helloworld.glade
" という名前で保存。つぎに、これ:
#!/usr/bin/env python # -*- encoding: japanese.euc_jp -*- import pygtk pygtk.require("2.0") # これは必要、でないと gtk が import できない。 import gtk import gtk.glade class HelloWorld: def __init__(self): gladefile = "helloworld.glade" windowname = "HelloWorld" # XML で記述された画面を読む。 self.wTree = gtk.glade.XML(gladefile, windowname) # ハンドラを追加する。 dic = { "on_button1_clicked": self.button1_clicked, "on_serverinfo_destroy": (gtk.mainquit) } self.wTree.signal_autoconnect(dic) return def button1_clicked(self, widget): self.wTree.get_widget("label1").set_label(u"押しましたのですね。") print "clicked:", widget return if __name__ == "__main__": app = HelloWorld() gtk.mainloop()
すぐに動いた。とっても簡単!
todo: PyGTK チュートリアルを日本語に訳すこと。
警告: そのまえにお前は早く newtypes.tex やれ。
なんとか.py
を作るたびに「#!/usr/bin/env うだうだ…」を書くのは
やっていられない、というあなたに。
これを .emacs
に追加するのです:
(add-hook 'python-mode-hook (function (lambda () (if (zerop (buffer-size)) (insert-file "~/work/p/python-template.py")))))
で、ついでに、python-template.py
には以下のやうなものを書いておけばよい:
#!/usr/bin/env python # -*- encodings: japanese.euc_jp -*- import sys, os, re if __name__ == "__main__": import getopt def usage(): print "usage: foo.py [-v] [-a arg] files ..." sys.exit(2) try: (opts, args) = getopt.getopt(sys.argv[1:], "va:") except getopt.GetoptError: usage() (verbose, arg1) = (False, None) for (k,v) in opts: if k == "-v": verbose = True elif k == "-a": arg1 = v # doit doit(args) sys.exit(0)
チョト長いかな。でもまあ、 だ。
これでもうワケわかんないコマンドがぼっこんぼっこんできますよ。だ。 7個/日ぐらいの勢いで!!
LC_MESSAGES=ja_JP.eucJP
しなければいけない。
でも、日本語のメッセージは見たくないんだよ! こういうときはどうすればいいの?
てくるで、今日からこのページのタイトルが「新山はいったいいつになったら紀伊国屋へ行けるのか日記」に変わります。
おやすみ。
いろいろやってスクリーンショットまで撮るのに何時間もかかってんだけどね。アホかおれは。
てゆうかいいかげんにオレもう寝ろ。
はて、「もとに戻す」のか?
はて、「元にもどす」のか?-?
それらはじつに雨上がりな状態だ。
しかし、この人プレゼンが下手だわな。問題をきちんと記述しないし、 スライドのつくりも悪い。重要なポイントをあとになって説明したりする。 こういうのを聞かされると時間をソンした気分になるが、まあ当たりはずれがあるのはしょうがない。 「言語能力とプレゼン能力は比例しない」という事実をあらためて確認したトークであった。
todo: 写真を
。。
このあと TGIF に行き飲んでいたが、新山は MySQL についてよく知らないために 途中から話にサッパリついて行けなかった。Apache + mod_ssl についてのあたりはまだよかったんだけど。 それと、オレはどういうわけか世捨て人ふうのオジサンと仲良くなる率が高い。なんとなく。 あと今日のトークは Python と GTk の簡単入門的な内容だったが、いまだに Perl しか知らない人が ほとんどなのには驚いた。ちなみに Ruby は名前だけは知られていたが、 「あれは日本語ができないと使えないらしいよ」ということが言われていた。 まあ、同意である。 逆に英語ができないと Python は使えないと思うので似たようなもんだな。 帰りに 42st. を通ったら、いきなり吉野屋が食いたくなり発作的に下車する。 夜中の Times Square はまだ混んでいた。
てくるで、絶滅した orbit-python に代わっていまは PyOrbit とゆうのがあるらっし。 なんだ、活発にメンテされてるじゃん。これで Gikot が再開できるな。
configure
だけで 1MBytes 近くあるって、とっても信じらんないんだけど。
ところで、どうでもいいが、これを見たらかなりムカつきました:
http://freekaneko.com/ja/problem.html …氏は東大の助手を勤め、経済産業省の国家プロジェクト「未踏ソフトウェア創造事業」でも 大きな成果をおさめました。こうした人材を逮捕し、ソフトウェアの研究開発を萎縮させることは、 日本の国益にかなうことでしょうか?
ふーん。つまり、「日本にとって役に立つ人間」だから保護されるべきだ、というわけ? じゃあもし彼が「役に立たない人間」だったら、べつにどうでもいいわけ?? こういう考え方はとにかく嫌いだな。オレは「そいつが誰であろうと、逮捕するのはおかしい」 から支持するんだろうと思っていたが、「彼を逮捕しないほうが世の中の役に立つ」から支持する人もいるんだ。 ああやだやだ。オレは絶対「国益にかなう」人間なんかにはならないようにしようと思った。 「国益」とか「公共の利益」をふりまわす人のうさん臭さといったらない。 もちろん、新山だって誰かの世の中のために仕事をしたいが、 その「誰か」を特定したとたんに、すべてはウソくさくなってしまう。 誰が書いたんだか知らないが、「国益にかなう」だとか「公共の利益にかなう」だとかいう 言葉を恥ずかしげもなく口にできる人を、オレは心の底から尊敬するね。
(追記: この文章は「特定の考え方」に対してムカついているのであって、 だれか特定の人物・団体を非難する目的のものではありません)
こうしてみると、「ダメ」だからといって必ずしも「嫌い」といえるわけではないし、 「嫌い」なものが必ず「ダメ」かというとそうでもない。 思うに、自分が直接的な被害を受けているときのみ 「ダメ = 嫌い」の等価性が成り立つのだと思う (ブログロはたまたまダメであり嫌いであるがそれは別々の理由による)。 いまんところ未踏もブログロも自分にはなんの関係もないのでどうでもいいし、 そういうものだから何を書こうが誰も気にしないはず。それを真に受ける人がいても、 こっちとしては「なんか、頭おかしい」と思うしかない。世界観が根本的に違うというか。 まあ、わざとやってるんだろうけど。
こうしてみると、やっぱブログロって敗北的だよなあ。 でも人によってはブログロと日記を区別しない人もいる。 たとえば新山がそうだ。オレは基本的にどっちも区別してない、ただどっちもダメなだけ。 しかしこのペエジは日記ではないが、書きたくもないのに毎日かならず何かしら書いてしまう。 昔は書かずにいられた日もあったのだが、 これはやはり日本語を話し足りないということだろうか? 歳をとってジョーゼツになるのだとしたら、それはいやな歳のとり方だ。
ふとまた思ったのだが、本質的におしゃべりな人間/あるいは本質的に電波な人間にとって、 自分の思考を書きためていくというのは、ある意味トイレに行くのと同じくらい大切なことである。 しかし、出すものもないのにトイレに行きたがる人はオレには理解できない。 そういう人はきっと毎日だれかに検便されているのだろう、きっと。 もちろん毎日他人の検便をしたがる人も理解できないが!
まあ早起きて早くやればいいわけだけど。
「オレがあのときこうしていたら/いなかったら」という仮定は何千回もできる。
また思いついたが、未踏のアホなところは「ユーザベースを全然考えてなさそう」なところにもあると思った。 ふつう、大学でつくるソフトウエアは (とくにインターフェイスの研究などしているのでない限り) ユーザの評価などあまり考慮に入れない。 手法そのものが大事なので、それをどう具体的に実装して配布して使ってもらうかということは どうでもいい話とされるのである (すくなくとも日本ではその傾向はつよい、 「論文さえかければソフトなんて公開する必要ない」と言い切った先生を知っている)。 昨日のかんじだと、とりあえず「完成すれば成功とみなされる」ようだったが、なにをもって満足したといえるのか? ユーザからのレビューがなきゃそんなのわからないじゃん。 そもそも「新規性がある」ソフトウエアとかいうが、新規性があるかどうかを決めるのは最終的には 設計する側ではなくてユーザだ。大学で開発されるほとんどのソフトウエアはその手の 「お客様意識」が欠如しており、学問は分業体制なのでそれはそれで結構だけれど、 同じことをまた別のところで繰り返してどうするのだろう。「未踏」が既存の学術研究から 差別化できるところがあったとすれば、そこだったのかもしれないのに (もちろん企業はこういうことをやっているだろうが、そういうデータはふつう表に出てこないだろうし、 一方オープンソースではたいてい作者が忙しすぎる。 ユーザの公開フィードバックをまじめに考えました、という研究はほとんどない)。 まー実際にはそんなことをしたらお金も時間もいまよりずっと沢山必要だろうし、 そもそも大学関係者がいっぱいいるあたりでムリだろうとは思うけどね。
ワレながら亜米利加式実用主義に毒されちるような気のする。 こんなこと書いてもちっとも面白くないのでこれからはなるべく書かないようにしよう。
この謎な素性の言葉。オレが知らないだけなのか。
ズンドコも知らなかったし、よー
もーーー!!! 帰るぞいい加減。こんなんやってたらキリねえ。
そのあとは、彼と「CD 聴かせっこ」をしていた。 「日本の CD も聴かせろ」というのだが、オレは邦楽 CD をあまり持ってないのだが、 ひとつ確実に世界に通用するやつがあったよ…ふふふふふ。 日本では年寄りにしか知られていないが (うちのオヤジ世代ぐらいか?)、 文化の違いを超えられる曲というのはあるのだ。
あいかわらず規則正しくぬい生活を過ごしておるシンヤマですがみなさんいかがお過ごしでせうか。
それはだなー
いずれにしても。
ROFLMAO!!!!! (←頭悪そう、激頭悪そう、激)
なんでかういうときによりによって来るか??
問題は 2番目のPython 2.3.3 (#1, Feb 1 2004, 23:04:28) [GCC 2.96 20000731 (Red Hat Linux 7.1 2.96-98)] on linux2 Type "help", "copyright", "credits" or "license" for more information. >>> from StringIO import StringIO >>> f1=StringIO() >>> print >>f1, u"a", u" ", u"b" >>> f1.getvalue() u'a b\n' >>> f2=StringIO() >>> print >>f2, u"a", u"\u3000", u"b" >>> f2.getvalue() u'a \u3000b\n' (← 注目) >>> f3=StringIO() >>> print >>f3, u"a", u"\u3001", u"b" >>> f3.getvalue() u'a \u3001 b\n'
print
である。
ふつう print はカンマで区切られた出力の間にスペースを入れるが、
なぜか全角空白 \u3000
を表示したときだけ、あとにはスペースが入らないのだ。
半角空白 \x20
やそれ以外の全角 \u3001
ではちゃんと入る。
これはバグなのか、それとも仕様なのであるか??
JapaneseCodecs のせいかとも思ったが、CJKCodecs を使っても結果は同じだった。
ぐちり終了。
追加ほおこく。次の 2つは違う結果になる。こりゃあ、print のバグだな。
>>> print >>f2, u"a", u"\u3000", u"b" >>> print >>f2, str(u"a"), str(u"\u3000"), str(u"b") # 期待された動作
未踏の某ブログロの研究の話を聞いたが、とりあえず 「ブログロには、(おそらく永久に) 注目する必要はなさそうだ」ということだけがわかった。 まあ、べつにいまさら確認しなくてもいいんだけど。
しかし未踏ってあいかわらずちっとも理解できない。 けっきょく、数十億円をかけた壮大な内輪ウケなんでしょ? お金のムダ使いであるということについては、 新山もまた某国の無駄な国防費の一部で食わせてもらってる身なのでなにも言うつもりはないし、 みんなで楽しくやってるんだから結構なことだと思う。 でも、いったいいつになったら「日本発のリナックス (かっこわらい)」がでてくるのでございましょうか。 当方首を長くして待ってゐます。てゆうか多分ムリだろうな。
これは偏見かもしれないが (とゆうか、たぶん間違いなく偏見だと思うが)、 なにか新しいことをやる人間はつねに貧乏で、「世の中から何の期待もされていない」 存在でなければならないと思う。なぜなら、ソフトウエアになにか新しいものを期待するとすれば、 それは disruptive なものだからだ。不格好で、キチガイ的で、 誰がどう見てもうまくいかなそうなもの ― そういうもの (数百万あるそういうキチガイ的アイデアのうちのいくつか) がたぶん本当に重要なものになるだろうから。 でも、そういうものを保護できる人がそんなにいるとは思わない。 新山にも無理だろうと思う。なぜなら中途半端に受けてきた教育により、 すでにすっかり「正攻法」をとるくせがついてしまっているから。
ファイヤアーベント、あなたは正しかった。
悲しいこと言うなよ。。。
pgrep.py
が、激しくバグっていることが判明いたしました。
おわびして訂正モウ牛あげます。
ぼーーーーーーーーーーーー…
ふと、日常的な風景をえがいたほうが日記はおもしろくなるだろうと思う (読んでいて)。 しかしうまく書くのはたいへんだ。長ければいいというものではない。 言葉にたよりすぎるとしつこいし、感覚的にかきすぎるとデンピーである。 新山は文章でいつも冗長になりすぎるくせがあるので、 「もうこれ以上一文字も短くはできまい」と思うまで文章をきりつめることが肝要である。 けれどもそれはむずかしい。第一時間がかかるし、残すべきところまで削りすぎてしまい、 全体としてひどく素気ない文章になってしまうこともある。
情報がその媒体から離れて抽象的な宇宙に存在しているといえるのは、 機械がそれを解釈するときのみである。 最終的には、それはどう考えても具体的にしか存在しえない。 だからライブに価値があるのだが、これは音楽だけに限らない。 言語の解釈はそれが表現されている文字や声やフォントの形、 周囲のニオイと騒音、自分のハラのへり具合などによってすべて違って表現される。 たとえば書籍は一冊一冊がすべて異なっており、そこから情報だけを切りはなすことはできない (たとえ同じ製本所で製本されたとしても、持ち主が違えばもうそれは別の本なのだ)。 電子化された本をうちの画面 (NEC の 17inch 液晶ディスプレイ + KTerm + Kappa-20-Bold、 in New Jersey・天気晴・気温 21℃・鳥のぴよぴよ声) でみるのと、 ここからマンハッタンに向かう PATH の中で Palm かなんかで見るのと、 大岡山で EPSON の PSプリンタで A4 再生紙に印刷してみるのと、 大田図書館の薄暗い積層書庫で空調のうるさ音を聞きながら黄色く変色したそれを見るのとでは 格段のちがいがある。それをわかっていない人がいるはずがない。 オレは装丁やフォントや紙のにおいまで読みたいと思い、 だから「自分の本」が大切になるのである。 このことは著作権とどう関係するのであるか? 別にどうも関係しない。 ただ自分は、情報がタダでコピーできるとは思わないだけのことである。 もちろん、これは非常に原始人的な考え方なので、現代人のフリをするときは 「情報はコピー可能である」と思っているかのようにふるまうのが必須だ。 しかし実際には人生においては情報だけじゃなく、すべてのことがコピー不可能だ。 つねにそのことを意識していなければ、自分自身だって別にいらなくなる。
あなたは。「優越感を示すのにひどく努力して」いますね? わたくしも。また。
われわれの5月! われわれの5月!
きょうはわざと一駅のりすごして、14st. にある Heller Gallery へいってみる。 ここはガラス細工では有名なギャラリーであるそう。なかなかよかった。 まあ、Chelsea のたいていのギャラリーがそうであるように、ここも基本的には倉庫街の一角を改造した 高い天井に白い壁、フローリングの床という内装だが、展示がガラス工芸品なので 照明のあて方とか工夫されている。よくできていると思ったのは、一見すると普通のガラスの器で、 上からのぞいてもなんにもないのだが、横からのぞくとまるで中に火がともっているかのように オレンジ色の光が見えるやつだ。多くのオブジェクトは上端のほうに照明をあててあるようだった。 こうするとすきとおった部分の気泡に上から光が当たって幻想的に見える。 たぶん正面に直接ライトを当てると必要以上に光ってしまうからかもしれない。 あとよかったのは、BGM としてピアノ曲が流れているのだが、リバーヴのかかったアルペジョっぽいやつで、 それが雰囲気によくマッチしていた。ああいう曲はせまい家で聴いてもあまり楽しくないが、 ああいう空間っぽい所で聞くといいよね。このギャラリーはなぜか値段が書いてあり、いくつか気にいったのを見ると $22,000 とあった。すごかったのは Beth Lipman の宴会っぽいやつ (?) で、ガラスで作った リンゴやブドウやブタの丸焼きや、ナイフやローソクなどがテーブルいっぱいに文字どおり 「ぶちまけられている」作品。意図的に床に落として割れたようになっているものもあり、 テーブルの上には寸分の隙もなく、いつ崩れてもおかしくないような絶妙な配置になっている。 …こりゃあ、地震が来たら絶対ダメだな。このギャラリーは 14st に面しており、ときどき大きな トラックなどが通ると微妙に震動しているのだが、ずっと置いていて大丈夫なんだろうか。 まあいい。とにかくクリスタルガラスでできているので、実際に近くで見ると七色に輝き クラクラした。
そのあと歩いて大学まで帰ってきたが、West Village でまた頭狂った。 あのあたりは道が中心部とは 45℃の角度をなしてつっ走っているため、 ジグザグ歩かないとあらぬ方向へいってしまう。しかも 8 Av. のあたりではその規則も くずれてわけがわからない無法地帯。つーーか、なんで W 4st. と W 12st. が交差してんだよ?? 頭おかしいよねこれ? Village にはまだまだ謎が多い。
むほーーーーーーー (← ← キチガイ的)。
てくるで、そうだ、8Av. と Holatio st. の交差点ちかくに "Chocolate Bar" という Zagat rated な店があったんだけど、暑くて素通りしてきてしまった。あれはほんとうに チョコレートを出すバーなんだろうか? 本当にそうらしい。 ああそうか、アレが、これかあ。ふーん。今度チェックすること。
sgmllib
にダマされたの刑。
SGMLParser
を継承するとき、self.stack
という変数を作ってはいけない。
これはすでに親クラスの中で使われているからだ。まったくもう!
こういうのは self._stack
にしとけよ!
ぜーんぜん関係ないが、Python で 2MBytes 近い大きさの正規表現パターン (80万個の |
が入っている) を
使って検索しようとしたら、Internal Error がでて検索できなかった。くそ。
でも Perl だとできやがった。さすがだ。しかし Perl の正規表現は使いにくくて嫌いだよ。
で、きょうの写真:
pgrep.py
である。Python で書かれてるので遅いのだが、各文字は 1回しかスキャンされないので
C で書き直せば早いはず…。
こんなことやってて時間くってる暇ないのがだ。
まず、この言葉をして最初に思い起こさしむるのは、「トラ + タヌキ」である。 このコンビはなかなかよさそうだ。まあ漫才やったらトラが確実にツッコミ役だと思うけど。 そんなことはだうでもいい。とにかくこの 2人(匹) は仲がいいのであり、 2人揃うとなにやらアホなことをしでかし始める。その特性が、というよりその強烈度が 「トラタヌ度」という尺度で表わされる、という仮説が (まずは) 立つつ。
つぎに「トラタヌ」という 4文字がよびおこす造形美に注意せよ。 まず最初の「ト」は画面左側に完璧なスタッカートを与える。これは文句のつけようがない。 つぎに「ラ」「タ」「ヌ」は左ななめ下へのはらいという 3兄弟の息のあった出現。 発音的にみても、まず「ラ」と「タ」が晴れの雰囲気をかもし出し、 さいごにしぶく「ヌ」で止めるといういでたち。「ヌ」があまり使われない音であることも ポイント高い。これによって「おやっっっ?」度が高まり、どことなく見慣れない単語であるという 不安を読者に与えるのである。
しかも、これに「度」がついているのだ! これによってこの単語の 「日本語期待」はいやがおうにも高まり、しかも連想する構成語がトラとタヌキなので それのもたらす視聴者への微妙な混乱、しかしやがてその疑問は自然潮解して心地よい爽快感を与えるという、 この凝りにこった配慮と演出を見よ。いやあ、日本語というのはこうありたいものじゃないですか。
LREC は (通知が) 1週間も遅れてたらしいから、これはヨウロッパ人にしては早いほうじゃないの!
…どうでもいいが、最近はレビュアーのコメントも Word形式で送るようになったのか? テキストにしろよそんなの! おめー、たかが 500バイトたらずの文を 20kbytes 以上のファイルにして添付してなにが楽しいのであるか?
「タオルレコード」タオルを持ちニヤついてる風呂あがりの新山 (ヨコヤマ・ユーランド緑にて)
こうしてみると犯罪者みたいだよ俺。そうじゃなくてもそう見えるけど。
えあこそ設置。
ひとことだけいっておく! 論理的に思考しているかぎり、おマエ様xは決してそこから出てはこれないだ!!!
ANM。まあいい、なぜなら…。世の中はヨノナッキブさ。(← ← )
夕立が来るかもしれないんだけどでかけちゃおうかなあ。
正当化その 2: たとえ昼寝しなくても、どっちにしろオレは仕事をしなかった。
結論: オレはクソッタレだ!
いまもたま〜に nethack は立ち上げるが、やっているのは英語版である。 てゆうか新山は Rogue のほうがいいのだが。てゆうかいつか、Python + 日本語 curses で すっごく理不尽な (というよりほとんど意味不明な) RogueLike ゲームを作ってみたいのだが。 とーぜん、敵は漢字ね。倒した敵を (文字として) 並べていくと日本語で会話ができるってのはどうよ? てゆうか、まえにちょっと作りかけてみたやつがあるのだが。てゆうかもう寝ろ。
[nylug-announce] Linux Users Grp. 19 May Meeting: Dave Aitel on PythonGTK Graphical Interface Creation, Design May 19th, 2004, Wednesday 6:30PM-8:00PM IBM Headquarters Building 590 Madison Avenue at 57th Street 12th Floor, home to the IBM Linux Center of Competency
あぁ、とてもここには書けない。
新山には自分に課しているいくつかのルールがあって、 そのうちのひとつが「ホームレス支援団体に寄付する」というものであった。 新山にはお気に入りの団体があり、いつも街でみかけるたびに彼らには 必ず有無を言わさず 1ドルを寄付することにしていた。 もう 1年以上前からやっている。 新山は寄付行為に感情的な面を入れるのがイヤなので、これは 払いたくないときでも無理矢理払うことにしていた。ただしなんでもかんでも 寄付していては自分のフトコロがあぶないので、寄付する団体はひとつにしぼっていた。 いつも寄付している団体は United Homeless Organization という名前だったが、 いままではとくにその募金活動に疑問を持つこともなかった。 なんとなく、彼らは真面目な集団だと思っていた。しかしその予想ははずれた。
きのう、ふと思いついて、なにげなく この団体の名前を web 検索してみた ところ、トップに出てきたのは CBS2 の "Shame On You (恥を知れ)" という報道番組の ページだった。いわく、UHO の慈善活動はあやしいもので、集めた金がどこへ行くのかは 定かではなく、彼らが主催していると言うイベント等も実際にはやっていないという。 ようするにこの集団は自分たちの生活費として使うのためだけに募金している、 体のいい「集団的物乞い」だった…という内容。
はあ、そうっすか。もっと早くに気づかなかったオレがバカだったよ。
新山がこの団体を選んだ理由は非常に直感的なものである。 彼らは街中いたるところでテーブルを広げて募金活動をしているし、 冬のクソ寒い日の朝にもちゃんと募金をしていた。そして彼らの呼びかけは 基本的にポジティブな雰囲気に聞こえた。やっているのはおもに黒人がほとんどだったが、 新山はこれをみて、ごく素朴に真面目な目的でやっていると信じた。 でもそれはオレがアホってただけのことで、実際には彼らは慈善団体でもなんでもなかったのだ。 たぶん今までにこの団体に合計百ドル近くは寄付してると思うが、 基本的に失ったカネの額なぞどうでもいい。でもさあ。
もちろん、これは本格的な詐欺の被害に比べればなんでもないようなことだ。 おまけにオレは単に「なんとなく寄付しないと罪悪感を感じるから」という 理由だけで寄付していたのである。ようするに、 免罪符を買って罪を逃れようとしていてたようなものなので、 相手がニセモノ慈善団体だったからといって腹を立てる気はない。 もとから、オレのやっていることは「金渡してなんかいい事したような気分を味わってた」 だけで、そんなものは本当の慈善ではないということは わかっていたのだ。でも「本当の慈善」なってなんなんだろう? たぶん「これは慈善だ」と意識してやっていないときが「本当の慈善」になるような気もする。 「あ、自分は世の中のためによいことをやっている」と意識したときからそれは偽善になるのだ…。 でも、こんな机上の空論はどうでもいい。とりあえずオレには本当の慈善は どうやってもムリっぽいので、またべつの偽善先を探すか、 もう寄付なんてしないことにするかのどっちかだ。 幸か不幸か、これ以上彼らに寄付をつづける気にはなれなくなった。 これは彼らにしてみれば「悪いこと」だろうが、よくわからない。
まあ、とにかく落ち込むよ。
さいきん、これとは別に、全然違うことで寄付をすることになったのだが、 今回のことがあって、やっぱりオレはしょせん「金を払って、 世の中のためになったような錯覚を買っている」だけなのだ、ということを改めて思い出した。 まあ、それで何がしかの感覚が買えるのなら安いもんだけど、 これが何かの役に立つなどということはとにかく考えないようにすべきだ…。
ああ、30近くにもなれば、こういったことに対して いとも優雅に思考停止して、スマートにカタがつけられるものと思っていたのに、 いまだにちっともそうなる気配はねえや。まだまだ修行が足りないのかな。それとも脳の発達が遅いのかな。 まったく。
なーんか、
ある人からメールがきて、そこには「PyOneクール! おれも使うよ!」と書かれてあった。
。 ・ ・
しかし新山は現在、Pyone は (いちおう path が届くところには置いてあるものの) ほとんど
まともに使っていない。やがて君は気づくであろう。「ワンライナー書くよりも、
たとえ一瞬でも vi 立ちあげてちゃんとインデントしたほうがはるかにまし」なことに。
しかし、いくら Python がわかりやすいといへども、 /tmp/foo.py
とかいう
スクリプトが大量にできて、ある日それを見てももう何のために作ったんだかさっぱりわかりゃしないという
事態は起こるのである。
ところで今日は晴れてよかったね (commencement は雨天結構だそうだが)。 それにしても雨利加の大学ではみんな卒業式は屋外でやるのだろうか…? 「青空卒業式」をやるウチがおかしいんじゃないか?
てくるで (ところで)、「雨天決行」じゃなくて「雨天上等」と書くとなんかカッコいい。
(いま思いついた、新山は「ところで」という接続詞をめったやたらに使う。しかし毎回「ところで」「ところで」 を続けるのはバカっぽいので、この効果を緩和するために「てくるで」という表現が生まれたのだと! 仮説する!! オレは!)
朝から狂ってておめでたいことだな。
コラーおじさん (死語)
$ ./tateiscanna.py LIST リニトカ $ ./tateiscanna.py トントカイモ SYSTEM
新山はかつてはカナ配列を使っていたが、いまはもうすっかり忘れた。 おまけに周囲には日本語キイボードがもうないので、 Google イメージ検索で 「キー配列」をやってみつけた。
(ひとつのウソ: 新山は NEC のユーザであったためしがないので、実際には "SYSTEM" を使ったことはない、 むしろ「ニミニカ」だ)
C だと、いざというときに力ずくで直せることがあるが、おかしな設計の C++ はかなり永遠に直せない。
いや、これはひどくがっかりした話だよ。 いまは目がショボショボするのでまた書く。
そうだ! この次こそ!