2010/2 (b)

Last Modified: Mon Mar 1 12:07:15 UTC 2010

「なりたい自分」というのは、 実は一番「なりたくない自分」なんじゃないか。

/01 [Mon]


(21:05)
試験は終わったが、こんなもんなのかな。あまり自信ない。

とりあえず新山はあらゆる試験で一度目は必ず落ちるという 習性があるので、まあ今回もお約束だろうと考えれば納得がいく。 しかし、2年やってこれかい。

/28 [Sun]


(15:33)
今日は試験にそなえて、一日「つめこみ座学」中…。 障害者ケアマネージメントってなんだ? 「ソーシャルワーカー」って「ガイドヘルパー」とどう違うんだ? (注意: ぜんぜん違います) まったく、こんなお役所資料を読むんなら perlで書いた原子炉制御システムを読むほうがはるかに簡単だる。

/27 [Sat]


(10:10)
メモ: ジャムは明治屋の "my jam" シリーズよりもアヲハタのほうがいい。 とくにストロベリーのやつは。明治屋は値段は安いけど、ペクチン多すぎ。 …どうでもいいけど (どうでもよろ)、"my jam" って名前はまるで 某高○システム開発みたいじゃないか。
(11:58)
くそー、雨でおセンタクが乾かなくって困っちゃうズラね。
(19:52)
ものすごい苦労をして、ようやくパジャマのゴム通しが成功した。この不器用ぶりを見よ。

/26 [Fri]


(08:24)
「メカニズムだけを提供し、ポリシーは提供しない」という姿勢は問題があると思う。 それは結局 "how" だけを提供してはいるが、"what" をまったく提供できていない、 ということだからだ。一体何の話でしょうね。。。

/25 [Thu]


(18:41)
きょうの午後はうちの社長と一緒に川崎まで出張し、 おヒルネ中の委員の先生方の前でテキトーなプレゼンをする。 その後JR川崎駅前に Krispy Kreme があったので、社長におねだりして オミヤゲにドーナツを1ダース買ってもらう (会社にだよ、オレが全部喰ったんじゃないよ)。 帰りに山手線に乗るとみんながドーナツの箱を凝視るのであった。

どうでもいいけど、きょう帰りに自転車で坂を下っていたら、 一瞬だけ沈丁花の匂いがした。わずか 0.2秒ほどの間なのに、 はっきりそれとわかったのだ。その後、嗅覚ってもしかしたら聴覚の代理として 使えるんじゃないかと考える。ニオイも音声と同様、時間的な広がりが必要だが、 嗅覚はじつは聴覚よりもはるかに組成に多様性がありそうで、 その結果、認識も速い。たとえば知っている人の声を 1秒ぐらい聞いても 誰の声だかわからないことが多いが、嗅覚では何百とある物のニオイの中から、 わずか0.2秒で「沈丁花!」と知覚できるのだ。 もっとも、いまの技術では機械的に合成できる匂いは限られているから 複雑なコミュニケーションに使うことはできなそうだけど…。

(追記) 1ダースを「ダズン」ってカタカナ表記すんのは意味不明だからヤメたほうがいいと思はむ。

(20:19)
ひとこと言っておこう。 日本人にウケる文章とはどんなものかというと、それは 「言い訳満載の、コンプレックスまるだしの文章」である。 そういう意味では、新山はいつも「日本人にもっともウケない」文章を 書くように心がけております。以上。

だれかさんへ

/24 [Wed]


(20:12)
きょうは午前中に会社を早退した。朝からやけにクシャミがでるので、 いよいよ花粉症が発病したか? と思ったら (実際それはあるのだろうが)、 そのあと急に頭痛と寒気がしてきて、ヤバい! と思いすぐに逃げ帰る。 朝は自転車で来てしまったので結構つらかった。その後、スーパーに買い物に行ったら、 ムラハシ先生とスーパーの中でバッタリ遭遇。 ま、きのうも閉校式で会ってるんだけどね…。 とにかく試験のことで心配される (さて、何の試験でしょう?)。

新山は「本番で弱る」タイプなので、 いつもこの手の試験のときには十分以上の練習が必要だ。 しかし、今回はまだそこまで準備したとはとてもいえない。 困ったもん田。

(23:50)
あいかわらず迷走してるgoogle。暇なんだろうなあ、たぶん。 lwnにょると、 google は "Living Stories" っつう記事閲覧システムの (サーバ側の) ソースを公開したらしい。で、これまた新山は google がそんな実験をやってた ということすら知らなかったのだが、べつに言語処理しているわけではなくて、 ただタイムラインを使って記事を作成・公開するというフレームワークらしい。 この種の作業を人手でなく自動化するといった研究はすでに山のようにやられている。 しかし、実際のインターフェイスを見ると、 一体これはどうなのよ? はっきりいって、こんな複雑な仕様やインターフェイスは、誰も好まない。 「75% のユーザから好評を得た」って、どーせ母集団は一部の物好きだけだろ。

伝統的に、google の強みはユーザインターフェイスをあっさり単純化する (それでいてうまくいくものを作る) ことにあったと思う。それがいまでは 複雑化するいっぽうだ。最近の google map のゴテゴテ具合にしろ、 google wave (← これ何? いまだにさっぱり不明) にしろ、 この会社はあきらかにセンスが鈍ったように見える。 小回りがきかなくなった人や企業というのは、いつ見ても脱力するね。

/23 [Tue]


(07:38)
またおかしな夢を見た。 べつに大学の知り合いが出てこなくても、 この季節に見る夢は独特な感じをもつものかもしれない。
(02:01)
いま帰宅したらこんな時間だ。OMG.

/22 [Mon]


(08:30)
FREE ZOMBIE

なぜこの季節になると学校関係の夢をよく見るのか??

(18:49)
この世の終わりについて。

「世界は破滅に向かっている」というのは、若者向け文学 (あるいは漫画、アニメその他) にいつも共通するお手軽なテーマである。 この手の話における「世界の破滅」というのは、要するに 「少年時代(あるいは青年時代)の終わり」ってことのメタファーなんだと思う。 このタイプの直線的な物語が好きな人は、たいてい成人すると今度は 「滅亡後の世界を生きてるオレ」という自己認識になってしまい、 はたから見ていて大変に見苦しい。週末終末思想的な宗教にひっかかるのも、 たいていはこの手の話が好きなタイプだな。

いっぽう、こうした時間軸とはまったく別の、空間的な 「この世の終わり」を恐怖している人間も存在する。 たぶん、新山はそうしたタイプの人間だと思う。 新山がもっとも恐れているのは、歩いていたらある日突然、 世界の端から落っこちてしまうとか、あるいは太陽の昇らない国に 迷いこんでしまうとか、足し算の可換則が成り立たない村落に入ってしまう、 といったことだ…

もちろんいまのは比喩的な表現だが、 基本的に、新山は「この世がどこまで続いているのか」ということについて 多大なる関心 (と恐怖) をもっているように見える。「この世」というのは、 物理的な世界にとどまらず、「自分の常識や論理が通用する領域」のことね。 しかし、ある意味では、自分は本当はそういう世界から足をふみ外すことを 望んでるんじゃないか、と思うときもある。新山はときどき 「どこまで進んだら自分の常識が通用しなくなるのか」を見きわめようとして、 突飛なふるまいに出るときがある。境界を越えることを恐れるくせに、 境界に近づくのはスキなのだ。世界の中心というのは 一カ所しかないが、「世界のはじっこ」は無数にあるよね…

こういう思考様式は生得的なもので、おそらく歳をとっても 一生このままなんじゃないかと思うけど、 もしも将来、新山がどこかで転落死したとか、クマに襲われて死んだとかいう話を聞いたなら、 そのときは「いかにも新山らしい死に方だ」と思ってくれ。 (でも遭難はやだな、金かかるから)

/21 [Sun]


(01:12)
adblock は悪なのか?

…日本ではあまり見かけない議論だが、 米国へいくと "AdBlock は悪か?" って議論を ズーっとやってる。たぶん 2005〜6年ごろ、すでに Slashdot で "Web広告をブロックするのは社会契約に反するか?" って議論をやってた (ちなみに今はもう新山も slashdot を見てない)。 で、いまだに米国にはそういう議論をしている人々が結構いるんだけど、まあ、なんだ、 新山の見るかぎり、"AdBlockは悪"って主張をする人々はわりとアホである。 基本的に、彼らの主張は市場主義的なものが多くて 「webサイト製作者が、そのコンテンツで金を稼ぐのは当然の権利だ。 AdBlock はそれを侵害している!」というのだが、ここには いくつかのレベルで混乱がみられる。

まず、広告ブロック自体は他者の権利をなーんにも侵害していない。 ただ「広告をブロックするように他人に勧める」のは、たしかに侵害である。 これは、広告のクリックというものを友達づきあいと考えてみるとわかりやすい。 たとえばここにウザい人物 X がいるとして、そいつとつきあっている (つきあわされている?) 人物 Y に「あいつとつき合うのやめなよ」といえば、それは余計なお節介だ。 しかし Y が自分で X と距離をおくのは本人の自由だし、Y にはそうする権利がある。 それでもまだ X がしつこく言ってくるようなら、それはストーカー扱いだ。 個々の人間には「誰とつき合うか」を選択する権利があるし、同じように Webサイトを見るユーザには「どんな情報を受けとるか」を選択する権利がある、と思う。 ただ、今まではそうした選択肢が (技術的に) 与えられていなかったダケのことだ。 しかし AdBlock のおかげで選択肢が「ある」ようになったんだから、 それを使ったって別にいーじゃん? といっても、べつに AdBlock を入れたからといって すべての余計な (と思える) コンテンツを見ずにすむわけじゃない。 はっきりいって、新山にとっては AdBlock はもの足りない。 オレは広告以外にもいろいろジャマなものを取り除きたいページがあるのだ…。 しかし、世の中その手の制限はつねにある。人とのつきあいだってそうで、 嫌なヤツでも仕事で会わなけりゃならなかったりする。 だが、それはなにも相手の「権利」のためじゃない。 自分の「利益」のために、仕方なしにやってることだ。

それから、ときどき「もし広告収入がなくなったら、大半のwebサイトが消えてなくなる。 それでもいいのか?」という人がいるが、新山はこういった「もし」にはかなり懐疑的である。 正直いって「webから広告が消える」なんてことはありえないと思う。世の中には spam メールからだって 物を買っちゃう人がいるんだから、テレビのCMも、Webの広告も、とくに何とも思わず見てしまう 人々はこれからも必ず一定の割合で存在しつづけるだろう。そして基本的には、 広告というのは、そういう人にしか効果がないと思う。だから、AdBlock を使うような ユーザはさっさと無視して、もっといい広告手法を考えることに時間を使ったほうがいい。 媒体がなんであれ、広告というのはいつの時代もそのときの 技術や環境にあわせて手を変え品を変えているんだから、ある方法がうまくいかないんなら 別のやりかたを模索しろよ。(しかし、その新しい広告が、今のよりもさらに巧妙かつ ウザいものにならないという保証はどこにもないが)

しかし、この議論でいちばんヘンだと思うことは、実はこうした広告ブロックが悪いといっている人は、 自分自身が広告に対して非常な後ろめたさを感じているんじゃないか、ということである。 なぜなら本来、理想的な市場経済では「広告を見なかったら、ユーザは損をする」はずだからだ。 売り手と買い手がどちらも合理的に判断すると仮定すれば、ですよ。 だから、もし本当に広告がいいと信じている人ならば、広告をブロックする人々に対しては 「お気の毒です」と言えるはずなのである。それをけしからんと腹を立てるということは、 自分たちの広告のインチキ性を証明しているようなものだ。つまり彼らにとって、 広告というものは消費者に無理矢理見せて商品を買わせる「トラップ」でしかなく、 彼らはただカネのためにそれを仕掛けているだけだ。最初から後ろめたい行為なのである。 そして、ときにそのトラップを迂回してしまう人々がいると 「ちくしょー! ひっかからねえ!」と怒るわけだ。 こう考えると、一体どっちがインチキをしているのかわからん。 とにかく、この手の議論はいつも滑稽だ。

(追伸) 新山自身は「web広告を見なくて損した」と思ったことがないので、 web広告のためにこれほど多額の金が動いているといういまの現状は驚異である。 やはりこれはオレが市場経済からとり残されていることの表れなんだろうか?

/20 [Sat]


(10:25)
知らないうちに季節は恐怖する。
(19:00)

いきなりアカデミックな話。 きょう Langacker (どうでもいいけど、何でこれをラネカーって読めるのか いまだに謎) を読んで考えた、新山が望ましいと思う言語理論の条件:

  1. Must be a semi-deterministic, procedural framework. (not a search problem!)
  2. Associate with concrete cognitive domains (2-d and 3-d space, temporal, etc.)
  3. Polysemy is built-in; a word is polysemic, but a cognitive entity is not.
  4. Not to be holistic. Put certain assumptions for human cognition. (2.と関連)

ラマチャンドランの本など読むと、ひょっとすると人間の脳は 2次元、3次元以外の空間における生活に適応することもできんじゃないか、という気がするけど、 でもそんなこといってると議論が先に進まないので、 とりあえずここでは仮定をおいてもいいんじゃないか。

新山はとりわけ認知言語学 (Cognitive Linguistics) に興味があるのです…。 が、現在のこいつらの問題は言語に対して analytical なアプローチをとれないことだ。 なんしろ「言語とそれ以外の (物理世界に対する) 知識体系が一体化している」という主張のために、 変数ががっしり絡みすぎてしまっていて、どことなくゲシュタルト的な印象がある (と、新山には見える)。手話などをやっていると、generative な人々のいう 「文法解析部分はモジュールとして切り離せる」などというのは 明らかな大ウソであると思えるのだが (feature structure や categorial grammar も同様、Adam には悪いけど)、 しかしいまだにきちんとした (議論に使える) 「切り分けどころ」を 見つけられないというのは、科学としておおいに問題がある。 って、オレは一体何を言っているのでしょう? まあ、これは、メモだから。

p.s. てくるで、 いまギャローデットの言語学科を 見ていたら、ここってスタッフの連絡先に、通常の電話番号 (音声) や FAX とは別に "Video" とか "TTY" っていう電話番号があんのな。かっこいい!

(さらに追記) TTY といえば、前に「なんで日本ではろう者用の TTY が流行らないんだろ? 仮名かローマ字だけにすれば簡単なのにな?」とずっと思っていた。 しかし最近、これはろう者の立場を考えてない発想だということがわかった。 彼らにとって、日本語の書き言葉には漢字が不可欠なのである。なぜなら彼らにとっては 漢字の「形」そのものが重要なのであり、漢字のあらわす「読み」が意味を伝えているわけではないからだ。 だから読み仮名をわざわざタイプするのは彼らにとって二度手間であり、そんなら手書きをそのまま伝えられる FAX のほうが簡単、ってことになる。ま、携帯メールの普及した日本では、 もはやそんなことドーでもよくなっているケド。

(01:00)
あれま
いつのまに
冬になる前に
冬が終ってしまうでわないか!!
<br>

/19 [Fri]


(00:23)
結局 (ケッキョキ) ね。
(19:35)
きょう、会社へいく途中でコーフクの科学がゴミ拾いをしている場面に遭遇した。 わざわざ「幸福の科学 / Happy Science」と書かれた青いタスキをかけている。 そして、目が死んでいた。
(19:55)
どぅーでもいぃーけど NTT は巨大なゴミ (例:タウンページ) を わざわざ家の前に置いていくのをやめてほしい。あした回収にくるって? じゃあさっそく渡そう。

Document ID: 72490997d7dec6df57da05418d32f227

Yusuke Shinyama