Jan. 2020

Last Modified: Thu Feb 13 01:21:56 UTC 2020

Audio Circuit and Visual Circuit 2020-02-01 [Sat] 09:04

So I've been reading this article and probably equally mind-brown as everyone else. I am one who definitely doesn't have an internal (auditory) monologue, and it's shocking to find out that many people do. Most of my thought process is probably modelled as a comic strip, or a sequence of manga-esque pictures that describe events in chronological order. I also memorize many things as pictures, so I'm probably more of a "visial" person. Interestingly, I do a lot of (actual) monologue, but that's mostly me just rehearsing speaking to others, not to myself. In by the famous Feynman's essay about counting, I can see that I'm certainly one who "see" the numbers instead of hearing voices when counting, and the idea of audio/visual "circuits" being busy so that it cannot do other tasks is fascinating. Now, I wonder how it affects my teaching style or presentation style, let alone all my other activities.

国語力と“日本語力” 2020-02-01 [Sat] 09:04

かの Dijkstra は「ある人のプログラミング能力を測定するためには、 ただその人と会話してみて、母国語をきちんと操る能力がどれくらいあるかを 見ればよい」と言ったという。似たような話だが、最近いわゆる“日本語力”と 国語力の違いとでもいったものに気づいた。新山が思うに「日本語力」というのは 難しい漢字を知っているかとか、熟語をどれくらい知っているかといった 機械的な能力のことで、ようするにあまり面白くない。いっぽうで「国語力」というのは すなわち「母国語力」であり、自分の考えをいかに(ネイティブ言語で) 流暢に表現できるかによる。

で、よくあることだが「日本語力のある人」が必ずしも国語力もあるとは限らない。 しかもこういう人々は、表面上はきれいな日本語を喋ったりするのでやっかいだ。

事務組織と教員組織 2020-02-01 [Sat] 09:04

さて、大学に教員として就職してはや2週間になるのだが、 実際に教員になってみると、学生のときには見えなかった大学の巨大な 内部システムが見えてきた。それはつまり「事務組織」ってやつである。 ふつう学生のときには大学の事務を意識することはほとんどない。 おそらく教務課の人とやりとりするぐらいだ。しかし教員となると話は違う。 まず人事課にはじまって、財務部やら技術部やら施設部やら契約課の人々なしには 大学の先生はやっていけないのである。巨大すぎて、まだ新山にはいまいちこの 全体像が把握できてないのだが、基本的に大学の教員はいいかげんで、 指揮命令体系とか勤務時間もテキトーなので、企業からひさしぶりに 大学に戻ってみるとこの差にはちょっとカルチャーショックを受ける。 いっぽう事務の人々はきちっと決められたサラリーマン的な 定時勤務をしていて、指揮系統もちゃんとしている (ように新山には見える)、 ようするに「マトモな会社っぽい」のだ。この全然違う2つのシステムが 大学には共存している。これはなかなかおもしろい。

スキーリゾートの経営学 2020-01-30 [Thu] 21:13

これ、すげーおもしろい。 スキーリゾートの経営学

(要約) スキーは高額なスポーツである。まず、リフト1基の値段が高い。 もともとのアイデアはシンプルだが、安全装置等を含めると1基あたりの 建設費は10億円程度になる。大きなスキーリゾートではこれらが 数十基ある。加えて、チケット販売、監視員、レンタルショップ、 レストランやホテルの従業員など数百人を雇用しなければならない。 彼らの労働環境は過酷で、さらに労働者のためのインフラが必要である。 しかしスキー場周辺の土地は一般に高価である。たとえばコロラド州アスペンの 町の地価はマンハッタンよりも高い。しかもゲレンデの質を維持するのは 実は大変な作業で、毎晩のメンテナンスを必要とする。そして 多くのスキー場にある人工雪施設がこれまた高い。 大量の水を必要とするうえ保守も必要だ。たとえば1エーカーの土地に 人工雪を降らせるコストは1回およそ50万円程度である。 そしてスノースポーツに対する究極の敵、気候変動がある。 今後スキー場が採算をとるのはますます難しくなっていくだろう。 そのため、複数のスキー場が経営統合をおこない、1日のリフト券ではなく 共通のシーズンパスを発行するケースが増えている。こうすると 天候に左右されず年間の売り上げを均一化できるためだ。

Wendover Productions は (どーせ日本では知られてないが) 3blue1brown とともに、金を払ってでも見たいチャンネルのひとつだ。 あとは Real Engineering も好きなんだよな。深夜まにとっての エンターテインメントは、この手の教育系 YouTuber と NPR と Joe Rogan である。それでも多すぎて消化しきれない。

GPT-2の栄枯 2020-01-26 [Sun] 09:56

ふと Rebooting AI: Building Artificial Intelligence We Can Trust を読んだ。 著者の一人 Ernest Davis は NYU 時代に新山がお世話になった先生で、 彼は新山の博士論文の審査委員になってもらった記憶がある (もう一人の著者 Gary Marcus は知らない)。 彼はいわゆる「古き良き記号的AI」の研究者で、地に足のついた考え方をする人だった。 たぶん今でもそうなのだと思う。チョー地味な研究スタイルで、 マスコミで有名になったりすることはまずなさそうなタイプである。 基本的に、この本はよくある AI ブームに警鐘を鳴らすといったところで、 問題提起はもっともなのだが、解決策として提案されている議論は弱い。 (まあそりゃそうだ、解決策が今からわかっていれば苦労しない。)

GPT-2 が日本でどれくらい有名になってんだか知らないが、 なぜこれが「AI業界」でこんなにもてはやされているのか新山には理解しがたい。 だって、しょせんはランダム文生成器じゃん? N-gram よりも精度は良さそうだが、 構文木は考慮してなそうだし、何らかの意味表現をもっているわけでもない。 OpenAI のようなスゴい(と思われている)研究機関が、こんなオモチャを作って どんな知見が得られるのかサッパリわからん。 しかし新山が AI研究のこういうアホさ加減を HN なんかで指摘すると、いつも 盛大にdownvoteされておもしろい。 世の中には「AI研究は着実に進歩している」と信じたい人々がいるようである。 新山は昔からこの手の話に対して懐疑的だったが、 研究予算など「オトナの事情」がわかってきた最近では 問題はさらに根深いと思うようになった。 単純にアホな人々が酔っぱらってるだけという話ではないのだ。 あらためて、「世界はだまされたがっている」と言うしかない。

母の死 2020-01-26 [Sun] 01:17

新山の母は 2018年7月5日に実家の台所で倒れた。 実際に死亡したのはそれから10日ほど後だったが、 それから意識が戻ることはなかったので、 この日が実質的な母の命日だと思っている。 母はこれまで入院したこともなく、オレはよく 「臼で挽いても死にそうにない両親」という表現を使うのが好きだった。 まったく突然のことで、新山が実家に戻ると、 まだそこには作りかけのパン生地が置いてあり、 おそらく昼飯にするはずだった野菜が洗って流し台に置いてあった。

新山はこういうことを隠しておける性格ではないので、 この件はすぐに友達にも話したし、Twitterにも投稿したし、 授業で学生にも話した。おそらく自分はそうすることで 安静を保つ性格なのだろう。でもこの件について、 冷静に書き残しておく気になれなかった。 あれから1年半たったが、いまだにこれを書いておく 必要があるのかどうかはっきりしない。

母は自立心が強く、個人主義で (この性格は息子にも立派に受けつがれている)、 病院で動けなくなってから死ぬことを嫌っていた。 ちょうど心臓病で亡くなった祖父のように、病気を長引かせず 「手際よく死にたい」と願っていたが、その希望はかなえられたことになる。 妙な話だが、新山には前からいつかこうなるという覚悟があった。 (とはいえ、予想したよりずっと早くその日が来たのだが…。) いっぽうで父はといえば、おそらく母を病院に搬送した経験は 人生最悪の恐怖であったろう。だが父はある意味「英雄的」ともいえる 努力でそれをやり過ごした。彼はいまでも長野の実家で 母の品々に囲まれて暮らしている。オレにはそんなことはとてもできないので、 新山は東京に逃げているといってもいい。

じつは母が生きていたころ、新山の父と新山はあまりよい関係ではなかった。 新山には、父が余計な苦労を母に負わせていたように見えたからである。 しかし父はいまでは料理を覚えたし、オレはオレでふたたび父親を 尊敬できるようになった。母がもし早死にしなかったら、二人が こうしたことを学ぶ機会はついぞなかったのかもしれない。 だからそういう意味で、客観的に見ると、母の死は「いいこと」だった のかもしれない (自分ではとてもそうは思えないが)。母はいつも 「自分はいつもツイている奴だと思え」と言っていた。 まあそう言われても全然自信はないのだが、今後も「新山っぽく」 生きていくしかないだろう。

さて、年が変わって、新山は職場も変わったし、住所もそろそろ変わるので また日記を定期的に書きだすべきだと思っている。それに研究についても 書かなきゃいけないし。問題は日本語にするか、英語で書くかということなのだが 研究関連については英語で書きたいし、こういう日常的なことは日本語で書きたい。 しかしふたつを混ぜるとヘンな状態になりそうで悩んでいる。 昔のノーテンキな日記スタイルを戻すのが現在の目標だる。 そうゆうこと。


Yusuke Shinyama
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