Yesterday is history.
Tomorrow is mystery.
Today is a gift.
That's why we call it the present.
そして寒いです
基本的に、自然というのは (人間も含めて) つねに対処療法的に行動するものである。 進化というのは、ようするに、対処療法の結果だ。そして多くの対処療法に共通することとして、 それは直近の利害しか考えてないために、長期的に見ればかえって悪い結果を招くことに なるかもしれない (たとえば恐竜になにが起こったか?)。 だが、どちらにせよ、いまの人類にそれを知るすべはないよね。 結局われわれにできることは (ケッキョキ)、いつ世界が滅びても驚かないよう肝に命じておくことだけだ。
結論: 心中はすてきな概念だる。
(追記) 日本の「車依存社会」でほんとうに深刻なのは、むしろ売る方の依存である。 たとえばもしトヨタの売り上げがいまの 10分の1 になったとしたら、 この国はどうなってしまうのだろう? どっかのシンクタンクがシュミレーションしてもいいんじゃないか。 バングラデシュなみの貧困国…にはならないとしても、 たぶん社会情勢不安になって軍国主義が復活しそうな気がする。 だとすると、日本の右翼はまず政治家なんかより自動車会社を叩いたほうが効率よさそうだやな。
(あきらかに今の新山は久々に頭がブッとんだ状態になっており、 本当はこういうときに日記をかくとかなりおもしろい。しかし、もうねむいので出かける (?))
プロバイダーは、
…で、郵政民営化というのはこれとまったく逆の話だったわけだ。 いままでの公営の郵便局というのは、まさに上の原則を体現していた。 それで本当によかったのか? と言われても、知らん。 新山は郵政民営化に賛成でも反対でもない。正直、 こんなに大規模かつ複雑な入りくんだ問題をちゃんと定量的なデータをもとに 整理して判断することなど、素人にはできっこねーよ。 せいぜい一般庶民にできることは、賛成派や反対派の主張する 「テキトーに自分の都合よく歪曲されたプロパガンダ」を見て、 かれらの服のセンスの悪さを馬鹿にするぐらいである。…
同じことがネット中立性にもいえる。もしこれが本当に徹底されたら、 いまの ISP 業者というのはおそらく電気・ガス会社や鉄道会社と同じような存在になるだろう。 どういうことかというと、つまりネットをコントロールするのはビジネス的あるいは技術的な 判断によるものではなく、政治的な判断になる。 つまり、「なにをもって平等とするか」という定義は法律によって決められる。 だから「光ケーブルもBルートを通らなきゃ許さない」 みたいな話になる。これはあきらかに自由主義経済の原則に反しているのだが、 べつに新山は自由主義経済が一番いいと思ってるわけじゃないんで (これは多くの日本人に共通する感覚だろう)、そんなに「原則」にこだわってもいない。 なので新山は ISP が規制されることに個人的には文句ない。 でも実際にネットを運用している人々は、規制には反対だろうなあ。 それは彼らの給料を下げるばかりか、世間からの容赦ない監視・バッシングにさらされることになるわけだから。 しかし、ネット上には「郵政民営化には賛成で、同時にネット中立性にも賛成だ」とかいう 人間がいそうな気がする。そういう連中ははっきりと矛盾しており、 自分のいってることがわかってない。
ただし、ネット中立性の問題は郵便や鉄道にくらべてよりややこしくなっている。 というのは、基本的にこれまでの郵便・鉄道などのインフラは、 提供者と消費者の間で商売が完結していた。つまり、郵便や鉄道などのサービスを使って、 さらにそのうえにサービスを構築し、それをある意味「再販」する -- ということは、 あまり大々的にはやられてこなかったので、利害関係はわかりやすかった。 ところが、ネットにおいては ISP の「上に」大々的にサービスを構築する業者が 沢山いるわけだ。そうすると状況は三つ巴になってきて、 「本当に損をしている/得をしているのは誰なのか?」ということがわかりにくくなってくる。 現在、ネット中立性を主張している企業に google や yahoo や amazon のような 大規模サービス業者が多いのも気になる。かれらは今でこそ ISP の中立性を主張しているが、 もし自分たちが本当にインフラ化すれば、今度は自分たちが規制される番だということを わかっているのだろうか (そして google などがふりまわす「中立」「公正」なんぞの概念が、 どの程度いかがわしいものであるかは、すでにご存じのとおりである)。ISPの規制をしても、結局これは レイヤーがいっこ増える (そして権力がそちらに移動する) だけのような気がする。 やっぱり、ネット中立性の議論も (郵政民営化の議論と同じように) よくわからん。
どちらにせよ、人間はそんなに複雑な未来を予想できないのだから、 どっちに転んでも、まぁ、なるようになるんじゃないの?
ずんどこL
I'm not pretentious, arrogant or delusional.
その世界では、日本と中国と台湾が陸続きになっていた。 あるとき、新山が夕暮れ時に自転車に乗っていると、どういうわけか道に迷ってしまい、 そのうちあたりは街灯のやたら少ない、ドロくさい市街になった。 見ると「徐 宣 市」という標識が出ている。いつのまにか自分は国境をこえて 日本から中国に入りこんでしまったらしい。しかし帰る道はわからないし、 不法入国でつかまったら大変なので焦っていると、 いつのまにかそこは台湾になり、そこでばったり Owen (台湾出身) に会った。 かれに帰る道をきくと、一度こちらに入ってしまったら、中国から日本に戻るのは かなり難しいという。彼はあっちこっちに電話をして調べてくれているようだったが、 ものすごい警備が厳しいらしく、オレは一体どうすりゃいいんだ…と思っていた。 そしたら、そのうちに目がさめた。目がさめてもしばらくは不安な感じがずっと残っていたが、 そのうちあれは夢だったということに気がつき、ひとつの格言を思いついたのである。
“すべてのことから逃げるためには、ただ目を覚ませばよい”
なんかこれって意味深じゃない? fungea
…オレがやりたいのは、ユーザの文脈をある程度把握し、場面に即したアドバイスを表示して 次にとるべき行動をガイドするようなやつだ。 ようするに Office のヘルプエージェントのようなやつだが、あれはバカすぎる。 もうちょいちゃんと状態遷移をしっかり管理するようなのがいい。 しかしどちらにせよ、ああいうヘルプ機能というのはものすごく横断的で、 既存のアプリケーションに組み込もうとするといままでの枠組みを ズタズタに切り裂かねばならない。…って、ここまで書いてガス欠したのでまた今度。
オレは聞きのがしたよ。dood!
とやって、これが$ rm .
の意味に解釈されなくてよかった、と思う。 もしそうなっていたとしたら、世界の自殺者数はいまの3倍ぐらいにふくれあがっていただろうと。$ rm -rf .
どんな内容かはひみつ。
(追記) どうでもいいけど (ddy)、「コンピュータ」「他者」で検索したら、 大昔の InterCommunication で、浅田彰らが対談している バックナンバーが見つかった。 この座談会で彼らが使っている人工言語は、新山には、カイモクわからない。 だれか日本語に翻訳してくれ。
ある意味「オトナ」というのは、外部の基準が一切なくなった時でもなおかつマイペースを貫ける人のことだ、と思う。
どうでもいいけど「ばらまき党」という政党を誰かつくればよいのに。 そうすれば、バラマキをしても誰も文句がいえなくなる。 なぜならそれわ党の要綱だから!
なぜ、多すぎる自由は悪であるのか? ここでいう自由とは、ようするに「選択肢の多さ」のことである。 西洋人 (とくに米国人) にとっては、選択肢が多ければ多いほど「自由である」ということになるらしい (米国の食堂やスーパーに行ったことのある人なら誰でもわかるはずだ、彼らの“病気”が…)。 いまの世の中では、どんなものに対しても多すぎるほどの選択肢が存在している。 これは携帯電話でも、ドレッシングでも、大学でも、職業でも、結婚相手でも、なんでもそうだ。 しかし、多すぎる選択肢はいいように見えるが、悪いこともかなりある:
Schwartz は、先進国ほどうつ病が増加している現実を「選択肢が多すぎるのではないか」と分析している。 選択肢が多いと (つまり自由が多いと)、人はつねに自分の選択に後悔し、自分を責める方向になりやすい。 選択肢というものは「まったくない」よりは「多少はある」ほうがいいが、選択肢が多ければ多いほど 人類が幸せになるわけではないようだ、と結論している。
それと関連して、次のトークもおもしろい: Dan Gilbert asks, Why are we happy?
人は、実際には大したことない差異 (収入とか、学歴とか、はいてるパンツの色とか) を ものすごい差であるかのように思いこむ傾向がある。しかしすべての人間は、 選択に失敗してもそれが「正しい選択だった」と思えるような心理的回路を持っている。 そしてじつは人生における「幸福」は、このようにして生成されているのだ。 そんなのはただの一時的な幻想じゃないかって? しかし、実はそうじゃないらしい。 このことを示す実験のひとつがすごい。まず、被験者に 6枚の絵の中から好きな順位を決めてもらう。 そして 3番目に好きな絵を彼にあげて、4番目に好きな絵を彼に覚えてもらう。 ふつうの人にこの実験をすると、人はやがて「3番目に好きだった絵」を実際以上に高く評価するようになり、 「4番目に好きだった絵」を実際以下に低く評価するようになる。なぜなら、人は自分がした選択を 覚えているからだ。ところが、(海馬の損傷などで) 短期記憶を喪失した人々を連れてきて、 同じ実験をやっても、彼らは自分がした選択をまったく覚えていないのに、絵の評価を変えているのである! つまりこれは、彼らの美的感覚が恒常的に変化したということだ。 つまり人間は、自分が幸福を感じられるように自分自身を本当に改造する能力をもっていることになる。
しかし、マーケティング的には、これとまったく逆の (悪魔のような) 戦略が有効だ。 つまり人をつねに「自分は他人より不幸だと思わせる」ことが商品を売るヒケツ、ということになる。 Pretty insidious, isn't it?
ところで、なぜ教育というものはモノスゴイのか: Ken Robinson says schools kill creativity
たとえば、いま 9歳の子供たちのことを考えてみよう。 彼らが65歳で定年退職するのは 2065年である。 あなたは 2065年の世界でどんな問題が待っているか、いまから想像がつくだろうか? もちろん不可能である。しかし、いまの子供たちに身につけさせなければいけない 知識と智恵というものは、そういう時でも役に立つものでなくてはならないのだ。
(... 以下、寝不足になるまで続く )
From: Yusuke Shinyama To: xxxxxxxx Subject: 忘れてた!
かくのごとき意味不明な会話ばかりで成り立つ親をもっている自分はしあわせだ。 (いや、ホントに)
さいきん、パソコン屋 (あるいは周辺機器屋) に行って思ったことがある。 いまは一般人がだれでも使う家電製品としてのPCの時代であるので、この手の店でも 消費文化 (ようするに『もっと使い捨てろ!』という風潮) が花盛りだ (こんな時代に誰がした)。 新山は家庭のデスクトップPCでも Linux を、 そしてそれのみを使っているという稀な人間であるので、 こういう店に行っても普通はほとんど買えるものがない。 ソフトはまず買えないし、周辺機器もほとんど買っても使えないのだから、 結局のところ見るのはキーボードとUSBメモリぐらいである。それでも、 こういうところで好き放題に買い物ができる人を少しうらやましいと思うことがある。 なにか新しいモノを買って自宅に持ち帰り、それをPCにつないだりインストールしてみたりするのは さぞ楽しかろう。つまり、暇がつぶれるという意味でね。 しかし新山の場合、好奇心は強いのだが、ほとんどどんなものを買っても、 絶対、3日で飽きて「ナンでこんな意味のないもん買ったんだ?」と後悔する ということがわかりきっている。 だから結局、最初から離れていたほうが無難なのだが、それでもときどき 「オレってつくづく世の中と折り合わないよなあ」と感慨にふけることあります。 ケッキョキ。
とやれば、ふつう cat には次のバイト列が入るものと仮定して当然である:$ echo foo | cat
ところが MS-DOS の echo ではこれが違うのだ。66 6f 6f 0a
とかやろうもんなら、type には次のバイト列が渡される:> echo foo | type
オイこの66 6f 6f 20 0d 0a
20
はナンだ?
明らかに、MS-DOS の echo はコマンドラインを解析しないらしい。
余分なスペースを防ぐためには、"foo
" と |
の間を空けずに、こうする必要がある:
いっぽうで、> echo foo| type
とかやったら、quote まで含んだ> echo "foo" | type
"foo"
という文字列がそのまま渡された。
くそったれ。
…さて、そういうわけで、成人してからの新山は、 そういう優等生的なものになるべく反発してきた (つもりだ)。 なぜなら、他の人々は知らないけど、新山にとってトリックというものは 一度できてしまったらもうやる必要がないものだからだ (だからこそ、トリックがわからないプロの手品は楽しいわけだけど)。 それに、学生のときならともかく、一般社会に出たらもはやそんな kiss my ass コンテストなど通用しないと思っていた。 だって消費者は学校の先生よりもまともな視点をもっているはずだからさ。 そしてそれはおおむね正しいと思う。 ところが、ですよ・・・…
新山がうんざりしているのは、基本的に日本製のテレビや書籍やネットでは、 こういう "kiss my ass" 合戦によるものがとっても多いことだ。 "kiss my ass" 合戦といっても、露骨なグルーミングというわけではない。 いかにも誠実かつ知的に見えるかのような体裁をとっているが、 一皮むけばただの…なんていうのかね? こういうのは。 資本主義社会では、お客さんの意向を感じとり、それを商品に反映させるのは重要なことである。 しかしこういうところでは資本主義社会とは別の「社会」があって、 彼らが相手にしているのは本物の客じゃなくて、一部の「委員会」である。 誰がその委員会を構成しているのか? …といえば、結局のところ (ケッキョキ) それはおもに彼ら自身である。いんちき。 こういう傾向はある程度、世界じゅうどこでもあるが、 それにしても某国での蔓延ぶりはひどい。
(研究者の世界でも、こういう傾向はある。しかもかなり明白に。 要領のいい研究者というのは、 「論文を採択する人々にウケそうな研究方針」というものを知っている。 つまりはそれは「同僚にウケそうな研究方針」ってことだ。 その方向は社会的な有用度とは通常ほとんど関係がないし、 落ち着いて考えれば、べつにとりたてて興味深い研究というわけでもない。 ただ周囲から「『いまの研究はこうあるべきだ』と思われているお約束」に真面目に従えば、それはウケるのだ。 ある意味では、ほとんどの学術研究は自作自演 (あるいは自家消費) である。 つまり同人誌と変わらない。しかし、ふつうの同人誌と違い、それは自腹ではなく人のカネを使ってやっているのだ。 そういう生活に堪えられる人は別として、いまの時点 (あるいは大学院を卒業した時点) での 新山は、それはいかにもムリそうに見えた。とはいえ、いずれ周囲がそうした状況でも しっかりと自分のペースでそれを無視できるようになりたいと思っており、 そのときはまた研究者の世界に復帰したいと思ってはいるけれど。)
Popularrr? I've never heard of it.
どうやら、日本はまたもやオカシナ人を首相に選んじまったようである。 ま、本人じゃなくて奥さんだからいいのか。それにしてもトム・クルーズがE.T.より 背が低いとは知らなかった。
Document ID: ce2b5559b89778d5f759197935a65cb5
Yusuke Shinyama