パンカレーとカレーパン。
(注意: 今回はグロテスクな話が多いのでその手の話が苦手な方はどうぞお読みください)
しかし、病院の食事はそんなに薄味でもマズくもなかったのはハッケンであった。 つまり、新山はふだんから筋金入りの薄味指向だ、ということだな。
今回の入院ではじつにいろいろなことを学んだ (海外旅行と同じくらいに)。 それ自体はいいことだけど、もうあまりやりたくないな。 「フツウの生活を送れる」っていうのは、スバラしいことであると、あらためて思った。 そして、きょうは久しぶりに買い物へ行き、自炊してメシを食ったら もうくたびれている。入院するとすぐ体力が落ちるって聞いたけど本当ね。
それからもうひとつ。病院の屋上といえば、やはり洗濯物干し場だった。
いや、インターネットってすばらし〜。
「んがー、んががぁー、んがががああー、 んガガガガガっ!」
となって、もとの静かな状態に戻る。これのくり返しなのだ。 しかし最後の「んガガガガガっ!」というのは、 いったいどうやったらこんな音が出るんだ? というほどの、すさまじい轟音である。 ウルサイというよりも、おかしくってしょうがない。 ゆうべはこれが出るたびに、新山は声をたてずにベッドの上で悶絶して笑っていた。 そんなわけで、きょうは寝不足。朝メシ食ったし退院まで ひと眠りするか。まさに廃人。
ちなみに炊事室へいって本日のメニュウを確認したところ、 やっぱり病院でも「年越しソバ」が出ることが判明。 常食だけど。残念ながら、オレはさっさとそのまえに帰宅してしまう。
すっかり入院時間に慣れてしまい、けさは5時半ごろ目ざめる。 起床は6時なのだが、なんしろ9時すぎには寝ているのだ…。 しかし、とくに眠れないということも、夜半に腹がへって起きるということもなく、 ひじょうに快眠だる。つまり、ただの廃人だな。
あとは傷が治るのをひたすら待つだけなのだが、キホン的には もう日常生活にはほとんど支障がないので (ウンコするときにシミるぐらいだ)、 ひたすら食って寝る以外にやることない。はやく退院したいな〜。
と、いうか、これはべつに家で日がな一日、パソコンをいじっている生活と 大して変わらないのだが、病院ではお茶やコーヒーが好き勝手に飲めないので (自販機で缶コーヒーは買えるのだが、あんなもんは飲みたくない)、 自由がないと感じる。ちなみに、病院からネットにつなげないのは、 むしろ生産性としてはかえって上がっているかもしれない。 なんしろ、うっかりwikipediaを見たりして余計な時間をつぶすことがないからね。 しかしここにはまともなイスと机がないので姿勢が悪くなるし、おまけにディスプレイも小さいので そのぶん効率は落ちる。ようするにオレは「図書館の自習室」みたいなところに いれば一日じゅう幸せなタイプなのね。どうでもいいや。(ddi)
ちなみに、mp3をいっぱい持ってきているのだが (全部CDからとったやつだよ、 ダウンロードしたんじゃないよ)、そういえば最近、音楽ってぜんぜん買わなくなったな、 と思い出した。というか…もはや自分の音楽の好みが全然わからない (まあ、もとからかなり錯綜しているが)。 おそらく邦楽には興味ないだろうということはいえるのだが、ヒマつぶしにフラっと入れる レコード屋というものをほとんど知らないからな。日本のレコード屋でむかつくのは、 南米方面やインド方面の曲を買おうと思っても、そういうのはほとんど 「ワールド」とかいうコーナーにまとめられていて、しかも自分の欲しそうなのは (コーナーが小さすぎて) まったくない、という状況なことである。 なんだかんだいって、食い物以外は新山はかなり「非日本化 (かならずしもアメリ化ではない)」されている。foof
きょうから入浴が許可になったので、シャワーをあびるときに 切ったところをそっと手でさわってみる。バッチリ切れてますよ! あきらかに穴ボコが空いており、その部分が切除されたのだとわかった。
きのうは「手術後は安静」といわれていたにもかかわらず点滴をひきずってトイレに行ってしまい、 お目玉をくらう。けっきょく、オレは“し尿器”というものを一度もまともに使えなかったのだなあ。 敗北した気分。ちなみに、ゆうべは頭痛がした。センセイは麻酔のせいだ、 というけれど (腰椎麻酔のあとは、横になってないと髄液が逆流して頭痛をきたすらしい)、 オレ的にはあれはどうみても偏頭痛だと思う…。だって、起き上がると直るんだもん。 というわけで今日は朝からベッドの上に正座して本をよんだりプログラミングしている。 これがあと何日つづくんだ? …何よりもカニよりも、モノが食えないというのは結構つまらん。 新山は禁欲的な生活にはわりと慣れていると思っていたが、それは 「食おうと思えばいくらでも食える」という仮定のもとに成り立っていたのかもしれない。 それにこの「点滴」っつうのは非常にジャマなものだと実感。
ちなみに腰椎麻酔を使っていたので手術中も意識があったのだが、 手術前に「なんか音楽でもかける?」と言われ、「センセイの好きなのでいいです」といったら、 そのCDの最初の曲がいきなり Toccata in d minor で、 かなりウケてしまった。手術が始まったらとても質問できるような雰囲気ではなかったが、 手術そのものは十分に楽しめたといえるだろう。
はっきりいって、病院でパソコンをいじっていても 家でパソコンをいじっているのと大差ない。ただし eeepc の キーボードはかなり打ちにくいが! (それと、小さいマシンでは、キーを打つと画面が揺れるため目が疲れる)
きょうは会社のボー年会があるのに、明日手術なので酒が飲めないという状況。 ぬんてこったい!
べつにこれは命にかかわる病気ではないし、少なくとも、今のところは緊急性もそんなにない。 でも、どのみち自然治癒はしないし、放置すれば悪化するのは確実なので、 いつかは手術ということになる。だったら、サッサとやったほうがいい。 それに、だいたい新山は生まれてこのかた入院って一度もしたことがないのだ。 したがって、今回の入院はなんとなく楽しみである。まあ、人生のうちには 病院で紅白歌合戦を見るって機会があってもいいと思う (← ムリ、その時間はもう消灯だ)。 とにかく、今回の手術・入院中もいつもと同じように好奇心をフルに発揮するつもり。
まえに「悪」の話をしたが、新山にとって、好奇心をなくすということは、 人生に怖気づくということであり、すなわち敗北を意味する。 たとえ死ぬとしても (まあ、今回は死なないと思うけど…)、 最後の最後まで自分の“死にざま”をたっぷり観察してやろうと思う。 自分になにか生物としての「勢い」のようなものがあるとしたら、 好奇心は、その中でもいちばん強力かつ最も根源的なもののような気がする。 気がするね。
はっきり言って、職があり、ちゃんとした病院に入院できるというのは、 じつはものすごい幸運である。ホントーにそう思う。
しかし、それでも自分はこの仕事に意義を感じている。 なぜなら新山は「インスタント食品は必要だ」と信じているからである (自分ではほとんど食わないにせよ)。 同じように、ウォルマートも中国製品も遺伝子組み換え食品も必要だ。 なぜなら、いまだに世界の多くの人々は、かつての日本人と同じように「余裕がない」からである。 掃いて捨てるほど食物のある国・人々だけが 「中国産はけしからん!」とか叫ぶことができるのだ。ほとんどの国では、ただ与えられたものを 食う以外に選択肢はない (場合によってはそれすらも。キミはジンバブエのニュースを見たか?) たとえ中内功が死のうがダイエーが滅びようが、 世界のほとんどの地域では「いい品をどんどん安く」というスローガンは、いまだに正しいのだった。
(じつは上の議論にはもっと過激な例えがあって、それは「福祉機器の開発というのは、 ダッチワイフの開発に似てる」というものである。しかし新山はインスタント食品なら食ったことあるので 比較できるが、こっちのほうは比較できないので、この比喩を使うには不適当な人選かと…。 おっと、ダッチワイフはじつは「福祉機器」に分類されたりするのかい? まだ「機器」というほどのものではないかもしれないが、もっと高度化して、 喋るようになったりしたら…それとも、もう喋るのか? コワイのでこれ以上は考えないようにしよう)
todo: そろそろ、新しいサイフを買うこと。やぶれてき田
さて。
新山がドストエフスキーを好きだったり、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』が好きだったり、 あるいはビル・ヒックスが好きだったりするのは、結局のところ、かれらが人生の「矛盾」というやつに対して 積極的に向きあってるからだと思う。この矛盾というのは原理的なものであって、 ここから逃げることは誰にも絶対にできないのだが、多くのアホな (と新山は思っている) 人々は、 この矛盾を避けて通ろうとしたり、あるいは単に見落としたりする。 …けっ、いくら表面的には誠実そうなことをいっていても、この矛盾を意識しない限り、 人は本当の意味での“誠実”じゃねえよ。(もっとも、この場合の「誠実」とは、 計算論的には「不誠実」ということだが!)
まえにある友達と話していて、人間の知性の本質とは、 じつは「混乱していること」なのではないか、と言ったことがある。 このことは今でも信じているし、この混乱を積極的に肯定しようとするほうが、 それを積極的に否定しようとするよりも、健康的な立場だと新山は思う。 しかし、これに気づかない人のほうが一般的には幸せである。かもしれない。ぬ
…ところで、ニーチェのいう「永劫回帰」ってのはこれと本質的には同じことを
いってるんじゃないのかな? どうも奴の文章は意味不明で言ってることがよくわからんんよ。
(じつはゼソゼン違ったりし
て)
…どーでもいいけど東京で、デンマーク製の 丸いカンに入った安いクッキーを売ってるとこはねえーのかなぁー。 新山は結構あれがお気に入りだ。日本では需要がないのだろうか? ときどき変な洋菓子を仕入れているドンキホーテにも見当たらない。 米国にいけばだいたい Duane Reade か地元の安スーパーで $5 くらいで売ってるとゆうに。 いまでも覚えているが、試験のときに Siegel が配ってたやつだ。 考えてみれば、新山のクッキー熱はこのときから始まったようの気のする。
(追記)
きょうは冬至なので、銭湯でゆず湯。
てくるd、来週と襲来はどう違うのだろう。また来襲。
こういった状況では、おそらく 「コンニャロ! この急いでいるときに、電車を止めやがったバカはどこのどいつだ?」 と思ってる人が大勢いると思われる。それはそれでいいのだが (新山もそう思っているのだが)、 問題は、この程度のバカが“大悪人”のように扱われてしまう社会の雰囲気 (ふいんき) である。 はっきりいえば、急病人が出て電車が止まるのは実はいいことなんだよ。 同じように、非常停止ボタンで電車が止まるのも、雨のために電車がユックリ走るのもいいことなんだ。 なぜなら、それは社会の“余裕”がきちんと機能しているということだから。 急病人が出ても電車が止まらないで走ったり、非常停止ボタンが設置されてない社会だったら、そちらのほうがよほど問題だ。 そんなカンタンなことは誰でもわかるはずなのに。 しかも、ヒトが病気になったり、踏切でうっかりエンストしたりするのは「悪いこと」なのか? むしろそれは人間として「あったり前に起こること」なんじゃないのか? じつはここに対する思い込みが最大の問題である。つまり、日本ではだれもが人間を 機械のようなものとして扱いたがっているのだ。人間に欠陥があるのはたいていの社会では折り込みずみで、 むしろ、そういう「人間っぽさ」をいかに許容できるかが、その社会の価値 (こう言ってよければ) であるとすらいえるのに、 それが逆に咎められる、という世界はとても怖い。 鉄道会社は人々のために電車を遅らせたことをむしろ自慢すべきだし、 そうした余裕こそがカッコいいのだという宣伝をするべきだ。 一部のアホな客を黙らせるための言い訳なんかしなくていい。
ちなみに、新山はこないだ自分の駅で急病人が出たのを見たが、 あの雰囲気こそ「いじめ」だと思った。 その電車は急行で、ほんらいこの駅には止まらないはずだったが、病人をおろすために止まったのである。 で、新山がじつにムカついたのは、ほとんどの人がそちらのほうをなるべく見ないようにしていた、 という事実である。あれでは実際におろされた人は、罪悪感しか感じないだろう。 オマエら、他人事とはいえ、もうちっと心配そうな顔はできないのかい? これは、米国で毎朝地下鉄に乗っていたときの経験とはあきらかに違う。 このときも具合の悪くなった人を見たことはあるが、周囲の雰囲気は日本のそれとはまったく違っていた。 具合の悪くなったその人は車内の全員の注目を集めるのだが、 それはみんな心配しているからで、見て見ないフリじゃなかったのである。 と、いうか、これはあまりにも普通すぎる常識なんじゃないのか。 なぜ病人が出たら、そいつをいないことにしなけりゃならんのだ。 同じことは身体障害者にもいえる。日本人は何を怖がっているのか。
とはいえ、おなじ日本人である新山は彼らがなにを怖がっているか、だいたい想像はつく。 つまり、米国のように車内の個々人が心配するためには、多少なりともソフトな個人主義 (自分の頭で考えて行動すること) が成立している必要がある。たとえ個人的に同情はしても、 それを顔に出してはいけないような世界では、社会の包容力はきわめて低い。 こういうことを言うと、新山はまだ青いとか、左翼っぽいとか言われるのだが、 オレはそんなこたあ気にしない。基本的に新山の個人主義は両親からの遺伝 (?) だと思うが、 うちの親もオレと同じくじつに空気を読むのがヘタである。 これが人からバカにされるのなら、どうぞご自由にって感じだ。
それにしても (それにしてもだな)、こうゆうのは、ヨクナイよ! これでは新山のような馬鹿はますます「ノドモト路線」を追求するようになってしまうでわないか。 まったく、なんてこっ太。(mon句)
このあいだ、ヒマだったので本屋へ行き、ふだんは行かないコミックのコーナーへ行ってみたんよ。 そしたらその手の小説がどっさり置いてあった。むかしから、あんなにあったっけ? でもああいう本はいい。なぜなら漫画とちがってカバーがかけられていないので、 いくらでも立ち読みできる。問題は「べつに読みたくもない」ということだけだ…。
しかし、ライトノベルの意義については、新山はほんとうにどうでもよかった (どんなジャンルでも結局は[ケッキョキ、] 1% のまともな本と、のこり 109% のクズ本で満ちている)。 それよりも興味深かったのは「とかくこの世界においては、書籍の“ライトノベル度”というものは、 次の単純なシェルスクリプトで算出できる」らしい、という事実にふと気づいたのである:
$ a=`grep "「" lightnovel.txt | wc -l` $ b=`grep "。" lightnovel.txt | wc -l` $ expr 100 '*' $a / $b
これは「文全体における直接話法の占める割合」を示すものだが、 この式はほとんど完璧だ。たとえばこの式をつかって、新山の日記 (2008年分) の ライトノベル度を計算してみると、1249÷4778 = 26% になる。 この割合が 50% を超えると、かなりライトノベルとして売り出し可能になってくるだろう。
さて、上の式では分母の b が a+b ではないことに気づいてほしい。 つまり、この式には特異点というものが存在し、 「句点をまったく使わないで直接話法だけを使った文章」というものは、 ライトノベル度が無限大になることになる。そのような文章は、 着地するまえから (ライトすぎるがゆえに) 臨界重力を超えてしまい、 つまり超伝導におけるマイズナー効果のような状態をもたらす。 これは真空中を伝わる搬送波 H0 と、 エタノール中を伝わる無送波 W29 に分けられる (垂直分波)。 2つの相異なるライトノベル信者が干渉しあう様子は地上からE-スポラディック・ファン層 (1965年、ベルギーの体育教師ファン・アレンによって発見された) として観察される。
土曜日は、秋葉原→東大→上野公園→合羽橋→浅草と歩きまわったら、かなりつかれた。 途中、喫茶店で認知言語学について2時間ほど話しこむ。そのあと御徒町の銭湯「燕湯」へ。 この銭湯建築は重要文化財として認定されており、背景は富士山だったが、湯舟はせまかった。
きのうは日帰りで日光に行ってきた。東照宮奥社ではちょうどあつらえむきに雪が舞いだし、 すごい風景だった。ここはガイジンには本当におすすめだな。疲れるけど。 しかし本当に疲れたのは、列車の中で研究者の役割と日本の政治システムについて 3時間ぐらい議論したからかもしれない。そのあと新宿でメシを食ったら高かった。 それにしても、歌舞伎町あたりで英語で話しながら歩いていると、あやしい話を もちかけてくる外国人がひっきりなしに現れることをキミは知っていたかっ。 オレはああいう「ポン引き」というものがまだ日本に存在していることすら知らなかったので、 びっくりしたよ。
…てくるで (ところで) 気づいたのだが、論理的な議論をしようとするときは、 英語のほうがずっとやりやすいな。逆に、感情的な話をするときは日本語のほうが新山ははるかにうまくできる。 新山が英語を話すとき、いかにもアメリカ人っぽい口調になっているのが自分でもムカつく。 "you know what?" の日本語訳は「知ってる?」よりも「あのさー」のほうが適切じゃないかと 思う今この頃。(今日この頃、ではねい、イマだけ)
ビルド時の注意:
PYTHONPATH
, LANG
, LC_CTYPE
は unset しておくこと。
でないとなぜか setup.py
が動かない。
ほとんどの変更点は、 気にいっている。print が関数になるだとか、文字列とバイト列を区別するところとか、 辞書の comprehension とかだ。しかし、とーーーぜんながら、気に入らないところも たんまりと(?) ある:
file
をなくして open
にした?
たしか、ある時点では「open よりも file を使え」っていってたような気がするけど。
どちらにせよ、file
という型は廃止されて io.OpenWrapper
というメタクラスになったようだ。
これは開くファイルの種類によって実際のクラスが変わるらしいが、
そもそもファイル操作ってもとから複雑なのに、なんでこれをわざわざメタクラスまで使って
いっこの built-in に押しこめたがるのか理解できん。もういっそのこと、正規表現みたくモジュールにしちゃえば?
そうなったら io.TextIOWrapper
とかを import するのだろうか。
Java みたいだな。
nonlocal
とかいう、ワケのわからんキーワードができとる。
いや、こういうのやりたい人がいるってのは、わかるけどさあ、ちょっと甘えすぎじゃないの?
nonlocal を使いたいんなら、変数名を変えろよ! これじゃ Perl みたいだ。
しかしこうしてみると、それほどたいした問題ではない。 どうでもいいけど (どうでもよろ)、Perl 6 ってまだ生きてんの?
人は、歳をとるごとに、良くなるのか、あるいはそれとも悪くなっていくのか。 たぶんそのどちらもが同時に起こるのだろうけど、「昔はあの人もあんなじゃなかったのにねえ」 という台詞を聞くたびに思う。新山は「その人の昔」を知らないから、いま見えているもので 判断するしかないが、はたして本当に「昔はあんなんじゃなかった」のか。 人の本質というのはそんなに変わらないから、じつは昔からずっとこうだったんじゃないのか。 それ以上のことはもうオレにはわからない。
すばらしく人間味のある (宛て名から本文まですべてがインクジェットで定型印刷の) 喪中の年末ハガキをどうもありがとう。オレが旅先から絵ハガキを送ってもなんの返事もよこさず、 こういう社交辞令だけにわざわざ (電子メールでなく) 50円ハガキを使うとは、 きみたちは実にものごとの重要性というものをよくわかっていらっしゃる。感心した。
おもしろいのは、こうした bot が感染すると、他のプログラムからの感染を予防するために "Windows Update を適用する" という話である。そういやー、まえに大学で bind の穴から侵入されたときも (うちの研究室じゃないよ)、侵入したやつが bind を not vulnerable なバージョンに アップデートしてたらしいが、それをちょっと思い出した。 どちらにせよ、PCとネットは今後ますます信頼できないものになっていくだろう、 というのが nytimes の記事 (で書かれているセキュリティ研究者) の論調である。 かれらは、かなり悲観的らしい。もともと計算機というものは昔からたいして 信頼できなかったのだが、昨今の「ネットが信頼できない」状況というのは、 機械が信頼できないわけではない。信頼できないのは、機械の向こう側にいる人間なのだ。 この感覚はテロや無差別殺人犯を恐れる感覚によく似ている。 しかし、そもそもなぜテロや犯罪は起こるのか?
冷静に考えて、もしも長期的にコンピュータのセキュリティというものを本当に 上げたかったら、つまりこうした犯罪者を減らしたいなら、やることはひとつしかない。 それはコンピュータというものを「ちゃんとしたもの」であると認めて、 それを扱う技術者を社会的に正当な位置に上げることだ。 以前、ソ連が崩壊して核関連の技術者がイスラエルや中東や北朝鮮に流出したって聞いたけど、 中東が危険なのは、そこがイスラム圏だからじゃない。貧困と抑圧があるためなのだ。 そのような状況では、まっとうな人々が犯罪に手を染める確率が高い。 テロや犯罪が起きる一番の原因は、貧困と抑圧なのである! カネもちケンカせず。 さて、現在、計算機を喜んでいじくりまわすような奴は、たいてい社会から (いろんな意味で) うとまれている人間ばかりである。geek は、カネは沢山もっているかもしれないが、 日本でも米国でも、かれらはまともに扱われていない。ここにさらに不景気が加われば、 これは技術を悪用しようとする人間にとっては、じつに好都合だ。 技術者の不満を煽れば、連中はホイホイのってしまうだろう。 そういう意味で、犯罪が起きる下地はもうすっかりできあがっている。
ただし「計算機関連の技術者を社会的に正当な位置に上げる」といっても、 現在のコンピュータ関連の技術者にちゃんと背広を着せて、礼儀作法を教えて、給料を上げろということじゃない。 そんなことをしても、連中を変えることはほとんど不可能だ。 むしろやるべきなのは、現在の geek みたいなのじゃなくて、 もっと健全な人々 (ちゃんとしたコミニュケーション能力があって対人恐怖症でもなく、 おかしな欲求不満もない人間) が、 真面目に計算機関連の技術というものに興味をもって、きちんと学習できるようにして、 そういう人々に沢山この業界で働いてもらえるようにする、ということだろう。 それからコンピュータセキュリティの場合、もうひとつの原因は人々の無知なのだが、 「ふつうの人」が入りこみにくい、コンピュータの秘術っぽい雰囲気を完全に撤廃することも必要だ。 ようするに、コンピュータをふつうなものにする、ということが重要なのである。 そんなことはできるのかね? そもそも、我々は本当にそれを望むのか、という問題がある。
新山が見るところ、現在のコンピュータ業界というのは、その表面的な専門性やカルトっぽさを 誇示することによって、みずから障壁を作っているように思える (「ハッカー」をまつりあげる人々や、毎週のように新しい用語をもちだしてくるアホなIT関連マスコミを見るがいい)。 これはある掲示板で見た議論だが、「現在のコンピュータは複雑すぎる、なぜもっとシンプルにならないのか?」と 嘆いている人に対して、「シンプルになったら、我々IT技術者の活躍する場がなくなるじゃないか」という 返答をしている人がいた。こうした感情をもつ人は、「一般人」と「IT技術者」が別物であってほしいのだ。 こういう連中は新山の経験からいっても一定の割合でいると思われる。 計算機の非社会性を推しすすめているのは、まさにこうした企業や技術者なのだ。 したがって、もし本当にコンピュータを「開かれたもの」にしようとすれば、おそらく この業界の外からも内からも多くの抵抗があるんではないかと思われる。 でもオレは、これからもそうした伝統には反発していくつもり。 計算機は専門的技術なんかじゃないんだから!
「教祖」というものは、「信者」ではない。これはあらゆる宗教においてそうである。 知ってたかな? 教祖は信じているフリだけをする。実際に信じるのは 信者の役目である。信じて信じて信じまくること。ただ、これだけ (が)。
9.
(高らかな撲笑)
…きみたちゃヤラレたね?
M-x memo
と入力しているが、
なにげなく emo と打ってしまい、[No match]
されることがよくある。
そのようなときは「エモだエモだ大エモだ!!」と叫ぶことにしている。オレって変人。
そういえば、去年南米の某国を旅行していたとき、あるド田舎の (ガイドブックにもほとんど載ってない) 街が気にいって、そこに3日間ほど滞在した。その街はむかし銀山があったところで、 街にはいまでも荒れ地にかこまれており、運搬リフトの廃墟などが散らばっている。 で、そこは南端の丘に巨大なキリスト像が立っており、 夕暮れになるとその丘の上から荒れ地の向こうに沈む太陽が見え、とてもよかった (ワインも安くてウマかった)。で、新山が夕暮れどきにそこでボンヤリしていると、 下からギターを持った若者2人組が上がってきて (服装はなぜか体操トレーナーみたいなやつ)、 そいつらの髪型が見事なまでに“emo頭髪”だったので感動した。 「おお! Emoだemoだ、こんなところにもemoがいる!!」 その後やつらはギターをかきならし何やら歌い始めた。 じつに筋書き通りである。ちなみに、英語ではイモと発音する。 でもこういう連中って日本にも沢山いそうだよな。奴らのスタイルはもうわかっている。 ようするに、ひたすらナヨナヨして弱音をはいてればいいのだ。新山はナヨナヨしてる奴も 弱音を吐くヤツもべつに嫌いではないが (新山だって見る人から見ればすごくナヨナヨしてるのだ)、 連中のわざとらしい不自然な弱々しさは許しがたい。まあ一生ヤッテロ。
てくるで、きょうはゴハンを家からもってくるのを忘れたので、 職場から歩いて5分のワセダ菜館へいった。ここはいかにも「由緒正しいフツーの定食屋」っぽい定食屋で、 オバチャンの愛想もいいので気に入っている。でもやはり外食は揚げ物が多くなりがちだ。 これはむかし大学で生協食堂の店長から聞いた話だが、 たとえ揚げ物メインでは栄養的に問題があるとわかっていても、 価格と回転率を考えるとどうしても多くの定食が揚げ物を使わざるをえないんだそうだ。
どうれもいいけろ、新山は自転車で帰るとき、英語と日本語のちゃんぽんだが、 自分でも時にビックリするほどデンピーなことを口走っている。あのひとり言を 録音しておいたら、さぞかしオモシロイ日記ができるだろうになあ。
Document ID: 5e496c3b5d2dd2ab4c610b0bebfb9b41
Yusuke Shinyama