っているからといって、自分が他人よりも 「弱者に対して思いやりがある」などと思い上がるのは絶対に避けたいもんだ。 そうした“善意”が大手をふってまかり通っている世界は大キライだし、 いつか必ず破綻するだろうと思っている。でも、なぜだか知らないが… (同族嫌悪かもしれないが)、 新山は「善意のカケラもない人間」として、そういう世界にズカズカ 踏み込んでいかなければならないような気がする。 ここには無視できない何かがあるのだ。
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Yusuke Shinyama