“いつか家に牛が来るまで”
どうでもいいけど、javascriptが「どんなブラウザでも動く」とかいってる人々は、 とーぜん超遅いブラウザでも動くことを期待してるんだろうね? なぜって、もし JS の実行をいまよりも 100倍速くした Google Chrome 6.5.409 とか Firefox 9.0.57 とか Internet Explorer 10.1729.32768 でないと遅くてまともに使えないアプリなら、 どのみちユーザはブラウザを更新しなきゃいけないからだ。 そしてユーザがブラウザを簡単に更新できるんなら、配布の問題はすでに解決されており、 もはや「JSだけで動く」ことにたいした意味はない。そのうえ、あいかわらず実装間の非互換性は残る。
結局のところ、必要なのは 「オープンかつ一貫した標準規格」なのである。が、そんなものは夢物語にすぎない。 これまでにソフトウェアの標準規格がうまくいったためしってある? …いや、あるにはあるのだが、それは単純かつ(ある意味)いいかげんな規格に限られる。 ソフトウェアが複雑化すればするほど、その仕様は人間には記述しきれないものになり、 したがって「規格」で縛ることは難しくなる。たとえうまく記述できた場合でも、1300ページもある PDF 1.7 の仕様とか、5000ページ以上もある Word の「オープンな」仕様などが生まれる。 これらを一字一句守ろうとしても、すべての実装においてランダムな場所に発生しうる バグのために、結局は実装間の無視できない差異ができてしまう。
ソフトウェアを複雑にしようとする人々は、人類に対する本当の罪人だと 新山はいまでも思っている。そして、かくもバカげた産業を神秘化しようとしている人々も同様。
「いまの人、目が悪い人だよな。電車なんか乗れんのかね?」
いま乗ってたじゃねーーーかよ!!
…しかし、実はオレも人のことは全然いえない。 きょうは「盲人の人々ってよくガスコンロ使って料理とかすんの?」と言ったら、 周りから「なに言ってんですか新山さん! みんなボウボウ使ってますよ!!」 と言われてしまった。こういうとき、つくづく自分は偏見があると感じる。 これは盲人に限らずそうだが、いわゆる「障害者は○○ができない」という偏見は、 そのほとんどが無知から生まれる。オレもまだまだ未熟だよなあ。
しかし、たとえ偏見といわれようが、オレにとってはいまだに 白杖だけで道路を歩いたり電車に乗ったりする人が曲芸師のごとく見えるぞ。 人間とゆうのは、まったくの驚異だ。
"Complete report pad pursued easiness to write and the functionality."
(できあがったレポードパッドが書くことの容易と機能本位性を追求しました)
このアホな英訳 (おそらく機械翻訳) から元の日本語を推測してみると:
“書きやすさと機能性を追求した完全なレポートパッドです”
…かな??
おかしいの日本語でも我慢のできますが、おかしいの英語は直されなければなりません。
(We can take strange Japaneses, but weird Englishes should be corrected.)
(追記)
…てゆうか、これは機械翻訳ですらないかもしれない。
構文が根本的におかしい。TOEFLの「間違いを探せ!」問題でも、これほどおかしくはない。
まず、"pursue" (新山はよくこれはpersueと間違えて綴ってしまう) が受け身になっている。
最低でも "pursuing" にすべきだろう。それから "easiness" って単語を使うのは日本人だけ
("easy"の名詞形は"ease"である)。さらに、英語ネイティブ率およそ 30% の新山の印象では、
"ease to write" って不定詞を使うのはなんかおかしい。"ease of writing" にすべきである。
それから、なんで "functionality" にだけ "the" がついてるんだ? それなら "ease" の前にも
"the" をつけるべきだと思うし (あいかわらず意味は不明だが)、最初の "Complete" の前にも
"A" をつけるべきである。英語では、文字数が限られてる場合に冠詞を省略することはありうるが、
その場合には一貫して省略しなければならない。
そんで、こうした構文的ミスを全部直したとしても、 全体としてはヘンテコな文章である。なぜかっつうと、ほとんどすべての単語が 堅苦しすぎるか、あるいはニュアンスが日本語と違うからである。そもそも "complete" というのは 「完成した」「出来上がった」という意味合いが強く、「完璧な」という意味ではない。 「出来上がったレポートパッドだと? そりゃ、出来上がったもんを売ってんのは当たり前だろ」 と思ってしまう。また "pursue" は、何十年にもわたる地道な研究か、 あるいは連続殺人犯の追求みたいな場合に使うのであり、もっとカジュアルにしたい場合は "aim" とか "focus"、さらにいえば動詞を使わずに "for" ぐらいのほうがいい。 そして次に "easiness to write" でも "ease of writing" でも、 日本語の「書きやすさ」に相当するニュアンスはない。この場合の "easy" は、 なんか「手の不自由な人でも書ける」といっているみたいである。 使うなら "smooth" とかが適当か。で、最後の "functionality" は ふつうもっと複雑かつメカニカルなものに使うんであって ("function" には「動作」というニュアンスがある)、 たとえば自動車に対して使うならいいが、紙のノートに対して使うのは大げさである。 ノートはべつに「動作」しないもんね。システム手帳ぐらいになら使ってもいいかもしれないけど。 (そして、あいかわらず「システム手帳」のなにが「システム」なのだか、新山にはまったくもって謎だ)
…しかし、いま思ったのだが、日本人はよく家具とか日用品に対して「機能性」って 言葉を使いたがるよなあ。いったい「機能性」って何だ? 新山は日本語でもこの表現の意味がよくわからない。 「機能性トイレ」なら、ああ、あのスイッチが山ほどついた、 いわゆる「IT便所」のことね、と想像がつくけれど。
p.s. 両親は炒まない。
「パターン」とは、その定義からして、複数回表れるものだ。 宇宙に一度しか表れない構造は、パターンとは言わない。 しかし、一見すると違うものを「同一である」と見なすことができれば、 それはパターンになりうる。このように、パターン認識のためには 抽象化の能力が不可欠である。なぜなら、抽象化の能力というのは結局のところ 「あるものを別のものと同一視するために、余計なものをそぎ落として理解する」 ってことだからだ。だが、それがすべてではない。パターンの「存在」を認識するためには、 差異が不可欠である。生まれてから日本人しか見たことのない人は、 「日本人の顔」というパターンが存在することに気づかないだろうが、 パターン認識の能力は生まれつき持っているので、 西洋人の顔を 2、3人 見ればすぐに別のパターンだと認識できるだろう。 何が言いたいかっつうと、人間、生まれつき頭がいいだけではだめで、 やはり「経験」が重要っつうことなのである。
(言語の意味とパターンの話を書こうと思ったのに、 気がついたらこんな話になっていた。ま、いいか)
しかし悪意があろうとなかろうと、ウソつきは嘘つきなのである。
それと、どうも最近、せっかちになってきたような気のする。 焦っているのか、なんか短時間で結果が出ることを望みすぎるのだ。 何事も時間をかけてコツコツやるようにしなきゃ。 プログラミングにとって、とくにこれは重要である。 かといって、あまり時間をかけてもダメだけど!
それにしても、あいかわらず投票には自信がない。 義務として投票に行かなければならない、というのはわかるのだが、 「自分の入れた票にはたして意味があるのか」というのは、いつも首をひねっている。 投票所には行ったが、自信がなくて結局何も書かずに帰ってきたこともある。
これを見ると、米国の投票率って6割ちょいぐらいで、大したことないな。 それにひきかえ、イラク初の総選挙の投票率 8割というのは考えさせられる。 あれだけ危険が多いのに、みんなちゃんと投票に行くわけだ。 彼らと比べると、新山はまったく政治的意識がない。
あなたのブラウザ設定がどれくらいユニークか (識別可能か) を示す http://panopticlick.eff.org/。 この名前は、ダジャレかい? Lynxでやってみたら、これを使っているのは44369人に一人の割合らし。 が、世の中にそんなに Lynxユーザの割合が多いハズがない。 たぶん、eff.orgのページを見る奴にはそんなのしかいないんだろう。
クリーンな政治家、グリーンな政治家、
クローンな政治家。
新山の印象では、ハローキティはいまや日本よりも米国でのほうがよく知られていると思う。 といっても、べつにアメリカ人の間で人気があるわけではなく、 「日本の女子高生はみんなハローキティが好き」だと思われている点において、である。 こういうのは、ふだんの会話とかyoutubeのコメントでなにげなくほのめかされるだけなので、 ちゃんと定式化されていない。しかも、いちど日本に来てしまった外人はすでに 自分のイメージを修正してしまっているので、こういう思い込みというのは 「日本のアニメやゲームをいくつか見たが、日本に一度も行ったことがないし、べつに行きたいとも思わない」 という人々に聞かないとダメである。このように、アメリカ人が 日本のポップカルチャーから学習した思い込みのうち、新山が発見したやつをいくつかあげておくと…
こうしてみると、(アメリカ人の頭の中における) 日本という国のケッタイさは世界トップレベルだな。 もちろん、個々のこうした具体例は誤解なのだけど、その根底の部分では間違ってないんじゃないか、 と思うこともある。つまり日本は「(上記のことが) もしかしたら本当にありうるんじゃないか、と思われるほど 何か根本的なところで米国と違っている国」なのである。
…そうかあ?
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Yusuke Shinyama